狐のラーメン屋
今日中に終わらせなければならない仕事を片付けた時、既に九時を越え、社内には私と後輩の二人の姿しかなかった。
「先輩、これから飯食いに行きませんか?」
こいつは社内でもグルメで通っており、色々な美味しい店を紹介してくれる(その代わり私が勘定を持つことになるのだが)。今日もそうやって、タダ飯にありつこうという魂胆なのだろう。私も仕事を終えた達成感と、昼から何も食べていない空腹感からその誘いに一も二もなく返事をした。
いいラーメン屋を知っているんです、という彼の言に従って遅めの夕飯はラーメンに決まった。会社の目の前には飲み屋街が広がっており、居酒屋には不自由しない。雑多な小道はまるで迷路のようである。競争が激しいせいもあって、店がころころ変わることも猥雑な迷路さをより一層際立たせていた。その入り組んだ道の先にお目当ての店があった。
「狐ラーメン?」
看板に書かれた店名を読み上げた私は逡巡した。気を付けなけば通り過ぎてしまいそうな、悪く言えば印象の薄い店構えに加えて、得体の知れない店名である。世に数多あるラーメンの種類に疎い私であっても、流行りそうにないのが分かる。
「そうっす。まあ、文句はラーメンを食べてみてから言ってください」
後輩の舌を信じていないわけではない。「分かってるよ」と言って暖簾をくぐった。しかし、店内を見渡しても客は一人もおらず、店員はひょろっと背の高い男が一人いるだけだった。大丈夫なのかこの店は、と勝手に店の経営状況を危ぶむが、それが顔に出ないようにしながらカウンター席に着く。
「メニュー表はないのか?」
「ないっす。この店は『狐ラーメン』のみっす」
「狐ラーメン」という店名は、狐がマスコットキャラクター的な立ち位置にいることを示すわけではなく、その提供する料理の名称だった。すると、狐ラーメンとは、きつねそばやきつねうどんのように、油揚げが乗ったそれだろうか。私は、油揚げをトッピングしたラーメンを聞いたことがなく、この二つが合うのかは不明だが、味は何となく想像できた。
「……じゃあ、それ二つで」
しばらくして、想像通りの、ラーメンに油揚げが乗った「狐ラーメン」がテーブルの上に現れた。とりあえず、食べてみないことには始まらない。「いただきます」と言うや否や麺をすすり始めた後輩を横目に、私も口にした。
正直に告白すれば舐めていた。見た目は素朴な醤油ラーメンの上に、油揚げが乗っただけのもので、容易に味を想像してしまっていた。それがどうだ。私の食レポの拙さがもどかしい程に美味い。というより、脳内で快楽物質がドバドバ出ていることが実感できるくらいには多幸感が全身を駈け廻る。ヤバい薬でも入っているのではないかと疑いたくなるほどだ。気付けば、器に入っていたはずのラーメンは忽然と姿を消していた。
「どうです。美味しかったでしょう」
ドヤ顔の後輩を抱擁したくなる程に、私の脳は狂っていた。すんででそれを押さえつけ、「ああ」と答えるのがやっとだった。二人分の会計を済ませ、後輩と別れ、自宅に着いてもなお、幸福感は収まらなかった。ベットに飛び込むと、心地よい睡魔が迅速に私の意識を刈り取った。
翌朝、私は近年稀にみる快活さで起きることができた。最近、軽い不眠に悩まされていたことが嘘のようだ。一方で、いつにない空腹を感じた。昨日の夜に食べたにしては減りが速いというか、胃の中が空っぽというか、そんな感覚で、朝食はいつもより多く食べてしまった。積もっていた疲れが取れたことが原因なのか――そんなことを考えながら、今日も会社に出勤した。
「おはよう」
「おはようございます」
「昨日のラーメン美味しかったよ」
「またいいとこ紹介しますんで、奢ってくださいよ」
そんな他愛もないやり取りをする中で、私は一つの疑問を後輩にぶつけた。
「そういや、今日の朝はなぜか腹が減ったんだよ。まるで、昨日の夜何も食べてないかのように」
「そりゃそうですよ。狐ラーメンは幻覚ですから」
ゲンカク? そういうラーメン用語があるのかとも思ったが、どうにもおかしい。
「ゲンカクってどういうこと?」
「あれ、言ってませんでしたか? あそこは狐がやっているラーメン屋ですよ。よく聞きますよね、狐に化かされるってやつ。あれです。我々は昨日、狐に化かされたんです」
「ごめん、混乱してる。じゃあ昨日食べたのは何だったんだ。葉っぱとか食わされたんじゃないだろうな」
「その点はご安心を。食べたような幻覚を見ただけで、実際は何も食べていません」
「それなら、単に現金をだまし取られただけということか」
「そういう見方もできますね」
何となく、昨日の不思議体験の輪郭がつかめてきた。とりあえず、変な物を食べさせられなかったという点は安堵すべきだろう。
「しかし、仮にそんな昔ばなしみたいなことがあったとしてだ。人間の方から『化かされに行く』なんて聞いたことがない。なんでお前はあの店に行こうと思ったんだ」
「美味しいものを食べて幸せになるのと、『美味しいものを食べた』と思って幸せになるのと何が違いますか? 僕は、脳が同じ結論を導き出すのなら実態に拘る必要はないと思っています。だから、あの狐の思惑がどうであれ、『現金をだまし取られた』とは思っていなくて、《『美味しいものを食べた』という感覚を提供してもらった》ことに対する正当な対価を支払ったのだと思っていますよ」