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ターンアウト~手探りの未来図  作者: 木柚 智弥
未来への道筋
24/25

残されたもの


 うららかな秋晴れの昼下がり。

 半日授業のあと、中庭のベンチでボケッと銀杏の大木を見上げていると、遊歩道脇の木の影から健吾が顔を覗かせた。

「そこ、今いい?」

 いつになく気遣わしげな登場の仕方は、それだけ僕の様子が怪しいからだろう。

「いいよ」

 少し端に寄ってベンチを開けると、いそいそと隣に座った健吾は小声で切り出してきた。

「今朝の新聞の記事、見たか?」

 校内では憚る内容のため、学校が終わるのを待っていたらしい。

「うん。朝にね」

 最初の一報から一週間。今朝の新聞の社会面――芸能欄ではなく――に新たな記事が載っていた。即ち、

『横浜を拠点とする暴力団、誠竜会が麻薬取締法違反により一斉捜査。芸能事務所、高山プロダクション、関与の疑い』

『所属タレントが供述。麻薬取引にタレントの移動を利用か』

『任意取り調べ中に交通事故で死亡した女優、白川皐月(本名、白川紗季)の事故を再調査』

 これらの記事はいつものゴシップ雑誌の誇張ではなく、警視庁への正式な取材を行った新聞社の見出しである。

 まあ、週刊誌は週刊誌で賑わってるけど。

 しかしゴシップ記事も役に立つことはある。たとえば……。

「でもよかったよ。亜美ちゃんが白川皐月の私生児だっていうのが、高山プロの創作だってことになってさ。でなかったら色々書き立てられて仕事がつまずいたよな」

「うん。それはホントに助かった」

 そう、なんと白川皐月の戸籍には『白川愛美』の記述が見当たらなかったのだ。つまり法律上、亜美は『梁瀬愛美』であり、今回の事件にもなんら関係を疑われる立場にはないと判断されたのだという。

 ではなぜ二人が親子だと認識されていたかといえば、それは近く逮捕状が出される見込みの高山社長親子の差し金――柳沢亜美を売り出すための話題作りとして、看板女優である白川皐月を利用した――という説が体勢を占めた。しかも白川皐月が柳沢亜美を毛嫌いしていたことが有名だったため、押しつけられた自分の役割への不満をぶつけていたのだろうとの推測が成り立ち、ゴシップ誌各社がこぞって報道した結果、亜美には同情が集まり、各方面からの仕事の依頼が殺到しはじめた。マネージャーとしてのキャリアをスタートさせたばかりの横澤さんは、ここが勝負と張り切っているという。

「後藤社長は移籍の成功にご満悦で、亜美ちゃんの先行きは明るいよな。だからおまえがそんなに気に病まなくてもさ。まして真嶋さんが落ち込むなんてなんだかなぁ。亜美ちゃんは元気なんだろ?」

 あの日の救出劇とそこに至るまでの経緯を健吾は知らない。

「……うん。優花のお陰さまでね」

「それよ。この事態で横澤マネージャーのサポートをおまえから優花に交代って、意外すぎる展開なんだけど」

「ごめん。せっかく優花の部活が終わってようやく時間ができたところなのに」

 夏休みのインターハイ予選敗退でもって優花はテニス部を終え、都心の美容短大に向けての準備に入った。といってもすでに推薦が決まっているので気は楽で、同じく経済学部商業科推薦の健吾との時間は確実に増えるはずだった。

「いや、それはいいんだけどよ。ただ、いくらおまえが頼んだからって、優花が芸能界に関わるのを嫌っていた真嶋さんがよく許可したよなーと思って」

 拓巳くんの取材合戦において、優花の存在は狙われやすい。なにしろ彼のプライベートを知る唯一の女子、しかもこの業界は華やかな誘惑に満ちている。真嶋さんが徹底して優花を仕事から排除していたがために、彼女は無事でいられたのだ。

「まあ、もう優花も充分そのことは自覚してるし、期間が三ヶ月限定だからね。それにやっぱり女子同士じゃないと気遣えないことってあるし。その点、優花は喘息も経験してるから安心ってことで」

 というのは表向きで、実際には別の理由がある。そこに至るにはやむを得ない事情があったからで、真嶋さんの本意ではない。

 それを決めた一連の経緯を思い出し、胸の中が複雑な思いで一杯になった。


「白川皐月さんが、交通事故で亡くなりました」

 午後八時。その一報が沖田さんからもたらされたとき、救出劇に参加したメンバー及び真嶋さんは、偶然にも大阪コンサートの打ち合わせを終えたばかりで休憩室に顔を揃えていた。

「なんだって……!」

 最初に血相を変えて立ち上がったのは俊くんで、次の報告でみんなも絶句した。

「故意に当てられた疑いがある……!」

「はい。車の運転は高山プロの若いスタッフで、ブレーキ痕がない状態で信号待ちの車にぶつかり、しかもスポーツカーの追突によって皐月さんのいた後部座席が陥没、おそらくは即死だったろうと……」

 しかも双方とも運転手は難を逃れてます、と続けられ、足を組んで座っていた祐さんがやや身を乗り出した。

「ばかな。どうやって」

「それが、咄嗟に飛び降りたと供述しているようで……」

 二人とも打撲や骨折はあるものの、車の惨状を考えれば奇跡のような軽傷で、事情聴取では事故を主張しているという。

「………」

 あらかじめそのつもりで備えていたことが疑われ、僕たちは同じ想像をした。

 ――あの日の救出劇について、何らかの責を負わされた。

「おれが、あのとき彼女を頼ったから……!」

「俊くんだけじゃないよ。僕だって。でもまさか……っ」

「待って二人とも。いくらなんでもそんな理由で人ひとりを手にかけるとは思えないよ。ちゃんと警察の人から聞いてくるから思い詰めないで」

 真嶋さんに宥められて話は一旦、打ち切られたものの、まだ詳しい経緯を知らなかった僕たちは、地下から逃がしてもらったことが影響したのではと疑った。しかし次の日に真嶋さんが知った内容は、さらなる威力をもって当の真嶋さんを直撃した。

 即ち白川皐月への麻薬取引に関する事情聴取の経緯だ。

 周囲の耳を憚り、自宅に帰ってから拓巳くんの口から明かされた事実は、それだけ事が深刻であることを物語っていた。

「担当刑事から任意同行を求められたようでな」

 彼女は取引相手との連絡役を担っていたことが半ば判明していて、ゆえに彼女の持つ情報は売手と買手の双方を跨ぐ重要なものだったという。

「その帰りに事故が起こったから、警察は誠竜会の仕業に間違いないと見てるんだ。お陰で芳弘は卒倒寸前で、仕事を途中で諦めた。雅俊も真っ青になって帰っちまったし、祐司まで……」

 日中は拓巳くんだけが平素の態度を保っている状況で、事情を知らない周囲のスタッフに、「今に槍が降ってくるぞぉぉ!」と騒がれる有り様になっている。

「でもそれは、別に真嶋さんの責任じゃないのに。もともとあの人のいた世界のしがらみで」

「いや、それがな……」

 亜美を救出するにあたり、拓巳くんの交渉によって井ノ上総司さんの協力を得ることになった真嶋さんはしかし、オークションの参加資格である赤いカードの入手まで頼ることはためらったという。

「あの家をむやみに頼ると、総司さんに祐司を持っていかれるからな」

 なんでも昔からの取り決めで、年に五回以上、井ノ上財閥の力を頼ると、祐さんが鎌倉の井ノ上家に入るという規約が発動してしまうらしいのだ。

 ではなぜ今回、拓巳くんがあっさりと総司さんに頼んだかというと、亡き先代である(ひろ)(ふみ)会長の遺言により、拓巳くんには『寛文じいさんのプレゼントカード』なるものが三枚あり、祐さんに影響することなく井ノ上家当主の協力を求めることができたからだ。

 しかし長年にわたって戦い続けてきた真嶋さんにとって、それはいつか拓巳くんや僕の危機ために使うかもしれない貴重なカード、おいそれとは無駄遣いできないものだった。

「かといって、芳弘には祐司の自由を危険にさらしてまで彼に頼むことは論外だから」

 結果、彼は拓巳くんの二枚目を使うより、自分の持つ手段で赤いカードを手に入れるべく努力することにした。それが真嶋さん懇意の『警視さん』との取引である。

 真嶋さんと長年の付き合いがある塚田(つかだ)(しょう)警視は、真嶋さんからの話を受け、裏から手を回してオークション会場への入場カードを一枚用意した。見返りは『麻薬捜査への協力』である。つまり、捜査員には潜入が難しい有坂ビルの地下、違法オークション会場の位置や内部構造、進行の様子などをカメラに納めてくるというものだ。

「じゃ、祐さんが地下で別行動になったのは……」

「ああ。警察に渡す情報の収集、つまり盗品や参加者の隠し撮りだ」

 役目を果たした祐さんから画像を回収した真嶋さんは、僕たちから聞いたあの地下の様子もレポートに加えて塚田警視に渡した。その結果、誠竜会の麻薬取引に関する捜査が一気に進み、違法オークションの摘発を飛び越える形で警視庁の組織対策課が動き出した。ところがその際、刑事の一人が先走り、単独で白川皐月に接触、自供を引き出すべく任意同行を先行させた。それは独断だったために警備部との連携を欠き、また『まさか有名女優相手にすぐには手を出せないだろう』との危機感の欠如も重なり、結果、警視庁からの帰り道を狙われて事故死するなどという、あってはならない事態を招くこととなったのだ。

『真嶋さん、申し訳ない。わざわざ情報をもらっておきながらこんなことに……』

 詳細を訊ねた真嶋さんに対し、塚田警視は沈痛な様子で謝罪したという。しかし失った命は取り返しがつかない。

『僕が取引なんて持ちかけなければ……!』

『芳兄さんのせいじゃない。俺が伯父に頼むべきだったんだ』

 かくして真嶋さんは自責の念に苦しみ、祐さんも連座することになる。

「二人の気持ちはわかるんだがな。みんなであんまり落ち込むのはよくないと思うんだ。特に雅俊はな」

 すべての発端は自分にあると考えている俊くんのダメージはさらに深刻で、事件の詳細を聞いたその晩、熱を出してしまった。

 一旦は下がったもののその後も微熱が続き、心配と動揺の連打を食らった僕が、優花に泣きを入れたのが交代劇の真相だ。

 亜美から芸能界に入った経緯を聞き出したという優花は、僕の話を聞くと「愛美のことは任せて。大丈夫、あの子見かけに似合わず強いのよ。和巳は自分のやるべきことに集中してね」と快諾し、気力乏しい真嶋さんを説得、かつての後輩の付き人になった。

 それがよかったのかどうか。

 亜美は最初こそ衝撃にうちひしがれていたものの、優花や横澤さんに支えられ、さらには心配したスタッフや、Gプロの一員になった榑林の励ましを受け、気丈にも仕事をこなしているという。

「あいつはもともと根性があるんだ。だからそこまでがっくりこなくてもいいと思うんだがな」

 拓巳くんはそう言ってせっせとみんなの尻をたたき、亜美にもGプロのビル内ではよく声をかけているという。

「で、雅俊さんの具合は? 熱は下がったのか? 今日は自宅に帰れんのかよ」

 健吾に肩をつつかれ、僕はハッと我に返った。

 健吾や一般のGプロスタッフたちは、俊くんが風邪をこじらせていると解釈している。

「あ、うん。仕事はなんとかこなしてるけど、まだ本調子にはほど遠くて。拓巳くんの許可が下りたから今日も仕事が済んだら目黒なんだよ」

 今、一番の懸念は亜美よりも俊くん――それが正直なところだ。

 結局、僕なんてちっとも優しくない。お母さんをあんな形で亡くした亜美さんより、俊くんのほうが何倍も気がかりなんだから。

 己の心があまりにはっきりしていて、一時とはいえ自然分解もいいかもなどと考えていた自分が笑える。

「だから今度こそ僕はそばにいないと。どちらも体調に気配りが必要だから、中途半端はよくないと思って優花にお願いしたんだよ」

 色々を省いての説明に、けれども健吾はどこか察したようすで「しっかりな」と肩を叩いてくれた。



「だから元気だして、ね?」

 その日の夜、なかなか食の進まない俊くんと夕食を終え、ソファーに移動していつもよりまだ高い体温の体を抱き寄せると、彼は僕の胸に伏せて首を横に振った。

「だっておれのせいなんだ。あのとき止めずに話させてやれば、母親の心に触れられたかも知れないのに……」

 俊くんの一番の後悔がそれで、榑林から聞かされた白川紗季の姿を亜美に見せてやれなかったと嘆いているのだ。

「それは仕方ないよ。あのときは本当に時間がなかったんだ。それにあの人は話すことを拒んだ。亜美さんが追い縋っても、きっと腕を払われて終わりだったと思う」

「それはわからない。一言くらいやり取りできたかもしれない。あれだけの環境で戦いながら、娘を解放するところまでこぎ着けた母親なんだから。それなのにおれが……おれのせいで……っ」

 彼は言葉を絞りだし、僕は細くなった肩を腕の中に抱き締めた。

「白川皐月だって、あんな別れ方で終わる予定じゃなかったんだ。そうだろ……?」

 その後の報道によれば、どうやら彼女は遠からず警察へ出頭すべく準備していた節があるという。ゆえに単独行動に出た刑事は、易々と彼女を任意同行することができたのだ。

 だとすれば、やはり彼女が亜美を遠ざけたのは罪に巻き込ませないためであり、すべてを清算してのち本心を明かすつもりだった可能性がある。それがさらに俊くんの罪悪感を深め、不調を長引かせているのだ。

 けど、このまま嘆いてばかりでいいわけがない。頑張っている亜美さんのためにもここは僕が支えなければ。

「俊くんが悲しむから、亜美さんも気にしてるよ。今日も優花に俊くんの様子を聞いていたそうだよ」

「………」

 亜美は一貫して『みなさんには感謝の言葉しかありません』との態度に終始している。それは多分、叔父である榑林の影響と、あの最後の皐月の言葉、

『この先は、今日、助けてくださった方たちのために精進しなさい』

 これを守ろうとしているからだろう。

「もう真嶋さんも祐さんも挨拶を済ませたよ。榑林さんにも『明日はお会いできるでしょうか』って聞かれたんだ。明日の葬儀は少しだけでも出ようよ。僕も一緒にいるから」

 事件性を疑われる事故死だったため、白川皐月の遺体は昨日の午後になってようやく警察から返されてきた。今日、荼毘に付され、明日の午後二時に葬儀が営まれるという。

「だめだ。おれに顔を出す資格はない」

 俊くんはハッとしたように僕の胸から顔を離した。

「そうだおまえ。おまえこそ行ってやらないと。顔を見せて、話も色々聞いてやって……」

 だんだん青ざめながらも言葉をやめない彼に僕は両肩をつかんで言った。

「妙なことを妄想して落ち込むのはやめてね。僕はこの先、プライベートで彼女と会うことは絶対にしないよ。それがたとえGプロの打ち上げの二次会だったとしても」

 それは優花に注意を促されたことだった。

『雅俊さんとのこと、愛美にはちゃんと説明しておいたほうがいいわ。あの子、まだ和巳に心を(とど)めてるみたいなの。学校の後輩なら別にそれでかまわなかったんだけど、仕事仲間となると話が違ってくるから』

 亜美を預かった翌日の優花の言葉だ。

 他にも幾つか意見され、少々考えすぎじゃないのかと思わなくもなかったが、俊くんのために従うことにしたのだ。

 ギョッとしたように顔を上げた俊くんに、僕は宣言するつもりで言った。

「俊くんが同席してない場所で会うことはしない。それは亜美さんにも伝えてあるんだ」

 俊くんは手のひらを口に当てて俯いた。その様子は、優花の言い分がある程度的を得ている証拠だった。

 僕は左手を外し、彼の目に見えるように薬指を示した。

「これを見せたらね。亜美さんもさすがにビックリしてた。けどおめでとうって言ってくれたよ」

 俊くんの肩が震える。

「今さらなんだけど、あのとき言えなかったから今言わせて。ありがとう。一生大切にします。指輪も、これをくれたあなたも」

 頭が再び胸につけられる。それを片手で撫でながら僕は続けた。

「今はまだ、僕には返せるものが心しかないけれど、いつか形にして返せるように頑張りたいと思う。だからもう少し待っていてね」

 そのままじっとしていると、しばらくしてウェーブの頭が上下した。

 よかった。ここで拒否られたら目も当てられない。

 過去、真剣な告白をスパッと却下された身としては、あのときとは違うとわかっていても不安が消えないのだ。

「だからね。明日は僕と一緒に行こう」

 白川皐月の葬儀は、本来なら高山プロが仕切るところなのだが、社長、副社長が揃って事情聴取中のため、榑林の元同僚らが葬儀の手配を依頼してきたという。誠竜会との関りが明るみに出た彼女に対し、彼らはこれ以上の関与を避けたい構えで、榑林はそれに乗じて遺体を引き取り、マスコミ非公開の家族葬にすることができたのだそうだ。それにより、拓巳くんたちは本葬から出席する予定でいる。

「どうしても苦になるなら謝って、お互いの気持ちを伝え合ったらいいと思う」

 きっとそのほうが亜美さんのためになるから、と耳に囁くと、彼は再び小さく頷いたのだった。



 次の日の夕方、あらかじめ連絡し、本葬の時間を避けて葬儀場を訪ねた僕たちを、亜美を伴った榑林は控え室とは別の小さな和室に招いた。

 長い髪を横でひとつにまとめ、女性用の黒いパンツスーツで来た俊くんは、畳みに膝を揃えると、向かい合って正座する亜美と榑林の前に両手をついた。

「この度はお悔やみ申し上げます。また今回のこと、私にも原因があったことを自覚しています。亜美……いえ、愛美さんには申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げる俊くんに倣い、僕も横に並んで同じく頭を下げると、榑林が呼びかけてきた。

「どうか顔を上げてください。お二人が頭を下げるようなことは何もありません」

 目線を上げると、榑林は心底気遣う様子でこちらを見ていた。しかしその隣に正座する、お下げ髪に黒いワンピースを身につけた亜美は俯いたままだった。

「皐月さんも雅俊さんにご迷惑をかけております。どうかそれ以上はお止めください」

 榑林の言葉に俊くんは手をついたままで首を横に振った。

「私の態度が違っていれば、そもそも彼女が手を汚す必要などなかった。生きていれば、本当の目的がどこにあったのかをいつか愛美さんに伝えることが」

 俊くんがなおも続けようとすると、榑林は「お待ちください」と手で制し、自らの右側に体を捻って脇に置いてあった小さな紙袋を手に取った。そして中身を取り出すと、膝を進めてそれを俊くんの前に置いた。

「これは?」

「雅俊さんが不調と伺い、僭越ながら和巳さんから事情を聞かせていただきました。どうぞご覧になってください。お気持ちが少しは晴れるかと思います」

 高橋さんもどうぞと言われて俊くんの膝元を見ると、そこには小さな手帳が三冊、重ねて置かれていた。

 どの手帳も角が擦り切れていて、よく使い込まれていたことがわかる。

 上のひとつを手に取った俊くんは、最初のページを開いて間もなく「あっ」と小さく声を上げた。

「これは……」

 隣から覗き込んだ僕も、すぐにその理由に気がついた。

〈――年、十月、高山プロに合格〉

「日記……?」

 それは、日記と表現するには余りに簡潔な、けれども間違いなく日々の出来事を綴った記録だった。

「私も知らなかった過去の経緯が書いてあります」

「………!」

 俊くんがハッとページをめくると、冒頭の文が目についた。

〈――年、三月、みどり児童園退所→事務所の寮へ〉

「彼女は児童養護施設の出身だったのか……」

 俊くんが呟くと、榑林は「はい」と目を伏せた。

 記録は高山プロダクションに入った高校時代から始まり、レッスンやバイトの状況などを経て、やがて亜美の父親と見られる梁瀬(やなせ)(たか)(あき)――ベースのタキとの出逢いに至る。

〈横浜音楽祭の打ち上げ参加〉

〈音楽祭コンテスト入賞バンドのギタリストから連絡あり〉

 二人の出だしはタキのアプローチで始まり、徐々に仲を深め、やがて彼のプロポーズに行き着いた。しかし彼女はそれを留保し、女優の修業を積んでいく。成果は上々、社長にも期待され、A級タレントに昇格してドラマにも出始めた。しかしあと一歩というところで妊娠が発覚するのだ。

〈産婦人科受診。マネージャーに報告〉

〈中絶してC級に降格か、違約金五百万を払って退社。絶望的〉

 不安の滲み出る文言に、こちらまで胸が苦しくなる。

 悩んだ末、彼女は中絶を決意する。しかしタキは同意を拒否して再度プロポーズし、高山プロに出向いて社長に直談判する。即ち違約金を半額肩代わりし、残りはC級ホストとしてクラブで働くことで、彼女を高山プロから退(しりぞ)かせたのだ。

〈孝晃がバンドを脱退。デビュー直前だったのに。バカな人〉

 乱れる筆跡が無念さを現していて、亜美も読んだのかと思うとちょっと切ない。

 日記は二冊目に移り、いよいよ謎の核心に近づいていく。

〈孝晃、バイト先でトラブル。打撲多数。喧嘩?〉

 タキの態度に不審なものを感じた皐月は密かに状況を調べ、やがてトラブルの原因が高山社長の仕業であることを知る。皐月を欲していた彼は、違約金返済の名目でタキを店に立たせながら、その実、従業員に誠竜会の若者を送り込んで彼を脅し、諦めて逃げ出すのを狙っていた。しかしタキが屈しなかったため、脅しに暴力が混じりだしていたのだ。

 暴力団が相手と知った彼女は恐れをなし、社長の元に赴いて嘆願する。彼はタキと別れて別宅に移り、産後は子供を手放して復帰することを条件に出す。

 皐月は条件を呑んだことをタキに告げる。しかし彼は承服せず、社長に皐月の発言の取り消しを宣言してから店に出勤する。そうして深夜、『勤務中の転落事故』により病院に搬送されるのだ。

〈朋晃さんから連絡。総合病院へ〉

 その後しばらく日記は途絶え、少し行を開けて葬儀のスケジュールのようなメモ書きが続き、再び空白ののち、次のページから再開する。

〈無事に産んでみせる。社長の思い通りにはさせない〉

 記述からは、タキの死によって体調を損ねた皐月が、高山社長の世話になりながらも心は屈せず、亜美を産むことを糧にして戦おうとしてる様子が窺えた。

 やっぱりあの人は……。

 そこまで目を通したところでひとつ息を吐くと、俊くんも同じように深いため息をついた。

「皐月……紗季さんは、最初からずっと高山社長と戦っていたんですね……」

 榑林も「はい」と感慨深げに頷いた。

「早々に愛美を手放す決断をしたのも、社長と契約したためというよりは、間違っても巻き込まれないように守るためでした。だから私からの手紙を読んだあと、紗季さんは危険と承知しながらも愛美の様子に気を配りだすのです」

 俊くんを促し、次のページを開くと、そこには亜美の情報が溢れていた。

 誕生日、保育園、梁瀬家への入籍……。

 彼女自身は社長の若い愛人として、時に誠竜会の幹部に貸し出されるなど尊厳を奪われながら、逆境を踏み台に女優として実力をつけ、事務所ナンバーワン女優へとのし上がっていく。そしていつの日か自由を勝ち取り、今は連絡すら(はばか)られる娘を見守っていくことに思いを馳せる。

 希望に満ちた記述はしかし、次第に困惑が混じり出す。

〈梁瀬夫人が突然、事務所に来る。要注意〉

 それはやがて苦悩に変わり、彼女は必死に夫人を誘導、将来のバックアップを約束することでどうにか亜美のオーディション参加を回避する。

〈夫人を説得。旭ヶ丘入学へ。ひとまず安心〉

 この頃から皐月は夫人への警戒心から興信所を使いだし、かなり細部にわたって生活を把握する。しかしその努力も義父の病死によって水泡に期し、榑林が呼ばれるに至るのだ。

〈夫人から事務所に電話。高山肇が対応〉〈夫人発病。余命三ヶ月〉〈事務所が入院費拠出。愛美の処遇に介入。回避不可〉

 皐月が社長の目を盗んで娘と関わっていたことを知った高山肇は、それを脅しのネタにして皐月に関係を迫る。しかし彼女も肇の執着を利用して誘惑、支配の手を退ける。息の詰まるような駆け引きの末、彼女は引き分けに持ち込んだ。それが『柳沢亜美』誕生秘話、『高山肇次期社長が発掘した少女は、偶然にも白川皐月が里子に出した私生児だった』である。

「一時期話題になった記憶があります。こんな経緯だったんですね……」

 その話題を僕は知らなかったが、俊くんは知っていたようだ。

 榑林は頷いた。

「私が呼ばれたのがその直後になります」

 二冊目はそこで終わり、三冊目を俊くんが取り上げる。こちらは比較的新しい物のようだった。

〈五月三日(十四時)渋谷、六日(十八時)代々木スタジオ〉

 似たような文字の羅列に俊くんの手が動きを早める。しかしとあるページでその手が止まった。

〈収録中喘息トラブル。現場の機転で回避〉

「これは……愛美さんのスケジュールですか」

 二人で顔を上げると、榑林が切なげな目線で頷いた。

「はい。紗季さんは社長や高山マネージャーの目を避けながら、手を尽くして愛美のスケジュールを把握し、無茶な予定を組まれるのを防いでいたのです」

 前に戻って見返すと仕事内容にはところどころ時間変更や削除と赤ペンで書かれていて、これを見るだけで亜美への気配りがどれほどのものだったかがわかった。

 やがて記述は亜美に移籍の話が出始めるまでに到達し――。

「あっ……」

〈五月二十日、調査結果/トラブル処理はGプロのT-Sボーカル担当スタッフと判明〉

「これ、僕のこと……?」

 その先の記述の筆跡が力を帯びていく。

 彼女はすぐに追加調査を依頼して、僕と拓巳くんの仕事状況を把握する。その結果、Gプロスカウト側に情報を流して移籍を有利にさせるのだ。

〈榑林に指示。Gプロスカウトへ先に書類送付〉

 それは皐月本人が話していた通りで、けれどもあのときの突き放した感じとは違って祈るような思いが伝わってきた。

〈写真報道→注目度良好〉〈Gプロ後藤社長、条件承諾〉〈移籍決定→九月一日〉

 亜美の記録はそこで終わり、最後にこう書かれていた。

 九月七日、富士見霊園墓参。出頭予定を孝晃へ報告。

「………っ」

 僕はたまらずに歯を食い縛った。

 現実には、彼女は真に望んだ未来にあと一歩のところで命を落とすのだ。

 でも。でもこれだけのものが亜美さんに伝わるのなら、きっとあの人も報われるよね。

 隣を見ると、片手で口元を押さえながらも、手帳を見つめる潤んだ瞳からは昨日までの悲愴さが消えていた。

「悲しまないでください」

 ふいに亜美の高い声がかけられ、僕は俊くんの肩に手を添えながら頭を上げた。

「悲しむ必要なんてないです」

 こちらを向く亜美の顔は強張っていて、そこには明らかに感情が窺えた。

 押し固めた(おき)()のようにちらちらと燃えるそれは。

 怒り――?



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