衝突
「雅俊を襲った金髪の男は高山芸能事務所のタレントじゃないようだ」
支度が終わった控え室の奥のテーブルで祐さんが言った。
「これを見てくれ」
スマートフォンを操作した彼は、横の拓巳くんやはす向かいの俊くん、その間に立っていた僕に見えるよう、テーブルの中央にスマホを滑らせた。
少し屈んで覗き込んだ画面には、黒いスーツの男が大柄な金髪の男と繁華街の路上で親密に話し込んでいる様子が写っている。
手前に立つ金髪の男がおそらく俊くんを暴行した相手だろう。
「そこは関内から石川町に続く裏通りで、黒いスーツの男がよく出入りする会員制クラブの前なんだ」
祐さんの反対隣から真嶋さんが言った。
「そしてその店のオーナーは、横浜を拠点にする暴力団と繋がっていると目されている人物なんだよ」
暴力団、とつぶやくと、真嶋さんが僕のほうを向いた。
「そう。この金髪の男が直接関わっているかはまだわからないけど、少なくとも知り合いではあるね。だからくれぐれも迂闊に動いちゃだめだよ」
特に石川方面にはね、と釘を刺され、僕は首を竦めながらも意見した。
「でも、だったら俊……雅俊さんの安全確保はどうなるんです。もしその男が暴力団と繋がっていて、彼に依頼されていたら、ものすごく危険なことになるんじゃ」
そもそもどうして俊くんが狙われるのか。
あの日、零史が言った言葉を俊くんは意に介さなかった。が、僕は心配で、翌週のバイトに入るとすぐ拓巳くんと祐さんに報告した。
そのとき、僕一人が出向けば依頼された内容を零史が教えてくれることは黙っていたのだが、詳しい話を確認されるうちに俊くんにバラされてしまい、僕はみんなから叱られてしまった。とりわけ拓巳くんの反応は大きく、一人で出歩くのも禁止されかねない剣幕で、下調べの中心を担う真嶋さんにまでこうして探りを入れられる始末だ。
「この金髪のほうの身元がわかれば、襲われた動機を含めた真相を知る手がかりに繋がる。あの達也とかいう男の話では、アマチュアバンド時代の仲間だったというから、康介に頼んでロックバンド仲間から情報を集めている。だからもう少し待て」
宥めるように言う祐さんに僕は反論を試みた。
「それはそれでお願いしておいて、石川町の店に行く手も考えていいんじゃないでしょうか。店は僕一人で行くにしても、すぐ外に誰が待機してもらえば……」
しかしすぐに隣から声が上がった。
「絶対にやめろ。まだ本当に雅俊が狙われているかどうかもわからないんだ。おまえを誘う口実かもしれないんだからな」
「でも、早く手を打つには」
すると俊くんが遮るように手を振った。
「あれはあいつのハッタリだと言ったろう。いちいち真に受けるんじゃない」
眉を寄せ、ジロリと睨まれて口を閉じる。テーブルに肘をついていた拓巳くんがクイッと頭を持ち上げた。
「なんだよ雅俊。その言い方は。おまえを心配してのことだろ」
「まだ起きてないことのために心配されたあげく火の中に飛び込まれたら、こっちが迷惑なんでな」
「なんだと!」
拓巳くんがつかみかかりそうになり、僕は慌てて間に割って入った。
「拓巳くん。俊くんの言い分はもっともだから」
浮き上がった肩を背もたれに押し返すと、僕は「でも」と俊くんに顔を向けた。
「まだ何もないからと言って、あの人の言葉を嘘と決めつけるのもおかしいよ。必要になれば僕はいつでも石川町へ行くつもりだよ」
「和巳!」
俊くんがこちらを振り向く。その目を正面から受け止め、なおかつ一歩も引かない気合いで見返すと、頬を紅潮させた彼はひとつ舌打ちし、ガタッと席を立って入り口のドアに向かった。
そのあとを追いかけるように続くと、ドアの脇で電話中だった沖田さんが慌ててスマホを耳から外して声をかけた。
「雅俊君。もうすぐ出番です。あと少ししたら会場へ移動しますから……」
「わかってる! ちょっと自販機まで行ってくるだけだ」
ドアに手を伸ばした俊くんに突っけんどんに言われ、沖田さんはすみませんと首を竦めた。
今日は夏の音楽祭と銘打った二時間スペシャル番組の収録日だ。
上半期に話題になった歌手はほぼ呼ばれていて、〈T-ショック〉も毎年声がかかる。
普段、この手の音楽祭は拓巳くんが面倒くさがるので辞退するのだが、今年は二十周年ということであらかじめ説得して参加を決めてあったのだ。
僕は俊くんに追いついてから声をかけた。
「会場に行く前に薬を飲んだほうがいいから早く戻ってきてね。なんなら持ってく?」
スーツのポケットから薬の袋を取り出すと、彼は「あとでいい!」と足早に出ていった。
沖田さんが気遣わしげな顔になり、僕は苦笑した。
「また誰かの挨拶とかに捕まらなきゃいいんですけど」
努めて明るく言うと、彼も合わせるように「そうなんですよね」と笑ってくれた。なにしろ滅多にない音楽祭への参加ということで、三十分ほど前まで同業のアーティストやタレントの挨拶がひっきりなしだったのだ。
午後いっぱいを使って行われる収録はコンサート形式で、会場は抽選に応募した二千人の観客で埋まっている。今日の夜八時からの放送なので半分、生番組のようなものだ。
様々なジャンルのアーティストたちが勢揃いしている中で〈T-ショック〉は最後から三番目、トリを勤めるのは司会も担当している人気男性アイドルグループで、二番目があの〈ファン・C〉、今日が最後のステージとなる亜美の卒業セレモニーが演出に含まれているのだという。
テーブルに戻ると、再び肘をついた拓巳くんが僕を見上げた。
「……おまえと雅俊は一体、どうなってんだ?」
雅俊が膨れっ面なのにおまえがおかまいなしってワケわからん、とぼやかれ、僕は俊くんが椅子の背もたれに置いていった衣装の上着を手に取った。
綾瀬さんの手からなる、夏のコンサートに使ったパールホワイトの華やかなジャケットだ。
「うん。大丈夫だよ。拓巳くんが一週間も通わせてくれたからだと思う。ありがとう」
――傷ついた俊くんを抱いた翌日の土曜日。案の定、彼は高熱を出した。
「いい。このくらい、たいしたことはない」
「だめだよ。そこで寝てて。絶対に起きちゃだめだから!」
覚悟していたとはいえ、赤みが差した顔はだるそうで、僕は今までの知識を総動員して一日を看病に費やした。
それにほだされてくれたのかどうか。
「平気だ」「いいから帰れ」などと言っていた俊くんも、その日が終わる頃には帰れとは言わなくなった。
翌日も同じように世話をして過ごし、熱がまだ下がり切らないのを確認して、僕は拓巳くんに泊まりの延長を願い出た。彼は半ば予想していたようで、「まあしょーがねぇ」と許してくれた。そして先週の水曜日までは目黒に泊まり、木、金は自宅へ、土日は再び目黒に行き、今週から普通の生活に戻ったのだ。
今日は水曜日、俊くんを手伝う日である。
「そりゃ具合が悪いとか言われりゃ俺だって。けどおまえがせっせと通うから、もう少し態度が丸くなってるのかと思ってたぞ」
仏頂面のまんまじゃねーかと言われ、僕は首を横に振った。
「いいんだ。見た目はそうでも中身がこの前までとは全然違うから。衣装だって、コンサートのときは触れさせてさえもらえなかったよ」
あのときは、僕が用意を手伝おうとしたときにはもう、Gプロのスタッフに言いつけて別の場所に移動してあった。今回はちゃんと以前のように僕が衣装の着替えを手伝っている。
「俊くんは、その気になれば僕なんていくらでも排除できる。それをあの一ヶ月で実感したよ。だから今はそばにいられるだけで十分なんだ」
「和巳……」
拓巳くんがちょっと切なげにつぶやき、真嶋さんが心配そうな顔で見つめてくる。
その様子が気になったか、沖田さんが後ろからためらいがちに言った。
「あの、雅俊君の態度が元に戻ってきているのは本当です。サポート係のスタッフたちが『雅俊さんがピリピリしなくなった』と言ってました」
僕も続けた。
「土日は結構、穏やかに過ごせたんだよ。用意したご飯は残さないし、お願いしたことはちゃんと聞いてくれたし。今日、ちょっと不機嫌なのは多分、あれだと思う」
そこで言葉を切ると、先を察した祐さんが言った。
「さっきの挨拶だな。柳沢亜美か」
真嶋さんが「ああ……」と納得し、拓巳くんが愚痴る。
「ちっ、焼きもちかよ。情けねーやつ」
僕は内心、「あなたは言えないのでは……」と思ったが、今回に限ってはそうでもないなと思い直して黙った。
先ほど榑林に連れられて他のメンバーと一緒に挨拶に来た亜美は、明らかに顔色が悪かった。
榑林マネージャーからは、あの事件のあとすぐに謝罪の電話が社長、本人、沖田さんから果ては僕にまでかかり、その慌てぶりは気の毒なほどだった。
お見舞いは本社で受けたのだが、どうやら高山プロダクション自体はあくまでも『個人的なトラブル』との解釈で、榑林マネージャーは一人で頭を下げに来たという。社長は亜美の移籍には影響させないとの判断を下したが、「どうも常識のない会社だな」と少々立腹したらしい。その辺りの情報が亜美の耳にも入り、あのような顔色にさせたのだろう。
そんな同情の気持ちで挨拶を返し、ドアの外に出て帰りを見送ったあと、部屋に戻ったら俊くんの機嫌が悪くなっていたのだ。
「一ヶ月前だったら、僕も声をかけられなかったけどね。一週間過ごすうちに実感したことがあるんだ」
それは表に出す態度と本音が違うことだ。本音を見分けるためには、行動だけに注目するのだ。
「だから気にしないで。不機嫌なときはちょっと時間を置けば大丈夫」
笑顔を浮かべてテーブルの面々に告げると、祐さんがフッと目を細めた。
「強くなったな」
それはなによりの誉め言葉だ。
「だが、石川町に行くことは慎重な判断が必要だ。いいな」
喜んだところでさらりと付け足され、僕は舌を巻く思いで頭を下げた。
「さ、そろそろ時間です」
とりなすように沖田さんが声をかけてきたとき、ちょうど俊くんが戻ってきた。
「あ、よかった。行く時間だそうだよ」
言いながら近寄って上着を着せかけると、俊くんは自然に腕を袖に通して素直に着せられた。祐さんと真嶋さんが目線を交わし、拓巳くんが呆れたようにため息をつく。
「……なんだよ」
「さあ? なんだろうね」
俊くんが不審げにテーブルの席を眺め回すのを遮るように肩を押し出し、僕は会場に向かうべく廊下に出た。
◇◇◇
薄暗い舞台袖に設置されたモニター画面の中、きらびやかなジャケットを着た司会者のアイドル三人組が、ステージの隅に出てきて興奮も顕にトークを始める。
『いやぁ~スゴかったですね! 〈T-ショック〉の皆さんの生演奏は』
『僕、さっきのトークでマイク向ける手が震えちゃいましたよ』
やや小柄な青年がはしゃぐと、右端の端整な顔をした青年が少し身を乗り出した。
『トモキ君は前から憧れてたもんねー』
『だってイクヤ君。僕が小学生の頃にはもうスターだった人たちだよ! なのにうちのカイト君のほうがふけて見えたよ!』
真ん中に立つ、長身の青年が頭を押さえる仕草をする。
『えー、ボク君たち二人より年下なんですけど!』
『でも、負けてたよね?』
カイトがハイそうです、とうなだれると、会場がドッと笑いに包まれた。
モニター画面の端では、証明を落としたステージの奥で、次のセットとの入れ換えのために大勢のスタッフが働いている様子が映っている。次の出番は〈ファン・C〉――亜美だ。
画面に映る司会者たちのそばに華やかな衣装の女の子が何人も現れ、会場がまた歓声に包まれた。
「和巳、戻って来たよ」
ふい真嶋さんに肩を叩かれてハッと顔を上げると、演奏を終えた拓巳くんたちが袖に引き上げてきていた。
「お疲れさまでした」
拓巳くんや祐さんは真嶋さんに任せ、俊くんにタオルを渡す。彼は無言で、けれども僅かに頷いてからタオルを手に取った。
「お、和巳。見てみろよ」
ペットボトルの水を一口飲んだ拓巳くんが、画面を凝視しつつ僕の肩を叩いた。振り向いて覗いた先では、六人のメンバーの前に亜美が立ち、司会者のトモキが何か話しかけている。その横でカイトが拍手をし、イクヤが新たな人物を隣に招いていた。
『今日は亜美ちゃんの最後のステージということで、サプライズゲストをお呼びしました。女優の白川皐月さんでーす!』
ざわめきと拍手が会場に満ちる中、亜美が驚いて口元を手で覆う。ホスト役のイクヤに促され、薄紫のサマードレスを着た白川皐月は、美しい所作で手に持っていた小さな花束を亜美に渡した。
『皐月さん。亜美ちゃんに一言お願いします』
カイトにマイクを向けられた皐月は微笑んで亜美を見た。
『卒業という形で新たなステップに挑戦できる幸せを皆さんに感謝して、これからも頑張ってください』
さすがは女優と言うべきか。巻き髪を緩くアップした姿は優美で、亜美に向ける眼差しは慈愛の母親そのものだ。そのギャップに、僕はかえって背筋を寒くした。
次にマイクを向けられた亜美は、ピンク色の唇を震わせてやや上ずった声を出した。
『あの、ありがとうございます。ホントに、あの……』
明らかに動揺している様子は、しかし会場や司会者たちには感極まった風に映ったようだった。
「………」
言葉もなくステージから消える白川皐月の姿に見入っていると、すぐ脇で唸るような声がした。
「さすが。裏の顔を微塵も感じさせない演技だな」
目を脇に向けると、俊くんが画面から目を逸らすところだった。一緒に覗いていたようだ。
「やっぱり演技なの?」
つい聞き返すと、彼はムッとしたように眉根を寄せた。
「あの女優とは、前にドラマの主題歌を手掛けた関係で居合わせたことがある」
そのときの様子とはずいぶん違うと言うわけだ。
「このあとの打ち上げが見物だな」
戻るぞと踵を返され、遅れないように足を早めながら、僕は何かにのしかかられたように気が重くなった。
もしあの人が打ち上げに呼ばれているなら、亜美は一時も気が抜けないだろう。
すると前を行く俊くんがくるりとこちらを向いた。
「気になるんだったら顔を見せてやったらどうだ? おまえに励まされたら彼女も嬉しいだろうよ」
黒目勝ちの目が暗い光を放っている。僕はグッと気を引き締めた。
今はまず、彼の信頼を取り戻すことに集中しなければ。
「移籍してくるまでは、そういうことはしないよ」
言いながらあえて目の前に立つ。
「前に横浜に住んでいて、同窓生でもあるみたいだから、応援しようとは思うけど。今の僕にプライベートの時間まで割いてる余地はないよ」
言外にプライベートで関わるつもりはないと伝えたのだが、彼は気に食わない様子で切り返してきた。
「そんなに忙しかったか? だったらおれの手伝いなんてしなくていいぜ」
ほっそりした顔に皮肉げな笑みが浮かぶ。僕はその目元に落ちかかる一房の髪を摘まむことで会話を一旦、止めた。
この態度を読み違えてはいけない。
心に言い聞かせ、自分を奮い立たせる。
言葉には刺があるけれど手は振り払わない。大丈夫、頑張れ。
「……忙しいよ。怪我も治らないうちに歩き回る人が伴侶なので。そばで見張ってないと安心していられない」
そうしてそっと指先で髪をよけながら黒い瞳を見つめると、彼は投げつける言葉を探すように口を何回か開閉したあと、ふいっと顔を背けて「もうたいして痛くない」とつぶやいた。
ほら。怒らなかった。
「僕は心配なので」
少し勢いづき、さ、行こうと話を切り上げて軽く肩を押す。
そのまま控え室へと続く廊下に出ると、前方にある舞台袖の出口から人影が二人ほど姿を現し、足早にこちらへと向かってきた。
「あれは……」
俊くんがこぼす。
薄紫のドレスをさばいて先に立つのは白川皐月、あとに続く白のスーツは高山だった。
なにやら言い交わす声が聞こえてくる。
「……なにもあなたがいちいち運転手の真似事をしなくても」
「遠慮はいりませんって」
どうやら不機嫌な様子の彼女に高山が阿っているようだ。
「だって珍しいじゃないですか。皐月さんが娘のために時間を割くなんて」
「バカ言わないでちょうだい。ドラマの番宣よ。イクヤ君に頼まれたからに決まってるでしょう」
「おやおやさすがだ。イケメンの頼みなら、目障りな娘にも笑顔で花束を渡せるんですね」
「当然よ。女優ですもの」
聞こえてしまった会話に胸が悪くなる。
まったくなんて親なんだ。
俊くんの耳にも届いたのか、冷めた眼差しを向けている。
足を止めた僕たちの横を二人が通りすぎていくとき、ふと高山がこちらを認めて目を眇め、次いで小さく舌打ちした。
「――んだよ。ピンピンしてんじゃねえか」
なぜかそのつぶやきがはっきりと聞こえ、僕は咄嗟に高山の前に腕を出した。
「待ってください。それはどういう意味ですか」
腕にぶつかった高山は険しい表情でこちらを向くと、僕のネクタイに手をかけてシャツごとグイッと引いた。
「なんだ青二才。俺を止めるたぁいい度胸だな」
まったくもってヤクザにしか見えない剣幕だったが、僕の脳ミソにも火がついていたので怯みはしなかった。
「何度でも言います。ピンピンしてんじゃねえかってどういう意味ですか。雅俊さんが無事だとおかしいような口振りですね」
「なんだてめぇ。確かこの前も店にいやがったな。連中のマネージャーか。若造のくせに偉そうな口利いていいのかよ」
「質問に答えてください。なぜ彼が無事だとおかしいんです。痛めつけるよう頼んでおいた手下が成果を上げてなくてガッカリしましたか」
胸ぐらをつかまれたままで高山の目を見返すと、彼は一気に顔を紅潮させて凄んだ。
「てめぇ! なんの言いがかりだよ。舐めてんじゃねえぞ」
その息巻いた様子に僕は確信を持った。
この男、絶対関わってる。
「人は図星を刺されるとカッとなりますよね。あなたの態度が答えを教えてくれてますよ」
もっとボロが出ないかと挑発的に言うと、彼は茹でタコのように赤くなってネクタイの縛り目を引っ張った。
「ふざけんな小僧! おまえだな。榑林が目をつけた〈T-ショック〉の付き人ってのは。態度を改めねぇとうちの亜美の移籍、てめぇのせいにして取り消すぞ!」
首が一気に締めつけられる。――けっこう苦しい。
「やめろっ!」
脇から俊くんが手を伸ばして高山の腕を振り払おうとしている。が、高山は構うことなく僕の首を締めつけた。
「そうなったらおまえの首なんか簡単に飛ぶよなぁ!」
僕をGプロの若手スタッフと思い、大物アイドルの移籍が脅しになると踏んでいるのだろう。しかし僕にそれは当てはまらない。
苦しい呼吸の中、いっそそのへんの事情を明かしてやろうかなどと危険な方向に思考が傾きかけたとき、冷静かつ冷淡な声が後ろからかかった。
「いい加減にしてちょうだい、肇さん。こんな人目につくようなところでみっともない」
少し先で止まっていた白川皐月が、こちらを振り返っていた。
彼女は軽く腕を組むと、赤い唇の端をつり上げるようにして笑った。
「タレントがベテランの場合、付き人の態度はそのタレントに準じるのよ。そんな躾のなってない子、相手にしてもしょうがないわ」
さもバカにしたような目線を俊くんに向けられ、熱くなっていた頭が一気に冷える。
僕の表情をどう捉えたのか、高山は溜飲を下げたようにと顎を逸らして手を外すと、嫌な笑みを浮かべた。
「あー、まあ、そうですねぇ。この落とし前は目上の方につけときましょう。さしあたっては亜美の譲渡金に上乗せさせてもらうかな」
これ見よがしにうそぶく高山に、しかし俊くんはフッと笑った。
「何がおかしい!」
「いやはや、ここまで自分本意に生きられるって羨ましいわ」
そして激昂する高山を無視して白川皐月に歩み寄った。
「じゃ、あんたがこのどう見ても頭の悪そうな男を躾したってことか。そりゃ大変だったな。けど、それを棚に上げて人のスタッフを扱き下ろすのは感心しないぜ。誰が聞いたってあんたが笑われる」
言外におまえの躾のほうがよっぽどひどいと言ったようなものだ。しかし皐月は薄笑いを浮かべたままだった。
「榑林が言ってましてよ。〈T-ショック〉の、特にリーダーさんが若手のマネージャー候補を手離さずに出世を妨げているようだって。確かに、こんな躾けの仕方じゃせっかくの才能も宝の持ち腐れじゃないかしら」
何かの折りの会話か、榑林マネージャーがまだ僕の立場を知らなかった頃のセリフと思われる。
俊くんはスッと目を細めて言い返した。
「産んだ子どもを放り出したあげく、他人に育てさせてから金づるにして売ってるあんたが言うなよ。まだ肋骨が痛いんで笑うのは勘弁なんだ」
「……っ!」
痛烈な皮肉に白川皐月はサッと顔色を変えた。
「……一生、子どもに縁のない性別不詳者に言われる筋合いではないわ。その脇腹の怪我を順調に治したいのなら、人の事情に口を挟むような言動は控えたほうが身のためよ」
―――!
俊くんの目元が僅かに歪む。
これは黙っていられない!
「それはどういう意味ですか!」
足を踏み出しかけたそのとき、横合いから落ち着いた声が廊下に響いた。
「今の発言、録らせていただきました。彼に何かあったときは差別及び恐喝の証拠として提出させてもらいましょう」
振り返ると、高山の背後に祐さんが張りつき、その横で真嶋さんがスマホをかざしていた。
「売り言葉に買い言葉だとしても物騒ですよね。どうぞ続けてください。充電はまだ余裕ありますので」
うっすら笑みを浮かべる姿は、高山を無言で見下ろす祐さん以上に恐ろしい。
「………っ、」
白川皐月はひきつったような顔で顎を引くとサッと踵を返した。
「あ、あんたら、覚えてろよ!」
高山が喚きながら続く。
引き際までヤクザそのものの姿であとを追う高山から目線を移すと、こちらに歩み寄った真嶋さんがちょっと顔をしかめた。
「こんな廊下の真ん中で君たちは何をやってるんだい? 拓巳を遠ざけるのに苦労したんだよ?」
まったくその通りである。
「すみません。あの、拓巳くんは?」
上目使いに聞くと、祐さんが答えた。
「マネージャーに頼んで迂回させた。反対側の通路から控え室に向かったはずだ。もうすぐ次の連中が出てくるから長居は無用だぞ」
さ、行くよ、と真嶋さんが俊くんの肩に手を添えて促す。歩き出した祐さんに続こうと顔を上げたとき、目の端に何か白いものがひらりと翻った。
足を止めて振り返ってみたが廊下には誰もいない。
「………?」
今、誰かいた気がしたんだけど。
「和巳。早く」
再び祐さんに促され、僕は気のせいかと思い直して再び歩き出した。
その事を思い出すのは、もう少し先になる。
「やっぱりやめようよ。出席は強制じゃないし。あの人の発言、あれは絶対ただの買い言葉じゃないよ」
地下駐車場の出入り口近くの通路で立ち止まると、眉根を寄せた俊くんは僕を通り越した。
「これは仕事だ。打ち上げには音楽関係者が顔を揃えると言ったろう」
僕は鞄を持ち替えてあとに続いた。
「でも怪我も治り際なんだから、無理に顔を出さなくてもみんな承知してくれるよ」
あれからまだ十日しか経っていないのだ。
「くどい。邪魔するなら帰れ」
「………」
取りつく島もない様子に肩を落とすと、後ろからその肩を抱く腕があった。
「よせ、和巳。あいつに音楽談義をやめさせるのは不可能だ」
「拓巳くん」
彼は数歩先を行く俊くんをチラリと見やると、僕と並びながらぼやいた。
「どうせどっかの作曲家とかバンドの連中と曲作りのウンチクに花咲かせるんだ。諦めろ」
「だって怪しいよ、あの高山って人の挙動。絶対、誰か使ってる。白川皐月のセリフ、聞いたでしょう? もしまた転ばされたりしたら今度こそ危ない」
ただでさえ今夜は大勢の集まりになる。誰を警戒すればいいのか見当もつかないのだ。
「そのために芳弘と祐司が先に会場に入って偵察してくれてるだろ? 祐司の隣の席に陣取ってりゃ危険はないさ」
一足先にこのホテルの二階にある宴会場に向かった祐さんたちは、何か異変があれば即、連絡をくれることになっている。
「そうだけど……」
なおも不安を覚えながら、先を行く背中に追いつこうと足を早める。前を進む俊くんの先には、繁華街のネオンに照らされた、ホテルの側面に当たる夜の歩道が見えていた。
そりゃ、こういった夜の街に出るよりましだけど。
歩道に出ながら道向かいに目線を投げ、徐行する車の向こうに映る人影がまばらであることを確認する。
そんな風に周囲を多少、警戒する気持ちで眺めたからだろう。
二歩に縮まった背中に目線を移したとき、前方から二人の男が足早にこちらに向かって来る姿が目についた。
大柄と小柄、ともに俯き加減で、この暑いのにパーカーを羽織り、ポケットに手を突っ込んでいる。
「俊くん、待って。離れたら危ない」
慌てて拓巳くんから離れ、二歩の距離を詰めて腕に触れると、こちらを振り向いた俊くんが苛立たしげに言った。
「止めるなら帰れと言ってるだろう!」
「や、そうじゃなくてっ」
腕にかけた手を振り払われ、一瞬、近づいてくる男たちから目線が逸れる。そのタイミングで二人はすれ違って行き――。
「……っ!」
情景が一瞬でモーションを変えた。
大柄なほうの男が突如、俊くんに腕を伸ばして襲いかかり、出遅れた僕は咄嗟に俊くんの肩をつかんで引き寄せた。
そこに小柄なほうの男が体当たりしてきて、肩をつかんだはずの手が滑り――。
「和巳っ!」
拓巳くんの叫びを聞きながら、もつれるようによろけた瞬間、衝撃とともに背中から宙に浮くような感覚があり、次いで頭に強烈な一撃が加わって目の前が真っ暗になった。