暑気払いの夕べ
それから関内に移動すること約一時間後。
高級ホテルばりのロビーを備えた有坂ビルの二階にある、重厚かつ華麗な内装のパーティー会場で、僕と敦さんはタキシード姿の零史と対峙していた。
「敦さん。珍しいですね。あなたがこの会に顔を出すなんて」
間合いを計ってでもいたのか。
立食のテーブルを一巡し、隅に置かれた椅子に辿り着いたところで、華やかな周囲の様子を窺う間もなく声をかけられ、ワイングラスを差し出されたのだ。
ゴージャスなシャンデリアが室内を照らす中、他にも談笑するフォーマルの男女が四、五十人はいるのだが、彼の眼差しは真っ直ぐこちらに向けられ、検分するような光を放っている。どうやら僕と敦さんの関係を測りかねているようだ。
「まあ。あなた今日はここにいらしたの。相変わらずお綺麗ね」
敦さんが感心した風を装って受け答える。
確かに。シルバーグレーのタキシードに身を包み、長めの黒髪を軽くかき上げたオールバックの姿は、大人の色香と美貌、妖艶さを兼ね備えていて美しく、そして恐ろしい。
落ち着け。この人にとって、僕の目的は俊くん襲撃事件の犯人捜しであって、亜美さん奪回だとは思ってもみないはずだ。
言い聞かせても、慣れない身にフォーマル会場は落ち着かず、ついつい背中に汗が滲む。
「以前、ご案内した折りにはご趣味に合わないとのお返事だったと記憶しておりますが」
疑念も露な問いかけに、しかし敦さんは大ベテランの余裕で優雅に向き直り、上品に袂を押さえてグラスを受け取った。
「そりゃそうよ。前に一度だけ出たけど、偉そうなオジサンが多くてあまり楽しくなかったんだもの。接待係もやたらギラギラした女の子が多かったし。けど今日はこの子のたっての頼みだから、特別に連れてきてあげたの」
僕と零史の関係を知らないフリで話す彼は、ワインを一口味わうと、空いているほうの手を僕の腕に置いて濃紫の唇を得意気にカーブさせた。
「かわいいでしょう? 育ちがいいからなかなか遊ばせてもらえないのよ。そういえば、あなたとも多少、縁のあった人の子だわね」
「ほう……」
零史がチラリと僕に目線を投げる。秀麗な瞳に宿る光が愉しげだ。
「尋ねなければならない人がいるのに、周りの大人が厳しくて一人では会いに行かせてもらえないんですって。それで以前から親しくしているワタシにこっそり頼んできたってわけ」
真っ赤なウソである。
しかし「ここに来れば会えるはずだって言うのよ」と打ち明けられた零史は、面白がるように僕を見てから笑みを浮かべた。
「それはそれは。私のためにご足労をかけました。お礼に、あなたには楽しんでいただけるように手配しないといけませんね」
敦さんは目を見張った。
「えっ? あらやだ。この子の尋ね人ってあなたなの?」
口元を押さえて付け睫毛の目をパチクリさせる姿に違和感はまったくない。
さすが数々の経験を積んできた大ベテラン。役者だ……。
驚いた顔でこちらを見る敦さんに、頭を屈めて「そうです」と頷く。
しかしそこで零史は気に食わなさそうな顔になった。
「もっとも、ここで会うことになるとは思っていませんでした。今日は忙しいですから。私としては違う形で会えることを期待していたのですが」
やはり一人で店を訪ねなかったことが不満らしい。
敦さんは空にしたグラスを手近のテーブルに置き、困り顔を作って僕を見た。
「残念ね、和巳くん。ここではお話できないようよ」
「そうですか。……僕にはこれ以上のチャンスはなかったのですが」
言いながら零史に目線を投げてからサッと横に逸らし、落胆と悔しさを混ぜ込んだ表情を作る。
真嶋さんの設定、零史の好みだという『負けず嫌いの、少し背伸びした感じの少年』に添った演技だ。
といっても本当にこれで気を引けるのか不安なんだけど。
敦さんが言葉を継いだ。
「お仕事中の方と話すのは無理よ。あなたの保護者たちの目を盗むのは難しいだろうけど、今日のところはワタシに付き合いなさいな。色々積もる話もあるのよ」
「けど敦さん。僕はどうしても」
「しつこいと、大事なお話にも響いてしまうわよ?」
(ここは焦らずに間を取るのよ。大丈夫。見ていてごらんなさい)
「……はい」
目配せ交じりに腕を組まれ、悔しげに、けれども仕方ないといった表情で頷くと、零史が遮るように手を上げた。
「まあ、あなたに頼んでまで訪ねてきたのは評価できます。少しなら、彼の相手をするのもいいでしょう」
わあ、ホントだ。食いついてきた。
「あら。でも今夜はお忙しいのでしょ? あなたのお邪魔をするのは申しわけないワ」
「なに。いつもの役目をこなすだけですから」
恐縮するフリで断る敦さんを止めた零史は、しかし口の端に笑みを浮かべてこう続けた。
「ですがそう長くは話せませんので、敦さんには少々外していただきましょうか。あなたから彼を取り上げるようで恐縮ですが」
いきなり敦さんを排除か。
敦さんはすぐさま阻止にかかった。
「それはまあ、承知して来たのだけれど、相手があなたとなると取り込まれちゃいそうで心配ね。そばで待たせてもらっていいかしら」
やきもちに見せかけて、僕の身柄確保への意思を滲ませている。しかし零史もすかさず手を繰り出してきた。
「いえいえ。あなたをただ待たせるなんてとんでもありません」
端整な顔をやや緩ませながら、サッと給仕の青年を呼び止めて何やら耳打ちし出す。
それを見た敦さんも僕に囁いた。
(どうでもワタシに座を外させる気よ。どうする? もう少し引き伸ばしましょうか)
僕はチラッと腕時計を見た。時刻は午後九時半を回ろうとしている。地下組が潜入を開始する頃だ。
(いえ。大丈夫です。そのうちには第二陣も到着するはずですから)
どんな格好で来るのかは知らされてないが、俊くんが助っ人さんとともにまもなく到着するはずだ。
(そう。じゃ、頃合いをみてワタシも動くから頑張るのよ)
(はい)
さらに幾つかの言葉を交わしていると、こちらに顔を戻した零史が敦さんを青年のほうに促した。
「さあ、敦さん。彼が地下の遊び場へご案内します。楽しんできてください」
あなた好みの可愛い子もいますよ、と持ちかけられた敦さんは、濃い紫の唇に笑みを浮かべた。
「あら。遊び場へね。それは嬉しいこと。ご用が済んだら和巳もよこしてくれる?」
遊び場――即ち地下のカジノだ。
「承りました」
「きっとね? 遅かったら迎えに来ちゃうわよ」
それに気取ったような仕草で頭を下げた零史は、青年が敦さんと歩き出したところで僕に向き直った。
「……まさか君がこういった形で私に会いに来るとはね」
僕は背筋を伸ばして腹に力を入れた。
ちょっと背伸びした感じを滲ませて挑戦的に。半年前の仕打ちなど、犬に噛まれた程度でしかなかったかのように。
「ご迷惑でしたか?」
零史の目が少しだけ色を変える。
「いや、これはこれで興が乗る。まずもって君の姿が目に楽しいし」
こちらを眺める零史は余裕綽々で、警戒する様子は感じられない。舐められている身ではあたりまえだ。
でも見てろ。僕だって。
僕はちらっと自分の身なり――零史の気を引くに相応しい(と真嶋さんが自信をもって選んだ)地紋が織り込まれた鈍い光沢のあるモスグリーンのジャケットや、胸ポケットから覗くレース仕立てのハンカチ、拓巳くんから借りたエメラルドのカフスボタンを見やってから首を横に振った。
「慰めてくださらなくて結構です。容姿端麗なあなたに言われても本気に取れません。所詮、僕は平凡な容姿ですし、親にも似てませんので……」
『容姿端麗なあなた』のところを若干、強調して意味ありげに見上げると、彼は長い睫毛に縁取られた目を少しだけ見張り、愉快げに声を立てた。
「おやおや。ずいぶん殊勝なことを言うじゃないか。不思議だな。何か心境の変化でもあったか?」
その上機嫌な様子に内心で真嶋さんの読みの正しさを確信する。
よし。この調子で頑張るんだ。
ともすれば震え立ちそうになる背筋に力を入れ、真嶋さん監修の会話シミュレーションを思い出しながら、僕は少しだけ悔しさを顔に滲ませて次のセリフを口にした。
「別に。僕だって、自分で考えて行動する権利はあるんじゃないかと思ったまでです」
すると零史は興味を引かれたようにこちらを見た。
「ほう。さてはケンカでもしたか」
「ええ。あなたに教えてもらえば早く解決するかもしれないのに、何もするなの一点張りで。雅俊さんまで……」
さも悔しげに俯くと、零史が笑い混じりに言った。
「拓巳も雅俊もバカみたいに過保護だからな。自分たちが君くらいの年に何をしていたかは棚に上げっぱなしだ」
バカとはなんだ。バカとは。けど今は我慢!
僕は未だ探るような眼差しを注いでくる美貌を見返した。
「そうですよ。自立して、夜にバイトだってしていたと聞きました。店を訪ねて話を聞くどころじゃありません」
ことさら拗ねた風を装って口を尖らせると、零史はおもしろそうに笑った。
「前にも感じたが、君は優しげな見た目に反して中身は結構、負けず嫌いだね」
「そうですか? ありがとうございます。でしたら僕の株を上げるのに協力してください。あなたの聞いたセリフを言ったのは誰なんです」
勢いで続けると、彼はまあ待てと軽く手を上げた。
「せっかくのパーティーの席だ。そうせっつくものじゃない。大人として扱われたいなら礼儀は守るべきだね」
そうして通りかかった給仕を止め、盆上の飲み物の中からグラスを取り上げる横顔に疑念の色はなく、僕はこの作戦を考えた真嶋さんの底力を見た気がした。
『興が乗れば、彼は君を焦らそうとするよ。つまり時間が稼げるというわけ』
そう。今回はそれが僕の勝利に繋がるのだ。
こちらを向いた零史がグラスを差し出してきた。
「私は子供扱いしないよ。さあ乾杯しよう。君の行動力と勇気に」
お酒か。
一瞬、ためらいがよぎる。けれども彫りの深い目元から放たれる視線に気づいて心を決めた。
試している。僕を。まだ油断はできない。
「ありがとうございます」
手に取ったグラスは逆三角形の浅いカクテルグラスで、中には綺麗なライトブルーの液体が入っている。
よかった。たいした量じゃないや。
自慢ではないが、お酒にはあまり強くない。
毎年の正月、真嶋家でお屠蘇を飲んでは酒豪の血を継ぐ優花に笑われている身なのだ。
促されて零史のグラスに縁をカチッと合わせ、上澄みを一口だけ含んでみる。
あ。甘酸っぱくて美味しい。
ホッとして飲み込むと、零史が笑い声を立てた。
「まったく君は色々な表情をするね。そんなに可愛らしく飲まれては困る」
子供扱いしたくなるじゃないかと笑われ、僕はクッと顔を上げてからグラスを煽った。
爽やかな味が喉を通りすぎる。アルコールの味はするが特に強くはなさそうだ。
これくらいなら僕だって。
「これでよろしいですか」
空のグラスを目の前にかざすと、零史はおやと目を見開き、満足げに頷いた。
「そう。乾杯は飲み干すものだ。さ、では今度は味を楽しむものを選ぼうか」
彼が再び振り返った先では先ほどの青年がそのまま控えている。どうやら指示されて待っていたらしい。
「これも比較的飲みやすいから、初心者の君にはいいんじゃないかな?」
クックッと笑いながら差し出されたのは、なるほど、普通のワイングラスより一回りほど小さめの、よく透き通った赤い液体だ。
「さ、舐めるのはマナー違反だ。せめて飲んでくれ」
笑いながらクイッと傾ける零史のグラスは一気に半分になり、僕は赤面しながらグラスに口をつけて中身を流し込んだ。
甘く、そしてやや渋味のある液体が喉を通過する。それはしかし、辿り着いた胃の底でカッと燃え上がった。
――っ、なんだっ?
思わず胸の下を押さえる。すると同じくグラスを手にした零史が残った液体をまじまじと見つめた。
「……キール、じゃないな?」
これはなんだとまだそばにいる青年を振り返る。
まずい。これ相当強い。なんかメチャクチャ熱いんだけど。
どこが初心者向けなんだと内心で罵っていると、こちらに顔を戻した零史が苦笑した。
「すまないね。どうやらイタリアのデザートワインと間違えてしまったようだ。アルコールが二十パーセントではさすがに厳しかろう」
二十? 五パーでも真っ赤になるのに二十パーって。
聞いただけでなんだか全身が火照ってきた気がする。
零史は再び青年を呼んで何事か指示をし、またこちらに戻るとおもむろに僕の肩を後ろから支えた。
………っ。
肩に伝わる手のひらの熱が理性を侵食する。
骨ばった指先。俊くんより大きな手のひら、高い体温――。
バカッ、思い出すな! ここで取り乱したら負けるんだぞ!
必死の思いで平静を装い、体に力を込める。しかしそのせいでさらに体温が上昇し、思考が鈍ってきた。
しっかりしろ。まだフラフラするわけじゃない。
「別室を用意するから少し休むといい。スタッフに水を持たせよう」
顔に出始めているのだろう。周囲のざわめきの中を急かすように壁際に誘導され、入り口のドアを目の前にしてふと自分の役割に思い至る。
そうだ。引き留めてないと。別室なんて連れられたら果たせないじゃないか。
「ここで…大丈夫です。それよりさっきの話を」
「何を言ってるんだ」
零史が絵筆で描かれたような美しい眉をひそめた。
「こんなに頬が赤くなって。早めに休まないと、もっと回ってしまうぞ」
顔がグッと近寄せられる。
「大人しく待っていなさい。仕事に一段落つけてから介抱してやろう」
耳元に吹き込まれた声音がどこか色を帯び、笑みを漏らす横顔に禍々しい影が差す。瞬間、脳裏に嫌な想像が生まれた。
まさか。それを狙ってわざと。
思わず横顔を凝視すると、零史が唇の端を吊り上げた。
「あわよくば、かな。最初のカクテルも実はそこそこ強くてね。こんなに早く酔わせる気はなかったが、まあチャンスは逃さない主義だ」
「………っ」
さっきの会話。あれはカクテルを一気に飲ませるための挑発だったんだ。
襲撃事件の依頼人を聞き出すという立場上、僕はある程度応じざるを得ない。そこを利用されたのだ。
くそ。しっかりしろ。たいして飲んじゃいないんだ。平気なふりをすればいいだけじゃないか。
しかし祐さんなら中学生時代でも余裕だっただろうことが、僕には難しいようで、今すぐ涼しい顔で会話を続けることはできそうになかった。
「お客様。さ、こちらへどうぞ」
先ほどとは別の青年に腕を取られ、外そうとして身を捩ったがびくともしない。
まずい。自分で感じてる以上に回っているのかも。
「いえ。ほんとに大丈夫、ですから。それよりも」
食い下がって続けると、零史が笑いながら片手を上げた。
「強情だな。なんならお姫さま抱っこで運ばせるが」
「冗談は……っ」
まずいまずい。このままじゃ連れていかれる。かといって騒ぎ立てて不用意に目立つのもまずい。
頭の中で必死に対処法を考えていたそのとき。
「失礼します、総店長。あの、先ほどこちらに」
後ろから給仕の青年たちより若い男が駆け寄り、零史に何やら説明し出した。するとそれまで余裕しか見せなかった顔が焦りを帯びた。
「――の会長がここへ? なんだって突然……」
会長?
言いながら零史は僕をつかむ青年に手振りで早く来いと示し、ドアに向かって歩き出そうとした。しかし二歩と進まないうちに向こう側からドアが開かれ、ダークブラウンの三つ揃いを着た紳士が着物姿の女性を従えて姿を現した。
「おお、盛況だな。なかなかのものじゃないか」
零史がその場ですぐに姿勢を正して頭を下げる。
「ようこそいらっしゃいました、井ノ上様。歓迎いたします」
うやうやしく挨拶されたのは、どういった立場かよくわからない人物だった。
ヤクザの親分、じゃないよね?
そんな感想を抱いたのにはわけがある。
六十は越えているだろう中肉中背の紳士は、いたって人の良さそうな顔つきで立っているのだが、隣に並ぶ、銀色のハンドバッグを手にした着物姿の女性がけっこうな迫力だったからだ。
「これはまた。今日は美しい方をお連れですね」
どうやら零史も面識がないらしい。
三十には届いていないだろうか。零史を見返す細面は、スッと引かれた細い眉、黒いアイラインを入れた切れ長の瞳、薄めの紅い唇などかなりキリリとした印象だ。
漆黒のまっすぐな髪は、前髪のひと房だけ片側に垂らし、あとはシンプルに後ろへと結い上げていて、銀杏型をした鼈甲の簪がひとつだけ刺してあるのが、豪華な宝石の髪留めや華やいだコサージュが多い女性客の中でかえって目を引いている。身に纏う着物は黒い裾が上に向かって徐々に白になるグラデーションで、膝の位置には二羽の鶴が描かれている。帯は控えめに銀、しかし真ん中に留めた大きなサファイアの帯留めが、格の高さを見せつけている。その隙のない立ち姿には研ぎ澄まされたような緊張感があり、任侠映画に見る極道の姐さんと言っても遜色ない雰囲気だ。
女性のほうだけがその道の関係者とか。いやでも、ホンモノは一見、柔和な好人物に見えたりするって言うよね。
このヒト、そうなのかなと男性に目線を移すと、こちらを見る少し下がりぎみの目が見開かれた。
「和巳君じゃないか。どうした。顔が真っ赤だ」
ええっ! 誰――っ⁉
僕の驚きをよそに彼はスタスタとこちらに歩み寄ると、腕をつかむ青年を払って僕の頬に手を当てた。
「駄目だろう、こんなに飲ませては。いくら無礼講といっても、まだ飲み方を知らない若者は年長者が導くものだよ」
そうじゃないかね君、と言われて零史が背筋を伸ばす。
「申し訳ありません。当方の手違いで間違ったグラスを渡してしまいました。ところでその、彼は総司様とはどういったご関係なのでしょう」
零史の言葉が耳を通過し、下の二文字が脳裏に引っかかる。
総司。ソウジ。――井ノ上総司!
そうだ。助っ人さんの名前! っていうかそれ、祐さんの伯父さんの名前じゃん!
僕の表情に気づいた彼は、頬から手を離しながら目を細めて笑った。
――〈T-ショック〉のユージは隠れ御曹子。
その噂の真相は大富豪、井ノ上財閥会長との繋がりである。息子のいない総司会長から、祐さんはずっとラブコールを送られ続けているのだ。
昔、大変お世話になったとかで、小さい頃はお正月になると、拓巳くんと真嶋さんに連れられて鎌倉の井ノ上家に挨拶に行ったものだ。僕が八歳のときに先代の会長、つまり祐さんのお祖父さんが亡くなったので、その後の挨拶は大人たちだけになったが、先代のときに同席していた総司さんは僕を覚えていてくれたのだ。
そうか。もっと背が高い印象だったからわからなかったんだ……ってちょっとマテ。
そうなると導き出される答えがある。
だったら彼が連れている、この極道のような女性は……?
『ソウジさんには雅俊を伴ってもらおう』
……まさか。
彼の隣をおそるおそる横目で見やると、彼女は変わらず鋭い眼差しで零史を見ている。これが地顔かと思ったが、見方を変えれば睨んでいると取れないか。
この顔がもし……だったら。
輪郭が重なり、眉の位置と鼻の形が一致する。途端、別人にしか見えなかった細面の奥に、怒っている俊くんの素顔が浮かび上がった。
うわっ。本人……!
途端、心拍数が跳ね上がり、極力そちらを見ないように息を吐く。
そういえば背も同じくらいだ。
ますます顔が火照ってきて焦っていると、俊くんと思われる女性が後ろに下がった青年に顔を向けた。
「あんた。なにしてはりますの。はよ水をお持ちしてさしあげなあきまへんやろ」
げ、芸者さん設定⁉
高めの声音を使った見事な京言葉である。これを見破るのはいかな零史といえども難しかろう。
案の定、気づかぬ様子の零史は即座に手振りで指示をし、青年は慌ててその場から立ち去った。
総司さんと一緒でなかったら、僕もまったくわからなかった……。
パートナーとして恥ずかしい限りである。
「もしや花柳界の方ですか」
零史が質問を重ねると、着物の女性――もとい俊くんはスッと口をつぐみ、代わりのように総司さんが答えた。
「胡蝶はね。昔は座敷にも出ていたが、今は芸事に専念していてその道では知られた人なのだよ」
周囲から「ほう」と声が漏れる。
昔、座敷で今は芸事の道。――確かに。
総司さんは笑みを浮かべて僕に目線を合わせると、肩に手を置いてから再び零史に顔を向けた。
「そして彼は甥の親戚に連なる子……まあ、ややこしい説明を省けば私の遠縁だな」
「総司様のご親戚」
零史がやや顔色を変え、周囲からざわめきが上がる。僕はちょっとだけ後ろめたくなった。
祐さんの従兄、真嶋さんの養い子の息子が僕。
今度はザックリしすぎてませんか……?
冷や汗をかく思いで聞いていると、元芸者の皮を被った俊くんが総司さんに話しかけた。
「旦那様。このお人はどちらかで休ませていただいたほうがようおへんやろか」
「おお、そうだな。私の目の届くところにいて大事があったのでは甥にどんな文句を言われるかわからん。和巳君。君はしばらく休ませてもらいなさい。今日は誰と来たんだね?」
これは同伴者の敦さんがいないことへの質問だろう。
「あの、来たのは真嶋さんのお師匠様となんですが、こちらの店長にお話しがありまして、その際に……」
残りの経緯を話すと、胡蝶の名を借りた俊くんが眉根を寄せて零史を見た。
「あきまへんな。こないなお若い人を同伴の方から離されては。あまつさえ飲み物を間違ごうてお渡ししはるて言語道断でっしゃろ」
ほ、ほんとーに俊くんだよね?
「………」
零史が難しい顔で黙り込む。そこに先ほど下がった青年が水のグラスを運んできて、僕は受け取って半分ほど流し込んだ。
よく冷えた液体が喉に心地よく、体の火照りが鎮まっていく。
残りも飲み干して人心地つくと、俊くんもとい胡蝶姐さんが再び口を開いた。
「廊下の隅に長椅子が置いてありましたえ。少し休まれたらよろし。心配やし、うちがお連れします」
「あの、でも」
零史から離れていいのかと顔を見ると、彼女は叱るような眼差しで僕を見据えた。
うっ。コワい。
「ひとまずお下がりやす。用がおありなら、シャンとなさってからでなあきまへん」
切れ長に化粧された目が強い光を放つ。
どうやら引っ込むべきらしい。
「少し火照りが冷めたら同伴の先生の元へお連れしますよって」
「いえ、お待ちください」
零史が割って入った。
「ゲストの方にそのような。休憩場所がございますのでスタッフに案内させましょう」
「いいえ」
青年に合図をしかけた零史を胡蝶の高い声音が止めた。
「声かけな、水も出でこんような素人に旦那様のお身内を任せられへん。それともあんた、自信ありますの?」
くるりと振り向かれた青年が一瞬にして青ざめる。それを唇の端で笑った彼女は「ほな旦那様」と頭を下げ、零史を見た。
「あんたさんも責任者なら、せめて旦那様にご不自由おかけせえへんよう、おきばりやし」
そうして一瞬、目を光らせた零史を無視してドアに近寄ると、慌ててドアを開ける係の青年には目もくれずに廊下に向かって呼びかけた。
「向井はん。来とくれやす」
えっ、と思う間もなくダークスーツの向井が姿を現す。
「お呼びですか」
ここにいたのか。
「お仕事どす。旦那様を頼みましたえ」
「了解です」
「さ、あんたさんはこちらへ」
彼女と入れ違いに向井がこちらに歩み寄る。すれ違う一瞬、彼の口の端が愉快げに笑みを浮かべるのが見えた。
その間、横目に映る零史は何かを言いたげにこちらを見ていたが、結局その場ではそれ以上、声を発することはなかった。