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ターンアウト~手探りの未来図  作者: 木柚 智弥
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いたいけな少女


 あの日、最初に足を踏み入れた、ホテルのスイートルームのような応接室。

 そのあとに連れられた狭い部屋。

 どちらにもシンプルなパネル額縁のデザイン画が飾られていた。

 あの絵の記憶がイラストボードや木製パネルにリンクして、あのときの恐怖を刺激するに違いない。

(和巳)

 中の絵なんかろくに見てなかったのに。木製パネルみたいな四角い額だったことだけはっきり覚えてるだなんて。

(和巳?)

 このことを拓巳くんや俊くんか知ったら、どんなに悲むことか……。

「おい、和巳!」

「えっ? うわっ! はいっ?」

 目の前で、不思議な色合いをした切れ長の瞳が、長い睫毛をパタパタさせて瞬きを繰り返している。

「なーにボケッとしてんだか……」

 至近距離にある美貌に眉をひそめられ、僕は一気に物思いから覚めた。

 いけない。今日はトーク番組の収録で、ここはテレビ局の控室だった。

「ご、ごめん。なに? お腹空いちゃった?」

 慌てて仕事用のスーツのポケットを探り、次に手から外れそうになっていたビジネスバッグを持ち上げる。

「ちげーよ」

 シックなジャケットにデニムを合わせた拓巳くんは、綺麗に整えた長めの前髪から不満そうな顔を覗かせ、僕の頬を両手で摘まんでみょーんと引っ張った。――けっこう痛い。

「おまえの魂魄が明後日の方向に飛んでたから呼び戻しただけだ」

 そしてパッと離すとその手を滑らせて肩を軽く後ろへ押した。

「五時半前だ。そろそろ時間だろ?」

「あ、はい、そうです。ごめんなさい」

 僕は気を引き締めてバックを提げ直すと、長髪をなびかせて廊下に出る拓巳くんに続いた。

 昨日、担任の向井先生に醜態をさらけ出してしまった僕は、けれどもどこか心が軽くなった気がしていた。

 僕が絶望的な気持ちで打ち明けた災難について、向井は実に彼らしくコメントをくれたのだ。

『そうだったか……。そりゃおまえの判断が正しい。今、無理して描こうとしても、かえって傷を深くして取り返しがつかなくなるだろ』

 そして保護者二人への対応策も彼らしく型破りだった。

『何でも打ち明けりゃいいってもんじゃない。陰山先生にはうまく説明しとくから、ひたすら誤魔化して時間を稼げ。そんで八月過ぎてもどうしてもダメだったら、そのときは文系の講習受けとけ。そんで親たちには九月にスランプになっちまったって伝えようや』

 一瞬、肩の震えた僕に、向井は少しだけ声を柔らかくした。

『なに。人生急がば回れさ。芸術系に進学することだけがアーティストの道じゃない。それはマース自身が一番よく知ってるはずだ。違う学部を選んでも、芸術を捨てるわけじゃないんだってわかれば、本当の理由なんて言わなくてもちゃんと了解してくれるって』

 その言葉を聞いた途端、不覚にも涙してしまったことは守秘義務のうちに入れてもらった。

『だから今はさ。できることをしようや。幸いおまえの親父は今、商売が忙しいんだ。おまえも手伝ってんだからとりあえず勉強とバイトに集中しとけ』

 最後に軽い口調で告げられ、僕はようやく笑うことができたのだった。


 拓巳くんに従って次第に細くなってきた廊下を進むと、前方の収録スタジオの入り口が見えてきた。

 今日の音楽系トーク番組は、お茶の間にお馴染みの人気芸人、コースケさんが司会を務める深夜帯のものである。

 今年で放映十年になる長寿番組で、三十分と短いながら安定した視聴率を誇る理由は、笑いの中にもエスプリの効いた司会や、季節で変化する洒落たインテリアセットもさることながら、コースケさん自身が昔、ロック歌手を目指していた関係で音楽への造詣が深いため、滅多にテレビには出ないような大物シンガーも出演したりするからだ。その最たる人は、紛れもなく過去に二回も出た拓巳くんだろう。

 そう、何を隠そう、コースケさんこそは拓巳くんに息子自慢をした芸能人、アマチュア時代に凌ぎを削ったというバンドの元ボーカルで、祐さんとは同年にあたる地元仲間だった人だ。

 彼はその後、芸人の道に鞍替えし、見事才能を開花させた。俊くんによれば、上を目指す新人時代からお互い協力してきた間柄なのだという。

 拓巳くんですら、昔ライブハウスで世話になったとかで渋々ながらも出るんだよね。

 ちなみに拓巳くんが一人でも依頼を受けるトーク系の番組はこの〈コースケ音楽堂〉だけである。

 ただ、本当なら今回はメンバー全員で出演する心積もりでいたのが、他局の人気音楽バラエティ番組の収録と重なって難しくなった。コンサートツアーの宣伝のために、できれば〈コースケ音楽堂〉を諦めたくなかった俊くんが、もともとバラエティには出る気のない拓巳くんを、

「テメー一人でもコースケならナンとかしてくれるだろ」

 とコースケさんに丸投げしたのだ。しかし懐の広いコースケさんは「拓巳くんはこっちに出てくれるの? わーい、僕頑張るね~」と喜んでくれたらしい。

「あいつは拓巳の扱いがうまいし、出るだけでも視聴率を稼げるはずだから勘弁してもらおう」

 とは〈T-ショック〉結成前には彼のバンドのライブにも助っ人参加していたという祐さんの言葉だ。

 大道具や建材で狭くなってきた廊下を連なって進むと、目の前に迫ったスタジオの入り口から慌ただしく人が飛び出してきた。

「あ、タクミさん! すみません」

「ん?」

 拓巳くんが足を止め、僕も並んで止まる。

 スタッフジャンパーを着た青年は、こちらに近寄って口を開いたが、慌てて目線を逸らすと僕に向かって喋り出した。

 ――至近距離は厳しかったらしい。

「あのっ、申し訳ありませんがもう少しお待ちください。前のゲストの収録がまだ終わっていません」

「何かトラブルですか?」

「あ? ナンでだよ」

 双方向から同時に質問され、青年が焦った顔になる。

 番組の収録は大抵、二回分を一度に取る。今日の収録は拓巳くんがあとなのだ。

 二人で青年と顔を見合わせていると、スタジオのほうから人の騒ぐ気配と男の声が聞こえた。

「……たんだよっ! ……ないのっ?」

 何かを探しているようだ。

「コースケ? 何してんだ、あいつ」

 拓巳くんが青年を押しのけて入り口を通り抜け、僕も後に続く。広い撮影スタジオの奥に設置されたリビング風のセットの中では、ライトに照らされた三人がけソファーの真ん中に人が集まっていた。

 なにやら絶え間ない音がする。

「とにかく亜美(あみ)ちゃんに水を!」

「は、はいっ」

 やり取りを聞きながら近づいて音に耳を集中させると、それは小刻みに繰り返す咳の音だった。ケホッ、ケホホッ、と渇いた音が断続的に続いている。

 あっ! この音。

 それに気づいたとき、ジャージの上下を着た茶髪の女の子がミネラルウォーターを差し出すのが目に映り、僕は咄嗟に一段高い位置にあるセットの中に分け入った。

「直接飲むのは駄目です! むせて悪化する!」

 今にも渡されそうなボトルを奪い取る。

「薬は! 吸入器はないの?」

「えっ? あのっ、き、吸入器?」

 意味が解らないらしい。

「ちょっとどいてください!」

 僕はソファーに伏せて咳をする、制服風の衣装を着た女の子の脇に膝をつくと、手持ちの鞄の中からストローの袋をつかみ取り、素早く一本出してからペットボトルを開けて差し込んだ。

「苦しいだろうけど、顔を上げてこれをくわえて」

 ソファーに半ば突っ伏したような格好の少女の肩を横から抱き込み、二つ分けで垂れ下がる巻き髪の間の口元にストローをあてがう。彼女は絶え間ない咳に襲われながらもなんとかくわえた。

「少しだよ。少しずつ吸うんだ」

 僕の指示が聞こえたのか、華奢な肩を上下させながら少女が水を少し吸い上げる。

「咳が止まったときに吸って」

 頷いた少女は涙目になりながらも咳の合間に水を含み、それを何度か繰り返すうちに咳の感覚が開いてきた。僕は片手で鞄のポケットを開け、中の飴を取り出した。

「じゃ、今度はこれをなめて」

 ボーカル御用達、喉に優しいカリン飴だ。

 少女は震える手でペットボトルをこちらに戻すと、代わりに受け取った飴を口に含んだ。

 背中をさすりながら見守っていると、やがて咳は収まっていった。

 ここまで来れば大丈夫。

「収まったみたいだね。よかった」

 少女がこちらを見上げてうっすらと笑みを浮かべる。

 ホッとして背中から手を外すと、周囲からワッと声が上がった。

「すごい! 今度のマネージャーさん、若いのに手慣れてる!」

「亜美ちゃん、大丈夫? しっかりした人がついてくれてよかったね」

 付き人らしい茶髪を束ねた女の子が僕に頭を下げる。

「新しい方ですよね? ありがとうございました! あたしじゃどうしていいかわからなくて。助かった~」

 はっ? マネージャー?

 ソファーに座り直した少女がこちらを向き、一瞬目を見張ったあとで恐縮したように会釈する。やや華奢(きゃしゃ)すぎる気もするが、なかなかに可愛らしい。

 イヤイヤ感心している場合じゃない。

 僕は慌てて手を横に振った。

「違います。僕は」

「さぁて、どうするかな。あとほんの少しなんだけど、彼女、続けても大丈夫そう?」

 だから違うって。

 ディレクターと思われる男性にまで許可が欲しそうな目を向けられ、もっとはっきり言おうと口を開きかける。しかし声に出す前に長身の姿が人の輪に割って入ってきた。

「和巳。時間食いそうか」

 端麗かつ硬質な美貌が眉根を寄せている。

 あ。ちょっと不機嫌。

 すると周囲のスタッフのあちこちから「あっ!」だの「ヒッ!」だの息を飲む音が聞こえ、拓巳くんを見上げた少女と茶髪の女の子がポカンと口を開いた。

〈T-ショック〉のタクミは待たされるのがキライ。

 テレビには滅多に出なくても、現場スタッフの間では語り継がれているらしい。

 渡りに船とばかりに僕は立ち上がり、意識を拓巳くんの世話モードに切り替えた。

「そうだね。ちょっと間をおいたほうがいいよ」

 美しい額にピッと縦ジワが入る。僕はサッとそばに寄り、バッグから別のものを取り出した。

「このあとの予定を聞いておくから、先に控室へ戻っててくれる?」

 言いながら拓巳くんの手にコンニャクゼリーを二つ握らせる。彼はチラリと手の中を確認すると、気配を和らげて頷いた。

 山梨に遠征した優花のお土産、地方限定『巨峰ワイン味』の威力だ。

 すると後ろから慌てたような声がかかった。

「ごめんね拓巳くん! ちょっとだけ時間を……って、あれ? じゃあ君、もしかして和巳くんっ?」

 途中からすっとんきょうな声に変わったのは、司会のコースケさんだ。

「ご無沙汰しています」

 軽く頭を下げると、彼は目尻の下がったつぶらな瞳を丸くした。

「えーっ、和巳くんだったの! 立派になったなぁ! すっかり大きくなっちゃって。僕、身長抜かれちゃったんだ」

 周囲のスタッフの何人かも驚いた顔でこちらを見ている。

 前に彼と会ったのは二回目に出演した四年前だ。あのときの僕はまだ、コースケさんより五、六センチほど低く、俊くんにも追いついていなかった。

「それにしてもさっきはスゴかったなぁ! てっきり亜美ちゃんの事務所から来た新しいマネージャーさんだとばかり思ってたよ」

 感心しきりのコースケさんを拓巳くんが遮った。

「おい。そんなことより時間どうなってんだ。三十分以内に入れなかったら今日はヤメだぞ」

「ええっ! 拓巳くんは相変わらずキビシイんだから~」

 さすがは祐さんをして扱いがうまいと言わしめる大物芸人。不機嫌な拓巳くんに突っ込めるところがただ者ではない。

「無駄口叩く暇があったら早く判断しろ」

 拓巳くんはコースケさんの頭を拳で小突くと踵を返して戻っていった。

 艶やかな長髪をなびかせた背中が入り口から見えなくなると、スタジオ内に満ち満ちていた緊張感が消えた。

 あちこちからハーッと漏れるため息の中で、最初に声を上げたのは茶髪の女の子だった。

「い、今の、タクミ? 〈T-ショック〉のタクミですよねっ。ナマ見たの初めて。うっわぁ、美形……」

 そばに立つスタッフジャンパーを着た女性が哀れむような眼差しで彼女を見下ろす。

「いいわねぇ、若い子は無邪気で。綺麗なものにはトゲが、そしてタクミにはクセがあるのよ。せっかく四年ぶりの出演だっていうのに、おじゃんにならなきゃいいけど」

 そ、そうだよ、おい、と周囲が焦りだす中、先ほどのディレクターとコースケさんが少女を見た。

「マネージャーさんがいないのなら、付き人さんか亜美ちゃんに聞くしかないんだけど、続けて大丈夫?」

 亜美という名の少女は立ち上がり、姿勢を伸ばして二人を見上げた。

 まだ十代半ばには届かないだろうか。くっきりとした目鼻立ちが印象的な子だ。立った姿は手足が長いのか、想像したよりも身長がある。といっても僕より二十センチは低いだろうが。

「はい。ご迷惑をかけてすみません。大丈夫です。ただ、あの……」

 二つに束ねた縦ロールの髪が揺れ、亜美の目線が斜め横の戸棚のあたりをチラチラと見る。

 ああ、あれか。

 語尾を濁したまま目線をさ迷わせる亜美は、言っていいものか判断できないようだった。付き人の女の子も経験が浅いのか、困った顔をするだけで亜美の様子に気がつく素振りはない。

 この事務所のマネージャーさんって、まだ子どものタレントさんをこんな頼りない付き人に預けたまま何やってんだろ。

 Gプロではあり得ないことだ。が、今はそこに文句をつけている場合ではない。このままダラダラ時間が過ぎれば本当に拓巳くんは帰るだろう。

 やむを得ず僕は口を出すことにした。

「あと十分以上、かかるようでしたら、セットからあの花瓶を下げたほうが安全です」

 僕が指差した方向には、一メートルほどの本棚の上に大きな花瓶が置かれ、そこにチューリップやマーガレットなど春の花々が賑やかに生けてあった。

 それを見た女性スタッフがわかったとばかりに声を上げた。

「ああ、花粉! 亜美ちゃんアレルギーがあるのね! さっきのは喘息だったんだ」

 そりゃ辛いわと彼女は花瓶のほうへ向かい、僕は亜美と目線が合うよう、少し腰を屈めた。

「えーっと、亜美さん。あれをどかせば大丈夫そう?」

「はい……はいっ」

 亜美が嬉し泣きのような表情で頷く。

 しっかりしてるみたいだけど、心細いんだな……。

 小六、或いは中一か二か。記憶にはないアイドルタレントさんだ。どんな歌が売れているのかは(ここに呼ばれるからには売れているはずだ)知らないけれど、喘息持ちの子がこの仕事をするには注意が必要だろうに。

 僕はバッグから飴とコンニャクゼリーを取り出すと、彼女の細い手に取らせた。

「用意するまでにまだ数分あるからゼリーを食べて。一口サイズだから口紅は落ちないよ。それと飴は念のために持ってて。咳っぽくなる前に舐めれば予防になるから。五月はまだアレルギーの人には油断禁物だから、咳を鎮める吸入薬があるなら持ち歩いたほうがいいよ」

 茶髪の付き人女子にも聞こえるように目線を投げながら話すと、隣のコースケさんが感心したように言った。

「詳しいなぁ……! それになんて細やかな気配りなんだ。バッグからは魔法みたいに色々でてくるし!」

「まあその、必要に迫られて……」

 あの人のためにアレコレ工夫してたら増えました、とは内心でつぶやくにとどめる。

 しかしコースケさんは聞こえたかのようにウンウンと頷いた。

「このルックスで付き人だなんてもったいないけど、拓巳くんや雅俊くんが手放さないはずだよね。納得だよ!」

 ねぇ、とコースケさんが周囲に振り、スタッフたちから賛同の声が上がる。なんだか気恥ずかしくて僕はそそくさとバッグの蓋を閉めた。

「あの、じゃあ六時に来てもいいですか? あの人にはそれが限界だと思うのですが」

 時計はすでに五時四十五分を指しているが、六時を過ぎたら拓巳くんを押さえるのは難しい。控室から出てきてしまったほうがいいだろう。

「うーん、そうだよね。相手はあの拓巳くんだもんねぇ。わかった。なるべく急ぐから、ここに来たら少し待っててもらっていいかい?」

「了解です。じゃあ失礼します」

 軽く会釈してから(きびす)を返そうとすると、亜美が慌てたように一歩踏み出した。

「あの! ありがとうございました。あとで改めてお詫びとお礼を……」

 語尾が小さくなりながらも必死に見上げてくる。

 あちゃ。そんな大層なコトしてないんだけど。

 なにしろ親が親なので時間を取られたくない。僕は深刻に取られないよう心がけて言った。

「気にしないでください。あと少しだから亜美さんも頑張ってくださいね」

 そしてにっこり笑いかけてから次のセリフを待たずにその場を離れ、ちょっと早歩きでスタジオを出た。

 しかしその努力は報われなかったことを、やがて知ることになる――。


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