未来を選ぶために
遠くから声が響く。
何かを必死に訴える声だ。
「……だよ。せめて中に入れてやらないと」
それに対する声はかなり刺々しい。
「冗談じゃねえ! あいつに会わせてやる顔なんてあってたまるか!」
馴染みのある声。けど、どうやら怒っているようだ。
「俺は見たんだ! 和巳はやつらを警戒してた。あのままだったら襲われても俺が加勢するまで防げたはずだ。それをあいつが振り払うから……っ!」
僕? 僕の話? でも何か引っかかる気がする。
「だとしてもこの状況はまずいでしょう。夜中ずっとだよ。朝だってそのまま仕事に行って、戻ってきてからまた……あのまま廊下に立ちっぱなしじゃ体が参ってしまう」
これじゃない。この宥める声は違う。……参ってしまうって誰が?
「知るか! 自業自得だろうが! あの邪険な態度にもめげずにそばにいた和巳に対する、これが雅俊の仕打ちなんだ。このまま和巳が目覚めなかったら俺はあいつを一生、許さねぇ!」
「大丈夫、大丈夫だよ。先生も言ってたでしょう?」
雅俊。俊……俊くん!
「俊くん!」
ふいに目の前が光に満ち、僕は寝坊したような焦燥感を覚えて跳ね起きた。ところが。
「痛ーっ!」
動かせたのは首だけで、しかもものすごい頭痛がする。
反射的に頭を下ろして目を瞑ると、すぐに頭痛は引いていき、次いでシャッとカーテンを開けるような音がした。
「和巳!」
仰向けの視界に入ってきたのは、日本人離れした端正な顔立ち――拓巳くんだ。しかし。
あれ。この眉の寄せ方……泣きそう?
「目が覚めたかい?」
続いて入ってきたのは真嶋さんで、枕元に顔を寄せた拓巳くんの後ろに立った。
「気分はどうだ。吐き気は? 気持ち悪くないか?」
必死の顔になった拓巳くんからの矢継ぎ早な質問にひとまず答える。
「気持ちは……悪くないよ。起きようとしたら頭が痛くて……」
僕の頬に手を添えた拓巳くんが、また泣きそうな顔になる。
「おまえは昨日の夜から今までずっと意識がなかったんだ」
えっ、と目を開くと真嶋さんが手のひらを向けて僕を止めるような仕草をした。
「急に動いちゃだめだよ。大きなタンコブが頭の右側にできてるからね」
確かに痛いのは右側で、僕はちょっと考え込んだ。
白い天井といい、カーテンいい、どうやらここは病院らしい。
なんでこんなところにいるんだ?
頭の中に靄がかかっているようでうまくまとまらない。
違う。何かあったはずだ。大事な、大切な――。
「そうだ俊くん! 俊くんは!」
反射的に頭を上げた途端、激痛が走る。「だめだって!」と真嶋さんが声を上げ、拓巳くんが肩を抑えた。
再び目を瞑って痛みをやり過ごすと、拓巳くんが忌々しげに言った。
「あいつの心配なんてしなくていい! 仕事行けるほどピンピンしてるわ!」
「あ……」
無事だと言われてホッと息を吐くと、後ろの真嶋さんが困った顔をしながら拓巳くんのほうに屈んだ。
「ピンピンじゃないでしょう。今にも倒れそうな顔してたよ。昨日は夜中、今日もキャンセルできなかった朝の仕事以外は、ずっとそこの廊下の壁際に立ってるんだから」
もう昼になるのに、と付け足されて僕はギョッとした
「なんで廊下に!」
すると拓巳くんが怒りも顕わに捲し立てた。
「ったりまえだろう! ついでにバケツでも持たせときゃいいんだ。あいつのせいでおまえはこんな目に遭ったんだからな。そう簡単に入れてなんてやるもんか!」
子どもの癇癪のようなセリフに僕は焦った。
「襲われたのは俊くんのせいじゃないよ。むしろ被害者でしょ?」
「おまえが遅れを取ったのは、やつがおまえを振り払ったせいだろうが!」
どうやらそこが一番、許せないらしい。けれど。
「俊くんにそういう態度を取らせた原因は僕だよ」
「……っ」
拓巳くんが言葉に詰まる。僕は目だけであたりを見回してから真嶋さんに目線を合わせた。
「ここ、病院ですよね?」
「ああ。かかりつけの横浜総合病院だ」
渡辺先生の病院だ。
痛む頭をこらえて状況を思い出そうとすると、表情で察してくれたのか真嶋さんが説明しだした。
「君は襲撃されてよろけたところを、運悪く後ろから来た自転車に跳ねられて、倒れざまに頭の右側を路肩の縁石にぶつけたんだよ」
「ああ……」
あの浮遊感。そのあとの衝撃。あれは自転車にぶつかった結果だったのだ。
「そのとき一旦、君は起き上がって、自力で自転車の男性に対応したはずなんだけど。覚えてないみたいだね」
「えっ?」
それは記憶にない。
するとパイプ椅子に座り直した拓巳くんが僕の手を握って言った。
「本当なんだ。俺が加勢した直後におまえは自転車にふっ飛ばされて、ヤローどもはその隙に逃げ出した。おまえは気を失っていて、俺たちは奴らを追いかけるどころじゃなくなった。けど自転車のおっさんが救急車を呼ぼうとしたら、おまえは頭を押さえながら起き上がって『大丈夫です』って言ったんだ」
「うーん。それで?」
記憶がない様子が気にかかるのか、拓巳くんは不安げな顔で続けた。
「おまえは『騒ぎになるとまずいから』とか言って、焦った様子のおっさんをさっさと帰らせた。そのあとホテルへ歩き出したら『気持ち悪い』とか言い始めて……」
ひとまず駐車場に戻って芳弘に連絡して、と話したところで拓巳くんは顔を歪めた。
「雅俊がすぐ病院に向かえって言うから車を出したら、ここに着いた途端、おまえが気を失ったんだ……」
そのときのことを思い出したのか、拓巳くんの顔が強張った。真嶋さんがそんな彼を宥めるように肩を撫でながら言った。
「すぐにCTやMRIを撮ってね。一応、重篤な要因はないって診断が下りたんだ。多分、脳震盪だと思われるからしばらく様子を見ましょうって」
タンコブができるくらいだからね、と真嶋さんは微笑んだ。
確かに、頭は外傷――タンコブができたり切れたほうが程度は軽いと聞いたことがある。
「昨日の夜は念のためICUにいて、今朝、問題はないってことで個室に移ったんだよ。君はそのときも一回、目を開けたんだけど、意識が戻った感じじゃなくてね」
「そうだったんですか」
全然覚えていない。
「脳震盪ではよくあるらしいんだ。けどしばらくぼんやりしてただけでまた意識がなくなってしまったから、拓巳が神経を逆立ててしまって」
眠ぼけてるのと同じだって先生が教えてくれたんだけどね、と真嶋さんが苦笑すると、拓巳くんは彼を見上げて噛みつくように言った。
「そんなのわかるもんか! 頭をぶつけたんだぞ! 原因がわからないまま意識が戻らなくなることだってあるっていうじゃねぇか!」
僕の手のひらを握る手が震えていて、彼がどんなに心を痛めていたのかが伝わってきて胸が熱くなった。
この人は、本当にいつもいつも、なんて純粋に僕のことだけを心に置いてくれるんだろう。
だからこそ。彼を説得するのは僕の役目だ。
僕は空いた手を伸ばして彼の手に重ね、こちらに顔を戻した拓巳くんに微笑みかけた。
「大丈夫、僕はちゃんと戻ってきた。どこかに消えたりしないよ」
拓巳くんの表情がホッとしたように緩む。
けれども「だからお願い。俊くんを入れてあげて」と続けた途端、表情を険しくした。
「嫌だ。今度ばかりは許せない」
「……そう。じゃあ仕方ないね」
一瞬、脇に立つ真嶋さんの体が揺れた。けれども僕が起き上がろうとすると、すぐに意図がわかったようで、背中に手を添えて支えてくれた。
「まだ動くな! 芳弘、なに手伝ってんだよ!」
拓巳くんが肩に手をかける。僕は頭を揺らさないように気をつけながらそれを押しやった。
さすがにまだ視界がクラクラする。
「だって。拓巳くんが嫌なら僕が行ってあげないと」
いててと頭の右側に手を当てながら、布団から足を出そうとすると、目尻を吊り上げた拓巳くんは珍しく怒鳴った。
「和巳! ふざけるなっ!」
「ふざけてないよ」
僕はベッドに腰かけるようにして拓巳くんと向き合った。
「拓巳くんが僕を心配してくれたように、俊くんも心配してくれていると思う。だから顔を見せないと。でないと今日も寝てもらえなくなっちゃう」
「あんな、朝になったらさっさと仕事に行けるようなやつにそんな殊勝な神経なんてねぇよ!」
「うん。ホント平気に見えるよね。でも僕はもう知ってるんだ」
僕を排除していた一ヶ月間、まったく機能していなかった目黒のマンション。
「高い実績があるから俊くんは仕事を選ぶことができる。お陰で拓巳くんは嫌な仕事を避けられる。けどそれは、俊くんが相手の信用を裏切らないからだよね?」
目を逸らさずに見つめると、拓巳くんは苦い顔で顎を引いた。
「朝までいたなら僕の命に別状はないって判断したんだ。だからあとのことを考えて外せない仕事に行った。多分、今日の拓巳くんに時間を作るために行ったんだと思うよ」
「………っ」
心当たりがあるのだろう。拓巳くんは顔を逸らした。
「そういう判断を冷静に下すところが拓巳くんは気にくわないんだろうけど、心配事があるときはご飯が喉を通らなくなる人だって知ってるから」
それに、と僕は苦笑した。
「こんなこと言ったら怒られそうだけど、俊くんのそんな天邪鬼なところも、僕には愛しく思えるんだよ」
そうして布団から出ようとすると、拓巳くんが僕を押しやって「ちくしょうが!」と立ち上がった。
「まったく! おまえは雅俊に甘すぎる!」
彼はくるりと体を翻すと荒々しい足取りでドアに向かった。
「そんで俺はおまえに甘すぎるんだよ! ちくしょう!」
――あ。
「拓巳くん!」
僕の呼びかけにも答えず、彼は看護師さんから苦情がきそうな勢いで病室の引き戸式ドアを開け、そのまま出ていった。
「えーと……」
ゆっくりと自動で戻るドアを目で追ってから真嶋さんを見上げると、彼は笑いながら屈み込み、僕の肩をゆっくりと倒して足を布団に入れ直した。
「よかったね。雅俊を呼んでくるよ。渡辺先生にも伝えておくから、時間があるならそこのソファーで休んでいくように言ってあげて」
拓巳を拾って中庭でも散歩してくるねと付け足し、彼はドアをそろりと開けて出ていった。
しばらく目を閉じていると、ドアが再び開く音がし、やがて枕元に人の立つ気配がした。
そのまま動かずにいると、ひんやりとした指先がそっと頬に触れ、唇をなぞった。
なんだかくすぐったい。
少し身じろいでからうっすらと目を開けると、すぐそばに予想通りの顔が、けれどもあまり見たことのない表情でこちらを覗いていた。
途方にくれている?
まるで知らない道の真ん中で身動きがとれなくなった迷子のようだ。
「俊くん……?」
不思議に思って声をかけると、彼は一瞬、目を見開き、次いでそろそろと頬に手を添えてから唇を重ねてきた。
指の冷たさとは裏腹に、柔らかい感触が熱を伝えてくる。
「……、…」
彼は何かを確かめるように僕を探り、やがて唇を離すと、パジャマの襟をつかんで突っ伏した。
「俊くん……」
巻き毛の頭を撫でながら声をかけると、胸元に頬をつけた俊くんは深いため息を吐いた。
「俊くん、大丈夫だった? 脇腹は蹴られてない?」
ぐったりと力を抜いた姿に一番の気がかりを訊ねると、彼はゆっくりと首を持ち上げ、僕を見て首を横に振った。
「……許してくれ」
なんだか泣きそうな顔にも見える。
「何を? 俊くんが僕に謝ることなんて何もないよ?」
心の底からそう思って伝えると、彼はもう一度首を振り、そして僕の頬を撫でた。
「おれの心が狭いばっかりに、危うくおまえを永遠に失うところだった……」
久しぶりに注がれる愛しげな眼差しに、胸の奥底がじわっと温かいもので埋まる。
ああ、怪我も無駄じゃなかった。
喜びと安堵に包まれた僕は、しかし次の言葉で「ん?」となった。
「おまえがどんな道を選んで誰に心を移そうと、この世からいなくなることに比べれば些細なことだったのに……」
ちょっと。それはどうなんだろう。
「俊くん。あの」
「いいんだ。よくわかったから。おまえが現世にいる。それだけで十分だ。もうおれに気を使う必要はない。心配するな」
おまえの行く末を妨げるような愛し方はしない、と俊くんは切なそうに笑った。
「おれはいつでもおまえを見守っている。だから安心して羽ばたいていけ」
………どこへ?
彼は名残惜しげに頬を撫でると目を瞑り、「じゃあ」と振り切るように顔を背けた。僕はサッと――かなり頭がズキズキしたけれどそれどころではなく――うなじを捉えると少々強引に口づけた。
「っ、――、……」
驚いたような俊くんの体からやがて力が抜け、僕は少し息を弾ませながら唇を離した。
「なんで旅立つ設定なの! 僕の未来はあなたのものだって言ったじゃん!」
俊くんは気まずげに目を逸らした。
「それは、だっておまえはGプロで、秋からは……」
まだ亜美さんのことをそんな風に!
一瞬、頭に血が上りそうになり、曇った表情に気づいてハッと我に返る。そこにはどれだけ説明しても拭えない不安があった。
落ち着け。これすべて、僕が最初の対応を間違えたせいだ。せっかく(彼なりに)歩み寄ってくれたのだから今度こそはしくじるまい……。
痩せた背中をガッチリとホールドしつつ、僕は俊くんに言い聞かせた。
「僕は未熟者なので、こんな深いキス、心に決めた人としかできません。その昔、浮き名を流していた時期があるというアナタの常識では違うのかも知れませんが」
Gプロの社員さんたちから聞いてますよ、と睨むと、俊くんはバツが悪そうに目を泳がせた。
「だいたい、亜美さんの付き人の件は仕事でしょう。これが心移りと取られるなら、あなたと拓巳くんはどうなるんです」
拓巳くんの治療のほうがよっぽど問題でしょ、と低い声で告げると、俊くんは慌てたように顔を戻した。
「あ、あれは、だって全然違うっ」
僕はすかさずその顔に手を添えた。
「そう。全然違うんだ。引っかかるのは理解するけど、これ以上は勘弁して」
彼はしばらく上目使いでこちらを見、やがて再び胸に顔を伏せた。
「じゃあ、いいんだな……おれで」
最初からあなた以外のヒトなんて誰も見てません、とは言わずに僕は答えた。
「ごめんね。そもそもの発端は、僕が絵を描けなくなった理由を隠したからだ」
「………」
パジャマの襟をつかむ力が強まり、僕は頭を手のひらで撫でた。
今だ。今こそ説明しなくては。
一度目を瞑り、心を定めて口を開く。
向井先生。どうか先生の陽気な力を貸してください。
「僕ね。フラッシュバックを起こすようになっちゃったんだよ」
「………えっ?」
俊くんは一瞬、何を言われたかわからないといった顔をした。僕は背中の腕を解くと、こちらに寄せられた頬を包んだ。
「パネルの絵を見るとね。目眩と吐き気がして筆を持っていられないんだ」
「パネル……?」
「うん。変だなって気づいたとき、すぐに描くのをやめればよかったかもしれないんだけど……」
原因になかなか辿り着けなかった僕は、コンクールのために筆を取り続けた。
「自分でも何が起きたかわからなくて。コンクールの作品を仕上げるのに手一杯で、症状を悪化させちゃったんだ」
俊くんはハッと顔を上げた。
「だからコンクールの結果が悪かったのか!」
「うん。ごめん。あのときに、正直に伝えるべきだった」
みんながツアー準備に明け暮れる中、自分でも理解できない曖昧な感覚のために時間をもらうことを遠慮した。それが弟子としても、また伴侶としても一番の過ちだったのだ。
「原因がわからないまま、我慢して何度も無理やり絵筆を持ったから、これがフラッシュバックだって気づいたときにはもう、他の絵を見るのも難しくなってて」
「……まさかアトリエの」
俊くんは思い出したように目を見開き、しかし眉根を寄せた。
「でも小夜子のと、おれのあの三枚は……」
言いかけて、答えを探すように口を閉じる。僕はその顔を見つめながらあのときの気持ちを思い出した。
最後の砦になった三部作『花』。あの絵を見て、絶望しそうな心を慰めた日々。
「……おまえが残したのは、みんな額装が凝ったやつだ……」
ほら。俊くんにはすぐにわかるんだ。
僕は頷き、彼を促してゆっくりと起き上がった。隣に腰かけた彼に支えられ、目眩をやり過ごしてから姿勢を直す。
「いったい何が原因でフラッシュバックなんて……」
言いかけた俊くんはふいに顔色を変え、僕を見つめて目を見開いた。
「まさかあの日の、あれが原因なのか。零史……っ!」
肩をつかみ直され、僕は頷いた。
「木製パネルの絵がね。飾ってあったよ。あの部屋に」
「―――!」
オニキスの目が極限まで見開かれ、華やかな顔が色を無くす。それは彼がすべての意味を悟った瞬間だった。
この表情を見るのが辛すぎて、僕は今日まで躊躇したのだ。
なぜ、進路を変えざるを得なかったのか。
それをなぜすぐに打ち明けることができなかったのか。
でも、これを言わずにいたことで失いかけたもののほうが遥かに大きかった。だからもう、逃げるわけにはいかない。
華やかで美しい、けれども衝撃に青ざめた顔を、僕はそっと手のひらに包んで微笑んだ。
「ごめんね。すぐに言えなくて。そのせいでひどく傷つけてしまった」
「――違う。おれのせいだ。……おまえはそれを隠したくて……っ」
俊くんが声を詰まらせる。その苦しげな顔を見つめながら僕は首を横に振った。
「それもね。少し違うんだよ」
確かに、最初はそれが一番気がかりだったけど、今ならそれだけじゃなかったのだとわかる。
「あまりに情けなくて悔しくて、僕は素直に助けを求めることができなかった。あの男に負けたことを認めたくなくて、自力で解決しようと足掻いて結果をさらに悪くしたんだ」
負けて当然だ、と頬から手を外すと、すぐに腕が背に回された。
「……和巳……っ!」
圧し殺したような呻き声とともに、肩に頭が伏せられる。その背中を抱き返しながら僕は話を続けた。
「今はまだ、僕はあの男の仕打ちに負けている。けど、負けたままでいたくない。絵は、どんなに時間がかかっても必ず取り戻してみせる」
実際、小さめのパステル画や色鉛筆画ならまだ描けるんだよと耳にささやくと、俊くんは驚いたように顔を上げた。
「筆も使わないし、手応えもある。もちろん、それだけで身を立てるのはとても無理だけど……」
「……だから、進路を変えるけど弟子はやめないと」
小さな声で訊かれ、僕は頷いた。
「無理せずに慣らしていけば、今の症状も改善されると思う。こんな弟子で許されるなら、僕は蒼雅先生の弟子でいたい」
いいでしょうか、と真剣に訊ねると、俊くんはどこか痛みをこらえるような表情で頷いた。
よかった、とため息を吐き、僕は表情を改めて僅かな隙間ができているドアに顔を向けた。
小さな覗き窓の向こうに、さっきから揺れる人影がある。
「それとは別に、僕は石川町へ行こうと思ってます。相談したいので入ってください、真嶋さん。拓巳くん」
「―――!」
俊くんが弾かれたように僕を見、そして後ろを見る。何かを振り切るようにして先に飛び込んできたのは拓巳くんだった。
「和巳っ、おまえ、……っ」
今にも爆発しそうな感情を抑えているのがわかる。
言葉に詰まるうちに真嶋さんが駆け寄り、拳を握りしめている彼の腕をサッとつかんだ。
「落ち着いて拓巳。ここは病院だ。いいかい?」
真嶋さんは肩にも手をやって押さえると、こちらを見下ろしてあたりを憚るように訊いてきた。
「ごめんよ。聞かせてもらってしまった。今の話は本当なんだね? 絵が描けなくなった原因が、……」
おそらく拓巳くんが踏み込むのを阻止するために、ドアを少し開けて聞かせていたのだろう。
僕は顔を戻した俊くんの視線を頬に感じながら、真嶋さんを見上げて頷いた。
途端、拓巳くんが激しく身を捩った。
「離せ芳弘! あの野郎、ブッ殺す!」
「だめだよ拓巳!」
「拓巳くん!」
声を上げた途端、頭の右側に激痛が走る。背中を丸めた僕を俊くんが支えた。
「やめろ拓巳! おまえがやらかすと和巳がダメージを食らう!」
俊くんが声を上げ、真嶋さんが「和巳のためだよ!」と宥める。上目使いにそちらを見やると、拓巳くんはもがくのを止めて僕を見た。
「―――っ」
その目が悔しげに歪み、ギュッと閉じられる。
俊くんが唸るように言った。
「おまえじゃない。零史をぶちのめすのはおれの役目だ」
「冗談じゃねぇ! おまえには譲らねぇぞ!」
拓巳くんが激昂する。僕は二人を交互に見ながら言った。
「だめだよ二人とも。それは僕の戦いだ。あの人は僕に来いと言ったんだからね」
拓巳くんが肩を怒らせて僕に詰め寄った。
「おまえ、頭ぶつけたせいで記憶回路イカれてるだろ。あの男はおまえを狙ってるんだぞ」
「わかってる。でも僕が行く。喧嘩しにいくんじゃない。話を聞き出すために行くんだ」
「話だと?」
「そう」
僕はこちらを凝視する俊くんを見、再び拓巳くんに戻した。
「あの高山か、それとも他の人なのか。誰がどんな理由で俊くんを襲えと依頼したのかを聞き出す。それが僕にとっての勝利になるんだと思う」
そして色々調べているはずの真嶋さんを見た。
「あの零史という人は僕を舐めている。僕が行けば口も軽くなると思います」
「やめろっ」
俊くんが引き戻すように僕の両肩をつかみ直した。
「そんなことどうだっていい! あいつには近づくな」
「嫌だ」
僕は間髪を入れずに俊くんを見た。
「昨日の男は間違いなく俊くんの脇を狙ってきたんだよ。たまたま自転車が割り込んできたから運よく無事で済んだんだ。危険が迫っているとわかったんだから、すぐにでも手を打たないと」
「そのせいでこれ以上、おまえに何かあったらおれは……っ」
「その言葉、そっくり返すよ」
僕は間近に迫る俊くんの顎に手のひらを添えた。
「あの男は僕があなたのものであると承知していて、僕を嬲ったことをわざと思い出させてから知りたいなら店に来いと言った。つまり試してるんだよ」
「だとしても」
俊くんが苦しげな表情で僕の肩に伏せたとき。
「そういうことなら俺に任せろよ、高橋」
聞き覚えのある軽快な声がドアのほうからかかった。
――えっ!
目を向けたそこには、いつの間に入っていたのか気配を消した様子の祐さんと、いつものスーツではなく、ロックファンがよく着ているようなブラックデニムにプリントTシャツ姿の向井譲がいた。
「向井先生!」
前髪を下ろした長めのザンバラ髪といい、どうやらこちらのほうが本人の人柄にぴったりだ。
すると真嶋さんがハッとして二人を振り返った。
「祐司。ごめん」
そのバツの悪そうな様子に、廊下にいたのは真嶋さんたちだけではなかったのだと悟った。
途中で鉢合わせたかして、彼らとここに来たものの、漏れてきた会話内容のせいで拓巳くんを抑えるのが精一杯になり、彼らのことを失念していたのだろう。
じゃあ、先生も聞いてたんだ。
どんな顔を向けるべきか焦っていると、俊くんが牽制するように向井を見上げた。
「譲。どうやってここに入った。任せろって何をだ。興味本意で首を突っ込む気なら容赦しないぞ」
「おっと。誤解しないでくれよマース」
向井はまあまあと手のひらをこちらに向けた。
「別に野次馬根性出してるわけじゃないぜ。俺の参加はユージの保証付きさ。その説明はのちほどするとして、ちょっと失礼」
彼は俊くんをいなすと、僕に向き直って少しむくれた顔をした。
「高橋。情報は正確に伝えてくれないと困るぜ」
「えっ? あ、すみません。夏休み中だったので連絡はいいかと」
側頭部に手をやって目線を泳がせると、「怪我のことじゃないっ」と向井は眉根を寄せた。
「プライベート状況だ。相手がマースじゃ無理もないが、二人の関係をちゃんと打ち明けてくれていれば、俺は別のアプローチを提案したぞ。師匠ならまだしも、恋人に事実を伏せておこうなんて無謀かつ失礼な作戦には同意しなかった」
おかしいとは思ったんだと愚痴られ、思わず赤面する。
「すみません。僕の一存では明かせないことだったので……あの、でもそんなに違うでしょうか」
師匠と弟子は家族のようなものだって、と言いかけると向井は「全然違うわ」と口を尖らせた。
「家族ったって師匠は親だろ。恋人とじゃそもそも立ち位置が違う。ましてや秘密なんて隠し通せるはずあるか。絶対感づかれるわ。いいか高橋。ただでさえヤローの秘密なんて恋人には百パーバレる。マース相手にそんなムダなアドバイスしないぜ」
腰に手を当てて見下ろされ、僕が首を竦めると、会話を聞いていた俊くんと拓巳くんが僕に強い目線を注いできた。
「譲にまで打ち明けていたのか……っ」
「俺には隠してて、向井に……っ!」
過去の記憶に照らし合わせてなのか、俊くんには傷ついたように、拓巳くんには眉を吊り上げて言われ、僕は体を縮めて「ごめんなさいっ」と謝った。
「おいおいお二人さん。責めるのはお門違いだぜ」
すかさず向井が割って入った。
「俺は打ち明けられたんじゃない。見破って言い当てたんだ。こちとら生徒指導のプロなんでね。挙動不審に陥ったやつは見逃さないさ」
その点、あんたらは基本、自分が世界の中心って性格だよな、と向井は少し厳しい顔になって腕を組んだ。
「いくら隠すのがうまくたって、所詮は十七、八の若造なんだぞ。あんたら二人は人生の先達だろうが。責めるなら、内面まで読み切れなかった自分の観察能力のなさを反省してからにしろよ」
「………っ」
俊くんが俯き、拓巳くんが顎を引く。
二人を黙らせた向井は僕に目線を戻すと、表情を崩して人差し指を立てた。
「まあ、埼玉のリハでおまえとマースのやり取りを目撃しながら、恋人同士だって見抜けなかった俺もたいしたことはないけどな」
やっぱ先入観が邪魔したよなー、と顎に手をやりながらぼやかれ、僕はつい本題を脇に置いて訊いてしまった。
「それは年も立場も釣り合わないから、想像できなかったってことでしょうか」
向井は目をぱちくりさせた。
「年? んなもんで俺様が誤魔化されてたまるか。師弟関係のことに決まってんだろ。だいたい十五も過ぎりゃ、ヤローなんてみんな発情期だ。オマエに誰か深い仲の相手がいるなんてのはとっくに見抜いてたぜ」
「えっ」
そうなの? と顔をひきつらせると、彼はニヤッと笑った。
「社会人を舐めるなよ。おまえは親が芸能活動してる影響で迂闊に女子を寄せつけない。かといってストイックなわけでもなく、妙に大人びた落ち着きと色艶がある。多分、バイトで関わりのある、おそらくは年上のきちんとした人と恋仲なんだろうとは予想がついていたさ」
「………」
そこまでわかるのか。
「そんでもってマースは」
と向井は俊くんを見た。
「恋人がいる。それも男だ、とは思ったんだよな」
この二つが結びつかなかったんだもんなー、と向井が悔しげに頭を掻くと、俊くんが不機嫌な声を発した。
「なんでコンサートでのおれを見てそんな判断になるんだ。おかしいだろ」
確かに。彼はいつもと変わらずサービス心旺盛で、ファンの女の子たちからも絶えず嬌声を浴びていた。
すると向井はいやいやと指を振った。
「あんた変わったよ」
「変わっただと?」
「俺は昔を知ってるからさ。近くで見てわかったんだ。ずいぶん柔らかい表情するようになった」
昔は迂闊に近寄ったら刺されるような雰囲気があったよな、と向井は懐かしむような目になった。
「いくら見てくれが可愛くても、あんときゃ女には見えなかった。けど今は違う。ユージやマネージャーと雑談してるときなんか、時々フッと柔らかい雰囲気が滲むんだ。あれは望みの相手を獲得した男の顔じゃない。どっちかっていうと待ち望んだ相手に愛されている女の顔だ」
「………っ」
それはアイデンティティーに触れる指摘だったからだろう。衝撃を受けた様子の俊くんは顔を強張らせた。向井も気がついたようで、「そんな顔しないでくれよ」とすぐに胸の前で手を振った。
「マースが変わっちまったとか言ってるんじゃないぜ? ステージでのあんたは相変わらずパワフルでスゴいよ。その原動力がプライベートの変化にあるなら、それがあんたの自然なんだからいいんじゃないのか?」
「自然――」
「だってあんたはどっちの性別も無理に選ぶつもりはないんだろう? 俺は、邪魔するやつはみんな敵だみたいな目をしてたあんたが、いい感じに変われてよかったなって思ったぜ」
向井が笑顔で付け足すと、俊くんは考えるように押し黙った。
少し間を置いた向井は「だからよ」と僕をチラッと見ながら腕を組み直した。
「その変化に一番貢献したのが高橋だったってことだよな? 俺はその事実に心底感服したんだ。しかもスランプの原因になった男と勝負したいって意気込みを聞いちゃぁ、手を貸さずにいられるかい、って話なんだよ」
ニヤッと笑いながら親指を立てた向井に、しかし俊くんと拓巳くんから即座に罵声が飛んだ。
「それとこれとは話が別だ!」
「他人事だと思って調子こいてんじゃねえ!」
言いながら拓巳くんが向井の胸ぐらをつかもうとし、真嶋さんが泡を食ってその手を止める。
「待って。向井先生は祐司の指示で動いてくれていたんだよね?」
真嶋さんが困った顔で祐さんを見、祐さんが「まあ、そうだ」と苦笑して頷く。それを感知した向井は拓巳くんに胸を張った。
「そうそう。誤解してるようだが、俺はなにも出しゃばってるわけじゃなくてだな」
「十分、出しゃばってるわ!」
ちげーわ、話は最後まで聞けよ、うるせぇ、部外者は引っ込んでろ、などと上がる一方のボルテージはしかし。
「こりゃ! おまえさんらは患者の前で何をやっとるかっ!」
後ろからかかった渡辺先生の一喝によって終わりを告げた。