白川皐月
Gプロの会議室から移動すること三十分。
榑林に提示されたという、東京と横浜の中間に位置する住宅街の片隅の、古い一軒家の玄関先に立った真嶋さんは、後ろに従った一同の右端に立つ向井に言った。
「もう一度確認するけど、向井先生は当事者じゃありません。きな臭いことに巻き込まれるかもしれませんよ。本当に一緒にいて大丈夫ですか?」
向井はニヤリと笑った。
「自分の生徒の事件にあの女が絡んでるとなりゃ、他人事じゃない。承知でついてきてるから気にしないでくださいよ」
俺は藤沢さんとは違って一般人ですからね、と親指を立てる向井に真嶋さんが苦笑する。
一緒に行くと言い張ったコースケさんを、知名度を理由に帰したのを思い出したのだろう。
「わかりました。じゃ、行きましょう」
真嶋さんが目配せし、祐さんがインターホンを押す。まもなく鍵を開ける音がし、内側から引き戸が開けられた。
「……ご足労をおかけしました」
いささか疲れた様子で顔を覗かせたのは、仕事のときと変わらぬ紺色のスーツ姿の榑林だった。
少々荒れた庭先や、ひび割れた磨りガラスなど、どこかうらぶれた感のある家屋は、清潔な印象の榑林には不似合いで、この家が彼にとってどんな場所なのかがいまいちわからない。
榑林さんの自宅……にしては人の住んでいる気配がしないよね。
先に立った真嶋さんが受け答えた。
「いえ。こちらこそ大勢で押しかけまして」
どうぞとドアの脇に立った榑林に促されて真嶋さんが足を踏み出したとき、後ろに従っていた向井がビクッと体を緊張させ、いきなり真嶋さんの脇から前に飛び出した。
「朋晃! おまえ梁瀬朋晃じゃんか!」
――えっ!
僕が、そして両脇に立つ拓巳くんと俊くんが足を止める中、榑林がハッと向井を見て顔を強張らせた。
「まさか、讓……っ!」
「どういうことだ。なんでおまえが高山プロでアイドルのマネージャーなんて……っ」
思わずというように向井が肩をつかむ。榑林は顔を歪めて言い返した。
「おまえこそなんでここに」
「高橋和巳は俺の生徒だ!」
榑林が息を飲む。僕はつい先ほどの話を思い出した。
梁瀬。梁瀬って確か、先生が言ってたベーシストの。じゃあ同年の弟とかいう。
でも『榑林』って……?
「なんでだよ。何考えてんだよ! 勤め先辞めてから音沙汰ねえなとか思ってたら、自分の兄貴を死なせた会社に入ってるって、おまえ……!」
「待って向井先生。落ち着いて、まずは中に入らないと」
真嶋さんの声に反応した祐さんが、素早く向井と榑林の肩に手を伸ばして玄関の奥に押し込み、僕たち三人もそれに続いたあとで俊くんが後ろ手に引き戸を閉める。
なおも荒い気配を収めない向井を祐さんがつかんで押さえたとき、背後の狭い廊下の先に見える襖が開き、場違いに華やかなワンピース姿の女性が現れた。
「榑林。どういうことなの。この人たちの手を借りるなんて私は聞いてないわ」
美しくセットされた肩までの巻き髪の姿。
それは渦中の女優、白川皐月だった!
「………っ!」
僕たちが絶句する中、榑林がどこか途方にくれたような声をかけた。
「皐月さん……、」
目を移した白川皐月は、彼に迫る向井を認めた途端、目を見開いて顔色を変えた。
「……っ!」
一瞬後、彼女は感情をねじ伏せるように表情を戻した。しかしその一瞬は向井に何かを伝えたようで、彼はスッと顎を引くと榑林から手を離して向き合った。
「久しぶりだな、紗季さんよ」
「―――」
紗季さん?
明らかに彼女の肩がビクリと揺れ、取り澄ましたかに見えた表情が強張った。
「いや、今は白川皐月か。相変わらずきな臭いことやってんなとか思ってたら、まさか朋晃があんたのそばで、マネージャーなんぞになっていたとはね……」
向井の目が俯いた榑林と彼女を交互に見比べる。
みんなが注目する中で、三人の間に過去を共有する者の空気が漂いだし――。
やがて向井の手が榑林の肩をつかみ直し、押さえた声でこう訊ねた。
「なあ朋晃。柳沢亜美って今年幾つだ。おまえがわざわざマネージャーやってるってことは、まさか孝兄の子なのか?」
泥のような沈黙がその場を支配し、全員が二人を凝視する。
やっぱり亜美さんは。
その質問は確実に榑林を揺さぶったようで、サマースーツのかっちりした肩が大きく揺れ、僕にとある仮説を提起した。
だったら亜美さんと榑林さんは。
しかし亜美の態度にその事実を知る気配はなかった。知っていたら彼女はもっと榑林を頼りにしただろう。
(榑林さんはすごくいい人です。私のことも最初から本当に親身になって世話してくれました)
内緒なのか。なぜ。
口を開く気配のない姿から目を離せずにいると、事情を読み取った様子の真嶋さんが、静かな口調で向井に告げた。
「今年十六歳だよ」
彼は祐さんの腕を軽く叩いて向井の肩を離すように指示すると、振り向いた向井に説明した。
「亜美さんはつい一年前まで旭ヶ丘の中等部に通っていたんだよ。自宅が学校に近かったようでね」
「………!」
向井がサッと皐月を見る。彼女は顔を強張らせたまま動かなかった。
真嶋さんが続けた。
「自分がアイドルであることは隠して。テニス部にいる僕の娘が言うには、小柄でおとなしいけど頑張り屋のマネージャーだったとか」
「………」
動きを止めた向井を真嶋さんはよけると、靴を脱いで上がり框に足を進め、二歩ほど奥で立ち尽くす皐月に告げた。
「荒木洋一がこちら側の協力者に明かしたそうです。高山に知られないよう、小倉雅俊を動けなくしてくれたら、事務所に来るバックバンドの仕事を紹介してあげるとあなたに約束されたと」
「………」
「つい先日の男たちも同じだ。似たような条件でプロダクションに出入りする、まだ駆け出しの若者たちに声をかけたと推測できます。ただ、なぜあなたが小倉雅俊を排除したかったのか。その動機がわからなかったんです」
白川皐月は一瞬、宙を見、そして目を伏せた。
真嶋さんは後ろの向井に目を向け、再び戻して彼女に告げた。
「ですが榑林さんのお陰で手間が省けました。話してもらいましょう。小倉雅俊に対する傷害教唆の理由を。場合によっては情状酌量の余地があるかも知れませんよ」
締め切られた障子戸が外の光が淡く照らす中、六畳間の古びた卓袱台の周りに押しかけた側の面々がそれぞれ座ると、皐月が部屋の隅に置かれた小さな鏡台の椅子に腰かけ、榑林がその少し手前でこちらに向かって正座した。
「色々、ご迷惑をおかけしてすみません……」
深く頭を下げる姿に、真嶋さんが背筋を伸ばして質問した。
「まずお聞きします。高橋和巳を柳沢亜美のマネージャーにとの要望は偶然ですか。それとも何か意図があってのことだったんでしょうか。あなたはどこまで関与していたんです」
「それは、あの……」
榑林が言い淀むと後ろから声がした。
「榑林は何も知らないわ。あのトラブルは偶然だもの。それを私が利用したのよ」
「皐月さん」
榑林が困惑顔で後ろの椅子を振り仰ぐ。
「本当のことですもの」
彼女の表情には、何かを思い定めたような芯があった。
真嶋さんは質問を続けた。
「襲撃事件のことにも榑林さんは関わってないと」
「そのとおりよ」
「けれど榑林さんはあなたを呼び出した。しかもこんな空き家のような場所に。お二人は親しい間柄なのですか?」
皐月は気にくわなさそうに顔を背けた。
「バカ言わないでちょうだい。ここは昔の私の家よ。娘に何かあったときの報告はここでさせていたのよ。高山の社長や肇さんに知られると変な誤解を受けて煩わしいから、人目につかないよう用心してのことよ」
こんな風に意表を突かれたのは初めてだけれど、と彼女がこぼすと、榑林の肩がビクリと揺れた。
「では荒木に口止めしたのも」
「そう。高山の親子は嫉妬深いのよ。それに信用もしてないわ。あとで脅しのネタにされたら叶わないし」
「………」
真嶋さんは考えを整理するように少し黙り、再び背筋を伸ばした。
「いいでしょう。榑林さんは知らなかった。けれどもあなたには意図があった」
彼女の表情に変化はなかったが、真嶋さんは構わずに続けた。
「それは亜美さんの移籍に絡むことで、そのために小倉が邪魔になった。おそらく和巳に関することだ。違いますか」
名を出されて緊張する。皐月も今度は質問に答えた。
「情報を手に入れたのよ」
「情報?」
彼女は開き直ったように口の端を上げた。
「ご存じのようにあの子は体調管理が大変なの。こちらに引き取ってからも、度々トラブルを起こしては仕事が滞って、会社から私にクレームがきて」
心底うんざりした様子に胸の奥が焼けつく。
「榑林の報告で、Gプロのスタッフがあの子を助けたと聞いて、すぐさま調べたのよ。『〈T-ショック〉のタクミは発作持ち――けれど付き人の献身で仕事が成り立っている』ってね。この人についてもらえば、あの子もなんとかやっていけるだろうと思ったわ」
その『付き人』がタクミの実の息子だとは、すぐにはわからなかったけれど、彼女は僕を横目で見、そして真嶋さんに戻した。
「使い捨てにされて戻されてしまったら、また面倒見なきゃならなくなって大変だもの」
そんな余裕、私にはないのよと吐き出すように言われ、僕は思わず身を乗り出してしまった。
「あ、あなたはそれでも……」
母親なのか!
しかしそれを言う前に真嶋さんから叱責が飛んだ。
「和巳。静かに」
目線で制され、左隣の俊くんに膝上の拳を手のひらで包まれて気持ちを押さえる。
おとなしくなった僕を見た皐月は、目を逸らしてまた続けた。
「移籍先リストにはGプロが入っていたから、すぐに承諾するよう高山に働きかけたわ。成果は上々、話はあっという間にまとまって、あとは待つだけだった。それなのに……っ」
皐月がふいに気配を変えて俊くんを睨んだ。
「あなたが阻んだのよ」
「………」
俊くんが目を合わせると、彼女は悔しげに顔を歪めた。
「さっきも話に出たように、あの子は中学時代、和巳さんと一緒の学校で、彼のことをよく知っていたらしいわ。だから〈T-ショック〉のことはあまり知らなくても、リーダーのマースが小倉蒼雅という名で和巳さんを指導していることは知っていたのよ。そのあなたが和巳さんの担当替えに強硬に反対していると聞いて尻込みしてしまった。せっかく話が決まったというのに、途中から『やっぱりGプロには行けない』なんて言い出して!」
「亜美さんが……っ」
思わず漏れた声に拓巳くんの声が被る。
「それであんたは雅敏が邪魔になったのか」
皐月はチラリと拓巳くんに視線を投げ、眩しげに目を細めてすぐに逸らした。
「そうよ。あなたがゴネるならまだしも、たかだか絵の師匠よ? しかもミリオンヒットを持つミュージシャンだわ。いくらでもいいスタッフを選べるじゃないの」
それを半年ばかり融通するくらいで、と皐月は眼差しを怒らせた。
「心底腹が立ったわ。こっちは生き残りを賭けて戦ってるっていうのに。だから事務所の下っ端の子たちに持ちかけたの。みんな張り切ってくれたわ。半年あれば亜美ちゃんも慣れるだろうから、あばら骨の二、三本折っといてやるよってね」
「………」
拓巳くんが鼻白んだように口を閉じる。するとそれまで黙って聞いていた向井が口を開いた。
「紗季さん。柳沢亜美の父親は本当に孝晃兄さんなのか」
皐月は僅かに顎を引いたが表情は変えなかった。
「あなたには関係ないでしょう。彼はとっくに死んでしまったのだし」
向井は手前に膝をつく榑林に目を向けた。
「朋晃、なんでおまえは高山プロなんかに入ったんだ。榑林ってなんだ。偽名か」
榑林がビクッと肩を揺らす。
「彼の母方の名字なの。私の発案よ」
皐月が割るように口を挟んだ。
「この人はね。私を避けていたあなたと違って昔から私のファンなの。孝晃さんが亡くなってからも手紙をくれたりしていたのよ。あの子を引き取ったあとにちょうど手紙が届いて、ふと思いついて面倒を見てくれないかと頼んだの。なにしろ高山プロのスタッフじゃ、あの子が調子崩してばかりで仕事にならなかったものだから」
偽名を使わせたのは関係を高山親子に詮索されたくなかったからよと付け足す皐月を、向井が不審の目で窺う。
「なんでそこまでして人をこき使う。そんなに娘の面倒を見るのは嫌か。あんた、今では立派な女優だろ。一人くらい十分養えるだろうが」
すると皐月は鼻白んで向井を睨んだ。
「憶測でものを言わないでほしいわね。たかが女優、それも私のような天涯孤独の女なんていつ排除されるか知れたものじゃないわ」
「えっ……」
「現に社長は娘の存在が気にくわない様子で、私は社内で肩身が狭くなったわ」
「まさか」
向井が目を見張る。皐月は苛立たしげに顎をしゃくった。
「この業界ではね。強いものに巻かれてないとすぐに追い落とされてしまうのよ。そこに並んでいる人たちだって今、よくわかるって顔をしたわよ」
言われて向井がこちらを窺う。そして答えを得たように目を逸らして俯いた。
ああ――。
彼女の言いたいことは、僕でさえ理解してしまった。
きっとこの人も俊くんや拓巳くんと同じで、不幸な状況から逃れるべく一から土台を築いてきたのだ。
これまでの母親らしからぬ数々の言動も、厳しい競争を戦ってきたからこそのもので、彼女は彼女なりに今を生きるのに必死なのだろう。だからといって、亜美への態度を納得できるかと言ったらそれはまた別の話だが。
するとそれまで気配を消したように黙っていた祐さんが口を開いた。
「榑林さん。あんたはこの親子の仲を取り持ちたい一心でマネージャーを引き受けたのか」
榑林は弾かれたように祐さんに向き直った。
「は、はい。少しでも助けになればと……」
鋭い眼光に怯んだか、言葉が尻窄みになる。祐さんは構わずに続けた。
「そのわりには、あまり面倒を見られなかったようだな」
「仕方ないのよ」
皐月が答えた。
「この人ったら天職だったようで、上司から次々に担当を増やされてしまうんだもの。社長の声までかかってどうにもできなかったわ」
祐さんは彼女に目線を投げると嘆息した。
「だから情報に穴が開いて間違ったのか」
「間違った……?」
皐月と、そして榑林が祐さんを見た。
「和巳の業務変更を反対しているのは雅俊じゃない。俺だ」
「なんですって?」
皐月の目が見開かれる。祐さんは口の端を吊り上げた。
「雅俊が反対したのは最初だけだ。その後は俺たちの中で一番早く許可を出した。が、俺の一存で止めた」
とんだとばっちりだったなと祐さんは俊くんに投げかけ、釘を刺すように皐月に告げた。
「あんたがやったことは無駄だったわけだ。ちなみに俺はまだその件を承諾していない。今後は俺を狙うよう、若いのに伝えておけ」
言うべきことを言ったとばかりにあぐらを組み直した彼に、真嶋さんが咎めるような視線を向けた。
「変なことを言わないの。君を狙われるのも困るよ」
「雅俊が狙われるよりはましだろう」
「そういうことじゃないから」
渋い顔をした真嶋さんは皐月に目を向けた。
「あなたのやったことは犯罪だ。その自覚はありますか?」
柔和な雰囲気が一気に硬質な気配に入れ替わる。けれども皐月は動じなかった。
「訴えたらいいわ。フリーターのような若者たちの証言だけで起訴できると思うならね」
「―――」
証拠が足らないのか。
真嶋さんを降り仰ぐと、彼はそれをちゃんと承知している顔をしていた。
「では今後も彼らをけしかけると」
声音が低いものに変わる。すると彼女はフッと目線を上げ、しばらく宙を見つめてから首を横に振った。
「いいえ。もうその必要はなくなったわ」
えっ、と僕が顔を凝視すると、彼女はふいと目線を逸らした。
「あの子はすべてを壊したのよ」
「どういうことですか?」
真嶋さんが問い返すと、皐月は苛立たしげに立ち上がった。
「私が今日、こんな時間の呼び出しに応じたのはね。社長秘書から榑林に緊急メールがあったからよ。あの子が社長室に現れたって」
「社長室に?」
「そう」
皐月はクッと嗤った。
「移籍を断ったそうよ。バカな子」
「なんだって!」
つい我を忘れて叫ぶと、皐月は僕を睨み据えた。
「何を驚くの。そもそもはあなたが拒否したからでしょうに」
「僕は亜美さんに断ってなんていません!」
「嘘よ。あなた学校であの子に何か言ったでしょう。あれから移籍を辞退したいなんて言い出すようになったのよ。それで裏から手を回すことにしたんだもの」
あのときの、健吾と会ったときのことだ!
「そんな。僕は引き受けられないなんて一言も」
言いながらふと思い出す。
そうだ。僕は俊くんとのことで苛立っていて、健吾に食ってかかったりした。
あのとき亜美さんはみんなが反対してると誤解して、取り乱した様子で会わせてくれと言ったんだ。けど僕はそれを断って、おまけにそのあと俊くんのことで健吾と口喧嘩までした。
謝りながら走り去っていくのを追いかけもせず……。
学校でのやり取りを思い出して青ざめていると、皐月が壁の時計に目をやり、そしてこちらに戻した。
「あまり遅くなると高山に気づかれるわ。そんなわけで、あの子の移籍はなくなりましたから皆様にはどうぞご安心なさって」
「……っ」
軽く頭を下げる姿に言葉を詰まらせると、血相を変えた榑林が皐月の足に縋った。
「待ってください! まだ手はあります。皆さんに力を貸してもらえば……!」
「ばかね。私が何をしたか今、話したでしょう。無理に決まってるわ。あの子のことは諦めなさい」
「でも……っ!」
すると彼女の表情から勝ち気な色がフッと消えた。
「B級ならまだしもC級に落ちたらもう這い上がれないわ。朋晃さん、あなたもご苦労だったわね。この先は自由になさいな」
秀麗な細面が一瞬だけ切なそうな色を帯びる。
「契約の日まで、まだ五日あります! それまでになんとか……!」
「無駄よ。あの子にその気がないんだもの。経験しなければわからないのよ。――この世の地獄がどんなところかなんて」
地獄⁉
僕は慌てて立ち上がった。
「それってどういう意味ですか! 移籍を断ったら亜美さんはどうなるんですっ」
彼女は冷めた目線で僕を見た。
「さあ? Gプロのような大手を蹴ったタレントなんて、もうどこにも売れないわ。さぞかし社長の怒りを買うだろうから、夜の業界に落として手っ取り早く稼がせるんじゃないかしらね。今ならまだネームバリューがあるから、さぞ高額で売り出せるでしょうね」
あの会社の常套手段よと付け足されて背筋がゾッと震え立つ。
「そんな。あなたはそれで平気なんですか!」
非難の言葉を口走ると、皐月はキッとまなじりを吊り上げた。
「仕方ないでしょう! もう打つ手がないんだから。底辺の子に混じってストリップダンサーでもヘルス嬢でもやらされればいいのよ。私の娘ってことでAV女優を免れるだけでもまだましよ!」
「なっ……!」
「芸能界ではありふれているわ。どんなに失敗しても守られるあなたには無縁な話でしょうけどね!」
「―――!」
彼女は絶句する僕を睨んで踵を返し、襖を開けて出ていった。
「皐月さん……っ!」
力尽きた榑林が畳の上に両手をつく。たまらずに僕は座卓を回り込み、彼の横に膝をついた。
「本当ですか榑林さん! 本当に亜美さんはそんなところに……!」
彼は目を瞑り、肩を震わせた。
本当なんだ……!
「和巳!」
身を翻そうとした僕を、しかし後ろにいた俊くんが止めた。
「どこへ行くんだ!」
「放して! 亜美さんを連れ戻さないと」
「どうやって! 居場所はわかってるのか!」
「高山プロダクションのビルでしょ! 早くしないと本当にどこかの店に」
「このまま行ったっておまえには何もできないぞ!」
「だって僕のせいなんだ!」
激しく身を捩ると、傍らの榑林が驚いたように顔を上げた。僕は彼に目をやり、そして肩をつかむ俊くんに戻した。
「あの日、亜美さんは様子がおかしかった。でも僕は自分のことで手一杯で、そのまま放り出したんだ。もっと丁寧に説明してあげていれば、こんなことにはならなかったのに……!」
あれだけ血相を変えて飛んできたのだ。せめて校門まで送っていくくらいの気遣いができていれば、彼女もそこまで思い詰めることはなかっただろう。
すると俊くんが肩をつかむ手に力を入れた。
「それを言うならおれのほうが責任が重い。追い詰めた張本人だからな」
「違う。俊くんのせいじゃない」
「違わないさ」
彼は首を横に振った。
「祐司はああ言ってくれたが、基本的におれが一番嫌がったことには変わりない。もっともな理屈をこねてその実、嫉妬してたんだから」
仕事だって割り切らなきゃいけなかったのに、と俯く姿に胸が締めつけられる。すると後ろから拓巳くんの不機嫌な声が飛んできた。
「反省大会はあとにしろ。今は子タレの行方だ」
彼は座卓を回り込むと、榑林の前に片膝をついた。
「あんたは子タレ、じゃない、亜美がどこにいるか知ってんだろ。教えろよ」
「拓巳さん……」
眩しそうに瞬きを繰り返す榑林に、苛立った拓巳くんは声を荒らげた。
「しっかりしろ! さっき五日以内になんとかすればって言ってたろ。手伝ってやるから早くしろ」
「えっ……」
「拓巳」
榑林が言葉を詰まらせ、真嶋さんが声をかける。
座卓を回り込んでそばに来た彼を拓巳くんは見上げた。
「止めるなよ芳弘。コースケの番組に出たとき、楽屋の廊下で写真を撮られたのは俺のミスだ。それにこっちだって和巳のためにスキャンダルを利用してる。連れ戻せなきゃ、俺も和巳も多分、一生悔いが残るんだ」
「止めてなんてないよ」
真嶋さんは宥めるように拓巳くんの肩を叩いて隣に両膝をつき、榑林を正面から見据えた。
「榑林さん。お聞きのとおり僕たちは亜美さんに少々借りがある。あなたが諦めないならお手伝いします」
丁寧な物腰で言われて現実味が湧いたのか、榑林の眼差しに縋るような色が浮かぶ。それを確認した真嶋さんは微笑み、次いでサッと気配を引き締めた。
「ですが条件がひとつ。あなたの知っていることは包み隠さずすべて話してください」
「………っ」
ハッと目を見張った榑林に対し、真嶋さんは眼光を鋭くした。
「白川さんは否定していましたが、僕はあなたのように細やかな気質の人が、彼女の動向にまったく気づかなかったとはとても思えません。本当に襲撃の件について何もご存知なかったですか?」
「………」
榑林の顔が青ざめる。真嶋さんは恐ろしさを秘めた笑みを浮かべた。
「そんなはずないでしょう。おそらくは脅迫紛いの言葉で口を塞がれているのだとは思いますが、彼女はあなたを残して行ってしまった。ここはもう腹を括ってくれませんか」
「……、……」
「朋晃。知ってることがあるなら喋っちまえよ」
なおもためらう榑林に、座卓の向こうの向井が立ち上がって言った。
「わかってるさ。おまえは柳沢亜美を兄貴の子だと考えたんだろう? それで現状を知って、高山プロの連中から守ろうとしたんだ」
こちらに回り込みながら向井は続けた。
「あの女は昔からヤバい臭いがしてたよ。おまえは優しいから兄貴と縁があった彼女を庇いたいんだろうが、俺たちについたほうがぜったい姪っ子のためになるって」
榑林の目の前に来た向井は、同情の眼差しで眉尻を下げた。
彼はそんな向井の顔を悲しげに見上げ……。
「違うんだよ譲。逆なんだ。皐月……紗季さんはずっと長い間、愛美を守ってきたんだよ」
「はぁ?」
榑林はこちらへと顔を向け、正座に座り直して姿勢を正した。
「私の知ることはすべてお話しします。ですからどうか、可哀想な愛美を救うために手を貸してください――」