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 図書館を半ば追いやられるように出てから、俺はさっきのことについて頭を悩ませていた。


 不用意な発言が彼女の逆鱗に触れたようだけれど、あんなに怒られることなんだろうか。感情がないことをアイデンティティにしているクラスメイトとの接し方は難しい。


 下駄箱で外靴に履き替えて駐輪場へ向かう。


 毎日遅刻ギリギリに登校するから自転車の鍵は大体掛けていない。だから目の前の状況は俺が悪いのだけれど、それでも信じがたい光景がそこにはあった。


 背広を着た壮年の男性が上機嫌に鼻歌を歌いながら、駐輪場の前に座っていた。


 夢じゃないと説明がつかない状況。


 『危ない人には近づいてはいけない』と小さい頃から母には口酸っぱく教えられている。だからこそ遠巻きにしばらく観察していたのだけれど、立ち去る気配が全くない。


 職員室に通報するべきだよな。そう思って俺は腰を上げ――携帯の通知音が鳴った。


 こういうことはフィクションの中だけではなく、現実でも起こるのか。


 音に気付いた男性は勢いよく首回転させ、俺を見た。


「こんにちは~」


 男性は屈託のない笑顔を浮かべて近づいてきた。


「君が……柊悠君? 初めまして」


 俺の姿をまじまじと見ると、親しげに手を差し出す。


 語り手のように穏やかな声音は自然と違和感がなく、まるで近しい人と話しているかのような感覚に陥る。


 柔和な物腰と抵抗なく届く声色に、気付けば警戒心が解いてしまいそうになっていた。


 しっかりしろ柊悠。不審者であることには、変わりないはずだ。


 俺は相手の目を見て、毅然とした態度で言う。


「いえ、人違いです」


 『知らない人に名前を言ってはいけない』と幼稚園から教えられている。


 返答を受け、男性は楽しそうに「そうですか」と朗らかに笑うと言葉を続けた。


「それでね、ゆきと仲良くしてくれている柊君にお願いがあってきたんだ」


 まるで人の話を聞いていない。そっとズボンのポケットまで手を伸ばし、不測の事態に備えた。


「だから、柊悠じゃないです」

「あぁそうだったね。それじゃあ柊君に伝えておいて欲しいのだけれど……言伝をお願いしてもいいかな?」

「ダメです。そもそもあなたは誰なんですか? 事と次第によっては通報しますが」

「あぁ、これは失礼した。申し遅れましたが、私はこういう者です」


 男性は名刺入れを取り出し、その内の一枚を両手で差し出してきた。


 相手のペースに乗せられないためにも、小さな抵抗として右手だけでそれを受け取る。


 どこかで見た覚えのある会社名に、全くピンとこない役職。名前は……真白公人。


「……真白?」

「真白ゆきの父です」

「ええ!!」

「柊悠君という子が、娘と仲良くしてくれていると聞いてね。是非会ってみたいと思ったんだ。ほら、ゆきはあまり感情を表に出さない子だから」


 真白の父が沈痛な面持ちで言う。


「母親が亡くなってから、ゆきの心は不安定になって……父親の私も色々手を尽くしたのだけれど、すっかり塞ぎこんでしまってね。ゆきは学校で上手くやっていますか?」


 俺はどう答えていいかわからず、転校して間もないことを理由にはぐらかす。


「そうですか。良い学生生活を送ってくれればいいのだけれど」


 親が子供に対して抱く不安は、どれほどのものなのだろうか。その感覚を理解することは難しいが、真白の父親の姿を見ていると、心が締め付けられる。


 俺が何も言えずに立ち尽くす。


「ここ最近ゆきが少しでも感情を出してくれるのが嬉しくて、是非君に感謝を伝えたかったんだ」

「いや、俺なんて全然」


 これまでの行いを改めて思い起こしてみると本当に何もしていない。ただクラスで浮いていることをいいことに愚痴を溢していただけだ。


「仕事柄人の感情には精通しているつもりだったんだけど、娘のこととなるととんと分からなくなってしまう」


 苦笑しながらそう言うと「私は親失格だ」と漏らした。


「そんなことないですよ。ゆきさんだってお父さんに感謝していると思います」

「ありがとう。柊君が優しい人で良かったよ」

「いや、本当にそんなんじゃ……俺の方こそ本当、すみませんでした」


 知らなかったとは言え、傷心している同級生を利用して自分の鬱憤を晴らしていた事実に一層息が詰まる。


「ゆきのことをどうかこれからもよろしくお願いします」


 倍以上も歳の離れた大人に頭を下げられ、思わず動揺してしまう。


 それでも真摯に向けられた想いを無碍にすることなんて俺にはできない。


「ゆきさんのことは心配なさらないでください」


 事情を知らないクラスメイトが真白のことをどう思っていようが、俺だけでも味方であり続けたい。


「ありがとう。何かあったらいつでも連絡して来てね」

「はい」


 最後に固い握手を交わしている最中、俺は公人さんの指輪に目が釘付けになる。異彩を放つ宝石は、今まで見た中で最も美しいものだった。深い赤の中で、絶えず動き回る無数の星群が揺らぎ煌めいている。まるで小さな宇宙を内包したかのように神秘的だった。


 俺の様子に気付いた真白の父が寂し気に笑った。


「妻の形見でね」

 



 帰り道。自転車をいつもよりゆっくり漕いだ。


 母親が亡くなって抱いた強烈な喪失感が真白を変えてしまったのだろう。


 高校一年生の時に晴人を叩いたのも、教室で急に叫んだのも、拒絶したり反応しないのも、きっと失うものを作りたくなかったのだろう。


 家に帰ると母親が夕食を作って待っていた。


 普段は照れくさくて言えない「美味しい」と「いつもありがとう」を言うと母親は狐につままられたような表情をした後、喜んでくれた。


 夕食後、彩とバラエティー番組を見ているとまた感情リキッドのコマーシャルが流れた。


 謳い文句が終わり、最後に独特なイントネーションで企業名が映し出される。


 ふと頭の中に名刺の文字と真白の父の「仕事柄感情に詳しい」の言葉が浮かんだ。


 そうか、真白のお父さんの会社って……

 


小説を読んでくださり、ありがとうございます。

今後ともご愛読頂けますと幸いです。


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