亜美の行方
「んまあぁ……っ。この子が拓巳くんの」
光沢のある紫の着物を着た年配の女性――に見えるその人に、感慨深げに見上げられ、僕は内心で怯みながらも神妙な顔で挨拶した。
「初めまして、高橋和巳です。この度はご協力ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」
丁寧に一礼してから付き人モードのスマイルで向き合うと、目を見開いたその人は、メッシュの入ったおかっぱ頭をひと振りしてフニャッと相好を崩した。
「まあ~、なんて物腰が柔らかいの。拓巳くんの面影を宿しながらも系統の違うイケメン……しかも立ってるだけで人を和ませるこのオーラ! さすが伝説の〈ブラックキャッパー〉の息子、この子は天性のホストよっ!」
業界に入ればナンバーワンは間違いなしなのにぃぃ、と身を捩りながら分厚いつけ睫毛の目に顔を覗かれて、リアクションに悩んでいると、隣から真嶋さんの冷静な声が飛んだ。
「敦さん。本気で言ったなら今夜の話はなかったことにします」
敦さんと呼ばれたその人は慌てて姿勢を直した。
「い、いやぁね。感想よ。ただの感想。本気で勧めたりしないわよ。でもその、ちょこっとだけ私の行きつけの店でバイトしてくれたら、ご祝儀を三倍弾んで持……イエ」
真嶋さんの気配から温度が下がるのを察した彼は、着物で背筋の伸びた背中を器用に丸めて押し黙った。
うーん。これが美容界のレジェンド、ヘアスタイリスト『アツシ』。
本名、黒部敦。御年五十五歳(自称)。その昔は男性だった気がするけど、今ではすっかりピカピカの女性……(自叙伝より抜粋)。
というのが僕の手に入った事前情報だ。
この人が、今やカリスマスタイリストの一人に名を連ねる真嶋さんを育てたお師匠にして、拓巳くんにモデルの道を開いた恩人だという。
この、常識と健全を絵に描いたような真嶋さんを育てたのが、まさか美形ホストを愛でることウン十年の歴史を持つ〈お姉マン〉の元祖だったとは。
色々意外すぎてビックリだ……。
僕の動揺を察したか、熱い視線を送ってくる敦さんに対して真嶋さんが苦言を呈した。
「人一人の命運がかかってます。相手は手強いので、くれぐれも余計な妄想に気を取られないようお願いします」
「わかってるわよ。零史くんを釘付けにすればいいんでしょ? ホントよっちゃんは変わらないわねぇ……」
「その領域に関しては変わりたくありません」
さ、乗ってくださいと黒塗りベンツの後部座席を示されてハッと気を引き締める。
そうだ。まごついている場合じゃない。移籍契約の日まであと二日。この人と僕の手に亜美さんの未来がかかってるんだ。
敦さんに続いて後部座席に乗り込みながら、僕はここまでの出来事を反芻した。
『高山プロは、裏で組織的な犯罪にかかわっています』
あの古い空き家の畳部屋で、榑林を囲むようにして座り直してから、最初に説明されたのがそれだった。
「それは会社ぐるみでってことか?」
隣に座った向井の質問に頷いてから、彼は正面に座る僕や俊くん、拓巳くんを見た。
「皐月さん……紗季さんは以前から何かの役目を担わされていて、だから愛美を巻き込まないために距離を取るしかなかったんです」
「何かってなんだよ」
「それは……」
突っ込む向井に榑林が顔を曇らせると、拓巳くんの隣に正座した真嶋さんが静かに言った。
「高山プロが懇意にする有坂氏の支援母体、誠竜会の麻薬取引の中での役割ですね?」
「えっ!」
「………っ」
向井が声を上げ、榑林が弾かれたように顔を上げる。真嶋さんは冷静な眼差しを向けた。
「以前から警視庁組織対策五課は動いています。裏社会では知られているので」
「そっ……」
「ただ、警視庁は今、神奈川県警と折り合いが悪い。だから逮捕に至る道筋がなかなか得られないのだそうです」
「真嶋さん。あ、あなたは一体……」
榑林と向井が恐れの入り交じった表情を浮かべると、真嶋さんはうっすらと微笑んだ。
「別に。僕はどこにでもいる平凡な美容師ですよ。ただちょっと、前に知り合った人たちと今も交流があるだけです」
ウソをつけ。こんな美容師がホイホイいるわけあるか……。
声なき声が僕の両隣から吹き上がり、向こう隣の祐さんでさえ微妙な顔をした。しかしそれらを無視して彼は続けた。
「まあそんなことはどうでもよろしい。話を進めましょう。白川皐月――ここでは紗季さんと言いましょうか。彼女の置かれた立場をあなたは打ち明けられなかった。けれど何かの危険があるのを感じた。それでも転職までして要請に従ったのはなぜです」
「私には、紗季さんに大きな負債があったからです」
「負債?」
「愛美の養育に関して、重大な失敗を犯したんです」
榑林は弁護士に状況を問われた依頼者のような顔で説明しだした。
「事件当時、父の再婚相手と折り合いが悪かった兄は、家を出てアパートで暮らしていましたので、そこでの二人に何があったかは、まだ高校生だった私にはわかりません。けれど兄は私にはっきりと、彼女の妊娠は自分の責任であり、いずれ一緒になるつもりだと言いました」
それはコースケさんの話とも一致している。
「兄が亡くなってから三ヶ月後に愛美が生まれたのですが、紗季さんは手放すと決めていて、二週間後に市内の児童福祉施設へと移されました。それが不憫で、私は学生ボランティアを装って時折施設に通いました」
榑林はそこで言葉を切ると、ひとつ息を吐き出した。
「私も義母との折り合いが悪く、大学入学をきっかけに家を出ました。そのとき父に愛美のことを伝えましたが、義母に遠慮してか親身な反応ではありませんでした。そのことで口論になり、実家とは疎遠になりました」
そうして三年が過ぎましたと榑林は目を伏せた。
「紗季さんは芸名を皐月に変えてブレイクし、人気ドラマの常連女優になりつつありました。私はファンレターを装って彼女に手紙を送り、愛美の成長を伝えました。紗季さんは、自分と彼女の関係はけして周囲に知られてはいけないと釘を刺してきました。けれども施設には愛美宛に匿名で衣類や文具が届くようになりました。おそらく紗季さんだろうと思います」
向井が驚いたように顔を向け、真嶋さんが制するように軽く手を上げた。
「……それで?」
「施設の環境は手薄で、私は愛美を引き取りたいと考えるようになりました。しかし就活が難航し、また愛美も体が弱いようで二の足を踏んでいました。そんな鬱屈もあって、久しぶりに実家に寄ったとき、つい愛美の話を蒸し返して言い争ったあげく、帰りがけに愛美の母親が女優、白川皐月であることを言ってしまいました」
榑林は痛恨の表情で額に手を当てた。
「そのとき、私には事の重大性がわかっていませんでした。だからその後まもなく義母から愛美を引き取るとの連絡を受けたとき、その豹変ぶりに呆れはしたものの、肩の荷が降りたようにも感じました」
「柳沢亜美の里親は、おまえの親たちなのか!」
向井が驚く。僕は亜美が学校に来たときに『祖父母の養子になってたみたいなんです』と言っていたことを思い出した。
あれはこういうことだったのだ。
榑林は苦悩の面持ちで頷いた。
「愛美を実子として育てるから、梁瀬の相続を放棄してくれと言われたときは腹が立ちましたが、一方で私が実家と縁を切れば、子供に恵まれなかった義母が愛美を大切にするだろうとも思いました。だから九年後、紗季さんから連絡が来たときは、まさか迷惑がかかっていたとは知らずに驚きました」
「白川皐月に迷惑?」
意外そうに訊ねた俊くんに、榑林は俯きがちに答えた。
「愛美を引き取った五年後、父がリストラで減給になり、義母は紗季さんに連絡して養育費を無心していたようなのです」
「娘をてこに金を引き出していたのか」
「はい。しかし問題だったのは金銭のことではなく、義母の取っていたスタンスでした。彼女にとっての愛美は自分の養女であり、かつ女優、白川皐月の娘だったのです」
榑林は嘆息した。
「義母は芸能界に憧れていたようで、愛美を児童劇団に入団させ、ダンスや歌などを習わせていたようです。かなり筋がよく、喘息がなければとっくにオーディションを受けさせていただろうとのことでした」
「あ。だから子タレの基礎は出来上がっていたのか」
拓巳くんの声にみんなも頷く。けれども榑林は表情を陰らせた。
「しかしそれは事務所の秘密に関わり、抜け出せずにいた紗季さんにとって、同じ目に遭う可能性を秘めた危険行為でした。けれども理由を明らかにして協力を求めるには、義母は頼りない性格でした。彼女は高山親子に嗅ぎ付けられるのを防ぎたい一心で、言われるままの養育費を振り込み、お忍びで梁瀬の家を訪ねては義母の相手をし、迂闊な行動に出ないよう誘導しました。その甲斐あって、愛美をガードの固い旭ヶ丘学園の中等部に入学させることに成功します」
「オーディションなどから遠ざけるためですね?」
真嶋さんが確認し、榑林は頷いた。
「あの学校は在学中の芸能界入りは認めてないのだそうで。音楽専科があることを理由に習い事をやめさせ、部活動を勧めて芸能界から遠ざける……うまくいったかのように見えましたが、結局は父が急死したことで、先行きの不安にかられた義母が事務所に連絡してしまい、以前から紗季さんを狙っていた高山肇に嗅ぎ付けられて水泡に期しました」
やがて義母も癌を発症して愛美が残されました、と榑林はうなだれた。
「高山肇は紗季さんに愛美を引き取らせ、タレント候補という名の人質にして、紗季さんを意のままにしようと目論みました。そこで紗季さんは一計を案じ、密かに私に協力を求めたのです」
「亜美さんを守らせるためですか」
「そうです。B級以下に落とされるのを防ぎ、価値を高めて売りに出させる……高山肇に人質の価値なしと思わせるために、人前では徹底して愛美を厄介者扱いし、毛嫌いする振りをして遠ざけながら、一刻も早く移籍金を稼げるタレントになれるようにと、ありとあらゆる伝手を使って質のいい仕事を私に取らせました。そうして二年を過ごし、目的まであと数歩の距離にきたのがこれまでの経緯です」
「………」
まさしく綱渡りのような駆引きの日々に、ようやく終止符が打たれようとしたところだったのだ。
それなのに――。
一同が声もなくその事実を受け止めると、榑林は丸まっていた背筋を伸ばして畳に手をついた。
「紗季さんは、自身が不遇に育ったせいで他人を信じられません。加えて自分に関わると不幸になると考えているので、普段も素っ気ない態度を崩しませんが、できる限りの手を尽くして愛美を守ろうとしてきました」
紗季さんの罪ではありません、と彼は目を伏せた。
「あれほど知られてはいけないと戒められながら、身勝手な心情で安易に両親に明かしてしまった私のせいです。紗季さんはその結果を背負わされた被害者なんです。だから雅俊さんの事件を聞いたとき、それが愛美のために打った手だと察しながら、阻むことも、みなさんに打ち明けることもできませんでした……」
申し訳ありませんでしたと彼が頭を下げると、室内に重苦しい沈黙が落ちた。
そんな経緯で彼女は中等部にいたのか……。
同情と、けれど大切な人を狙われた憤り。
相反する感情がせめぎ合う中で浮かぶのは、そうまでして実の娘を遠ざけねばならなかった彼女の『役目』だ。
連絡役? もっと深い立場なのか。
それを探るためなのかどうか。真嶋さんが質問を変えた。
「そのB級というのは何です。高山プロダクションのシステムのようですが」
「タレントが進むコースです」
榑林は、今度はためらうことなく答えた。
「AからCまでありますが、表の顔はA級で、売れ筋のタレントを指します。他所の事務所に売って移籍金を稼ぐタイプと、事務所の看板として残すタイプに別れます」
つまり白川皐月は残った人で、不幸にも高山肇に捕まってしまった亜美を、売り出すタイプに仕立てて解放しようとしたわけだ。
「Bは半々、Cは完全に裏――つまり非合法の店で稼ぐ、誠竜会の管轄に入るタレントたちです」
「亜美さんは、Cに落ちると言っていましたね。具体的にはどうなるんです」
榑林の顔が陰った。
「タレントが派遣されるのは大抵、有坂剛の持ちビルに入った店です。構造はどれも似通っていて、上階が公の高級クラブなど合法の社交場、一階がそれよりは敷居の低いレストランバーなど。そして地下が非合法のカジノや上流の趣味人が集う会員制クラブになります。B級の上ランクはホステスやホストといった接待係、下ランクだと給仕に回されます。Cは……」
榑林がためらうと、俊くんが続きを引き取るように言った。
「地下の賞品になるわけか」
「………」
榑林が無言で頷く。
「つまり趣味人どものサロンに出されて、一夜いくらで夜を買われるわけだ」
榑林がさらに俯くと、拓巳くんが「どこにでもあるもんだな」と吐き捨てた。
真嶋さんが質問を続けた。
「亜美さんはいつ、どこに出されることになるかわかりますか」
榑林は思い出すように目を閉じ、そして真嶋さんを見上げた。
「八月の末日は夏の会合が横浜で開かれるはずです。おそらくそれに間に合わせるのではないかと」
月末――あと四日後だ。
「夏の会合とは?」
「上階で財界人や著名人を集めたパーティーが催され、地下のカジノにはおそらく誠竜会に関わる商人たちが集います。大抵、同時に地下クラブの会員向けにオークションが開かれます。愛美は容姿に特徴がありますから、募集から三日もあれば人は集まるでしょう」
「なるほど」
真嶋さんが頷き、俊くんや拓巳くんが納得の表情で苦虫を潰す。僕と向井にはその意味がわからない。
「柳沢亜美って、そんなに美人だったっけ?」
俺、アイドルグループの子ってみんな同じ顔に見えるんだけど、と頭を掻く向井に拓巳くんがクルッと顔を向けた。
「同感だ。だが子タレはちょっと違う。あれはロリコン野郎には垂涎のご馳走になるだろうさ」
「………!」
そういうことか。
過去の経緯による不快感からだろう。睨む勢いで見つめる拓巳くんに、向井はパッと手をかざして声を上げた。
「わかった。よくわかったから目に力を込めるのはやめてくれよっ」
余波を食らった榑林も隣で痛そうに目元を覆っている。
「その日までは、彼女の身に危険はないと考えても大丈夫ですか」
真嶋さんが割って入ると、榑林は命拾いしたような表情で顔を向けた。
「はい。……といっても、私は紗季さんの手でそちらの仕事には一切関わらないようにされていたので、基礎知識しかないのですが」
「おまえもたいして信用されてなかったってことか」
向井が鼻白むと、榑林はすぐに首を横に振った。
「違うよ。関わらせたら外に出せなくなるからだよ。多分、愛美の移籍が成功したら、僕にあとを追わせて叔父の名乗りを上げさせたいんだと思う」
皐月さんは僕が実家と疎遠になった経緯を気にしていたから、と続けた榑林はどこか遠い目をした。
「彼女に迷惑をかけた使えない下っ端として馘首にするんだ。間違っても会社の内部事情を知ってるなんて思わせないように」
自分はどんな悪評が立とうとも構わずに、と彼は切なく微笑んだ。
向井はしばらく榑林を凝視し、そして口を閉じた。
真嶋さんが膝をついて立ち上がった。
「じゃ、猶予は三日ですね? いいでしょう。それまでに手を打ちます。榑林さん、あなたはこのまま仕事に戻り、できれば白川皐月さんに話をつけてください」
榑林は戸惑ったように彼を見上げた。
「あ、あの、話とは?」
真嶋さんは微笑んだ。
「夏の会合とやらの日、僕たちは愛美さんを救出するつもりです。少しでも気があるのなら、あなたももう一度だけ頑張ってみないかと」
そうして榑林をその場に残すと、彼は僕たちを促して場所を僕の自宅に移した。
そこで真嶋さんは「ちょっとお茶でもしててね」と、祐さんを伴って隣の自宅に籠り、約三十分後にはこちらのリビングのソファーに座って僕が淹れたコーヒーを飲んでいた。
「なあ真嶋さん。朋晃にあんなこと言っちゃって大丈夫だったんスか?」
はす向かいの向井がコーヒーのおかわりを啜りながら不安げに訊ねると、顔を上げた真嶋さんは一人掛けに座る祐さんに目配せし、シャツのポケットからメモ用紙を取り出して向井に差し出した。
「夏の会合とやらの場所。関内にある例の有坂ビルだよ」
「えっ、マジ⁉ 仕事早っ!」
向井が驚いてメモを読む。すると藺草マットの床にダラリと直座りした拓巳くんが質問した。
「関内の有坂ビルって、荒木とヤクザ男の後ろに写ってたあの建物か」
「そう。高橋要の代理で零史がクラブを管理しているビル。あそこはすべてが会員制で、二階が社交クラブ、一階が高級クラブやホストクラブ、そして地下にはカジノとオークションルームがあるんだ」
サラッと内部構造を明かされて、さすがに向井が仰天した。
「な……真嶋さん、あんた一体、ナニモン……っ?」
特捜部の調査員か、とのつぶやきに真嶋さんが謎めいた笑みで応える。僕は並んで座る俊くんとともに隣の真嶋さんを横目で見た。
きっとあれだ。真嶋さん懇意の……イヤ、もはや言うまい。
「夏の会合というのは、財界人が言うところの『暑気払いの夕べ』のことだと思う。結構な顔触れが招待に応じるので、チケット購入者が引きも切らないとか」
「金ヅルっすね。どのくらいの人数が参加するんですか?」
「各階はそんなに広いフロアじゃないけど、当日は全館を使用するらしいから、総勢で二百人近い人が集まるはずだよ。それを隠れ蓑にして、地下では限られた招待者がカジノやオークションを楽しみ、さらにそれをダミーにして麻薬取引が行われるわけ」
具体的な情報に一同が沈黙する。
そんな危険なところに亜美さんが連れられていくのか。
にわかに焦りと不安を覚えると、同じ気持ちになったのか、拓巳くんが上体を起こして座り直した。
「売られる前に捕獲しないとまずいな」
真嶋さんが訊ねた。
「拓巳。さっきの言葉、本気に取っていいんだよね?」
亜美さんを助けないと一生、悔いが残るって言葉だよと補足され、拓巳くんが「ああ」と頷く。
「和巳も同じ気持ちかい?」
「はい」と続いた僕に頷いてから、彼は隣の俊くんに少し気がかりそうな目線を向けた。
「大丈夫だ。責任は果たす。柳沢亜美を説得するのはおれだ」
察した俊くんが軽く手を上げる。それを見た真嶋さんは、祐さんとは目線を交わすだけで確認し、じゃあねと軽く息を吸うと一気に言った。
「和巳。君を囮にする。協力な助っ人を頼むから、当日は着飾って零史を足止めしなさい」
「えっ!」
「彼は接待とスタッフ管理の総責任者で、不審者の監視役を担っているんだ。幸い、君は彼に訪ねてくるよう誘われている。そこを利用させてもらおう。零史の気を散らして時間を稼いでもらいたい。雅俊と拓巳は車で待機。僕と祐司は地下に潜入。亜美さんを確保し次第、脱出する」
「……っ!」
諦めていたリベンジの機会が与えられた興奮と、零史に対する緊張で思わず体に力が入る。すると拓巳くんと向井、そして俊くんが同時に声を上げた。
「真嶋さん! 俺は?」
「なに言ってんだ芳弘!」
「芳さん! それは無茶だ」
三者三様の主張に真嶋さんは淀みなく答えた。
「先生をそこまで巻き込むわけにはいきません。拓巳と雅俊は諦めて。和巳の他に零史が気を緩める人物なんて思いつかないよ。もちろん君たちが一緒じゃ効果が見込めないから困る。祐司は上階では目立つだろうけど、地下なら似たような体格の男が取り揃ってるからね」
祐さんなら警備役の黒服男に紛れて目立たないと言うわけだ
「助っ人は強力な人を用意する。どう? 和巳。やってくれるかい?」
「やります」
間髪を入れずに答えると、取り残された三人が反撃を試みた。
「俺は面が割れてないぜ。あのビルなら従業員の構成も調べられる。高橋に誰をつける気か知らんが、ガードにはなるんじゃないか?」
「零史に対峙させるなんてやめろ! 具合が悪くなったらどうするんだ」
「和巳のことは芳さんを信じる。そのかわりおれも潜入させてくれ」
真嶋さんは「ちょっと待って」と拓巳くんを手のひらで制し、向井に向き直って確認した。
「今度こそ安全は保証できないよ。いざとなったら自力で逃げてもらうしかないかもしれない。それでも?」
「孝兄の娘だっていうなら見過ごせない。何もできないでいるのはもう真っ平なんだ」
食い下がる向井に真嶋さんは目を細めた。
「わかった。面が割れてない人は貴重だから手伝ってもらうよ」
よっしゃ、と向井は拳を握り、拓巳くんはまなじりを吊り上げた。
「だったら変装する! 零史にバレなきゃいいんだろ」
「芳さん。おれはあの子を戻さなきゃならない」
割り込むようにして俊くんが真嶋さんに迫った。
「彼女は自分の意志で下ったんだ。祐司と芳さんじゃ、迎えに行っても下手したら抵抗される。完全な説得は無理でも、せめて半分くらいは本人にも出ようって意思を抱かせないと」
それにはおれが直接呼びかけないと、と俊くんは必死の顔になった。
「祐司は変装して潜入するんだろう? だったらおれだって地下には潜れるはずだ。周りには見破られないようにしてみせるから挽回のチャンスをくれ」
真嶋さんは思案顔になり、ひとつ頷いてから俊くんを見た。
「絶対バレない変装を期待する。祐司とカジノの客になりすましてくれる?」
勢いづいた俊くんを見た拓巳くんはガッと立ち上がった。
「芳弘! 俺だけ仲間外れにするつもりか!」
真嶋さんは拓巳くんを見上げた。
「仕方がないでしょう。君は目立つんだから。僕だって誰か同伴者がいればと思って検討してはみたけど、君が霞むほどの大物招待者なんて思いつかないんだ」
いたとしても伝手がないし、とため息混じりに言われ、拓巳くんは怒りで赤く染まったタコのように顔を紅潮させた。
「そうかよ! じゃ、俺が霞むような大物を捕まえてくればいいんだな!」
そして叫ぶと同時にサッと身を翻してリビングを出ていった。
無理でしょ……。
誰もが胸中でつぶやいているうちに奥の部屋のドアがバンと閉じられ、首を竦めた向井がおそるおそる真嶋さんを窺った。
「い、いいんスか……?」
「放っておいてあげて。そのうち出てくるから」
まったく動じる気配のない彼に、向井は脱力したようにソファーに身を沈めた。
「あの顔で睨まれてもまったくおかまいなしってすげえ……」
「そりゃ里親ですから。子どもの癇癪をいちいち気にしてたら育てられません」
「こ、子ども……」
向井はさらに背もたれからずり下がった。
「……その話は有名だが、カモフラージュ疑惑がついてたよな。ナニが真実かよくわかったよ……」
里親制度を隠れ蓑にしてその実、スタイリスト真嶋芳弘とタクミはデキていた。
有名なゴシップのひとつだが、どうやら彼の記憶からは削除されたらしい。
そうして次の段階に進むべく、当日の段取りを検討していると、再び廊下の向こうでドアがバタンと開かれ、勢いよく拓巳くんが現れた。
「芳弘! 大物の招待客をゲットしてきたぜ。これでガッツリ変装すれば俺も入っていいよなっ?」
「………」
らしくもなく口を開けて拓巳くんを見上げた真嶋さんは、目の前に突き出されたスマートフォンを受け取って耳に当てた。そして。
「ソウジさん⁉ やっ、すみません! 拓巳が突然……ええっ⁉ 待ってください、本気ですか!」
覚えのない名前が呼ばれた途端、俊くんがギョッとし、珍しいことに祐さんが肘掛けに置いていた肘をズルッと滑らせた。
「……いえっ、けして。ええその……はい、確かに。えっと、じゃあ……」
はい、よろしくお願いしますなどと頭を下げた真嶋さんは、聞き耳を立てたあと、頭痛に襲われたように額に手を当て、祐さんにスマホを差し出した。
体勢を戻した彼はひょいとスマホを取り上げて立ち上がると、「祐司です。いえ。お騒がせしてすみません」と苦笑しながらリビングを出ていった。
「………?」
向井と僕とで真嶋さんに疑問の眼差しを向けると、彼は額を覆ったままだった。
な、ナニをしたんだ? 拓巳くんは。
それとは対照的に拓巳くんが勢い込む。
「あ、変装のことだけどな。芳弘は何も用意しなくていいぞ。変装道具の調達もちゃんと別の人に頼んだからな」
「……なんだって?」
手のひらをずらして窺う真嶋さんをよそに、元の位置に戻った拓巳くんは再び藺草カーペットにダランと足を伸ばした。
「だって俺は数に入ってなかったんだから、そーゆーのもちゃんと考えないと許可してくんないだろ? 芳弘は自分の店で待っててくれればいいんだ。ただな」
そこで拓巳くんは僕のほうをチラッと見た。
「俺に道具を貸してくれるヒトが条件だしてきたんだよ。どうせなら和巳のお供に加えてほしいんだって。それだけは返事を保留にしてあるから早く連絡したいんだ」
別にいいよな、とねだるように言われ、真嶋さんは一気に疲れた様子になった。
「お供って……ただの仮想パーティーじゃないんだよ。いったい君は誰に何を話したの?」
拓巳くんは自信ありげに答えた。
「心配すんな。秘密は守ってくれるし見立ては確かだし、おまけにチケットも自前で手に入るんだって。このヒトいてくれたら俺も安心かも。さぞかし零史はやりにくかろうよ」
ククッと悪い笑みを漏らされてちょっと落ち着かない気分になる。
ヘアメイクは真嶋さんがやるにしても、拓巳くんがそこまで気を許す相手なんていたっけ?
そうして出された名前に、しかし真嶋さんは絶句した。
「敦さん……!」
「ゲッ……!」
俊くんが再びギョッとし、向井がそれに驚いてのけ反る。拓巳くんはドヤ顔で言った。
「どうだよ。これならモンクないだろ?」
「―――」
かなり想定外の人だったのか、相当なダメージを食らったらしい真嶋さんは、しばらく目を見開いたまま動けないでいた。
けれども徐々に目の力を取り戻すと、やがて底力を発揮した。
「……そう。敦さんはチケットを買えるんだ。だったらここは遠慮ないほうがいいよね……」
彼は顎に手を当てて思案すると、まもなく顔を上げてこう言った。
「計画を変更する。和巳は敦さんと行動だ。拓巳、君は雅俊と交代して祐司の同伴者になりなさい。ソウジさんには雅俊を伴ってもらおう」
彼は「俺が頼んだのに!」とゴネる拓巳くんを説き伏せると、残りの三日ですべての段取りを済ませた。そして今日、まずは僕と敦さんが出発だということで、ネオンが輝く繁華街の真嶋さんの店の前で、一足先に車に乗り込んだというわけだった。