揺れる心
「まったく心の狭いヤツだ。ヒトの息子を未成年のうちから丸二日も独占してるくせに」
足早に歩きながらブツブツとこぼす拓巳くんに僕は内心で突っ込んだ。
あなたなんて、十六のときに十八の人を親からもぎ取ったんですよ……。
きっとそれを言っても「カンケーねぇ」で終わりだ。
「だからって、あんまり刺激するようなこと言うのはやめてね」
ひとまず釘を刺すと、腕を離した拓巳くんは横に並んだ僕を見た。
「じゃあ俺の付き人の時間、増やせよ」
「あれ本気の話なの?」
驚いて足を止めると拓巳くんも止まった。
「本気じゃなければなんだと思ったんだ」
「いや、その……」
まさか俊くんへの嫌がらせだと思ってたとも言えないし。
いきなり立ち止まった二人をスタッフがチラチラ見ながら通りすぎていく。「とにかく行こうよ」と肩を押すと、拓巳くんは歩き出しながらも続けた。
「あいつが土日を独占するなら俺が平日を全部もらってもいいはずだ。付き人までやってるのは不公平だぞ」
「水曜日に手伝ってるだけでしょ? 別行動のときは拓巳くん優先だし」
「前は俺だけだった」
……確かに。
もともと付き人は、拓巳くんに手を焼いた沖田さんに頼まれて始めたのだ。
俊くんは別に手がかるわけでなく、祐さんは普段は人手を使わない主義なので、サブマネージャーの横澤さんで十分、事足りていた。しかし僕が手伝ううちに横澤さんは他の仕事を兼務しはじめ、つい先年、別の担当になって〈T-ショック〉を卒業していった。今は僕が見習いマネージャーのような位置付けで沖田さんの下につき、若いスタッフ二名がフォローをしてくれている。
「雅俊の付き人はGプロの連中でもできる。けど俺はそうじゃない。今年は忙しいんだから俺の専属に戻れよ」
「うーん……」
僕が学校にいる間、俊くんの雑用係はその二人のスタッフがこなしている。しかし拓巳くんの用はこなせないので沖田さんが代行する。なぜなら〈衝撃の美貌〉に対する免疫はなかなか育たず、用事を頼もうとしても顔を見ては固まるの繰り返しで役に立たないからだ。そしてなんとか多少の免疫を身につけた頃には配置が変わってしまう。
十年越しの沖田さんですら、未だに一対一は腰が引けるって言うもんなぁ……。
でも元に戻したら俊くんとは……。
俯いたままエレベーターの前で立ち止まると、隣に並んだ拓巳くんが言った。
「他のヤツに任せるのはイヤか」
「………」
「じゃあ年末までならどうだ?」
「年末まで……?」
それは、ある意味助かるかも。
そんな考えが頭をよぎったのを読み取られたか、拓巳くんがすかさず言った。
「まあ、来週までに考えておけ」
そして僕の返事を待つことなく、ちょうど扉を開けたエレベーターに乗り込んだ。
「なるほど。それでヘアメイクと衣装の打ち合わせを今日中にここで」
「すみません……」
壁に囲まれたセットスペースの一角で、カットクロスを巻かれた首を縮めて謝ると、鏡に映る真嶋さんは口元で微笑みながらつむじのあたりの髪を一房すくってハサミを入れた。
「和巳のせいじゃないんだから、そんなに恐縮しなくていいんだよ」
話しながらもコーム(櫛)を操る手の動きは淀みなく、滑るように頭上を行き来するハサミ捌きは踊りの型をなぞっているように美しい。
それがいかに得難いテクニックであるのかは、彼の後ろを通りかかるスタッフたちの羨望の眼差しを見れば、否応なくわかるというものだ。
横浜を代表する人気店のオーナーさんだもの。あたりまえか。
とはいえ物心つく前から優花とともに自宅の洗面所で技を施されてきた身なので、その真価に気づいたのはつい数年前なのだが。
祐さんに送り出されてGプロを離れたあと、僕と拓巳くんは今日最後の仕事を片付けるべく、優花の父親にして、僕ら親子の保護者(としか言いようがない)である真嶋さんが経営する美容室に来た。
ここでの用事は夏のコンサートの衣装と髪型の打ち合わせで、気温を鑑みて生地を変えるので、一緒に髪型も変えるか検討するためだ。本来なら来週、三人一緒に打ち合わせるはずだったのを、拓巳くんだけ今日にしてもらったのだ。
そうして衣装を担当するアヤセ・インターナショナルのスタッフを店に呼び、ヘアスタイルと衣装のコンセプトを確認したあと、仮縫いのために奥の着付け室に移動したところで、ふいに真嶋さんが僕を呼び止め、「襟足の髪がだいぶ伸びたね。ちょっと整えようか」などと言いだして、フロアからは独立したカウンセリング用のセットスペースに僕を座らせたのだ。
「え、今ですか?」
つい聞き返してしまったのはやむを得ないことだろう。なにしろ店でカットする場合は休日や時間外の誰もいない時間帯が殆どで、営業中にカットされたことなど僕は一度もないのだ。
それでも真嶋さんは「うん、そう」とタオルやカットクロスを手早く僕の首に巻き付けていき、それほど伸びていない気がする後ろの髪を切り始めた。そうして促されるままに昨日の顛末を話したわけである。
「でも、スケジュールを変更したせいで真嶋さんや衣装のスタッフさんに迷惑をかけてしまいました」
意図が読めないながらも言葉を返していると、真嶋さんがその答えを明かすような問いかけをしてきた。
「そんなのは日常茶飯事でしょう。それとも君には恐縮せざるを得ない理由があるのかい?」
「………」
咄嗟に正面の鏡を見ると、穏やかな笑顔の中で薄茶色の目がじっとこちらを注視していた。
真嶋さんはその昔、拓巳くんの親代わりをした人で、愛情深く忍耐強く、滅多なことでは怒りを現さない。自身の従弟である祐さんとよく似た彫りの深い顔立ちは、黒髪に黒い目をした硬派な彼とは真逆、ウェーブのかかった明るいブラウンの髪や、柔らかな光をたたえた薄茶色の瞳がその柔和な人柄を映している。
しかしいざとなると鋭い洞察力を発揮し、誰よりも冷静かつ着実に危険を退ける。そうやってまだバンドを結成する前から今日に至るまで、みんなを支えてきたのだ。
『メンバーの真のリーダーは、実は芳さんなんだぜ』とは俊くんの言である。
そんな人が理由もなしに普段と違うコトするはずないよね……。
むろん彼は昨日の衝突について、僕が何らかの鬱屈を抱えていることを読み取ったのだ。
どう答えたものか探しあぐねていると、髪をとかすコームが指先に変わった。
「拓巳がね。少し前にこう言ってきたんだ。『この頃、和巳が雅俊の前で緊張している。けど俺がいるときは緊張が解ける』って」
「――……」
だからあんなことを言い出したのか。
思わず鏡を凝視すると、真嶋さんはフッと視線を手元に戻した。
「今の話を聞いて、拓巳が言い争った動機はそこにあるんだろうなと思ったんだけど、その顔だと心当たりがあるみたいだね」
彼は襟足の髪に指先を差し入れて切った毛を払い、正面に移動して前髪をとかし始めた。僕は次第に深まる沈黙の重さから逃れるように口を開いた。
「あの……」
「助けが必要なら、いつでも聞くよ」
出鼻を挫くように被せられた声は、けれど柔らかい響きを帯びていた。
「でも、和巳にはまだ何か迷いがあるみたいだよね」
「―――」
心中を見透かされ、赤面する思いで俯こうとしたが、彼の手が前髪を上に持ち上げていて迂闊に動けない。上目使いで目線をうろつかせると、前髪にハサミを入れるその向こうで、真嶋さんが目を細めているように見えた。
「君が何を悩んでるのかはわからないんだけど、それがもし進路に関わることなら急ぐ必要はないよ。君が自分の意思で選択することのほうが大事だと思う」
「真嶋さん……」
「どんな結果になったとしても、自分で選んでさえいれば納得して次に進めると思うから」
「……そうでしょうか」
我ながら懐疑的だと思う。けれども真嶋さんは柔らかく微笑むと、「もちろん」と迷いなく答えた。そして前髪を離すと、脇のワゴンにハサミを置き、傍らのハンドドライヤーを取り上げた。
「ただね。どうしても答えが出せなかったら、そのときは煮詰まる前に僕のところにおいで。一緒に考えよう」
「――……」
これが言いたくて、僕をここに座らせたのか。
さすが拓巳くんの表情を読むことに長けたスペシャリスト。僕の思考など読み切られている。
「……はい」
肩から力を抜き、穏やかな顔でドライヤーを操作し始めた姿を眺めながら、僕は改めて彼の洞察力の鋭さを実感した。
午前六時半――。
昨日より少し蒸し暑い土曜日の朝。玄関のドアを合鍵で開け、足を忍ばせてリビングへと入ると、予想どおりの光景が目に映った。
やっぱり。
ゴージャスなカーテンが窓を覆う室内の中央、濃茶のフローリングの床に置かれたローテーブルには水割り用のグラスが無造作に置かれ、周りに五線譜が散乱している。その手前にある大きな三人掛けの白いソファーには、複雑な模様を組み合わせた手織り風のラグが敷いてあり、その上に、薄い綿毛布一枚をかけただけのほっそりとした姿――僕の大切なパートナー、二つの性別を併せ持つ俊くんが横たわっていた。
僕はバッグをカウンターの下に置くと、ローテーブルの脇にあるソファーへと歩み寄り、脇に膝をついてこちらを向いて眠る小作りな顔を覗き込んだ。
長く濃く、僅かにカールした睫毛を従えたアーモンド形の目は閉じられて、煌めくオニキスの色をした大きな瞳を隠している。肩下まで伸びた天然ウェーブの髪はほどかれ、きめ細かな肌をした額や頬に落ちかかって、つんと尖った鼻やふっくらとした唇をところどころ隠している。
非常識に若く見えるとはいえ、僕には絵画の師匠であり、また普段はベテランアーティストとしての威厳を備えた人でもある。しかし今、落ちかかる巻き毛の間に覗く寝顔は無防備でしどけなく、女流画家、小倉蒼雅でいるときの艶やかな色香を感じさせた。
ちゃんと休まないといけないのに。またこんなところで。
音響関係の仕事をした日の夜はうたた寝が多い――それに気づいたのは朝方で、朝の弱い拓巳くんを無理やり起こして送ってもらったものの、この時間が精一杯だった。
滑らかな頬を撫でると、眠りを妨げられたと感じたか、綺麗に弧を描いた眉が少し寄せられた。
まだ眠り足りてないのだろう。目を覚ます気配はない。
いつ寝たのかがナゾだから、起こさないほうが良さそうだ。
頬に散る髪をそっと横に払い、ずれた綿毛布を肩に掛けなおす。まずは五線譜を片付けようと目線を逸らしたとき、ふいに腕を掴まれた。
「……っ!」
声を上げる間もなく腕を引かれ、胸の上に倒れ込んだところを両腕に抱き込まれる。
「ちょっ、俊くん。起きてたなら……っ」
顔を上げた途端、顎をつかまれ、すぐに唇を塞がれた。
「……っ」
膝から力が抜けてしまいそうだ。
わぁ、朝からヒドい。僕、これでも健康な男子なのに。
温かく甘い感触は、確かめるように口づけを深くすると、名残惜しげに離れていった。
「俊くん……困るよ」
理性を総動員して呼吸を整えると、意地悪な年上の恋人はゆっくりと目を開いた。
「金曜日のおれに一人寝をさせている罰だ」
大きな黒目勝ちの目が少し眩しげにこちらを見上げる。僕だけに見せてくれる甘やかな眼差しだ。
「……その分、急いで来たよ。日曜日だって丸一日一緒に過ごせる」
「金曜と日曜じゃできることが違うと言っただろう。……それを承知してるくせにあいつは自分の権利を主張して、それをおまえがうっかり認めるから……」
思い出したらハラが立ってきたのかスッと目を細めた俊くんは、僕の顎から手を離すと今度は頬を摘まんで引っ張った。
うーん、痛い。でもここはガマン。
されるがまま、不満そうに口を尖らせた顔をじっと見つめていると、やがて俊くんは諦めたように再び僕の顔を引き寄せた。
「仕方がない。ファンのためだ。我慢しよう……」
僕はちょっと笑って唇を啄み、腕を背中に回して細い肩を抱き起こした。
俊くんのパートナーになることを拓巳くんに認められた三年前から、僕は金曜の夜に彼の元に行き、日曜の夜には横浜の自宅に戻るという生活をしていた。
その宿泊スケジュールを、少し前から拓巳くんが俊くんに変更するよう要求しだした。即ち、
日曜日は全部くれてやるから金曜日を元に戻せ。
中途半端だというのが拓巳くんの言い分で、それはそうかもと感じた僕は、俊くんがそれを突っぱねるのは、いつもの売り言葉に買い言葉的な反応だとばかり思っていた。
だからドキュメントの企画が舞い込んだとき、なんとか拓巳を説得してくれと俊くんから頼まれて、僕は自宅での夕食のときに『承諾してくれたらお願いをひとつ聞いてあげる』と拓巳くんにエサを投げ、『じゃあ金曜日はウチに帰ってきてくれよ』と食いついたところを、日曜の夜と交換するだけなら問題なしと判断して話をまとめた。
ところが僕から取引成立の報告を受けた俊くんは、内容を聞いた途端、
「なんだって……!」
と棒立ちになり、とまどう僕に真剣なカオで説明した。
金曜と土曜の夜はともに休みの前日であり、カップルにとっては諸々を気にせずに過ごせる『恋人の夜』であること。逆に日曜日は翌日が仕事なので金曜の夜のようには過ごせないこと……。
「つまりおまえとの夜は土曜日限定になったということだ。昨夜はおれがリードしたから今夜はおまえの好きでいいぜ☆ とかできなくなるんだぞ。困るだろう!」
「え、えーっと……」
俊くんが拒否していた理由がソコだったとは気づかず、また拓巳くんがソコを阻もうとして言い出したのかと思うと動揺が収まらず、つい訊ねてしまった。するとそれは違うのだという。
「あいつも十代で結婚した身だからな。一度認めた以上、ソコは文句言っちゃいけないとの認識は一応、持ってる。別の理由があるんだ」
なんでも知り合いの芸能人が、息子さんが高校に上がってから休日前夜に出かける機会が増えたことを自慢してきたのだという。
「昼間は部活や友達に夢中だけどさ。夜に仲間内で評判のダイニングバーなんかに連れていくと『父さんが行くところってやっぱ洒落てるよね』とか言って喜んでくれるんだ。思春期って父と息子には大事な時期じゃん?」
それを聞いた拓巳くんは、ふと休日前夜が二日とも俊くんに独占されていることに気がついた。
「それで一日くらい返せコールが始まって。まあ気持ちはわからんでもないけど、こっちも譲れないからほとぼりが覚めるまでの我慢と思ってかわしていたのに、それをオマエが……っ」
恨みがましげに嘆かれても今さら撤回などできず、また俊くんにしても自分が頼んだ手前、僕のせいだけにできず、今日に至っているというわけだ。
まだ睡眠の足りなさそうな彼を寝室へ追いやり、寝ている間にリビングを掃除して朝食を作る。我が家のベテラン家政婦、中沢美智子さんから仕込まれているので家事はお手の物だ。
最近の俊くんはあまり食が進まないので、フワフワのロールパンやグリーンサラダ、野菜のコンソメスープといった軽めのものが中心だ。
起き出した彼がシャワーを済ませて食卓に着いた頃には、ちょうど二時間が過ぎていた。
「俊くん。今日の予定は? どこかに出かける?」
休日をどう過ごすか聞いたつもりだったのだが、パンを一口頬張った俊くんは別の返事をよこした。
「午後三時からGプロの会議室だ。昨日の続きがまだ終わってない」
「何か問題でも?」
「最後の選曲がまとまってない。おまえも同席してくれ」
味気ないデートで悪いな、とこぼされて「そんなこと」と首を振る。
今、検討しているのは夏の北海道ツアーの内容だ。六月下旬の埼玉での演目はすでに決まっている。
俊くんはプロデュースも参加してるから、コンサートツアーだと本当に休みがなくなるよね……。
彼にとってはやりがいなのだとわかっていても体が心配になる。
この二十周年企画を進めるあたり、俊くんは自身のもうひとつの顔である女流画家、小倉蒼雅の活動を封印した。
クオリティにこだわる彼が、時間に追われて半端な仕事になるのを防ぐために取った措置なのだが、それでもこうして徐々に休息の時間が削られていく。夏になれば移動がある分、もっと忙しくなるのだから、少しばかり事務所に時間を取られるくらいで文句など言ってはいられない。
せめて明日はのんびりできればいいんだけど。
心で願いながらスプーンでスープを口に運んでいると、サラダを食べ終えた俊くんが顔を上げた。
「ところで和巳。春休みに美術部で参加したデザインコンクール、結果はどうだった?」
一瞬、手が止まりそうになり、平静を装ってスプーンを動かす。
「あ、今回は落選だった」
「落選? 確か去年は特選を取ったコンクールだよな」
「今年の高校の部はレベルが高かったよ。凄い作品がいっぱいあった。去年はまぐれだったのかも」
「まぐれなんかであるものか。そうか……審査員が変わったのかな」
「そういえば、一人名前が変わってた気がする」
嘘である。
しかし俊くんはそれを聞くとやっぱりな、とコーヒーのカップに手を伸ばした。
「デザイン画ってやつは感性だ。最後は審査員の好みが出てくる。きっと傾向が去年とは違ったんだろうな」
納得したようにカップに口をつけるのを見やりながら、僕は内心で己の不実を謝った。
去年と審査員が変わらないにもかかわらず、結果が出せなかった理由はわかっている。けれども今、それを伝えるわけにはいかない。
ただ、進路のことだけは、はっきりしておかないと。
この先のスケジュールを考えたら、一昨日の衝突のようなことがあってはならないのだ。
そのために考えてきた内容をどのタイミングで伝えるべきか思案していると、コーヒーを飲み終えた俊くんが先に口を開いた。
「あと和巳。一昨日の、進路の話なんだがな」
どうやら俊くんも話すつもりでいたらしい。僕はこの際とばかりに切り出した。
「僕も話があるんだ」
嘘はつかない。けど解釈に余地を持たせる言葉で。
「学校から進路調査票がきて、来週の金曜日までに提出しなきゃいけなくて」
俊くんは背もたれから体を浮かせた。
「そうか。それで?」
「僕はずっと旭ヶ丘学園に在学していて、気に入っているし信頼もしてる。セキュリティ関係では何度もお世話になってきたし。だから大学も同じ系列を選ぼうと思う」
これは事実である。
タクミの息子として、拉致や事件など僕には今まで様々なリスクがあった。これを持ち出せば、たとえ俊くんがよその大学を勧めるつもりだったとしても、反対できないだろうと読んでの理由付けである。
案の定、俊くんはハッとした顔をすると、体を背もたれに戻し、しばらく思案したのちにため息を吐いた。
「そうだな……美術大学や造形大学のほうがおまえのためになると思うが、出入りはかなり自由だ。その点、旭峯大学は親族経営だけあってセキュリティに重点を置いているからな……」
「学部とかの細かいことは推薦枠の話が絡んでくるから、向井先生と相談することになると思う」
担任の向井譲教諭は進路指導の選任教師だ。また、今の僕にとっては相談するにふさわしい、得難い資質を持った人物でもある。
「そうか。武蔵野美大や日本芸大の情報なら教授と面識があるんだが。おれは旭峯大のことはよく知らないんだ。大事な時期なのに悪いな」
「そんな、僕のほうこそ色々考えてくれてたのにごめんなさい。大丈夫。旭ヶ丘は旭峯出身の先生が多いよ」
「じゃあ、美術部顧問の陰山先生も?」
「うん。だから心配しないで俊くんは自分のことに専念してね」
これは問題の先送りでしかない。けれどもまだそれと向き合う勇気がない。幸いにも今はバタバタしているので、俊くんへ打ち明けるには少しだけ猶予がある。
一番のネックは学校側の時間が待ったなしだということ。取りあえずでも何でも今は進路を決め、書類を出さなければならないのだ。
このまま忙しさが続けば、夏の終わりまで俊くんには言わないで済むかな。
そんなことを考え、ふと自己嫌悪に陥る。忙しければ当然、彼の休養時間は削られるし、体には負担がかかるのだ。
僕ってサイテー……。
わかってはいても、今はまだ言い出せないのだった。