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ターンアウト~手探りの未来図  作者: 木柚 智弥
選択の時
8/25

Gプロの戦略

「で? せっかくここまで連れてきたのに、なーんで綾瀬に預けたままにしてきちまうんだよ」

 豪華なシャンデリアが天井を飾る大広間の片隅で、不満顔の拓巳くんが小皿をつつく。僕はその横で彼に差し出すべく、立食のテーブルに並んだ大皿から次のサラダをせっせと取り分けた。

「そりゃ〈柳沢亜美〉をパーティー会場に出すんだから、念入りにドレスアップしないと」

 大広間に設置されたパーティー会場で、着飾った女性たちとスーツ姿の男性たちがあちこちのテーブルで談笑する中、いかにも仕方ないよといった顔で小皿を差し出すと、彼は空になった小皿とそれを交換しながらぼやいた。

「内輪のビジネスパーティーごとき、そんなに畏まることもないと思うがなー」

 いや、畏まるべきだし、そもそもこんな場所に出したくないから。

 内心で突っ込みつつ表面上はにこやかに答える。

「なに言ってるの。綾瀬さんは服装に厳しいんだからね。時間がかかるのは当たり前だよ」

 つまりは榑林マネージャーが来るまでの時間稼ぎである。しかし拓巳くんは「そういうもんか」と引き下がった。僕はひとまず誤魔化せたことに胸を撫で下ろした。

 タクシーの中から亜美に榑林マネージャーへ連絡させたあと、僕たちは特に渋滞にはまることもなく目的のホテルに着いた。

 そのとき、僕は二人をロビーに待たせてフロントに向かい、綾瀬伯母の部屋を確認するフリをしながら本人の携帯に電話をかけた。だから二人を伴って最上階のスイートを訪ねたときは、すでに彼女には状況が伝わっていた。

「よく来てくれたわね、拓巳。和巳、今日はご苦労様」

 豪華なリビングの中央に置かれた白いソファーの前、すらりとした細身の体に黒いドレスをまとった綾瀬さんは、艶やかな肩までの黒髪を揺らして僕と拓巳くんをそれぞれ抱擁すると、僕の脇に立つ亜美を見下ろした。

 上背のある綾瀬さんに対し、スニーカーを履いた亜美では肩にギリギリ届く位置だ。

「初めまして、柳沢亜美さん。戸部(とべ)綾瀬(あやせ)よ。本名を伺ってもよろしいかしら」

 あ、そうか。柳沢亜美は芸名なのか。

 ちゃんと訊けばよかったと恥じ入る僕の前で、亜美は迫力の美貌に気圧されながらもしっかり答えた。

「初めまして。白川(しらかわ)(まな)()です」

 女優の白川皐月と同じ姓だ。では白川は本名だったのだ。

「ですがこれから柳沢亜美になります。今日は突然お邪魔して申し訳ありません」

 綾瀬さんはきりっとした黒目勝ちの瞳で頭を下げた彼女をじっと見つめると、フッと眼差しを緩めて赤い唇を動かした。

「そう。では私もそのつもりでいましょう」

 そしてこちらに目を戻すと拓巳くんに向き直った。

「拓巳。私の用意したネクタイはどうしたの? シャツの襟も曲がっていてよ」

「ネクタイ? これじゃないのか?」

 サングラスを外した拓巳くんが不審そうにシルバーのネクタイを見る。それを目にした亜美がビクッと肩を震わせる中、近寄った綾瀬さんがスルスルとネクタイを外した。

「これは別のスーツに付けたタイよ。なってないわね。隣にフィッティングルームを確保してあるから行ってらっしゃい」

「ええーっ? あー、……はい」

 拓巳くんは一瞬、『別にいいじゃんか』という顔をしたが、綾瀬さんに見つめられると回れ右をして素直に出ていった。彼女はすかさずソファーの向こうに移動すると、棚の上にある受話器を取り上げ、隣の部屋に連絡してスタッフに指示を出しはじめた。

 息を飲むようにして見つめていた亜美が両手で口を塞ぎ、ハァとため息を漏らしてしみじみと言った。

「すごい。素顔のタクミさんを前にして、綾瀬さんの動じなさ。私なんてひと目見ただけで心臓が飛び出しそうになるのに。あのタクミさんをまるで……」

「子ども扱いでしょ? 実際あの人、中身の一部分が子どもだから」

 外見とはエラい違いだよねと付け足すと、亜美は戸惑ったようにこちらを見上げた。

「なに?」

「まるで逆転親子みたいな関係がとても不思議で。タクミさんは、その、お父さんにしてはずいぶん我が儘……ええと変わった人だと思うけど、高橋さんはどうしてわざわざ付き人に?」

 ただでさえ地味で大変な仕事なのに、と続けられて僕は思わず苦笑した

「理由はまあ色々あるけど、一番は役に立ちたかったからかな」

「役に?」

「うん。あの人は見てのとおり、人とコミュニケーションするのがもともと不得意なんだ。でも、僕を養うために歌手やモデルを続けていて、苦手な世界で色々我慢してるんだよ」

「苦手なの? 歌やモデルが? あんなに素晴らしいのに」

「歌が上手に歌えたり、容姿に恵まれていてなんでも着こなせるのと、スタジオで大勢のスタッフに囲まれたり、コンサートのためにたくさんの人とやり取りするのは違うでしょう?」

 亜美はああ…と何かを噛み締めるように頷いた。

「うん……よくわかるわ」

「僕にはあの人の心の揺れがすぐにわかる。だから我慢の限界がくる前に現場の人に伝えたり、休憩を入れたりしてあげられるんだけど、他の人じゃなかなか察することができないんだ。昔はしょっちゅう仕事をボイコットしちゃって大変だったってメンバーやマネージャーさんが言ってたよ」

「……苦しい気持ちがわかってもらえないのって、辛いよね」

「うん。だから少しでも仕事しやすくなってほしくて手伝うことにしたのがきっかけかな」

「そっか……それで細かいところまで目が届くのね。ちょっと変わった関係でも、高橋さんはお父さんが大好きなんだ……」

 亜美がため息混じりに言ったところで綾瀬さんがこちらに戻ってきた。

「さあ、和巳。ご要望どおり拓巳は排除したわよ。あなたは何を目論んでいるのかしら」

 黒曜石の瞳がこちらを値踏みするように光っている。僕は背筋を正し、ちょっと腹に力を入れた。

 綾瀬さんに協力を仰ぐのはある意味、俊くんに頼むよりも難しい。

「すみません、ありがとうございます。厄介ついでで恐縮ですが、亜美さんを匿って、迎えに来る榑林マネージャーに渡してください」

「あら。拓巳とパーティーに出るのではないの? ドレスを見繕ってくれとスタッフが頼まれたそうだけど」

「高橋さん?」

 綾瀬さんが首を傾げ、亜美が疑問の眼差しをよこす。僕は自分の意思を二人に伝えた。

「それはあの人が急に言い出したんです。彼女にはすっかり迷惑をかけてしまいました。これ以上、僕のために二人がありもしない噂をでっち上げられるのは見たくありません」

 語気を強めたせいか、亜美がややのけ反り、綾瀬さんは軽く眉根を寄せた。

「それは、あなた自身が嫌だから? 拓巳のためでなく」

 ズバリと突っ込まれ、僕は開き直った。

「色々な理由を取り払えばそのとおりです」

「まあ」

 綾瀬さんが眉尻を上げる。それに内心でビビりながらも僕は続けた。

「叶うなら、雅俊さんも説得して今すぐにでもやめてもらいたいです。でも、僕の立場ではあの人たちの行動を止めることができないんです……」

 最後は愚痴混じりになってしまった。けれども綾瀬さんは僕の前に立ち、片手を伸ばして頬に触れてきた。

「正直だこと。いいわ。そういう我が儘は嫌いではないわ。彼女は私が預かってマネージャーさんに渡しましょう」

「ありがとうございます」

「えっ、でも……」

 戸惑う亜美に僕は向き直った。

「どうか今日はこれで。パーティーのことは榑林さんに相談してみて。あの人なら、君のためにならないことはしないと思うから」

 僕はこちらをじっと見つめてくる亜美に「じゃあ」と笑いかけ、綾瀬さんに頭を下げてから拓巳くんの元へと急いだのだった。

 そして今、僕は会場の隅にある出入り口近くのテーブルに陣取り、もうすぐ到着するはずの俊くんや祐さん、真嶋さんを待ちながら、卓上に並ぶ料理をせっせと取り分けている。

「はい。今度はサラダスパゲティ。春雨サラダに似てるよ」

 拓巳くんは好物の名に反応し、細麺スパゲティのサラダを手に取った。

「まあまあだな」

 珍しく一口で気に入った様子に安堵しながら、僕はタクシーの中で聞きそびれた質問を口にした。

「ねえ。どうしてすぐに亜美さんのこと、見分けがついたの?」

 あれだけ近距離にいたのに、僕はさっぱりわからなかったのだ。

 僕だって、そこそこ人を見分ける力はあるはずなんだけどなぁ。

 拓巳くんはスパゲティをクルクル巻きながら事も無げに答えた。

「なんでって。子タレは子タレだろう。一度覚えりゃ、ちょっとくらい格好が変わってたってわかるさ」

「あ、そう……」

 言いようのない敗北感に襲われながら新たな小皿に手を伸ばすと、後ろから聞き覚えのある声がかかった。

「やあ、ご苦労さんだね。二人とも。楽しんでいるかな?」

 振り返った先にはGAプロダクツの二代目社長、後藤(ごとう)(まもる)氏が立っていた。後ろにはどことなく恐縮した様子の沖田さんも一緒だ。

 あれ? 今日のパーティーって、社長さんも来る予定だったっけ。

 後藤守社長は五十代後半、中肉中背の沖田さんより少し大きい穏和な人だ。きっちりと髪を撫で付け、ベーシックだが仕立てのいいスーツを着こなして、なかなか見栄えのよい外見をしているが、この業界には珍しく、妻一筋三十年の身持ちの固い人である。

 噂によれば、創立者である父親が、会社の運営にしろ芸能人との浮き名にしろやたらと奔放だったので、反面教師にして自らを戒めているらしい。手堅く堅実に社員を育て、浮き沈みや誘惑の激しい業界にあって、Gプロの健全な社風を守っている。

「お疲れ様です、社長」

 背筋を伸ばして軽く会釈すると、隣の拓巳くんが小皿と箸をテーブルに戻した。社長はまず拓巳くんに近づいて顔を見上げ、サッと二重の目を糸のように細めた。――さすが付き合いが長いだけある。視覚のガードがうまい。

「ここにいてくれてよかった。君たちに話があったから寄り道したんだよ」

 僕はちょっと驚いた。拓巳くんも同じだったようで、少し目を見開いて社長に訊いた。

「俺たちを捕まえるためにわざわざ寄ったんですか?」

「まあ、結果としてはそうなるかな? 元々近くで人と会っていたんだが、話を詰めようとしていたら先方の携帯に連絡がきてね。綾瀬社長のところにいるというから、あまりの偶然に二人して飛んできてしまったんだよ」

 あ、君もいたから三人か、と上機嫌の社長に沖田さんが困った顔で笑う。僕はなんとなく嫌な予感がし、拙速にならないよう気をつけながら質問した。

「お話とは、僕のことも含めてですか?」

 社長は僕に目線を移すと嬉しそうに肩に手をかけてきた。

「そうだよ。これは君に関係ある話なんだからね。いや、お手柄だった。入社前からこの腕前では、一人前になったらどれだけの手腕の持ち主になることやら」

 頼もしいじゃないかと笑いかけられた沖田さんが、勢いを止めるように手のひらで制した。

「社長。先走ってはだめです。二人は話が見えなくて困ってますよ。後日、社のほうできちんと話しませんと」

「まあ、固いことを言わないでくれ。素晴らしい人材を手に入れるきっかけをくれた功労者なんだからね。せっかく顔を揃えているなら是非とも立ち会いたいじゃないか」

 社長、と宥める沖田さんを今度は拓巳くんが制する。

「社長。誰と誰が顔を揃えているんです」

「ああ、拓巳君。君には感謝しないといけないなぁ。よくぞ和巳君をうちに預けてくれたね」

「和巳が誰かと会う話ですか?」

 拓巳くんの顔にちょっと警戒が滲む。しかし社長は上機嫌で続けた。

「もちろん君もだよ。そこで確認したいんだがね。拓巳君は以前、私が和巳君の入社を打診したら『本人が望むなら構わない』と言ってくれたけれど、今も同じ気持ちかな?」

 前に拓巳くんが俊くんとの言い争いで口走っていたことだ。

 あの話、本当だったんだ。

 拓巳くんはチラッと僕を見たあとで頷いた。

「あのときも言いましたが、和巳を俺の専属から外さないと約束してくれるなら、です」

「では、君の仕事がないときに別の仕事を手伝ってもらうことは構わないね?」

 拓巳くんが少し思案する。

「ええ、まあ。それは今もそうしてるくらいだし……」

 それはそのとおりで、高等部になって正式にアルバイトの契約をしてからは、僕の労働時間は決められている。月水金の五時から八時までが基本的な業務時間で、忙しいときは勤務日追加、延長は一日二時間までだ(因みに今年は勤務日追加の状態が続いている)。その中で、拓巳くんが僕を必要としないときは俊くんの用を足し、雑務に追われる沖田さんの手伝いもしている。

 後藤社長はにこやかに頷くと、賑わう会場の様子を見回し、とっておきの話を披露するような顔で少し屈み腰になって声をひそめた。

「実は今、うちにトップアイドルが移籍してくる話が持ち上がっているんだがね。どうやら和巳君のお陰で本決まりになりそうなんだよ」

「――は?」

 トップアイドルが移籍?

 拓巳くんと目を見合わせると、社長は興奮を隠せない様子で続けた。

「最近、君たちの作戦のために誌面を賑わせている子がいるだろう? まだ内定の段階だが、これが本決まりになれば話題は総ざらいだ。君たちの二十周年企画といい、今年はうちの年になるよ」

 まさか――!

「あの、社長。そのアイドルってもしかして」

「ああほら。さっき声をかけておいたから本人が挨拶に来た」

 社長が僕たちの後ろにある出入り口の扉を指差し、慌てて拓巳くんともども振り返る。そこには、先日顔を合わせた榑林マネージャーに付き添われて、先ほど綾瀬伯母に預けたはずの、けれども今はまったく違う表情をした華やかな顔立ちの美少女が、フリルを駆使した淡いブルーのミニドレス姿で胸を張るようにして立っていた。

 なんで――!

 なんで榑林さんは亜美さんをここへ! 移籍ってどういうことなんだ!

僕の心の叫びをよそに、彼女は人形のように長くカーブした睫毛の目をこちらに合わせると、フワッと微笑んでから会釈した。そしてなめらかな動きで歩を進め、僕たちの手前で立ち止まった。ヒールの高い靴を履いているせいか、華奢な印象はあるもののその堂々とした立ち姿を見れば、誰一人として彼女を子ども扱いはするまい。

 これがついさっきまで一緒にいた亜美さん? 本当に?

 隣に並んだ榑林が僕たちを見て頭を下げた。

「タクミさん、高橋さん。今日は亜美がお世話になったようで申し訳ありませんでした」

 彼は姿勢を戻すと亜美の背中に手を添えた。

「また後藤社長には、この度、私どもの希望を可能な限り考慮してくださるとのお話、ありがとうございます。柳沢亜美、これまでよりいっそう努力して参りますので、どうかよろしくお願いします」

 言い終わると二人が再び頭を下げる。僕は彼らが顔を上げるのを待たずに社長へと詰め寄った。

「亜美さんが移籍ってどういうことですか。僕、何もしてないし知らないですよ!」

 彼はまあまあと僕の肩を叩いた。

「君がびっくりするのも無理はない。私も沖田君から話を聞いたときは驚いたんだから」

「沖田さんが?」

 僕と、そして拓巳くんが社長の横に立つ沖田さんを見た。彼は顔を引きらせながらも説明しだした。

「実は二ヶ月ほど前、高山プロダクションが他の芸能事務所に柳沢亜美を売りに出す予定だという情報が出まして。うちも含め、各社スカウトの間で密かに争奪戦を繰り広げていたんです。そんなときにあの『コースケ音楽堂』の収録があって」

 沖田さんのあとを社長が引き取った。

「榑林君はそのときの和巳君の仕事ぶりを見て、是非ともGプロにしたいと思ったそうなんだ」

「先月の――」

 初めて会ったあれだ! あのときの榑林さんの話ってこれだったのか!

 思わず頭を抱えたい衝動にかられると、困り顔の沖田さんが再び話し出した。

「亜美さんは喘息アレルギーで体調が不安定になることがあるんだそうですね。それへの理解がないところには移籍させたくないと榑林さんは考えていたそうです。そんなときに和巳君の話を聞いて、これはぜひ話を、ということで、スカウトから僕のところに連絡がきたんです。けれどその後、週刊誌の件が持ち上がってしまって、僕はこの話は頓挫するだろうと思い、皆さんには伝えずに社長に報告しました」

 沖田さんが口を閉じると社長が続けた。

「私はスカウトに連絡をとらせてね。直接、マネージャーの榑林君から話を聞くことにしたんだ。そうしたら和巳君の件以外のことはこちら側にまかせてくれるというじゃないか。人気も実力も申し分ないトップアイドルの一人が! これで話を纏められなかったら、私はうちのスカウトたちに袋叩きにされてしまうよ」

「―――」

 あまりの展開に言葉も出ないでいると、まるで場を読んだようなタイミングで後ろから硬い声がかかった。

「おれたちに断りもなく和巳の仕事を増やすのはやめてもらいましょうか」

 顔を上げた後藤社長が、僕の背後を見て目を開く。振り返った先には、白いシルクのブラウスに鮮やかなブルーのジャケットとスラックスの出で立ちで、ダークグレーのスーツを着た真嶋さんと祐さんを従えた俊くんが、仁王立ちした姿でこちらを睨んでいた。

 今、このタイミングで来るか!

「や、やあ、雅俊君。今日の予定は消化できたのかな?」

 いささか腰が引けた様子の社長に対し、こちらに歩み寄った俊くんは、まず亜美を正面から捉えると、くるりと向きを変えて後藤社長に言った。

「そのお話、どういうことなのか、もちろんおれたちにも説明してくださるんでしょうね」

 その有り様はさながら蛇と蛙のようで、僕は波乱の第二ラウンドの幕が上がるのを感じ取らざるを得なかった……。



「まず先に伝えておきたいのだがね」

 ひとまず亜美たちと別れ、急遽、確保したホテルの会議室で、白いテーブルカバーのかかる円卓を囲んだ一同を相手に、上座の席に着いた社長が真顔で言った。

「これはけして、和巳君の意思を無視して進める話ではないということだ」

 室内を包んでいた緊張がその言葉によってフッと和らぎ、僕は軽く安堵のため息を吐いた。

 社長の右側には沖田さん、左側に真嶋さんが座り、その横に祐さん、拓巳くんと続いて僕がその隣にいる。俊くんが沖田さんと僕の間に挟まった状態で、僕と拓巳くんの間がちょうど社長の正面になる配置である。

 隣の俊くんから放たれる負のオーラが強まるにつれ、彼と向かい合ってなくてよかったと胸を撫で下ろす思いだ。

「ですが後藤社長。先ほどの話だと、和巳の動向が有望タレント獲得の行方を大きく左右するようですが」

 真嶋さんが落ち着いた口調で質問し、後藤社長が答えた。

「そこはそれ。我が社の交渉術の見せどころかな。むろん、先方は和巳君を専属にと望んでいるのだろうが、彼がまだ学生であることは伝えてある。当然、社員のようにはいかないことを考慮しているはずだ」

「その前に和巳はおれたちの専属であり、おまけに受験生です!」

 俊くんが怒気も(あらわ)に遮った。

「本来は日々を受験の準備に使うべき年なんだ」

 受験準備と言われて背筋を冷たいものが伝う。僕の胸中に気づくことなく彼は力説した。

「ただでさえ、おれたちの記念行事と重なって時間を割かせているのに、他のタレントの面倒を見るなんぞ論外でしょう! 社員で賄ってください!」

「彼女の移籍は早くても秋以降だよ」

 社長は受け流すように言った。

「和巳君は系列大学の推薦を志望していると沖田君から聞いている。推薦の成績が重要なのはまさしく今であって、彼女をこちらに迎える頃には試験が終わっているだろうね」

「ですが、その後だっておれたちのイベントや入学準備が」

「柳沢亜美の条件の主軸は体調への配慮なのだから、こちらの体制をしっかり整えれば、和巳君には手伝ってもらうだけで十分なはずだ」

「そんなことをしていたら芸術学部の課題がこなせない!」

 俊くんがバンッとテーブルを両手で叩いて立ち上がり、つられての心臓も跳び跳ねた。

 どうしよう。いくら時間をもらっても、今の僕には課題すら描けない。それを俊くんに伝えないとこのままじゃ……。

 内心の焦燥とは裏腹に発言が続く。

「推薦入学は合格後にもたくさん課題を出されます。大学へ入れば製作で忙しくなる。余計なことに時間を使っている暇はないんです!」

 肩で息をするように言い切るのを身の竦む思いで聞いていると、祐さんが椅子をギシッと鳴らせて身じろいだ。

「雅俊。落ち着け」

 彼は長い足を組み換えながらチラリと僕を見たあと、鋭い眼差しを俊くんに向けた。

「そんな風に喧嘩腰なのは和巳のためにならん」

「でも祐司!」

「冷静になれないなら出ていってもらうぞ」

 その声は低く重く室内に響き、揉め事には慣れた様子の社長でさえも驚いた顔をした。

「おまえは和巳の一技能における師匠ではあるが、立場としては今のところ親が認めた交際相手であって、法的に権利を有する人間じゃない。和巳が成人になるまでは、バイト内容の変更について雇用主に直訴するような権利はないはずだぞ」

「………っ」

 俊くんが頬を紅潮させて唇を噛む。すると真嶋さんが柔らかい口調で諭した。

「まずは後藤社長の要望を伺って、和巳の希望や拓巳の考えも訊いてみて、その上でどうするかの意見を出し合わないとね」

 俊くんは息を深く吸うと、肩から力を抜くように吐き出して椅子に腰を下ろした。

 それを見た社長が僕に顔を向けた。

「では和巳君。この先のことを少し訊ねてもいいかな?」

 この先のと言われ、僕は慎重に頷いた。

「はい」

「君は将来、本格的な画家を目指しているのかい?」

「…、…っ」

 核心を突く言葉に一瞬、息が詰まり、目の端が俊くんの横顔を捉える。それをどう感じ取ったか、テーブルに肘を預けた社長がグッと身を乗り出した。

「私の知る限りでは、本格的な画家を目指す学生なら、相応の美大や芸大を受験するために、この時期はすでに塾に通っていて、実技試験に向けての課題やトレーニングに大忙しで、今のような業務時間のバイトは頼めないと思うんだが、どうかな?」

 これは、かなり詳しい……。

 さすが大手画廊〈ギャラリー・柏原〉の社長と懇意なだけあって、画家の卵たちが進む道にも精通しているようだ。

 僕は正直に答える必要に迫られた。

「おっしゃる通りです。僕の実力では到底、本格派には叶いませんから、デザインアートで身を立てようとは考えていません」

「それは賢明な判断だね」

 社長は勢いよくこちらを振り向いた俊くんを牽制するかのように言った。

「君の師匠でさえ画家としてだけで暮らしているわけではない。むしろ画家の活躍は、本業の成功によって道を開いたともいえる。そうじゃないかな? 雅俊君」

 俊くんは一瞬、目尻を吊り上げて社長を見た。が、やがてため息を吐くように答えた。

「……それは否定しません。おれは身内の指導によって学び、音楽の知名度のお陰で画家としての実力以上に評価をもらってきました。デザインアートだけで勝負していたら食べていけたか怪しいところです」

 だからこそ和巳にはしっかりした勉強を、と続ける俊くんを、社長は手のひらを上げて制した。

「わかっている。君が和巳君の絵の才能を生かすために堅実な道を用意したいのだとは。だが、君自身がなしてきた『才能の両立』ということを、和巳君に当てはめる余地を私は示したいのだよ」

「おれのっ?」

 俊くんが目を見張り、僕も「えっ?」と目を剥いた。拓巳くんがガタッと椅子の音を立ててテーブルに身を乗り出した。

「社長。和巳と雅俊を一緒にしないでくれ。こんな波瀾万丈なやつの人生に準じられたら俺の身が持たない」

「はっはっは、拓巳君。君の人生も負けてないと思うのだがね。私の言いたいのは君たちのような芸才のことではないよ。スタッフとしての、マネジメント能力のことだ」

「マネジメント能力?」

 拓巳くんがおうむ返す。社長は意味ありげな笑みを浮かべて頷いた。

「それは、我々だって業界の人間だからね。君たちが反対すると承知していても、いつか和巳君を説得して、芸能界デビューさせることができたらと画策していたことは否定しないよ」

 あ、そうなんだ。

 さらりとコワいことを言われ、沖田さんの言った『黒と言っていた人を』のくだりを思い出して冷や汗が出た。

「でも和巳君の仕事ぶりを見ているうちに、これは芸能人にして君たちから恨みを買うよりも、マネージャーに育ってもらったほうが、会社のメリットが大きいと考えるようになったんだよ」

 拓巳くんが「へえ……」と感心したような顔になり、真嶋さんが思案顔で顎に手をやった。

「前にも雑談ついでに言ってらっしゃいましたが、本気なのですか?」

 決めるにはまだ早くありませんかと彼が顔を向けると、後藤社長は確信ありげに「いいや」と答えた。

「真嶋君ならわかるんじゃないかな? 優れたマネージャーの資質というものを。沖田君からも常々報告を受けてきたのだがね」

 社長の目が沖田さんに向けられると、彼は「はいっ」と明るく頷いた。

「和巳君の観察眼の鋭さ、人の空気を読む力。そしてその上に確立された細やかな気配り。すべて並のレベルではありません。今すぐうちの中堅俳優を担当してもらっても大丈夫です」

 きっと担当を変えないでほしいと要望されるようになるでしょう、と沖田さんは胸を張り、後藤社長が拳を握ってあとに続いた。

「これぞまさに亡き(わか)()君から授けられたマネジメント能力。それを拓巳君の傍若無人な振る舞いがさらにスパルタの如く鍛え上げた結果だよ。まるで元選手だった親に鍛えられて開花した超一流アスリートのようじゃないか!」

 満面の笑みで言い切られ、真嶋さんはチラリと拓巳くんを見たあとで残念な顔になった。

「はい……まあ……」

 親代わりとして、拓巳くんへのちょっぴりヒドい表現があったのを訂正したかったようだが、否定できなかったらしい。

 しかし業界の住人として、なんとなくそのヘンの感情を読み取ってしまった後藤社長は、咳払いなどしながら前のめりの姿勢を直した。

「うん。まあなんだ、つまり和巳君には素晴らしいマネージャーの資質があるわけだ。柳沢亜美君の事例はそれが証明された結果だろうね。それでだ」

 彼は僕に顔を戻した。

「和巳君。いずれ近いうちに打診するつもりだったがこの場を借りよう。GAプロダクツはいずれ正式に君を社員として迎えたいと思っている。高卒でもよし。夜間大学への併学を希望するなら費用を負担する用意もある」

「えっ!」

 まさか高卒ですぐにとは思わず、僕、俊くん、拓巳くんともどもギョッとした顔になった。社長はさらに言った。

「大学進学なら卒業後に。その間の業務を今のレベルでこなしてくれるのなら、バイトから準社員に引き上げるつもりがある。まずは芸能事務所のマネージャーとして名を上げ、その生活の中で、絵画を一生のテーマとして精進していく人生もあると思うんだよ。ぜひ検討してみてくれないかな」



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