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ターンアウト~手探りの未来図  作者: 木柚 智弥
選択の時
3/25

選べないわけ

   〈Ⅱ〉


「高橋です。失礼します」

「おう。入れ」

 神妙な顔で面談室に入ると、クラス担任の向井(むかい)(ゆずる)が、机に肘をついて教員用の黒いファイルをめくっていた。僕は向かい側の席に着き、彼がこちらを向くのを待った。

 呼ばれた理由はわかっている。進路調査票のことだろう。提出したのが先週の金曜日で今日が火曜日となれば、他の理由を探すほうが難しい。

 案の定、向井はとあるページで手を止めると顔を上げた。

「おまえの進路調査票、見せてもらったんだがな。確か前回の調査のときは旭峯大の推薦希望で、芸術学部デザイン科だったよな」

「はい」

 ためらいなく答えると、彼は紺のスーツに似合わぬ長めの黒髪をガシガシと掻いた。

「じゃ今回、学部アンケート欄が〈検討中〉というのは? 学部を変更するということか」

 普段、快活そうな向井の顔が困惑を浮かべている。僕は軽く息を吸うと、自分の父親と同年の、けれどもちゃんと年相応に見える顔に目を合わせた。

「その可能性も含めて検討中と書きました」

「ほう……」

 向井は一瞬、言葉を飲み込み、やや厚みのある体を背もたれに預けた。

「じゃあ、どこか別の学部の心積もりがあるのか」

「一応、文系で考えています」

「文系……おまえの得意科目からすると文学部、或いは社会学部あたりか?」

「はい。あと経済学部とか」

「経済……なるほど」

 向井は顎に手を当てると、思案を巡らすように考え込んでから口を開いた。

「ひとつ聞きたいんだが。それは最近になって思い立ったことか?」

「そうです」

「じゃあ、タク……じゃない、親御さんには?」

 舌を噛みそうになりながらも教師の立場に踏みとどまる姿を内心で讃えつつ、表情では神妙さを保つ。

「いえ、まだ言ってません」

「え? じゃ、マースにも相談ナシ?」

 驚いたせいで今度は踏みとどまれなかった。しかしここはスルー。

「はい。まだです」

「えー。それはマズい。絶対マズい。発覚したら間違いなくコンサートに響くぞ!」

 彼はそれまでの教師然とした態度をかなぐり捨て、もうひとつの顔であるロック野郎になって机に身を乗り出した。

そう、僕の助けになってくれそうな担任、向井譲とは、五月の二十周年記念コンサートで開幕初日の枠に該当する超コアな〈T-ショック〉ファンなのだ。

 それだとかえって助けにならないんじゃないかと思われがちだが、もちろん普通のファンではない。個別懇談をこなさねばならない担任が、保護者と面談して冷静に対応できないでは話にならない。彼は生徒の進路を適切に導く優れた手腕とともに、ある得難い資質を学校側に買われ、去年のクラス替えで僕の担任になったのだ。

「下手したらマースの手を振り切ってタクミを選んだと取られるじゃないか」

 この的確な状況把握は、長い付き合いのファンならではである。

 特に説明しなくとも、早くからファンクラブに名を連ねるコアな人々はメンバーの裏事情――ボーカルのタクミが溺愛する息子をリーダーのマースが絵画の内弟子にしたため、時に熾烈な奪い合いが勃発することを知っている。

 さらには僕の進路について、美術部顧問、陰山(かげやま)幸人(ゆきと)教諭と連絡を取るうちに、マースの画家としての顔、小倉蒼雅の活動にも詳しくなり、僕と彼がパートナーであることまでは知らないながら、師匠として保護者同然の立場にあることは把握している。

「はい。だからお願いがあります。最終願書提出期限の九月の(すえ)までには必ず答えを出しますから、夏のコンサートが終わるまではあの人たちに進路の話を切り出さないでください」

 八月の下旬に入れば少し時間が空きますから、と頭を下げると、椅子の上で身じろぐ気配がした。

「まさかおまえ、七月の三者懇談でタクミ、それともマースか? とにかく同席者に進路変更の希望を伝えるなとか言う気じゃないだろうな」

 そのまさかである。

 無言で頷くと向井は渋い顔になった。

「無茶言うなよ。いくら彼らだって七月が推薦の学部決定期限だろうくらいは予想してると思うぜ」

「そこをなんとか」

「タクミ相手じゃ質問に答えるので精一杯なのに、誤魔化すなんて」

「先生なら大丈夫です。普通は会話すらできませんから」

「マースは誤魔化そうにも鋭いし」

「ご協力いただけるなら、祐司さんがストックしているギターピック、二枚もらってきます」

「えっ、フェルナンデスのユージモデルのこと? ほんとっ?」

 途端、向井の全身からマニアックな熱意のオーラが吹き上がった。

 これこそが僕にとっての得難い資質、つまりファンはファンでもユージ限定であり、タクミやマースにはあまり関心がないということだ。

 ――その昔、中学でエレキギターにハマッた向井譲少年は、叔父の経営するライブハウスで飛び抜けたテクニックを持つ高校生ギタリストに出会ったという。それこそがまだ一匹狼だった頃の井ノ上祐司、助っ人としてステージに呼ばれていた祐さんだ。

 向井少年は叔父を手伝いながらユージを追いかけることになる。まもなくユージは〈T-ショック〉を結成し、彼はファンクラブに入った。

 やがて夢と現実の狭間で葛藤し、教育者の道を選んだ向井だったが、ギターは趣味として仲間と楽しみ、ユージへの敬慕も衰えることなく続いた。

 大学を卒業後、大手学習塾の講師になった向井は、授業のおもしろさや適性を見抜く能力で名を上げてのち、旭ヶ丘へと招かれた。僕が中等部二年に上がった年だ。

 高等部の受験専任教師として赴任した彼は、〈T-ショック〉のタクミの息子が中等部にいることを知らなかった。また職場の同僚も、紺のスーツで出勤する元有名講師の向井がユージのファンだとは気がつかなかった。

 事態が動いたのは翌年の文化祭。トラブルに巻き込まれた僕のため、加害者の一人であった軽音部のドラマー、浜田(はまだ)凱斗(がいと)のステージ発表を祐さんが見に来たときだ。

「ユージ……! なんでユージがここに……っ!」

 高等部の軽音部メンバーと親交を深めていた向井は、会場の前方で演奏を堪能していたため、座席の最後尾にタクミとユージの姿を見つけても駆け寄ったりはできなかった。しかし会場を出たところを捕まえ、挨拶することはできた。

 デビュー前からの縁があるので祐さんも向井を記憶しており、しばしその場で情報が交換された。そこで初めて向井はタクミの息子が中等部に在学していることを知り、さらにはユージの従兄にして専属スタイリスト、真嶋芳弘の娘もいることを知った。

 そのとき、向井のそばでは上司と同僚が足を止めていた。

 彼らは『えーっ』だの『そうだったんですかー?』だの会話する向井の声を聞くうちに、ある重大な点に気がついた。

 即ちユージに対してはやや興奮ぎみになるものの、隣に立つタクミとはごくフツーに会話を交わしていることだ。

「高橋和巳君の父親? ああ、タクミのことですか? いや別に。そりゃまあ、俺だってあのカオと向き合うのは緊張しますけど、二十年もユージのファンやってればいい加減、慣れますよ」

 上司に理由を聞かれた向井はあっけらかんと答え、保護者面談のたびに会話の成立に苦慮してきた中等部職員たちの尊敬を集めた。そして高等部職員たちは胸を撫で下ろし、タクミの息子が上がってきた暁には、どのコースを選ぼうと向井を担任にするよう、校長に進言しようと暗黙のうちに決めたのだった――。

 つまりは沖田さんよりも長い年月〈T-ショック〉を見てきたから、常人ではあり得ないレベルの免疫力を身につけたってことだよね。

 僕はトドメとばかりに付け加えた。

「祐司さんが事情を知れば、トラブルの種を摘んでくれたことをきっと感謝してくれると思います」

 その言葉はすぐに向井の脳にインプットされたようで、彼はやや上気しながらも体裁を保って姿勢を正した。

「そうだな、うん。高橋に迷いがある以上、忙しい保護者さん方には夏が過ぎるまであれこれ気を揉ませないほうがよさそうだ」

 途中、咳払いなど交えながらも向井は言い切り、僕は肩の荷が下りた思いで頭を下げた。

「その代わりと言ってはなんだが、俺も聞いておきたい」

「なんでしょう」

 姿勢を戻すと、再び机に身を乗り出した向井は声を落とした。

「おまえが進路をひっくり返そうなんて思い立った原因だ。絵に関することだと思うんだが、何があった?」

「―――」

 構えを解いた直後だったために一瞬の虚を突かれ、咄嗟に背筋に入れた力は間に合わず、結果、僕の肩は向井の目の前で大きく跳ねてしまった。

「……やっぱりか」

 向井は確信を得たように机に両肘をついた。僕は反射的に俯いた。

「実は少し前、陰山先生が俺に訊いてきたんだ」

「………」

 肘をついていた腕の片方が動き、指先が机上をコツコツ叩く。先に沈黙に負けたのは僕のほうだった。

「……陰山先生は、なんて」

 向井はコンッと強めに机を突いてから指先を止めた。

「『クラスでの様子に変わりはないか』と。で、俺は『父親が忙しいから大変そうだが本人は変わりないように見える』と答えたわけだ」

 僕がのろのろと顔を上げると、彼は肘をついた手の上に顎を乗せた。

「春のデザイン画コンクール、高橋は去年より結果が悪かったんだって? 先生はおまえが春からこっち、木製パネルやキャンバスを前にすると元気がなくなる、きっと気落ちしてるからだと思うので励ましてやってほしいと言っていた。だがな」

 内ポケットに手をやりかけた向井は、ハッとしたあとでため息を吐いた。ここが禁煙であることを思い出したのだろう。

「俺には陰山先生の言うようには思えなかった。言っちゃ悪いが、おまえがコンクールに落ちたくらいでそこまで落ち込むタマかよと思ったしな」

 で、何が言いたいかと言うとだ、と彼は少し身を乗り出した。

「おそらく絵に関する別の悩みがあって、むしろその影響でコンクールの結果が振るわなくて、この進路調査票に繋がったんじゃないかと。でなくておまえみたいな普段、潔癖過ぎるほど父親の世界を学校に持ち込まないやつが、どうしてユージのピックなんてエサまでぶら下げて俺にお願い事するんだ。おかしすぎるだろうが」

 向井は肘に預けていた顎を外すと、この場には不釣り合いの磊落(らいらく)な笑みを浮かべた。

「あるんだろう? 保護者二名様はおろか陰山先生にも言えない何かが。幸いなことに俺は絵にも歌にもおまえの親父や師匠にも何の思い入れもなければしがらみもない。おまけに生徒の情報には守秘義務がある立場だ。案外、今の高橋の相談役にはピッタリなんじゃないかと思うぜ」

 そうして前のめりになっていた姿勢を起こし、再び椅子の背にもたれた。

「………」

 さすが元有名進学塾のカリスマ講師。ただのユージオタクではなかったようだ。

 この上は変に隠し立てしても無駄だろう。それに向井のような明るいノリの人になら、かえって深刻になり過ぎずに話せるかもしれない。

「……誰にも話さないと約束してくれますか」

「もちろん」

 僕はひとつ呼吸を整え、向井に目を合わせた。

「先生のお見立てどおりです。僕は今、どうしても絵筆が持てません。このままだと推薦に必要な実技の課題がこなせない。だから進路を変えざるを得ないんです」

 向井は一瞬、キョトンとした。

「俗に言うスランプってやつか?」

「違います」

 僕はのろのろと自分の右手を持ち上げた。

「キャンバスや木製パネルを前にすると体がまともに動かなくなる……いわゆるフラッシュバックってやつです」



 それが起こり始めたのは今から二ヶ月ほど前、ちょうど春休みの半ば頃だったろうか。

 旭ヶ丘の美術部では毎年冬になると希望者を募り、三月末に市が主宰するデザイン画コンクールに出品するのだが、幽霊部員の僕も、これだけは中等部の頃から参加していて、入選、佳作とキャリアを積み、昨年の高校生部門では特選をもらっていた。

 とはいえ静物画や風景画といった絵画の王道で勝負するには実力が足りないということは、美大受験生も参加するデッサンコンクールでの成績が、常に奨励賞止まりであることを考えればわかっていた。

 それでも絵とは不思議なもので、技術の良し悪しとはまた別の『何か』によって人は感動する。

 独学ながら優れた感性と知名度で成功を収めた小倉蒼雅――俊くんを師匠と仰いだ僕は、彼が契約するギャラリー柏原の個展において作品発表の機会を得、昨年の秋頃に顧客がついた。そしてそのことが、のちにあの事件のきっかけとなったのだ。

 実の祖父、高橋(たかはし)(かなめ)による拉致監禁――つい三ヶ月前に起こった、忌まわしくも忘れがたい事件によって、僕は消えようのない傷を身に刻まれた。

 後で知った経緯では、以前から僕を狙っていた要が、僕の絵がレストランの店主に売却されたと知るや、わざわざ食事を予約してその店を訪れ、店主に絵を誉めて画廊を紹介してくれるよう頼んだという。そして僕の絵を注文してのち、飾る予定の店舗に下見の名目で誘いだし、僕と同行者のセラを監禁、部下に暴行させた。

 そのとき使われた部屋には一枚の絵が飾られていた。

 サイズは大きめのポスターほどで、水彩画に使う木製パネルに似た、シンプルなグレーのパネル額縁に納まったデザイン画の作品だった。

 薄暗い部屋の中で屈辱と絶望を体に刻まれる間、僕の目は壁にかかるパネルを虚ろに捉えていた。

 その後、助け出される過程で騒動が起き、ともに監禁されていたセラが大怪我を負ったため、僕はその対応でしばらく己の傷を忘れ、そののちには俊くんに癒されて自分を取り戻した気でいた。

 そうして迎えた春休みの午後、自分の部屋に組み立てたままのイーゼルを引き出し、途中で止まっていたデザイン画の作品に向き合った。すると時を置かずして背中や腕に震え立ちがきた。

 最初は風邪でもひいたのかと思った。

 一旦、その場を離れて休み、再度向き合ってみたものの症状は変わらず、その日は風邪だと判断して早々に休んだ。

 しかし二日経ち、三日経っても症状が治まらず、期限が迫る中で覚悟を決め、僕は我慢して描いた。そうしてなんとか予定していた色を重ねたものの、タッチも色使いも思い描いた仕上がりには程遠く、しかし他に出品できるものもなくそれを提出した。

 幸いなことに、それは作品の異変を見破るだろう陰山教諭の目をかい(くぐ)った。彼は提出の日に偶然、別件で呼び出され、事務員が郵送手続きをしたのだ。

 しかし小倉蒼雅の目を誤魔化すことは不可能である。

 現状に対する不安と、心配をかけることへの申し訳なさで、奈落に沈みそうな心境でいたが、運命は僕に味方した。

「この先一年間、おれは絵筆を持たない。アトリエはおまえが自由に使ってくれ」

 もちろん相談やアドバイスは受け付けるからと言われ、ひとまず彼に明かさずに済むことにホッとして、そのときはまだ明るい返事を返せた。

 きっと疲れが溜まっていたんだ。そのうちにはこの変な症状も治まるだろう。

 そんな風に自分を励ましたものの、事態は思い通りにはいかなかった。

 学校が始まり、日常が動き出しても症状は一向に改善せず、特に木製パネルやイラストボードの作品を目にすると具合が悪くなった。

 不幸にもそれらは普段、僕が作品を描くときに使う画材と同じ型で、それをイーゼルに立てただけで震えが起こり、描くことなどとてもできなかった。

 不思議なことに、日常生活には何の不具合もなく、またスケッチブックやノートを机に広げる分にはそれほどのことはなかった。が、仕上げようとして画板に立てかけると、瞬く間に気持ちが悪くなった。そうして何度も試しては具合を悪くするうちに、そこに法則があることに気がつき――。

 僕はようやく自分があの日受けた暴力によって、フラッシュバックを起こすようになってしまったのだと自覚したのだった。



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