悩ましい日々
「――そんで今やこの有り様かい」
「……そーなんだよ」
昼休みの一時。緑深まる中庭の奥、木々に囲まれたベンチに座った健吾が雑誌に目を通す傍らで、僕は力なく背もたれに体を預けた。
今、彼の手にあるのは女性向け週刊誌で、今朝、教室に入る前に優花がくれたものだ。
「これ、昨日発売の。一応、確認しておいたほうがいいのかなー、なんて」
そう言って手渡す優花の目が泳いでいたことはあえて言及するまい。
健吾が手にするその雑誌には、ページのトップと二枚目にカラー及び白黒で見出しが踊っている。即ち。
『〈T-ショック〉タクミ、柳沢亜美について異例のコメント! その真意は?』
『〈恋人〉マースも公認! 余裕発言の真相――《今はそれぞれが充電中。どうせまたヨリが戻るんですけど》』
『柳沢亜美、《尊敬する大先輩です》にファン悲鳴《亜美ちゃん、目を冷まして!》』
「それにしてもよくガンバってんなー、拓巳さん。あの人、おまえのためなら不可能も可能にするんだな……」
愛だな愛、とつぶやく彼に僕は内心で突っ込みを入れた。
違うよ健吾。ヤケだよヤケ。
あれから二週間が経ち、今日は月末の金曜日だ。早くも五月が終わろうとしている。
例の写真を載せた記事は週刊誌となって出回り、見事その週の話題をさらった。そして報道陣が各現場に押し寄せ、Gプロの周囲も騒然となった。
待ち構えていた俊くんは宣言どおり手を打っていった。
まずは僕を二日だけ付き人業務から外し、拓巳くんをわざと沖田さんに車でGプロビルに送らせて、入り口で囲み取材をさせたのだ。
そのとき、俊くんが拓巳くんに指示したことは二つ。
『一回だけ立ち止まって周りを見渡すこと』
『口の端を上げてから一言「想像に任せる」と言って入ってくること』
「あとはどうにかしてやるからそれだけ我慢しろ」
和巳のためだぞと念を押された拓巳くんは渋々指示に従い、結果、集まった記者たちを狂喜させることに成功する。
「囲み取材なんていつも無視するタクミが足を止めた!」
「笑ってたぞ! 『想像にまかせる』だって!」
「本当に? マースはなんて言ってるんだ!」
すぐに取材陣に囲まれた俊くんは記者たちの憶測に火を点けて回った。
「タクミですか? さあ、今はちょっとわからないな。ツアー中はリハーサルでぶつかり合うことが多いから、プライベートでの距離を取ることにしてるんです」
半年前、僕を目黒に迎えるにあたり、拓巳くんがやらかしたうっかり発言の代償に、二人は付き合いが盛り上がっているフリをした。が、ほとぼりが覚めてからは演技をやめたため、一部ファンの間では『波があるカップル』と認識されている。今回、俊くんはそれを生かして『コンサートやイベント続きでお互いが息苦しい状態』を演出し、タクミが息抜き(つまり柳沢亜美に目移り)していると匂わせたのだ。
状況は順調(?)で、今もって拓巳くんと亜美は誌面やゴシップ系番組を賑わせている。
「この前の音楽番組でも司会者に聞かれてたよな。雅俊さんが代わりに答えてる間中、俯き加減でさ。照れてるとか言われてカメラ回されてもジッとしてんの。ありえねー」
「そーだねー。前だったら脱走しそうになって、三回ぐらいコマーシャルに切り替わってるところだね……」
その真相は超高級おやつ、大和屋の個数限定葛餅『月の雫』の賜物である。
蕨餅の次は葛餅。けどいつまで持つことか。
俊くんの指示に従うこと二週間。もはやおやつで釣ることになんのためらいもない。
もたれた姿勢でため息を吐き、枝を飾る葉っぱの合間から覗く青空を見上げていると、雑誌から顔を上げた健吾がこちらを覗き込んだ。
「拓巳さんの涙ぐましい努力によって、おまえの身辺は未だ静けさを保っているな」
「うん。……それはほんと、ありがたいと思う」
俊くんの読みどおり世間の目は二人のボーカリストに集中し、お陰で『拓巳によく似た付き人』の記事を深読みする者の気配はなく、個人名で呼び止められることもない。学園の周囲に不審人物が現れたという噂も聞かない。
「そのわりに浮かない顔だな。やっぱ家に帰れないのは疲れる?」
「いや、そうじゃなくて。確かに拓巳くんと自宅でくつろげないのは寂しいけど」
拓巳くんは山手にある祐さんの家で一応、安心だし、俊くんが住む目黒のマンションは地下の駐車場から直接エレベーターで上がれるので、取材の不安もない。
「じゃあ、どうした?」
「……亜美さんがね、具合悪そうだったんだ。この前、収録でかち合ったときに見かけたんだけど、マネージャーらしい別の男の人が亜美さんと一緒で」
今度こそは迂闊に近づくまいと、壁の影から様子を見るにとどめたのだが、青白い顔で廊下を歩く彼女の横に榑林マネージャーの姿はなく、代わりにひょろりとしたスーツの男がついていた。
他のメンバー六人も後ろからついてきていたのだが、あまり和やかな雰囲気ではなかった。
「彼女たち、不機嫌な顔でぶつぶつ言いながらそばを通りすぎて行ったんだけど、『いい気になってんじゃない?』とか『お嬢だし』とか聞こえてきてね」
それが亜美のことだという証拠はないが、少なくとも榑林さんのような気遣いの態度は、その男を含めた誰からも感じ取れなかったのだ。
「うおおぉ……芸能界の熾烈な競争場面を覗いちゃった気がするな」
健吾は慄きながらも他人事のように続けた。
「亜美ちゃんはもうすぐ〈FAN・C〉を卒業する予定らしいから、ある程度妬まれるのは仕方ないって」
「卒業?」
「前から言われてたんだよ。もともと彼女はソロでも十分やっていけるだけの力があったけど、プロダクションの都合で〈FAN・C〉に入れたって。きっと前からのメンバーの子たちとは待遇に差がついてたんだろ」
母親の白川皐月の力もあるだろうし、と付け足され、僕はますます気が滅入ってきた。
「そんなところに今回のスキャンダルじゃ、きっと気の休まる時間もないだろうね。俊くんたちは未だに煽ってるし」
聞いた話では、イベントのときに熱狂的なファンの男が『真実はどうなんだ』とステージに駆け寄る場面があり、歌を中断する騒ぎになったのだという。因みに彼女の拓巳くんについてのコメントは『尊敬する大先輩』に徹しているようだが(芸能界の序列上、強い否定表現は失礼になるのだ)、そんな言葉でファンの男たちが安心できるはずはない。
それでなくとも喘息のある子なのに。
「俊くんたちには申し訳ないけど、さすがに手放しでは喜べないよ。なんとか他にやりようがないかな」
「うーん。かといっておまえが何か言える状況じゃないぞ」
それこそ雅俊さんたちの努力を台無しにする行為だし、と指摘されてちょっと落ち込む。まさしく僕のためにみんなは動いてくれているのだ。
「まあ、その榑林ってマネージャーがしっかりした人なら、そのあたりはちゃんと見えてて手を尽くしてると思うぜ」
慰めるように肩を叩かれ、僕はひとつ息を吐いてから「そうだね」と体を起こした。
それでもこのまま甘んじているのは何か違う気がする。だとしたら僕にできることは……。
「ね、俊くん。そろそろいいんじゃないかな」
次の日の夜、食事を終え、ソファーでくつろぐ俊くんに切り出してみた。
「うん? どうした」
目黒に来てから半月。金曜の夜を取り戻した俊くんはご満悦だ。今もシャワーを済ませたあと、ソファーの端に座る僕の膝を枕にして横になり、秋のイベント企画書の一枚に目を通している。
僕は半乾きの長い巻き毛を額から耳横まで撫でるようにとかしながら、和やかな雰囲気を壊さないよう気をつけて言葉を続けた。
「拓巳くんのお芝居。お陰さまでもう誰も僕のことなんて記憶に留めてないと思うんだ」
俊くんはチラッと上目使いで僕のほうに目線を投げると、口元に笑みを浮かべてまた書類に目を戻した。
「甘いな。まだたった二週間だ」
油断は禁物だぞ、と軽く受け流され、僕は内心の焦りを押し隠して話を続けた。
「でも、柳沢亜美さんにも申し訳ないし。それに拓巳くんがそろそろ限界じゃないかと思うんだよ。、あんまり無理させると今度は別のところにしわ寄せがきちゃう気がして」
過去にも帰宅制限でホテルでの宿泊生活が続いた折、新曲のPVロケ地で撮影チームにシチュエーションをこだわられて大暴れするなど、忍耐力が不足してくるという実績がある。
「そんなことになったらまた俊くんに迷惑がかかるよ。この先もスケジュールが詰まっているから心配なんだ」
案の定、俊くんは企画書から目を離し、少し考える様子になった。
これはホントに思ってることだからうまい理由付けかも。
しかし彼は企画書をローテーブルに戻してから膝の上で仰向けになり、そのまま腕を伸ばして僕の頬を軽くつまんだ。
「あんまり甘やかすんじゃない。ほだされちまうだろうが」
「甘やかしてなんてないよ。むしろ僕のほうが」
「そうじゃない」
彼は頬から指先を離すと肘を使って膝に乗り上がり、僕の首の付け根に手をかけて自分のほうへと引き寄せた。
「いいか和巳。おれも拓巳も芸能人だ。ある意味、注目を浴びるのも仕事のうちだ。だから追い回されるのは承知でなくちゃいけないんだ」
柳沢亜美もな、と俊くんは続けた。
「おまえはそうじゃない。いわば一般人だ。プライベートは守られて然るべきであって、それを苦にする必要はない」
「俊くん……でも」
食い下がろうと言葉を探していると、彼の腕からフッと力が抜けた。
「むしろ本来しなくていい苦労をさせている。〈タクミ〉の息子である上に、おれが選んでしまったせいで」
「そんなこと――」
驚いて顔を覗くと、彼は目を逸らして自嘲気味に笑った。
「悪いとは思っているんだ。こんな水物商売の、男とも女ともつかないような人間に捕まったばっかりに、おまえには嫌な目にばかり遭わせているようで……」
思いがけない言葉を聞かされ、僕は自分の葛藤をひとまず脇に置いた。
あの監禁事件のことを、まだ悔やんでいるのだろうか。
僅かに背けられた顔に片手を伸ばし、背中にもう片方の手を回して頭を胸に抱き込む。
「ばかなことを。僕はあなたのそばにいられて幸せだよ。――雅俊さん」
少し腕を緩め、名前で呼びかけると、濃い睫毛を従えたアーモンド型の目がこちらを見上げた。
「本当に? 無理してるわけじゃなくて?」
オニキスの瞳が熱を帯びて潤む。僕は吸い寄せられるように額に口付けた。
「ぜんぜん。あなたは僕のかけがえのない人だもの」
すると彼は艶のある唇の端を上げてニヤッと笑った。
んっ? まさか。
「おれも同じ気持ちだ。だからわかってくれるな? 拓巳が心配なんだろうが、もうしばらくは我慢しろ」
彼はサッと僕の首に腕を伸ばすと頭ごと顔を引き寄せ、柔らかい唇で僕のそれを塞いだ。
「――っ、……」
しまった。ハメられた。
しかし時すでに遅く、深みへと誘う情熱的な口づけの前に、僕の理性は一時も持たずに崩壊してしまった――。
◇◇◇
複数のライトがあたるスタジオの中央、アンティーク調の肘掛け椅子に足を組み、物憂げに肘をついて宙を見上げるのは、絹糸のような黒髪を肩下まで這わせた妖艶な美貌の男。
周囲を取り巻くセットは秋の広葉樹で彩られていて、紅葉の森の中にぽっかりと空いた空間を愛でる優雅な貴公子――そんなイメージが浮かぶ。
なんで森のど真ん中にビロード貼りの椅子がひとつだけ置かれてて、光沢のある濃い紫のフォーマルスーツを着た男がおもむろに足を組んで座ってるんだ、おかしいだろう、などと考えてはいけない。なぜならファッション界においては、美とイメージがすべてに優先するからだ。
「はい、オッケー! いいよタクミ。お疲れ様ー」
カシャッ、という音に続いてカメラマンの上機嫌な声がかかり、僕は壁際で思わずハーッと息を吐き出した。
拓巳くん単独の仕事、モデル〈タクミ〉が契約するブランドのオータムコレクションに使うポスターの撮影が終わったのだ。
デザイナー、アヤセの紳士服ブランド〈クレスト〉、その中の別シリーズである〈タクミ〉。
文字どおり拓巳くんをイメージして作ったという、クラシカルなフォルムに華やかな煌めきを加えた男性フォーマルブランドだ。
今日の撮影のコンセプトは〈古城の森を彩る秋〉とやらで、濃い紫のジャケットに金糸を織り込んだ黒繻子のベスト、襟元に紫水晶をあしらった白絹のシャツの高雅な組み合わせが『古城を継承する由緒ある貴族にのみ受け継がれた気品』を醸し出すのだそうだが、正直、拓巳くん以外の男性にアレを着こなせる人がいるのかちょっとわからない。
イケメンの俳優さんとかならいいかもしれないけど、フツーのサラリーマンのお兄さんには厳しいんじゃないかな。
けれども〈タクミ〉のフォーマルは、二十代から三十代のちょっとハイソな男性には、一着は持っていたいパーティーフォーマルなのだそうな。
まあ、憧れる気持ちはわかるけど。
今もセットの椅子から立ち上がり、額に落ちる長めの前髪を払って軽く伸びをする姿は、しなやかな黒豹が体を伸ばすさまに似て、気品と野性味が混在していてつい目線が惹き付けられてしまう。
未だモデル界で高い評価を受け続ける美貌の主は、しかし今の僕にとっては是が非でも攻略せねばならない重要人物だった。
うーん。ハードル高い。けど指揮官の攻略に失敗した以上は、工作員を落とすしかないよね。
俊くんの説得を試み、あっけなく惑わされて夜の甘い時間にすり替えられたのが五日前。自宅を出てはや三週間目に突入してしまった。
テレビでの取り上げ率は減ったものの、ゴシップ系雑誌記者からの取材は続き、今や僕の業務は拓巳くんに付き添って「申し訳ありません、道を空けてください」を連発するか、避けるための裏道を探すかがメインになってしまった。むろん僕への注目は一切ない。
ありがたいけど、これ以上は心苦しすぎる。
俊くんは『最低一ヶ月は必要』と主張してやまず、周りもおおむね同意の反応だ。このままなすすべもなく見ているのがいたたまれないなら、残された手は、作戦に同意してはいても半ばヤケッぱちで実行している拓巳くんを取り込むことだけだ。
さて、どうやって切り崩すべきか。
亜美への同情に訴えようにも、今の彼は我慢生活によるストレスのあまり、スクープ狙いのカメラマンを背負った状態で控室に来た彼女に『迂闊な子タレめ』などと八つ当たりし、自分の行動を棚に上げた我が儘お坊っちゃま状態なので期待できない。
向こうは窮状を救われた身なのだから、大先輩に一言挨拶をというマネージャーの行動に非難の余地はない。しかしあの程度の、しかもスタッフ(つまり僕)へのお礼で済むレベルで本人(それも超アイドル)を連れてきたのはちょっとバランスを欠いた行動と言えなくもない。つまりはとんとんの関係だから、アプローチ次第で十分活路を見いだせるだろう。
まずはとっかかりだ。
『もう十分、成果は出てるからやめようよ』程度じゃだめだな。
『そろそろ家に帰りたいよ』かな。
いや、いっそ『平日の夜は拓巳くんと一緒じゃないと寂しくて』くらい盛ったほうがいいかも……。
「おい。なにブツブツ言ってんだ。終わったぞ」
「うわっ、はい!」
気がつけば、貴公子の皮を被ったお坊っちゃまが目の前に立っていた。その横には不思議そうな顔の真嶋さんもいる。
「このあとのパーティーに出るんでしょう? 君が遅れると綾瀬が不機嫌になるよ。あえて挑戦してみる気なら止めないけど」
「慎んで遠慮します」
ファッション界の重鎮〈アヤセ〉の不興を買うのはコワい。
「暑い。早く脱ぎたい」
拓巳くんは襟元のタイとブローチを苛立たしげに外している。この蒸し暑い六月に秋冬物のスーツ、しかも撮影用ライトがガンガン当たるのだから、冷房が効いていようと過酷である。
「ごめんね。すぐだから」
僕は撮影スタッフの皆さんに挨拶を済ませると、いつものビジネスバッグを肩に提げ、拓巳くん、真嶋さんとともに隣の控室へと急いだ。
これから赴く〈クレスト〉の会社、アヤセ・インターナショナルのパーティーは、他の各種スポンサーが主催するパーティーとは違い、僕は付き人として隅に控えるのではなく招待者の一人として出席する。
オーナーにしてデザイナーのアヤセ・トベは僕の伯母に当たるので、身内として招待されているからだ。
「僕は君たちの支度が済んだら一旦、Gプロに戻って祐司たちを連れてくるよ。遅れることは連絡してあるからね」
真嶋さんの説明に拓巳くんが頷く。
綾瀬伯母は真嶋さんとも懇意の間柄で、俊くんたちとも長い付き合いだ。ずっと〈T-ショック〉の衣装を手掛ける関係で、この会社がパーティーを開くときは必ずメンバー全員を呼ぶ。
今夜のパーティーは秋冬物の商戦準備が一段落したのを受け、関係者やスタッフへの慰労がメインではあるが、業者に向けた販売促進のための接待と、今後に向けてのデモンストレーションの意味合いが強いのだという。
「さすがアヤセの情報収集力。おれたちの事情を考慮して予定を組むところが抜かりないな」
とは、この忙しさでもスケジュールの網の目を抜いて出席できる日を提示された俊くんである。
「おれたちは目立つから、彼女のマネキンたちの中でも主要の役目を負ってるんだな」
〈T-ショック〉は宣伝役としての貢献度が高いので、こういった業者向けには必ず出席を打診してくる。またこちらにとってもビジネス関係者を接待するパーティーは、外部の取材をシャットアウトしているので安心して楽しめる。
ただし、ちゃんと着こなしてるかの審査がそれはキビシイんだけど。
僕たちが一足先に行くのは、彼女の唯一の身内として挨拶がてらチェックを受けるからだ。そこで彼女の眼鏡に叶わなければ容赦ない着せ替えが待っている。
綾瀬伯母からあらかじめ届けられた初夏のスーツに着替え、真嶋さんによって手早く髪を整えられた僕たちは、タクシーでパーティー会場のホテルへと向かうべく、スタジオの入ったビルの裏口に向かった。
裏口にタクシーを手配してくれたのは真嶋さんの配慮だ。
「さすがにこんなところまでは雑誌記者もいないかな」
それでもサングラスをかけた拓巳くんの前に立ってエレベーターを降り、周囲に目を配りながら裏のドアを目指すと、廊下の曲がり角の先からかなにやら切羽詰まったような女の子の声が聞こえてきた。
「待って、待ってください! まだ話が」
「しつこいわね。うるさい子は嫌いよ」
――?
今度は険のある女性の声だ。
一瞬、拓巳くんと顔を見合わせ、曲がり角の手前で止まって顔だけで覗いてみる。と、出入口近くには三十代半ばほどに見えるすらりとした女性が、それに向かい合うようにして手前に小柄なお下げ髪の少女がこちらに背を向けて立っていた。
今の。向こうに立ってる女の人の声だよね。
タイトな臙脂のワンピースドレスがよく似合った艶やかな女性だ。民放のドラマやテレビのCMで見かけた記憶がある。が、綺麗な巻き髪に縁取られた細面に相応しからぬ、つっけんどんな物言いだった。
これはもしかしなくても女王様系の女優さんと見習い付き人さんのやり取りでは。
このビルは大手カメラメーカーが所有するスタジオ専用の建物で、各種ファッション系や宣伝広告系の撮影でよく使われている。おそらくは別の階のスタジオで仕事をしていた人に違いない。
彼女は手にかけていたケープを羽織ると、ちょっと顎を反らして少女をめねつけた。
「まぁ、せいぜい高く売られなさいな。こっちもせいせいするわ」
売る? 売り出すってこと?
驚いて目を見張ると、制服のようなチェック柄のベストにスカートの少女の肩が震えた。
もしかして、付き人だった子がデビューするから面白くないとか?
少し泣きそうなのか、小柄な少女は掠れた声を出した。
「どうして……そんなに私、目障りなんですか?」
「くだらないわね。そんな話のためにこんなところまで追いかけてこないでちょうだい」
「で、でもっ、事務所にいるときや仕事中はなかなか話ができないから……っ」
タカビーな女優さんにしてもキツい言い方だなぁ。
いたたまれないものを感じていると、出入口の扉が開いてひょろりとした男が顔を覗かせた。
あれ。この顔、どこかで……。
「サツキさん。お待たせしました。行きましょう」
男は女性に声をかけ、その先に少女の姿を認めると呆れたような顔になった。
「なんだおまえ。まだこんなところにいたのか。帰れ帰れ」
「高山さん。お願いです。話がしたいんです。お手伝いでもなんでもしますから一緒に」
弾かれたように少女は走り寄り、高山と呼ばれた男がサッと女性の前に立った。
「甘えてんな。これ以上、サツキさんにまとわりつくなや」
横柄に言い放ち、男が手のひらを前に突き出す。
「あっ!」
結果、肩を押された少女はバランスを崩して後ろに尻餅をついた。
あんな小さい子に!
思わず壁から飛び出そうとし、ハッと踏みとどまる。
僕は今、拓巳くんの付き人だ。よその事務所の人と事を構えるのは避けなければならない。
でも……!
咄嗟に後ろを振り向くと、拓巳くんが胸の位置で人差し指を前に向けて振った。
(行ってこい。ここで待ってるから)
声なき声が口の動きから伝わる。
ありがとう!
僕は目で伝えてから廊下へと飛び出した。
「君、大丈夫?」
うなだれたように横に手をついたままの女の子に駆け寄ると、出入口の扉を抜けようとした二人がこちらを見た。
「―――」
女性が一瞬、足を止めて口を動かす。それを男が肩を抱くようにして先へと促した。
「ほっときましょう。さ、次の現場の時間が迫ってますよ」
彼は一瞬、胡散臭そうにこちらを見、すぐに顔を戻して扉を抜けていった。
そのとき、足早に去っていく横顔が記憶の片隅を刺激した。
わかった! あの人〈FAN・C〉のマネージャーだ。
亜美を追い立てるようにして連れていた男だ。
あんな柄の悪そうな男がマネージャーだから、女優もタカビーになったのかな。
どうやら置いていかれたらしい女の子を気の毒に思いつつ眺める。お下げに大きめのセルフレームメガネが、なんだかオタクの皆さんが喜ぶアニメの主人公のようだが、まだあどけない感じで思ったより年下かもしれない。
「立てる?」
手を差しのべると、彼女はおずおずと片手を差し出してきた。僕はそれをつかんで一気に引き上げた。
立ち上がった少女の背丈は僕の胸に届くかどうかといったところで、中学生だとしても小柄だ。
「ねえ君、置いていかれちゃったみたいだけど大丈夫? 一人で帰れる?」
ここは東京の郊外で近くに駅があるわけではない。このまま帰すのがなんとなく心配で訊ねると、少女は長めの前髪が被ったメガネの奧で目を見開き、ついでバツが悪そうに頭を下げた。
「はいっ。だ、大丈夫です。失礼します……!」
そして顔を上げて僕の後ろを見た途端、「ヒッ」と声を上げて青ざめた。
「どうしたの! って、うわ……」
ビクッと揺れた肩を支えてから振り向くと、後ろで待っているはずの拓巳くんが、サングラスをかけた顔で僕の肩越しにこちらを覗いていた。
なんで来ちゃうんだ! もー。
〈FAN・C〉の所属事務所にいる子なら、タクミには近づかないよう厳重に注意されていることだろう。ここで会ったことは誰にも言わないと約束してあげなければ。
考えをまとめ、顔を戻して口を開きかける。しかしその言葉は後ろから放たれたセリフによってあえなく頓挫した。
「おい子タレ。そんな格好でナニしてんだ。アニメのコスプレの仕事か?」
えっ、ええ――っ⁉
慌てて顔を注視すると、メガネの奥の顔がみるみるうちに青ざめた。その苦しげな表情と涙目が、あの咳の日の記憶と重なった。
亜美さん! ホントに⁉
そのとき、僕たちが来たエレベーターの方向から複数の人が降りてくる気配がした。おそらく撮影スタッフに違いない。
まずい。あのエレベーターを使ったら大抵はこっちに来る。
すると拓巳くんが『おっ、そうだ』という顔をした。
「ちょうどいい。暇ならちょっと付き合え。連中に見せびらかしておけば雅俊も満足だろう」
それを聞いた亜美の顔が蒼白になった。
じょ、冗談じゃない! これはもう、早いところこの場から逃れないと!
僕は亜美の肩をサッとつかみ直してから小声で叫んだ。
「あっ、拓巳くん、時間がないよ! 綾瀬さんの雷が落ちるよ! 取りあえずタクシーだっ。早く!」
「えっ? マジ? おい待てよ!」
僕はそれ以上、後ろには構わず、彼女を出入口へと追い立てるようにして、扉の外に見えるはずのタクシーへと急いだ。
後部座席の奥に亜美を押し込み、真ん中に陣取った僕はすぐに訊ねた。
「ごめんね。僕たちこれからパーティがあって、横浜のMホテルに行かなきゃいけないんだ。横浜駅まで送るから、あとは帰れるかな」
本当は一刻も早く最寄り駅に解放してあげたいが、あいにくと寄り道している時間がないのだ。
すると反対隣の拓巳くんが爆弾を落とした。
「時間がないんだからホテルに直行しろよ。そうだ。ついでに子タレも一緒に出ろ。帰りはあの榑林とかいうマネージャーをホテルに呼べばいい」
「なっ、待ってよ! それは困るよ」
泡をくって振り返ると、彼はサングラスの顔を傾げた。
「なんでだよ。綾瀬なら飛び入りでも俺が連れてきたやつを駄目とは言わないぜ」
「そうじゃなくて! 拓巳くん、状況わかってる?」
彼女は迷惑してるんだよ、と続けようとすると、亜美が止めた。
「あの、大丈夫です。ホテルへ行ってください」
「亜美さん?」
「横浜に住んでいたことがあるのでMホテルなら知ってます。駅に近いから一人でも帰れますし……」
すると運転手がこちらに声をかけてきた。
「あのぉ。行き先は……」
チラリとこちらを見る目が迷惑そうだ。僕は慌てて「すみません、横浜駅西口のMホテル前で」と伝えた。
車が発進し、どことなく気まずい空気が漂う。どうにも気になって僕は亜美に確認した。
「君はその……あの二人のところに行きたかったみたいだけど、このあとまた追いかけるの?」
どんな理由があるのか、あの女優を慕っている様子だったが、心を傾けるだけ損な気がする。
彼女は俯いて間を置いたあと、ポツッと一言つぶやいた。
「……いえ、やめておきます」
その様子に心がチクリと痛んだものの、ひとまずホッとして話題を変えた。
「僕たちと会ったのはまずいよね。榑林さんに知らせたほうがいいんじゃないかな」
「今日は仕事じゃないから……あ、この姿のときは心配いらないです。誰も気づかないから。ああ、でもタクミさんにはすぐに見破られてしまったから、あんまり目眩ましになってないのかな……」
僕は片手をぶんぶん振った。
「とんでもない! すごい変装技だよ。身長まで違うから全然わからなかった」
彼女はまだ少し固い表情ながらもうっすらと笑った。
「変装じゃありません。普段はあんなにヒールのある靴なんて履かないもの。これが高校での私。平凡で……誰も歌手だなんて知らないの」
僕は目を見張ってしまった。
「じゃ、学校の友達は君が誰だか知らないの?」
「お仕事のときの私は別人で……あれは私じゃないから」
その笑顔は意外にも寂しげで、僕は不思議な気持ちがした。
人気のあるグループのセンターなのに、あんまり嬉しくないのかな。
「いやでも、亜美さんの歌はすごいと思うよ。友達もきっとビックリするよ。あれは君の才能でしょう?」
「………」
やはり嬉しそうではない。きっとグループ内でも色々なことがあって、今の立場が苦しくて大変なのだ。
これはなんとしても拓巳くんたちにはやめてもらわなければ。
僕は決意も新たに拓巳くんを振り返った。
まずはこの人から引き離そう。
「ホテルについたら亜美さんを改札口まで送ってくるよ。先に綾瀬さんのところへ行っててね」
しかし拓巳くんはサングラスの奥からチロッとこちらを流し目で見、あっさり言った。
「駄目だ。下手に駅近くをウロつくよりホテルに迎えを呼んだほうが安全だぞ。それまで俺たちと一緒にいればいい」
「しつこいよ拓巳くん」
「そりゃそうだ。俺はただいま子タレに夢中なロリコン野郎だからな」
それは一昨日の週刊誌の見出しである。
彼の背後からヤケッぱちオーラが溢れ、僕はグッと奥歯を噛み締めて覚悟した。
ダメだ。ストレスが極まっている。俊くんには申し訳ないけどこの際、終止符を打とう。
「ちょうどいい機会だから言わせてもらうよ。もうお芝居はやめようよ。正直、拓巳くんが色々書かれるのを見るのは辛いんだ。効果ならもう十分だから」
僕も罪悪感でいっぱいだし、と付け足すと彼はサングラスの奥で目を見張った。
「おまえが罪悪感を覚える筋合いはないだろう。元はといえば子タレ側の不手際だぞ」
「そろそろその『子タレ』もやめようね。相手が拓巳くんだったから記事になったともいえるでしょ? とにかくこれ以上、続けるなら僕は亜美さんの会社にお詫びにいく」
「おい、和巳」
拓巳くんが上体を起こす。同時にそれまで俯いていた亜美がパッと顔を上げた。
「待って。どうして高橋せ……さんが謝るの? お芝居っていうのはやっぱりあの、記事が最初に出てから今までのマースやタクミ…さんのコメントのこと?」
僕は亜美に向き直った。
「ごめん。亜美さんも変だとは思ったでしょ」
「うん…はい。あの〈T-ショック〉のタクミが」
そこで亜美は怖いもの見るようにチラッと拓巳くんを覗き、彼がこちらを向いているとわかるとサッと僕に目線を戻した。
まるで飼い主を警戒するミニウサギのようだ。
「タクミさんが私なんかを本気で気に入るわけないとは思ったから、何か事情があるのかなって」
「ほう、今どきの子タレにしては賢いな」
拓巳くんが口を挟み、僕は双方をたしなめた。
「拓巳くんは静かに。亜美さんは『私なんか』なんて言っちゃいけないよ。ファンの人は本気で心配してるんだから。君を大事に思ってる人はたくさんいるんだよ」
「………」
「だからこそ僕は君に謝らなくちゃいけないんだ」
僕は運転手に聞こえないよう、ひそひそ声で今回の経緯を説明した。亜美はメガネの奥で目を丸くした。
「じゃあ、高橋さんを守るためにタクミさんたちが……!」
「本当にごめん。でももう十分すぎる。近いうちに必ず解消してもらうから」
頭を下げると、僕の肩にのしかかった拓巳くんがスッパリと言った。
「言っとくがな。俺たちメンバーは妥当な判断だと思ってるぞ。そっちにだって十分メリットがあったはずだ」
「ちょっ、拓巳くん! 何をエラそうに」
慌てて拓巳くんを押しやると、今度は亜美が僕の袖を引っ張った。
「いいんです。そのとおりだから。『〈FAN・C〉の柳沢亜美』が話題に上ったお陰でメンバーのみんなは注目を集めました。雑誌に写真が載ったりワイドショーで特集を組まれて、他の子たちも顔を覚えてもらえたんです。だからタクミさんの言うことは当たってます。高橋さんは謝る必要、ありません」
「亜美さん……」
幼げな顔の奥に歌手〈柳沢亜美〉の姿が重なり、僕は言葉が継げなくなった。
身を乗り出していた拓巳くんが感心したように言った。
「よくわかってるじゃないか。よし。おまえはやっぱり俺と一緒にパーティーに出ろ。そしてお偉方に顔を売ってこい」
僕はハッと我に返った。
「ダメだよ拓巳くん。話題を振り撒きすぎて逆効果にでもなったら亜美さんが……」
そこまで言ってふと気を変える。
待てよ。そうだ、いっそのこと綾瀬さんに……。
チラリと亜美に目を戻すと彼女は先ほどより大人びた顔になって言った。
「あの、歌手でいるときの姿に変えさせてもらえば、私は構いません」
「それなら綾瀬のスタッフに頼めば調達してくれるだろ」
拓巳くんが言い添える。僕は思案し、言葉を選んで拓巳くんに告げた。
「……わかった。ただし榑林さんに連絡して、承諾してもらったらね。迎えに来くるまでの間なら、それもいいと思う」
そして少し困ったような顔をした亜美に確認した。
「亜美さんもそれでいい?」
顔を覗くと、彼女は強張った顔をしながらも小さく頷いた。