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「あいつの隣なんてマジ?」
十分休憩に入り、トイレに行こうと廊下に出たところで、渚が揶揄うように話し掛けてきた。
質問の意図を理解しているけれど、俺は努めて顔に疑問符を浮かべた。
「真白ゆきのこと」
「あーね、仕方ないじゃん、空いてた最後尾があそこしかなかったし」
「別に一番後ろじゃなくても良かったんじゃない?」
俺は少し考えこむフリをして、真面目な口調で言った。
「そこはB型としての変なこだわりが発動したとしか言えない」
「まぁ、皆で関わらないようにしているんだから、悠も気を付けた方がいいよ」
落とした声色のそれを、俺は微笑しながら拾い上げた。
「陰湿ないじめだなー」
決して重い雰囲気にはせず、極めて軽い調子で指摘すると渚は真面目な顔で言った。
「悠はさ、知らないと思うけど、あの子頭おかしいんだよね。入学したときは普通の子だったのに、高一の二学期頃から授業中なのに叫び出したり、突然クラスメイトを殴ったりで大騒ぎになったんだから」
「へぇー、ザ・優等生って感じなのに」
「まぁ悠は転校してきたから知らないよね。でもあいつが大人しくなったのって高二になってからだから。クラスメイトだってほとんど変わってないって言うのに急に猫被り出してさ」
徐々に言葉に熱が込められ始め、口調が強くなる。だからこそ、俺はおどけた様子で言った。
「つまり俺は、殴られない絶妙のタイミングで転校してきたってことか」
俺はいじめに加担したくない、かと言って堂々と糾弾することもできない。仮にいじめが存在していたとしても、その存在は知らないままでいたい人間だ。
そんな自分の弱い性格は分かり切っている。だからズボンのポケットに手を入れながら、渚の熱を散らそうと試みたのだが……
「そのくせずっと学年一位だし、無表情で鼻につくし、……ほんとムカつく」
渚は視線を下に向け、舌打ちをしながら心の声を漏らし始めた。矛先は未だ真白ゆきに向いている。
こういうときにどう返すのが正解なのか、俺は知らない。だからこそ、ここ二か月程で得たこのクラスで無難に生きていく術を活用した。
俺は丁度トイレから出てきた晴人に視線で助けを求めた。それに気付いた晴人は黙って近づいてくる。
「悠だってそう思うよね?」
今か今かと晴人の到着を待っていた俺に、機嫌の悪い渚が訝しげに聞いてきた。
圧迫感すら覚えるその問いかけに俺の背中に冷や汗が流れて、答えに行き詰まる。
「ナギ、なんの話してるの?」
俺をちらりと見た後、晴人が渚に尋ねた。
するとあからさまに渚の機嫌が良くなる。声のトーンが一段階上がり、怒気もどこかに散っていた。
「なんでもない。悠に隣の席の子の危険性を注意していただけ」
「注意って、ただの同じクラスメイトだよ」
「そうそう、みんなで青春を過ごそうよ」
「は? 普通に無理」
並々ならぬ私怨で構成された凍えるような一言だった。
「たとえハルが許しても私は絶対に許さない」
「ハルが許すってなんのこと?」
「去年僕が真白さんに叩かれたんだ。僕が踏み込み過ぎたせいなんだけど、ナギがずっと怒ってて――」
「当たり前でしょ! なんでわざわざ気に掛けた人が暴力を振るわれないといけないわけ? 私は許す気ないから」
俺の余計な一言で火がついてしまった渚を、晴人が宥めながら教室に連れて行ってくれた。
トイレに行く気力も時間もなくなってしまい、そそくさと自分の席に戻る。
隣の席には、件のクラスメイトが座っていた。
最近転校してきた身としては、彼女への偏見なんて全くない。ただの物静かで優秀なクラスメイトくらいにしか思っていなかった。ただ、近づき難い雰囲気はひしひしと感じる。
チャイムが鳴り、ゆるりと始まった授業では、クラス中があまり集中することが出来ていない。今日は一日中こんな感じなのだろう。
例に漏れず俺も伝聞でしか知らない真白ゆきの本性が気になって、何度も横目で見てしまう。
対して当の本人は、周りの環境が変わったと言うのに、ただの一度も俺の方を見ていない。環境に左右されない優等生。
こういう人のことを芯が強い人間と言うのだろうか。他人なんて眼中にない。常に自分の世界に浸っている感じである。
しかし華の青春時代に能面のように無表情、それでいてクラスメイトから嫌われながら過ごすのはどうかと思う。
今もちらちら見ているのは気付いているのだろうが、それでも表情筋はピクリとも反応していない。相も変わらず授業の内容をルーズリーフに書き込んでいた。
奇行を繰り返し、嫌われた要注意人物。
彼女に関わり続けてしまえば、転校して築き上げた関係もリセットされてしまうかもしれない。
それに彼女を嫌っている渚は活発で快活、陽気で闊達、人当たりも良い上、リーダーシップも持っている。
このクラスを表すピラミッドがあれば、きっと頂点に君臨していることだろう。そんな人間と対立することになれば、俺の青春は霧散することになる。
あの様子だと、晴人がいなければいじめだって許容していたかもしれない。俺は心底人付き合いは面倒で、大変だと感じた。
いっそのこと真白みたいに嫌われてもいいから人間関係を放り出したいくらいだ。でもそんな覚悟もない。
俺は溜息をつくと、ポケットに入れていた予備の栓を開けた。そして教科書の影で身を縮め『楽』を飲み干す。
彩は人工的な感情を欲するのは陰キャと言っていたが、陰キャにならないために人工的な感情を求める人間もいるのだと教えてやりたい。
沸き立つ感情の行方を億劫な学校生活へ向け、俺は今日を無難にこなしていく。
小説を読んでくださり、ありがとうございます。
今後ともご愛読頂けますと幸いです。