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「あ!」
靴を履き、玄関を出たところで、違和感に気付いて立ち止まる。ズボンのポケットに手を当て、あるべきものがないことを確認してもう一度家に入った。
台所へ戻ろうとしていた母の横を走り抜ける。
「またあんたはそうやって……。遅刻するよ!」
「分かってるって」
母の言葉を背に、俺は自室へと戻る。机の上に忘れられていた二本の試験管。そのうちの一本を手に取り、「人工的な感情か」と呟いた。
彩の言葉を思い出し、格好つけてみたのだが……誰にも聞かれていないはずなのになんだか気恥ずかしくて、思わず周りを見渡してしまった。
馬鹿馬鹿しい言動を払拭するためにも、栓を抜いて中身を喉の奥へと流しこむ。
するとなんだか気持ちが盛り上がってくる。少しばかりの羞恥は何処へやら、今なら彩との会話だって気後れせず、楽しみながら交わすことだって出来ると確信する。
やっぱり感情リキッドの効果は絶大だ。憂鬱な月曜の朝なのに、これから学校へ向かうと思うと心躍り、楽しい気分になる。
俺はもう一本をポケットに突っ込み、逸る気持ちのまま部屋を飛び出した。
「まったくあんたは、いつも直前になってからバタバタして。週初めくらいは自分で起きて……」
玄関で待っていた母が、これまでに何十回と聞いている小言を言っている。それを右から左へと軽く受け流し、「行ってきます」と言って玄関から飛び出した。
自転車の籠にリュックサックを投げ入れ、ペダルを踏みこむ。勢いがついてもサドルには腰を下ろさない。ギアを六まで回し、一層力を込めてグングンと速度を上げていく。
学校に着くころには、汗をかいた背中にシャツが張り付いていた。駐輪場に自転車を止め、下駄箱へ走る。
出席番号が書かれた下駄箱に履いてきた靴を突っ込むと同時、朝のホームルームの鐘が響き渡り、合法な賭けへの参加が告げられた。
賭けられたのは出席状況であり、担任教師の大雑把な性格が唯一の勝ち筋である。
俺は下駄箱から上履きを取り出し靴下のまま、教室へと向かった。階段を一段飛ばしで駆け上がっていると、見覚えのある後ろ姿が目に入る。
「おはよう。晴人も遅刻なんて珍しいな」
「ああ、悠か。おはよう」
「もう朝のチャイムなったけど、晴人は学級委員としての自覚が足りないんじゃないか?」
「その学級委員の仕事として、職員室に行っていたんだ」
「なーんだ……ちなみにさ、職員室に早見いた?」
俺の質問に晴人は白を切る。
「さぁね。先生が居てもいなくても遅刻は遅刻だよ」
「まだ確定じゃない。ホームルームのチャイムが鳴ってからが勝負だからな」
「転校して来て二か月弱なのに、もうグレちゃって。僕は悲しいよ」
「ドンマイドンマイ、気にすんなって」
三階までの階段を上がりつつ他愛もない会話を交わし、息を切らしながら後ろの扉から教室に入る。教卓に誰もいないことを確認して、「セーフ」と安堵した。あらかじめ結果を知っていた晴人が、呆れた様子で席に戻って行く。
ガヤガヤと騒がしい中、自分の席へと向かい、教卓の前に着席した。机のフックにリュックをかけて、クリアファイルを取り出す。
「あっつー」
強いて言えば周りにいる全員に、しかし誰へも向けず大きく独り言を口に出した。
「あんたそんなギリギリに来てばっかりで、進学に響くよ」
後ろの席の結城渚が、だらしない姿を見て声をかけてくる。
「今日もこうして間に合ってるし、別に大丈夫でしょ。それに今日は晴人も一緒だった」
「ハルは遅刻じゃないでしょ。転校早々、留年する気?」
「まぁあとは神のみぞ知るところ。てかさ、後ろから扇いでよ」
中身の詰まっていないバインダーを取り出して渡す。それを受け取ると後頭部へ向けてパタパタと風を送ってくれた。俺との会話がひと段落して、渚は近くの女子と談笑する。
「昨日のドラマ見た?」
「見た見た。レン君超かっこよかった!」
最近SNSでも話題になっている恋愛ドラマ。主演の俳優が最強にかっこいいらしい。
体重を後ろへ預けて、不安定な椅子の背もたれを渚の机につけると、俺は盛り上がりを見せるその話に割って入る。
「俺もキュンキュンしちゃったよ」
そんな俺を見て、渚が言う。
「絶対観てないでしょ」
「観てるって、あれでしょ? ヒロインが病気になって余命あと少しみたいな」
「全然違うんだけど~」
どうやら俺の恋愛ドラマへの知見は浅いらしい。
渚を中心とした女子グループと軽口を叩き合っていると、担任の早見が教室に入ってきた。
「席につけー」
手に持った細長い紙の束を全員に見せつけるようにはためかせる。騒々しかった教室が、すぐに静かになる。
「はやみん、もしかして席替え?」
渚がクラスメイトと話しているかのように馴れ馴れしく尋ねると、早見が答えた。
「そうだ。全員居るか?」
点呼をとるわけでもなく視線だけで出欠を確認すると、早見は教卓の真ん中に置かれた出席表を横に退ける。
「今日はみんなお待ちかね、中間テストの結果を返すから出席番号順に前に取りにきて」
早見が「あ」から番号順に呼び始めると、再び教室に活気が戻った。
「悠、あんた今回自信あるんでしょ?」
「もちのろん」
「またこの席になったりして」
ニヤニヤとした笑みを浮かべる渚に俺は言う。
「こんな罰ゲームみたいな席から脱出するために、寝る間も惜しんで勉強したから。今日からこの席は渚に譲るよ」
テスト結果の返却日。つまりは席替えの日である。
このクラスでは中間テストの上位十名から好きな席を選ぶことになっていた。転校して間もない席替えでは、一年の最後に行われた学年末テストの結果をもとに席替えが行われていたのだが、そもそもテストを受けていない俺は否応なしに運任せだった。
そのせいで教卓の真正面の席になってしまったわけだが……今回は最前列を回避するためにそこそこ勉強した。きっと大丈夫だろう。大丈夫だよね?
順番が近づくにつれてドキドキしてくる。
名前が呼ばれ、俺は前に取りに行くどころか、立つことすらせず成績表を受け取った。
左端から古典・現代文・数学Ⅱ・数学B……と並び、その下に点数が記載されている。点数にざっと目を通したあと、右端に書かれた順位を見る。
クラス順位には七と書かれていた。
「どうだった?」
何かを期待しての声だろう。妙に浮かれた声色のそれに、俺は自信満々に紙を見せた。
「うっそ、悠って頭良かったんだ」
「まぁね」
俺の成績表を近くの人間に回し始めた渚に当然と言った様子で答える。
「それじゃあ、十位までの人は席考えといて」
早見は黒板に六×六の席を描き、順に番号を振っていく。全て書き終えると向き直って言った。
「それじゃあ一位。真白ゆき」
その言葉を機にクラス全体が、水を打ったように静まり返った。先程まで席替えに心浮かれていたはずなのに、今はただじっとそれが通り過ぎるのを待っている。
そんな異様な雰囲気の中、冷めた声が通る。
「三十六番」
「はい、三十六ね」
真白の言葉に早見が端的に反応し、三十六と書かれた窓際最後尾の席に印をつけた。
「じゃあ、次。林晴人」
教室が再び活気を取り戻し始める。
俺は窓際最後尾に座っている真白ゆきを見た。一年の頃から成績はクラスでも学年でも常に一位だったらしい。
同じクラスに居て噂程度しか知り得ないのは、誰も彼女を話題に上げないためだ。転校してきたばかりの俺は、クラスに溶け込む前にわざわざ事を荒立てるわけにもいかない。
だから、あくまで噂しか知らない。
現状分かることと言えば、窓際最後尾を死守していることくらい。
再度騒がしい教室を背にして、前を向く。順に取られていく最後尾の席。六席あるうち、既に五席が埋まっていた。
俺は前回、くじ引きにより教卓の前と言う最悪の席を引いてしまったがために、今回は一番後ろの席を取ると決めていた。しかし残すところあと一席。そして俺は七位。
終わった、と半ば小さな絶望に打ちひしがれていると名前が呼ばれた。
「どの席にする? 同じ席?」
「はやみん」と一部の生徒に呼ばれている早見の親しみやすさ。教師としてはあるまじきいい加減さが今回は悪戯な笑みとして表れていた。
断固として拒否するため、大きく声を上げる。
「三十番!」
俺は最後尾なのに不自然にぽっかりと空いていた真白ゆきの隣席を指定した。
小説を読んでくださり、ありがとうございます。
今後ともご愛読頂けますと幸いです。