脱出
亜美の髪は縦ロールにセットされ、黒いゴシック調のワンピースを身につけていた。柳沢亜美の衣装としてもあまり見たことのない姿だ。
神経を研ぎ澄ませて様子を窺ったが、他に人のいる気配はない。僕は思い切って体を滑り込ませ、小さな背中にそっと近寄った。
「亜美さん」
脅かさないように椅子の手前で膝をつき、背中をそっと叩く。それでも一瞬、ビクッと震えた彼女は、振り返った途端、口に手を当てた。
「高橋先輩……!」
よほど驚いたのか、念入りに化粧された目元がこぼれ落ちんばかりに開かれている。
「よかった、間に合って」
安心させようと笑いかけたのだが、彼女は肩を震わせて椅子から立ち上がった。
「どうして……どうして高橋先輩がここに……!」
いつもより念入りに化粧が施された顔は強張り、黒いレースのドレスと相まって別人めいて見える。その姿はどこか健全なものが欠けていて、僕は少なからぬ衝撃を受けた。
僅か数日で、こんなに様子が変わるなんて。
「迎えに来たんだよ」
さあ、と手を差しのべると彼女は首を横に振りながら一歩後退った。
僕は片膝をついて身を乗り出した。
「Gプロで頑張るんでしょう? こんなところにいちゃだめだよ」
「いいえ」
彼女の声は固かった。
「私は行けません。それよりここは危ないです。早く帰ってください」
言いながら彼女はサッと部屋の隅を見た。そこは僕が出てきたドアと対角の位置で、同じ作りのドアが設置されていた。
きっとスタッフが出入りするんだな。
危ないと言うからには、それ相応の話を知ってしまったということか。
「だったら尚更一緒に帰らないと。横澤マネージャーも待ってるよ」
少しだけ足を前へとずらすと、亜美もまたジリッと下がった。
「ごめんなさい。あの、Gプロにはもう行かれないんです。だから」
「君がどうしてGプロに来なかったのか、この先どうなるかはお母さんや榑林さんから聞いたよ」
「……っ!」
亜美は両手で口を塞ぎながら二、三歩下がり、背中を壁にぶつけて止まった。僕はゆっくりと立ち上がってから足を進めた。
「ごめんね。僕と健吾のやり取りを見て怯んじゃったんだよね? でも大丈夫。もう誰も反対してないから安心していいんだよ。さ、時間がないからおいで」
亜美は一瞬、目を見開き、そして激しく首を横に振った。
「庇ってくれなくていいです! 母が手を回してたんでしょう? 反対しているマース……蒼雅先生が邪魔だからって!」
「え……っ!」
その件は、本人に認める気はなく、立証もまだできてない。だから誰にも漏れてはいないはずだ。まして傷つくだろう亜美の耳には。
「私、あの学校の日のあと、榑林さんに移籍をやめるわけにはいかないか相談したんです。そうしたら次の日、母にもの凄く叱られました」
「………」
「蒼雅先生の事件があったのはそれから三日後で……歌謡祭の日、高山さんとあの人が廊下で先輩や先生と言い争うのを聞きました」
言いながら亜美はうなだれた。僕はハッと思い出した。
「もしかしてあのときの!」
白川皐月や高山と言い争ったあの廊下。目の端に映った白いもの。あれは亜美の衣装だったのだ。
亜美は少し顔を上げて目元を歪めた。
「蒼雅先生に言い返されてあの人、頭にきたんでしょう。早く怪我を治したいなら言動は控えるのが身のためだって、あれ、本気の声でした。だから私、これは母が仕掛けたんだってわかったんです」
娘ゆえの直感か。彼女には判別できてしまったのだ。
「だから君は……」
来られなくなったのか。
口の中でつぶやくと、亜美の目に涙が盛り上がった。
「……私のせいで蒼雅先生にはご迷惑をかけたばかりか怪我まで……! もう私にGプロへ行く資格なんてありません」
徐々に肩が震え、声に嗚咽が混じり始める。僕は遮るように首を振った。
「違うんだ。君のせいじゃないんだよ。もとはといえば僕の失敗が原因なんだ」
「失敗……?」
「そう。雅俊さん――蒼雅先生に対して、僕が不誠実な態度をしてしまったからなんだ。それが回り回ってあんなことになったんだよ。君のせいじゃない」
「……でも、そもそも私があんな風に食い下がってお願いしなければ、先輩が蒼雅先生と仲違いすることはなかったんです。そうしたらきっと」
「それは違う」
ふいに僕の後ろから声がかかり、亜美の目が再び見開かれた。
タイミングを見計らっていたのだろう。ゆっくりとした足運びで近づいてきた俊くんは、僕の脇を通りすぎると、固まって動けない亜美の目の前に立った。
「『柳沢亜美』はきっかけに過ぎない。あのままでいても、私たちは遠からず問題に直面していた。君はそのとばっちりを受けたんだ。申し訳なかった」
俊くんが頭を下げると、亜美は瞬きしてからハッと顔色を変えた。
「えっ、蒼雅先生? マースさんですか? ほんとに?」
そして不安げな眼差しを僕に向けてきた。
「本人だよ。大丈夫。話も聞いてもらったんだ」
彼女に頷いて見せると、俊くんがスッと亜美さんに顔を近づけた。
「すまないな。ここの会場責任者は私の旧知なので、バレずに入るには変装する必要があったんだ」
今度は声でわかったのか、亜美は目を見張りながらも反応した。
「本当に蒼雅先生……」
「そうだ。君に謝りたくて迎えにきたんだ。もう時間がない。とにかくここを出てくれないか」
真摯な眼差しを見つめた亜美は、けれども薄い笑みを浮かべて頭を下げた。
「ありがとうございます。でも行けません」
どうか戻ってくださいと続けた亜美に俊くんが目線を鋭くした。
「君は、自分がこの先どんな扱いを受けるのかわかっているのか」
少しだけ頭を戻した亜美は、目線をさ迷わせたあとでポツリと言った。
「はい」
「男に売られるんだぞ。その意味をわかっているとでも」
「…はい……」
いつもより色を濃くした唇が震え始め、彼女がそのことに対してある程度の説明をされているのだと知れた。
しかし俊くんは首を横に振った。
「甘い。失礼を承知で聞くが、君は男と寝たことがあるか」
「………っ」
弾かれたように顔を上げた亜美の顔がみるみるうちに朱く染まる。その初々しくも羞恥を滲ませた表情だけで、僕にすら彼女がまだ無垢であることがわかった。
俊くんが続けた。
「ないだろう。まして奪われたことなど。何を聞き知って覚悟したつもりでいるかは知らないが、そんなものは現実ではなんの役にも立たない。君にできるか? 親よりも年上の男に自ら足を広げることが。股間を舐めろと言われてすぐに従うことができるのか?」
生々しい説明に亜美は蒼白になった。
「オークションのバイヤーは上流階級の紳士だとでも言われて丸め込まれたんだろうが、奴らだって考えることはそのへんのエロ親父と変わらない。相手から強要される情事なんて辛くて惨めなだけだ」
俊くんの目元が切なげに歪んだ。
「見知らぬ男に支配され、どんな羞恥プレイにも応じる動物以下の存在――売られるというのはそういうことだ。君をかつての私のような汚れ者にはしたくない」
「――っ」
今度こそ亜美は最大限に目を見開いて俊くんを凝視した。僕はいたたまれずに彼の肩をつかんだ。
「そんな言い方はやめてください。あなたはどこも汚れてなんていない」
「そう言ってくれるのは、おまえの心が美しいからだ」
俊くんは一瞬、眩しげに僕を見てから目線を亜美に戻した。
「実際には、こんな風に言ってくれる人は滅多にいない。女性なら尚更だ。そこから這い上がるためには多くのものを犠牲にすることになるんだ。私の母が私を売ったように。そして君の母親が君を手離したように」
「………」
「君はそんな風になったらだめだ。今ならまだ引き返せる」
青ざめたまま無言でいる亜美に僕も声をかけた。
「君のお母さんは、君を自分の落ちた場所に落とさないためにわざと距離を置いていたんだそうだよ」
亜美はハッとこちらを向いた。
「榑林さんを呼んだのも、君を守らせるためだったって」
「………」
「権力に縛られて身動きできない中で、君を守る道はないかと模索しながら生きてきたそうだよ。だから亜美さんも諦めちゃだめだ」
「……だったら、どうして……っ」
唇を震わせ、怒気を露にして喘いだ亜美の肩を、白い袂から伸びた俊くんの手のひらがつかんだ。
「その質問を本人にするためにも、今はここを出て表の世界に戻るんだ」
亜美は尚も目に涙を滲ませていたが、俊くんが空いた手で腕を引くと逆らわずに体を預けてきた。
よし。まずは第一関門突破。
次は脱出だと俊くんと目線を交わし、僕たちは彼女を囲むようにして隣の衣装部屋へと戻った。
さらに入り口のドアに向かって足を踏み出したとき、俊くんが待てと僕を止めた。
「裏口へ行くには厨房の脇を抜ける必要がある。服装を改めないと」
そして亜美を上から下へと眺めた。
「君にはタレントのふりをしてもらうつもりだったが、そのゴスロリドレスでは難しいな。元の服はどこだ」
腕を取られたままの亜美は首を横に振った。
「あの、ここのスタッフが持っていってしまいました」
「そうか……もうちょっとマシなのはないかな」
言われて部屋に吊るされた衣装に目線を移すものの、多くは丈の長そうなロングドレスである。Sサイズはないのかとさらにあちこちを見回すと、とある衣装が目に留まった。
「俊くん、これは?」
ポールからハンガーを外してビニール袋ごと差し出すと、こちらを振り返った俊くんが目を見開いた。
「なるほど。悪くはない」
手早くビニール袋を外して取り出されたのは、少年用と思われる黒のフォーマル一式だった。
これなら上着を着なければ給仕係のお仕着せにも見える。
「問題は頭か……まあいい、まずは口紅を落とそう。二分で着替えられるか」
俊くんがバッグからティッシュを取って差し出すと、亜美はひとつ息を吸ってサッと手を伸ばした。
「早着替えには慣れてます」
迷いを捨てたらしい。
彼女は素早く唇を拭うと、僕の差し出したハンガーを手に取った。
「和巳。おまえは場をはずせ。隣の部屋で奥から人が来ないか見張ってろ」
「あ、はい」
僕は慌てて隣の部屋に戻り、さらに奥の部屋と繋がるドアに張りついた。
特に人が近づいてくるような気配はない。
そのまま耳を澄ませていると、まもなく俊くんの呼ぶ声が聞こえてきた。
「支度できた……あっ!」
衣装部屋に戻ると、先ほどとは様子が打って変わっていた。
「亜美さんと、……えっ?」
白シャツに黒いベストとスラックスの亜美は予想の範疇だ。縦ロールの黒髪だったのが茶色のレイヤースタイルになっているのが驚きだが、よく見るとそれは鬘で、縦ロールのヘアピースを手に持っているので見当はつく。しかしその足元にしゃがみこみ、脱ぎ散らかした着物を風呂敷の上で畳んでいるのがなぜ、給仕係の姿をした青年なのか。
「俊くん?」
こちらをチラッと見上げてきた顔は先ほどと同じ胡蝶なのだが、唇紅を落とし、ストレートの髪を後ろで束ねているので、まるで某歌劇団の男役スターのような印象だ。
へ、変幻自在……!
「待たせたな」
俊くんは風呂敷に包んだ着物一式をさらに薄手の手持ち袋に入れて立ち上がり、亜美のヘアピースも入れさせてから僕に袋を渡した。
「こんなもの一体、どこから……」
ビジネスバッグほどの大きさになった黒いナイロン袋をまじまじと見やると、俊くんがニヤリと笑った。
「着物ってやつはタオルで体型を補正するからな。変装道具を代わりに仕込んでおいたのさ」
シャツやズボンは下に着ておいたがなと付け足されて舌を巻く。
そうか。厨房を通るとわかっていたから、最初からこうするつもりで来ていたんだ。亜美に被せた鬘も本当は自分が使うつもりだったんだろう。
用意周到な姿に、多くの修羅場を潜り抜けてきた過去が窺えて複雑に思っていると、奥の部屋のほうから物音が響いてきた。
「まずい。出るぞ」
俊くんが先に立ち、亜美を真ん中にして素早く衣装部屋を出る。通路を少し戻り、裏口に繋がるという廊下を行くと、突き当たりが細い階段になっていた。
「そこを上ると地下一階の厨房前に出る。さすがに誰にも会わないわけにはいかないだろう。急ぐふりで突っ切るから遅れるなよ」
振り向いた俊くんに亜美が固い顔で頷く。僕たちは三人で固まって足早に階段を上った。
上がり口から廊下に出ると、すぐに洗面所があり、そこから続く通路が折れた先が明るく、そしてざわめいていた。
あの曲がり角の向こうが厨房か。
俊くんに従って角を曲がると、やはりそこは厨房の前で、先ほど見たような給仕青年たちが数人、忙しく出入りしていた。
「シャンパンあと三本追加です」
「取り皿まだありますか?」
「ハムとチーズの盛合せ、終わりました!」
主には二階フロアの立食担当の者たちのようだ。
その脇をすり抜けるようにして俊くんが歩いていく。俯き加減の亜美を壁側にして進んでいると、厨房から出てきた調理場の男が呼び止めてきた。
「おまえ、手が空いてるならこれを運んでくれ」
その手には、高価そうな赤ワインのボトルを入れた籠が大事そうに捧げられている。
「すみません。お客様の用事で急いでいますので別の者に」
俊くんが答えて先へ進もうとすると、男は後ろの僕に目を留めた。
「待て。おまえは地下のタレントだろう。ゲストのリクエストだ。早くしないとみんながエラい目に遭うぞ」
俊くんが苦い表情で男に対峙しようとしたが、給仕たちがチラッとこちらに目線を投げているのを見、僕は即座に黒い手提げ袋を亜美に渡して男に手を差し出した。
「わかりました」
「あとこれもな。頼んだぞ」
ソムリエナイフも上着のポケットに入れられ、肩を右横へと向かされる。押し出された先にはエレベーターが、その横並びには階段への入り口があった。
あの階段を上れば裏口に通じる通路に辿り着くんじゃないのか?
目線で俊くんを窺うと彼が小さく頷いている。僕たちは足早でそちらへと向かった。
ところが階段口に差し掛かろうとしたとき、上から聞きたくもない声が聞こえてきた。
「……ませんよ亜美なんて。それは高山さんの管轄でしょうが。それよりカジノ会場に井ノ上会長が移動するんです。こっちも手が離せないので失礼」
零史だ!
パチッと携帯を畳む音とともに複数の足音が近づいてくる。
携帯は使えないんじゃなかったのか。
思う先からパソコンか何かで彼らだけの手段を講じているのだと気づく。しかし重要なのはそこだけではなかった。
ここでバッタリしたらまずい!
同じく気づいた俊くんが、サッと亜美の腕をつかんで僕を見た。
(来い!)
急遽、方向転換した彼はエレベータに目を留め、ボタンを押した。
そうか。これなら上に行ける。
すぐに扉が開き、三人で乗り込む。急いで『閉』のボタンを押すと、階段の足音が迫ってきた。
早く、早く閉まれ!
しかしエレベータの扉は基本、低速で閉まる構造だ。ジリジリしながら(こっちへ来るな、階段を下りろ)と祈っていると、グレーのフォーマルの袖口が口を開けた扉に差しかかった。
うわっ。
咄嗟に顔を背ける。同時にパシャっと扉の閉まる音がし、エレベーターが動き出した。
間に合った……。
「――……」
亜美がくたりと胸に抱いた手提げ袋に頭をつく。
「よかったぁ……」
間一髪だったねと俊くんに目を向けると、彼は強張った顔で扉の上を凝視していた。
「しまった……!」
つられて上を見た僕もすぐ理由に気づく。
「地下専用……!」
表示されているボタンの文字はBだけで、上階へは繋がってないのだ。
「じゃカジノ会場へ……」
これでカジノ会場前の廊下あたりに出たらどうなるのかと二人を見る。
降り立つだけならイケるんじゃないかな。
亜美は給仕にしては少々小柄だが、さっきのドレスに合わせた上げ底の革靴のお陰で本来より高めの身長だ。俊くんはパッと見るだけなら胡蝶には見えないだろう。零史がいる上に引き返すよりはずっとましだ。
「大丈夫だよ。ロビーに戻る階段を探せばなんとか」
なるよと続けようとしたのだが、青ざめた俊くんに「違う」と遮られた。
「カジノ会場はもっと東側だ。こっちは」
そこまで言ったところでエレベーターが止まり、扉が開く。次いで目の前に現れた光景に思わず絶句した。
こ、ここって……!
思わず斜め前にある『閉』のボタンに目を移す。しかし俊くんの手が駄目だと言うように僕の腕を押さえた。
(今さら遅い。出るしかない)
もっともである。
僕たちは覚悟を決め、袋を抱えた亜美を背に隠すようにしてエレベーターを出た。
その空間を一言で表すとしたら『高級旅館のロビー』だろう。
天井の杭からぶら下がる、和紙をあしらった大きな吊り下げ電灯、敷き詰められた赤いカーペット。大理石の台座に置かれた豪華な生け花、その奥に見えるカウンター、革張りのソファーセットと木目調のローテーブル。
しかし僕たちの足を躊躇させたのはそういった内装ではなく、そこにたむろする数人の男たちだ。
厚みのあるガタイ、お仕着せのように揃った黒いスーツ、少しだらしなく締められたネクタイ。
明らかに裏街道を生きる雰囲気の男たちが、重厚な扉のそばにあるソファーやカウンターに散らばっていて、どうみても真嶋さんから聞かされた誠竜会の取引現場にしか見えない。
まだ零史のほうがマシだったかも!
青ざめる思いで横目に俊くんを見ると、同じく緊張を孕んだ顔が目だけで見返していた。
(このままじゃ怪しまれる。右側の廊下を目指そう)
コソリと囁かれ、どうにか頷いて返す。このまま通りすぎることができればなんとかなるかもしれない。
しかし三人でエレベーターを出てカーペットに足を進めると、彼らの内の二人がサッと立ち上がった。
うぇ、だめだ。尋問される。
せめて亜美だけでも逃がせないかと目線を泳がせると、そのうちの一人がこちらに歩み寄りながら僕を手招きした。
「酒か。ご苦労」
「えっ、……あっ」
これかっ。
僕は慌てて俊くんの前に出、ここまで両手に抱えていた赤ワインの籠を差し出した。
「どうぞ」
男は素っ気なく籠を片手でつかむと中を覗きながら言った。
「栓抜きは」
言われてソムリエナイフがポケットであることに気づく。
「失礼しました」
急いでポケットからソムリエナイフをつかんで差し出すと、受け取った男は眉をしかめた。
「これか……まあいい」
どうやら開けるのが苦手のようだ。
内心で息をつきながら頭を下げると、もう一人の男が声を発した。
「そのチビの持ってる荷物はなんだ」
袋を抱えた亜美がビクッと硬直する。
どう答えれば。
俊くんを見ると、彼はやや青ざめた顔に覚悟を決めた表情を浮かべ、亜美の少し前に出て男に向き直った。
「着物一式です」
うわっ。真っ正直に言った!
思わず目を剥きそうになるのを必死に抑えていると、俊くんの一歩手前まで来た男が首を傾げた。
「着物だぁ?」
「はい」
俊くんは亜美の袋に手を突っ込むと、風呂敷包みを取り出した。
「なんだってこんなところにそんなもん持ってきやがった」
俊くんはいかにも困っているといった顔で風呂敷の端をめくって帯を見せた。
「どなたかが入り用になったとかで、この子が地下にお届けするよう頼まれたそうなのですが、臨時で駆り出された身ですので場所がよくわかりませんで。エレベーターが下りるようだったので同乗させてもらった次第です。こちらにいらっしゃる方でないなら失礼いたしました」
彼が頭を下げると、少し身を乗り出して帯を見た男は腕を組んで思案顔になった。
さすが俊くん。すごい機転だ。
それに合わせて僕も焦った表情を作る。
「カジノのお客様のほうだったのですか? ではすぐに戻りませんと」
一礼して立ち去ろうとすると、腕を解いた男が「待て」と手を上げてからカウンターを振り返った。
「誰か、皐月さんを呼んでこい」
――えっ!
亜美がギクリと体を強張らせてその場に立ち竦む。男がこちらに顔を戻した。
「臨時ってのが気になるんでな。念のため身元を確認する。皐月さんならわかるだろう」
台詞に被るようにカウンターの男が一人、椅子から立ち上がり、横にある重厚な扉の奥へと吸い込まれていく。
やはりここは彼女が『何らかの役目』を担っている薬物の取引現場なのだ。
真嶋さんの伝言は榑林さんから伝わっているはずだが、今日に至るまで彼女から協力を匂わせるような連絡はなかったという。
俊くんを窺うと、かなりの緊張を滲ませている。黒い袋を握りしめた亜美は言うに及ばずの様子だ。
まるで診察室で検査結果を待つ患者のような気持ちで立ち尽くしていると、やがてろうたけた女性の声がカウンター脇から聞こえてきた。
「……の誰が、なんですって?」
白川皐月の声だ。
「おう皐月さん。こいつらが着物なんぞ持って下りてきたからよ。一応、面通ししてくれや」
近寄ってきた気配に思い切って顔を向けると、髪を結い、青いドレスを着た白川皐月と真っ向から目が合った。
「………っ」
美しく化粧された彼女の顔が僕とその隣を見、さらにやや下方を見て驚きの気配をまとう。
これは、少なくとも亜美はバレた。
背中から冷や汗を吹き出させていると、再び僕に顔を戻した彼女の目元がスッと細くなり、そして男に向かって頷いた。
「確かにうちの者たちだわ。そこのタレントは二年目、隣はスタッフで普段は事務所の職員、小さい子はまだ新人の付き人よ」
さすがにバラす気はないようだ。
男が「なんだそうか」といった顔をする。内心で深く息をつくと、皐月がこちらに進んで俊くんの前に立った。
「珍しいわね。どうしました」
どうやら俊くんの変装も見破ったらしい。
彼は風呂敷包みを少し持ち上げて説明した。
「フロントから着物をお届けしろと指示されました。こちらかと思って伺ったのですが、間違いでしたら申し訳ありません」
彼が軽く頭を下げると、皐月は口を閉じたあとでため息をついた。
「ああ着物ね。そういえばフロントに取り消すよう言付けておくのを忘れていたわ。無駄足をさせたわね」
庇ってくれる意思もあるようだ。
「あんたの着物なのか。なんだってそんなもの」
籠を手にした男が聞いてくるのを、彼女は手を上げて遮った。
「おたくの社長様は和服が好みと伺ったのよ。でも時間に余裕がなかったから迷ったまま出てきてしまったの」
皐月は「それはしまっていいわ」と俊くんに手を振ると、男の手元に目線を移して手を差し出した。
「籠をこちらに。榊さんのお手を煩わせるには及ばないわ。ボトルはこのカズ…ヤに開けさせますから」
僕のことらしい。
前に進み出ると、男は少しホッとしたような顔で「おう、なら頼むわ」と籠を僕の手に戻し、もとの椅子へと戻っていった。
「そこの二人も一緒に来なさい。厨房を片付けていくのよ」
ひとまずこの場から匿ってくれるということか。
指示し慣れた皐月の態度に、もう一人の男も興味が失せたように引き返していく。僕たちは彼女に率いられる形でカウンター脇の扉へと進んだ。
踏み込んだ先の内装も旅館の様相で、竹細工の花器が置かれた床の間の上には、吊り下げ灯籠に似た灯りがついていた。柔らかい橙色の光に照らされながら、僕たちは臙脂に変わったカーペットの廊下を皐月について進んだ。
やがて右側の細い通路に折れると、そこからは先は床も壁もコンクリートが剥き出しで、天井の隅には配線や空調のダクトが要り組んで設置されていた。
あんまり厨房に近づいている気がしないんだけど。
「どこへ行く気だ」
「しっ。急いで」
俊くんの質問に皐月が短く答える。その間にも皐月の足は淀みなく先へと進んでいった。
そうして辿り着いた場所は、少し広くなった空間に段ボールや木材などの不要物が置かれた、物置場に隠されたような扉の前だった。
彼女が扉を開けると、その先は狭い階段になっていた。
もしかしてこれは裏口に続く通路では。
「計画は榑林から聞いています。この非常階段を上っていけば裏口のドアに辿り着けるわ」
やっぱり。
「さあ、その籠を渡しなさい」
白い手を差し出され、僕は隣で袋を抱える亜美を見た。
このまま何も話さずに別れてしまっていいんだろうか。
「あの、皐月さん」
籠を渡しながらためらい勝ちに声をかけると、皐月は一歩下がって顎をしゃくった。
「無駄話をしている時間はないわ。捕まりたくなければ早く行ってちょうだい」
「でも」
亜美さんにかける言葉はないんですか。
言葉が喉まで出かかったとき、皐月がふいに目線を下げて亜美を見た。
「愛美」
亜美は一瞬、肩を震わせた。
「は、はい」
「この先は、今日、助けてくださった方たちのために精進しなさい」
「あの、お母さん……」
「母ではないわ」
皐月は一瞬、目を伏せた。
「その資格もない。あなたの親は梁瀬家のお二人だけよ。そして榑林があなたの叔父」
「えっ……」
皐月は目を細め、そして口元に笑みを浮かべた。
「いずれ榑林は高山プロを離れる。そうしたら彼に感謝を伝えてちょうだい」
彼女は僕と俊くんに向き直って頭を下げると、もと着た道へと歩き出した。
すると亜美が動いた。
「待って! 待ってください!」
「駄目だ!」
それを俊くんの手がつかんで止めた。
「今は駄目だ。危険に近すぎる。君も、あの人も」
「でもっ、まだ何も……!」
「みんなの協力を無駄にする気か!」
「………っ」
鋭い一喝に亜美はハッと顔色を変えた。俊くんは声音を抑えて言った。
「いつかちゃんと話を聞ける日が来る。そのためにもまずは無事にここから出ないと!」
亜美の肩から力が抜け、俊くんが腕を引く。僕は彼女の手から袋を取ってその後ろについた。
そうして僕たちは細い非常階段をひたすら上り、やがて見えてきた通路の先にある裏口へと行き着いた。
「なんとか辿り着いたな……」
俊くんの手がドアノブの鍵を回し、三人で外に出ると、夜の蒸し暑い空気がドッと押し寄せてきた。僕は喜びと安堵のあまり、すぐには言葉が出なかった。
「雅俊さん! 和巳君! こっち、こっち!」
ビルの向かい側の道路には、予定通り横澤さんが車を停めていて、こちらに身を乗り出して手を振っていた。
三人で道路を渡り、後部座席に亜美を真ん中にして乗り込むと、疲労が肩や背中にジワジワと押し寄せてきた。
車が動き出したあと、思い沈んだ様子で袋を抱えている亜美に、僕はこの先の予定を説明した。
「今日は念のため、君は真嶋さんの家に泊まるんだ。優花にはまだ君の芸能活動のことは話してないけど、僕のせいで事件に巻き込まれたと伝えてある。明日は横澤さんが迎えに来て、Gプロに案内するからね」
もう寮の手配もしてあるんだよ、と告げると亜美は少し驚き、けれども「ありがとうございます」と薄く笑みを浮かべて頭を下げた。マンションで優花に迎えられる頃には、青白かった顔にも少し血の色が戻ってきたように見えた。
翌日、横澤さんに連れられた亜美はGプロのビルに赴き、無事、社長と挨拶を交わして正式にGプロのタレントになった。
そうして新しいスタッフに迎えられ、ソロの歌手としての一歩を踏み出し――。
『女優の白川皐月、警視庁に出向後、交通事故により死亡』
その記事が紙面に載ったのはそれから一月後、高山プロダクションを追われた榑林マネージャーが、Gプロに迎えられて五日目のことだった――。




