奥底にひそむもの
コースケさんと別れた僕たちは、渡辺先生のいる総合病院に俊くんを運んだ。
「大袈裟だ。こんな怪我、湿布貼っとけば、治る」
道すがら渋る俊くんを祐さんが諭した。
「そのわりには息遣いが荒いな。いいからおとなしくレントゲンを撮ってこい」
祐さんは病院に入る僕たちを見届けると帰っていった。
幸いなことに、主治医の渡辺先生はまだ院内に残っていて、先生の手配ですぐに外来とは別の場所に通され、早々に診察を受けることができた。
俊くんの主治医歴が二十年を過ぎる渡辺先生は、IS専門のベテラン医師だ。
僕と俊くんのプライベート事情や仕事内容も把握済みで、仕事に配慮した治療を考えてくれるので、メンバーにとっても必要不可欠な存在のひとりである。
鎮痛剤を点滴された俊くんは、まもなく寝落ちてしまったようで、所見とこの先の治療計画は、僕と拓巳くんが聞いた。
「やっぱり肋骨にヒビが入ってたよ」
先生はデスク上のモニター画面を指差して言った。そこには、先ほど撮った俊くんの胸部レントゲン写真が映し出されていた。
「この、右脇の一番下。さぞかし痛かったろう。コルセット……とかは困るんだよね? きっと」
丸椅子の上にポテリと腰掛け、年齢よりも白が多い髪を掻き回す姿はどこかふくよかな狸を思わせ、僕は告げられた内容に緊張しながらも、落ち着いて訊ねることができた。
「コルセットがないと動けないほど酷いですか」
「酷いというか、ヒビは基本、安静にしているしか手がないんだ。骨折より完治に時間がかかる場合もあるから、しっかり固定したほうが安心なんだよ」
それにしても、と先生は再びモニター画面を見てから憮然として言った。
「骨密度にしたって雅俊君の骨の組成は女性に近い。見た目にもわかるだろうに手荒な男がいたもんだね」
「まあ、仕方ありません」
拓巳くんが苦笑した。
「このくらいの体格の男もいなくはないし、雅俊もくだらない相手は容赦なくやり込めるから、喧嘩になったら誰も手加減なんてしてくれない。本人もそこは承知して生きていると思います」
加害者に理解を示すような発言をされ、僕は椅子から横に身を乗り出して拓巳くんに抗議した。
「だからって! 確かにパッと見は男の人に見えるかもしれないけど、近くで見れば何か違うくらいはわかるはずなのに。肋骨にヒビが入るような蹴りを食らわせた上で顔を殴りつけるなんて、普通、女性にやったら暴行事件で即、警察沙汰だよ!」
「そうなんだがな」
拓巳くんは困ったように返してきた。
「あいつの中にある魂は、その扱いをよしとしない。自分に具わった男の部分を捨て、女性としての庇護を得ようとは考えない。だから今回だって雅俊は、あっさりやられたことを恥じはしても、相手に怪我の責任を取らせたいとは思ってない」
「………」
「そこだよね」
先生が頷いて続けた。
「本人の生き様をあるがままに受け入れる。頭でわかっていても、男にとって明らかに性差を感じる人にその態度を貫くのは難しい。ましてや愛する人であれば尚更。けれど雅俊君のように生きる人たちには、それは譲れないアイデンティティーなんだ。残念ながら、拓巳君のようにそこを理解してくれる人はなかなかいなくて、大抵はどちらか一方を求めてられてしまうんだがね」
拓巳くんの横顔を見ると、まるでどこかに思いを飛ばしているように半眼を閉じていた。
そうか。きっと拓巳くんはそうやって、男として生きていたお母さんの意思を尊重したんだ。
けど僕は、俊くんが危ない目に遭うと知ってしまったら、たとえそれが本人の意に添わなくても、黙って見守るなんてできない。
「きっと僕は、本当の意味で雅俊さんを理解できていないんですね……」
彼の大事にしているものを理解していないから、こんな風にこじれる羽目になってしまったのだ。だから彼が周囲に首を捻られるほど態度をおかしくしているのに、自分の感情が先に立ってしまって心に寄り添うことができないんだろう。
「どうしたんだい? 和巳君。何かあったのかい?」
渡辺先生が訝しげな顔になる。
「このところ、雅俊さんとすれ違っていて……」
スランプの原因は省きつつ、出来事を時系列で追いながら心のうちをぽつぽつと話すと、先生は小さな目を見開いて首を傾げた。
「人はそれぞれ重きを置く部分が違うが、雅俊君のことをいえば、君に理解されていないとは考えてないと思うよ」
「でも……」
拓巳くんがこちらを向いた。
「おまえはこれまで雅俊のその部分を尊重してきたはずだ。あいつがやりたいことを止めたこともなければ咎めたこともない。それは立場に差があったためでもあるが、もともとおまえは、相手がよしとしていることを、自分が不安だからといって止めたりはしないだろう?」
「……そうだけど」
「雅俊が本気で望めば、たとえそれが危険でどんなに止めたくても、おまえはヤツの望みを優先するだろうよ」
「でも俊くんに関していえば、誰だってあの人を止めたりはできないと思うよ」
「それは相手が仕事の関係者だからだ。そもそも自然体であいつと付き合えるやつ自体が皆無に近いんだ。性別、才能、職種のどれを取っても一般とはかけ離れているんだからな。もしおまえがいなかったら、さぞかし殺伐とした人生だっただろうよ」
「そんなことは」
「おまえは当たりまえのように一緒にいたからわからないだろうが、おまえだからこそ雅俊は心を開くんだ。今まで築いてきた二人の空間が壊れるのを恐れるあまり、心にもない態度を取っているのがいい証拠だ」
他の誰だって、あのふてぶてしいヤツに度を失わせるなんてことはできないさと付け足され、僕は複雑な気持ちになった。
「拓巳君の意見は一理あるよ」
渡辺先生もふくよかな体を椅子から少しだけ乗り出した。
「身体的なハンディを背負った人は壁を作ることが多い。雅俊君もその一人だと思う。だから君が存在していたことは奇跡で、そのことは彼も十分に理解しているんだよ」
僕が顔を上げると先生は励ますように笑った。
「今だから言うけどね。彼はずいぶん早くから君のことを待っていた。それはずっとずっと長い間。あれだけ一途な人が、そう簡単に君を手放せるはずはない。粘り強く解きほぐしてごらん? きっと何か見えてくるものがあると思うよ」
「……はい」
渡辺先生の言葉は、僕の深いところに染み込んでいった。
その夜は俊くんを目黒のマンションに連れて帰った。
寝ているところを起こすのは忍びなかったが、拓巳くん同様、彼も病院を苦手としているのは周知の事実だったので、処置が済んだところで起こしたのだ。
鎮痛剤の影響か、起こされたあともどこか朦朧としたままタクシーに乗り込んだ俊くんは、移動するうちも終始うとうとしていた。
「なんだかんだ言っても、おまえの気配に安心して緊張の糸が切れたんだろう。こいつが超睡眠不足だったのは間違いないな」
呆れたように揺れる肩を支える拓巳くんは、僕が運転手に目黒へと告げると渋い顔をした。
「基本、こいつのテリトリーにはおまえ以外の人間は入れん。うちに連れてっちまったほうがよくないか?」
それが、未だ問題が解決していない僕のことを心配しての言葉だとは承知していたが、俊くんは自宅と他の場所でのくつろぎ度合いにかなりの差がある。僕は自分の葛藤を横に置いて説き伏せた。
「誰だって、具合の悪いときは自宅のほうが楽でしょう?」
「それはそうだが、おまえは看病するつもりだろ。一人で大丈夫か?」
「俊くんも、早く怪我を治すためだって言えば僕が手伝うのを我慢してくれると思う。それに……他の人に任せるのは嫌なんだ」
「……そうか」
彼は気がかりそうにしながらも「まあいい。容態が急変したらすぐに呼べよ」と僕の思うようにさせてくれた。
久し振りの玄関を抜け、肩を支えながら寝室に向かうと、自宅に帰ってきたとわかったのか、俊くんの足元が覚束なくなってきた。
「ちょっと持ち上げるよ」
荷物を床に放り、力のない体を抱き抱える。のしかかる重みに備えたのだが、踏ん張った足も腕も予想に反してフッと上がった。
「―――」
軽い。
つい、腕にもたれる横顔を凝視する。
いつになく白く見える顔は、殴られた頬の腫れがまだ少し残っているものの、カールした濃い睫毛やふっくらとした唇など、変わらずに華やかで美しい。しかし腕に感じる体は、埼玉のコンサートのときより確実に痩せていた。
気づかなかった。こんなに体重が落ちていたなんて。
すっかり力の抜けた体をベッドに運び入れ、パジャマを出して着替えさせる。胸に巻かれたコルセット代わりの白いサラシが、痩せた体をいっそう痛々しく感じさせた。
ふと周囲に目が向き、どこか違和感があることに気がついた。
「使った跡がない……?」
隣に置かれた僕のベッドに乱れがないのは当然だが、俊くんの寝具も変えたばかりのように皺がなかった。
「……まさか」
とある予感に襲われてリビングに向かうと。
「―――」
思いついたとおり、リビングのソファーには一枚のタオルケットが乱れたままに置かれていた。
カーテンは閉めきりで、ローテーブルの上には酒瓶が三本転がっている。ひとつ置かれたグラスの中身に顔を近づけると、テキーラ特有のまろやかな苦みのあるアルコール臭が鼻を刺激した。
もしかして、僕が来ない間ずっと。
グラスの隣に置かれた五線譜は白紙で、周りにはクシャクシャに丸めたものが散らばり、破ったものまである。丸めたものを一枚ずつ伸ばしてみると、いつもなら線上に踊っているはずのおたまじゃくしたちは、どの紙の中にもひとつも書き入れられていなかった。
未だかつて、彼が五線譜を持ち出して書けないことなどあっただろうか。
「俊くん……」
胸の奥が焼けつくように切なくなる。
五線譜を片付け、グラスと瓶を取り上げてキッチンに向かうと、こちらはいつ使ったのかというように手付かずだった。
自宅で食事をすることが皆無だったのは間違いない。そもそもちゃんと食事を摂っていたのかどうか。
「……ないだろうな。きっと」
もともと俊くんは外食が多い。掃除は定期的に業者を入れているが、ソファー周辺と寝室は絶対に触らせない。基本、他人を家に上げることを好まないのだ。
けれども僕が来るようになってからは、二人で簡単な食事を作ってはよく食べた。そんなときの俊くんは楽しそうで、僕や中沢さんに丸投げの拓巳くんよりよほど手伝ってくれたものだ。
『おれはそういうの、全然やってこなかったからなぁ』
中沢さん直伝の惣菜を作ったりすると、恥ずかしそうにしながら喜んで食べてくれた。
そういえば、この家にはもともとダイニングテーブルがなかったのを、僕がここに来ると決まってからすぐに入れてくれたんだっけ。
今、カウンターから覗くダイニングテーブルに使った跡はなく、ソファーとその周りだけが人の気配を残している。
夜、思いつく曲もないままに、一人でソファーに丸まって過ごす姿が浮かび上がり、改めて拓巳くんの言葉が胸に迫った。
(もしおまえがいなかったら、さぞかし殺伐とした人生だっただろうよ)
このままじゃだめだ。一日も早く解決して、僕はここに戻らないと。
それには、ちゃんと話し合う必要がある。けれど彼は今、怪我をしていて……。
零史に迫られた僕を、守るように割り込んできた彼。
『アイドルの次はホストかよ。おちおち横になってらんねー……』
あの言葉の意味をちゃんと知りたい。みんなが言うように、本当に僕にはまだ俊くんの心に住む余地があるのだろうか。どうしたら、彼の心を開くことができるんだろう……。
考えながらグラスを洗い、あたりをふいてからソファー周囲を片付ける。まんじりともせずに寝室に戻ると、薄明かりの中、部屋の奥に備えつけられたクローゼットの扉がきちんとしまっていないのが目についた。
「……さっき、急いで開けたから……」
パジャマが見当たらなかったので、中の収納ケースから出したのだ。
改めて閉めようと歩み寄ると、蛇腹式の扉のレールの隅に、何かが引っ掛かって閉まらないことに気がついた。
「……?」
しゃがみ込んで手を差し入れ、合間に挟まる紙のようなものを引っ張り出す。抑えた照明の下でもそれが何なのかすぐにわかった。
「ギャラリー柏原の紙袋……」
かなり皺の寄った紙袋は、まだ新しいのにどこか打ち捨てられた感がある。前に注文したものが不要になり、けれどもすぐに捨てる気にもなれず、ひとまずクローゼットに放りこんだといったところか。
何気なく紙袋を覗いた瞬間、心臓がドクッと音を立てた。
これは。
床に膝をつき、袋から取り出して目の前にかざす。それはギャラリー柏原の包装紙に包まれた、紺地に金のリボンがかかった平たい箱だった。
よく見ると、箱の角が落ちた跡のようにつぶれている。
このリボンは、ちゃんと包装を希望しないとつけてはくれない。つまりこれはプレゼントなのだ。にもかかわらず、クシャクシャの袋ごとクローゼットに放った……。
「……まさか僕に」
大きさは二十四色の色鉛筆の箱を二つ重ねたくらいだ。横に振ってみると、カチャカチャと複数の物が擦れる音がする。
この形はあれだ。デザイン科でよく使うアクリル絵具の二十四色セット。講習に向け、この先たくさん使うとわかっていたものだ。
「だからあのとき……!」
あの日、すべてが裏目に出た最悪の金曜日。
不思議には思ったのだ。絵画を封印した俊くんは、ギャラリー柏原に行くことは殆どなくなっていた。それが何の因果で、よりによってあの日にわざわざ本店の文房具コーナーになど寄ったのか。
「僕の誕生祝いだから、これを取りに行ったんだ……」
呆然と紙袋を床に置くと、中にまだ小さな箱が入っていることに気がついた。
絵具を床に置き、袋から取り出して見るも、こちらは包装紙が違う。
「……?」
見たこともない包装紙にリボンはなく、しかも一度開けた跡がある。
僕はチラリと背後のベッドを窺い、布団のシルエットに動きがないのを確認すると、手のひらサイズの箱から包装紙を取り去り、中の白い箱を開けた。
その中には、よく宝飾品を納めるときに使われる黒いベルベットの箱が入っていた。拓巳くんがパーティーで使う、宝石をあしらったネクタイピンが入っているものとそっくりだ。
多分、これがプレゼントのメインなんだ。絵具はきっとついでにと思いついて……。
複雑な気持ちで箱の蓋を開け――。
あっ……!
再び心臓が跳ねた。
震えそうな指先を、片方の手のひらに乗った箱に差し入れる。人差し指と親指が摘まんだのは、二つ並んだ銀色のリングだった。
「……――」
プラチナの台に小さなダイヤの粒が二つ埋め込まれたシンプルな、それでいて優雅な曲線を描いたペアリング。
内側を見ると、文字が彫り込まれていた。
Life there as long as you and(命ある限りあなたと)
瞬間、ある言葉が脳裏をよぎった。
『彼はずいぶん早くから君のことを待っていた。それはずっとずっと長い間』
十八の誕生日。そしてリング。
ああ……僕はバカだ。そんなことも気がつかなかったなんて。
もっと深く考えるべきだったのだ。彼にとって、僕が十八になることの意味を。
きっとあの日は、二人の未来を定める大切な一日だったのだ。彼の頭には、将来への計画があったに違いない。
拓巳くんが言ってたあの話。
(おまえがデザイン関係の仕事に就いちまったら、早々に事務所でも持たせて、仕事先を紹介する代わりに俺のヘルプも続けてもおうと思ってたけどな)
あれはきっと、俊くんとの会話の中でかなり具体化していたものなのだ。だから拓巳くんは進路を変える話を聞いて、自分の望みに添うにもかかわらず戸惑った。
それを前もって理解していたなら、土曜日が済むまで僕は先生たちには打ち明けなかっただろう。俊くんの気持ちを受け取って、僕も意思表示して。それだったら原因を説明する勇気が持てただろうし、進路を変えることは承諾してもらえただろう。
一度開いたということは、これを取り出したということだ。怒りに任せて袋を握りつぶし、箱を開け、けれども捨てることは出来なかった。
《Life there as long as you and》
この言葉が刻まれたリングを、彼はどんな気持ちでクローゼットに入れたのか。
(粘り強く解きほぐしてごらん? きっと何か見えてくるものがあると思うよ)
「ああ……」
僕の目は曇っていた。不機嫌な態度と表面的な言葉を鵜呑みにして、その奥にある心を見逃していたんだ。
箱を置き、二つのリングを片手に握りしめて額に押し当てたとき。
「なにしてるんだ。返せ!」
憤る声とともに突然、後ろから腕をつかまれた。
「俊くん」
いつの間に起きていたのか、彼は息を荒くしてつかみかかってきた。
「返せよ!」
「まっ……!」
僕は咄嗟に身を捩り、片手を握ったまま倒れかかる俊くんを受け止めた。
「まだ動いちゃだめだよ!」
「かえっ……!」
尻餅をついた僕の上に乗った形の俊くんは、しかしリングを取り返そうと腕を伸ばした途端、顔を歪めて胸を押さえた。
「俊くん……!」
僕は二つのリングを中指に納めてから慌てて背中を支えた。
自然、床に座ったまま彼を抱く形になる。
「離せ! なに勝手に開けてんだ!」
「クローゼットのレールに引っかかってたんだよ! 袋がしわくちゃだったから、ゴミかと思って中身を確認したんだ」
抵抗する手がハッと動きを止める。
「まさかプレゼントが入ってるとは思わなかったから……」
少し声を落とすと、俊くんは顔を歪めてフイッと横を向いた。
「これは僕へのプレゼントだよね? 誕生日のときに渡されるはずだった……」
思わず口走り、そんなことを聞いてはまずかったかと一瞬、ヒヤッとする。けれども胸に伏せた俊くんは否定しなかった。
それに励まされて僕は訊ねた。
「捨ててないってことは、僕はまだ俊くんに見放されてないの? そばにいてもいい?」
すると俊くんはガッと僕の胸に片手をついて上体を持ち上げた。
「見放したのはおまえのほうだろうが!」
痛そうに自分の胸を押さえながらも、目に強い光を宿している。僕は肩を支えながら負けじと言い返した。
「なんで! そんなわけないでしょ!」
「嘘だ! おまえはおれを未来から切り離したじゃないか! おまえにはおれなんていらないんだから返せよ!」
「切り離してなんかない! 僕の未来は俊くんのものだよ!」
「じゃあ、なんで勝手に決めた!」
肩で息を継ぎながら彼は叫んだ。
「なんで相談してくれなかったんだ! いくらスランプに陥ってるからって……!」
彼にとって、そこは譲れない一線だったのだ。
僕は一旦、口を閉じ、口調を弟子のものに変えた。
「それは、本当に何度でも謝ります。僕の失態です。けどちゃんと理由があるんです。お願いだから聞いてください」
手を離してしまったら逃げられてしまいそうで、肩をつかんだままの体勢で頭を下げる。
少し間を置いてから顔を戻すと、彼は目元を歪めて唇を震わせていた。
「……理由なんて!」
オニキスの瞳が徐々に潤む。
「……みんな、おれを抜きにして勝手に決めるんだ。それで、結局はおれから去っていく」
「……えっ?」
俊くんは、目の縁を赤くして顔を背けた。
「おれのためとか言いながら、知らないうちに勝手に手を回して……母さんも、小夜子も」
お母さんと、小夜子さん……?
(何か面と向き合えない別の要素があるんじゃないかと思うんだよ)
(どうもな。雅俊の避けっぷりがさすがに引っかかる)
もしかして、これが。
「勝手に、なにを……?」
つぶやくように訊くと、俊くんは目を閉じて僕のシャツの襟元を握りしめた。
「母さんは、おれをピアニストにすると言いながら、裏で当主と取引をしておれを売った」
その悲しい話は拓巳くんや真嶋さんから聞いたことがある。けれど。
「でも、小夜子さんは、その俊くんを守った人だって……」
全霊をかけて俊くんを慈しんだのではなかったか。
「小夜子なんてもっとひどい」
「もっと?」
「小夜子は自分が先に死ぬことをわかってたんだ。おれを愛してると言って将来まで誓いながら、それを隠したまま死んだ。しかも知らない間に養子縁組の手続きまでしてあって……そんな大事なことを伴侶が知らないってありかっ!」
それは、初めて聞く話だった。
「一言でいい。言ってくれれば。打ち明けてくれさえすればおれはいくらでも耐えたのに。母さんだって、小倉家で生きていくためだって正直に言ってくれれば、おれはちゃんと納得した。恨んだりはしなかった」
「そ……っ」
「どんなに愛してくれたって、肝心なことを伝えてもらえないんじゃ意味がない。かえってひどい!」
その子供のような口調に、初めて彼の奥底を見た気がした。
これだ。これが俊くんの心の傷なんだ。
彼からしたら、僕の取った行動は小夜子さんと同じ――。
〈事情も打ち明けてくれず、知らないうちに思い描いていた将来への道筋が変えられていた〉
「……僕はっ」
そんなつもりはなかった。そんな風に受け取らせるつもりは。
俊くんは力なく首を横に振った。
「結局はおれが異常だからだ。こんな中途半端な生き物だから信頼してもらえなかった。おまえも……」
彼は僕に目を戻し、再び逸らしてうなだれた。
「おれより大きく、強くなった途端、おれを信じなくなったんだ……」
「違う!」
僕は咄嗟に声を上げた。
「違うんだ。信頼してないからじゃない! あなたを守りたかっただけだ!」
肩をつかむ手に力を込めると、俊くんは顔を上げた。
「愛してもらってばかりだから僕も返したかった。あなたの支えになりたかった。だから、それを損なうかもしれないことを打ち明ける勇気がなかったんです!」
俊くんは一瞬、痛いような表情を浮かべ、口元で嗤った。
「それだって……結局は打ち明けたらおれがだめになる、つまりおれが信じられないからそう思ったんだろう」
「そうじゃなくて!」
どうしたらわかってもらえるのかわからなくて細い肩に額をつける。すると。
「……そこまで言うなら、おれを抱いてみろ」
一瞬、何を言われたかわからなかった。
「なっ……?」
顔を上げると、彼は黒目勝ちの瞳に異様な熱をたたえて僕を睨みつけていた。
「口でなら何とでも言える。おまえなりの愛だったっていうなら今、ここで証明しろ」
その意味が脳に浸透した瞬間、カッと血が上った。
「だからってそんな、あなたは怪我をしてるんだよ! さっきまでフラフラして、点滴まで受けてたのに」
「フラついていたのは酒のせいと寝不足だ。肋骨のヒビなんて喧嘩で慣れてる。さんざ修羅場を潜ってきたんだからな」
「俊……」
「おれにはこんな怪我、ベッドプレイになんの支障もないね。おまえより若い頃、もっとひどい怪我しながら同時に二人の男の相手をしたことだってあるんだ」
「………っ」
おそらくは売られていた頃のことだ。
「おれの言葉を信じられるなら抱けるはずだ。おまえにできるか?」
彼は愉快そうに嗤った。
「できないか? そうだろうな。ほら、尻込みするなら帰れよ。それで終わりだ」
「俊くん……っ」
早く行けとばかりに肩をつかんだ手を外されたとき、頭の奥で声が弾けた。
(建前だけだ。本心じゃない。賭けてもいいが絶対追い返せないぞ)
咄嗟に体が動く。
肩をつかみ直し、おもむろに足を掬って横抱きにする。
「離せ! 何す……」
そして一気に立ち上がるとすぐ後ろのベッドに乗り上げ、さっきまで彼が寝ていた寝具の上に戻した。
「……っ」
彼は衝撃に一瞬、息が詰まったような顔をしたが、身を捩って逃れたりはしなかった。
僕は彼の手首を押さえ、胸に体重がかからないよう脇に肘をついて組伏せた。
お互いの荒い息遣いが部屋の静寂を乱す。
「……どうした。それで終わりか」
少し息が収まったあとで、彼は挑発するように笑った。
「手助けはしないぞ。おまえをその気にさせるなんておれには朝飯前だからな」
口元の笑みが苦味を帯びて歪む。
「それじゃあ意味がない。おまえは自力でおれを抱くんだ」
「………」
無言で見つめ続けると、眉根がクッと寄った。
「……ほら無理だろ。所詮、おまえはまともな男だ。おれみたいな半端者より、どこかのアイドルのような可愛い女の子がお似合いだ」
「―――」
(アイドルの次はホストかよ。おちおち横になって――)
ああ――。
これが、僕が亜美さんに応えたことで、彼にもたらしたものだ。
非凡な才能、美貌、カリスマ性――その陰に隠れた、特異体質であるがゆえの不安と引け目を、僕はもっと気遣わなければならなかった。もはや彼は僕を試さずにはいられないのだ。
歪んだ笑みを浮かべる細面を見返しながら、僕は心を決めた。
「あなたの手がなくたって、僕はいつでもあなたを抱ける」
「………」
「ただし約束して。明日からは僕をそばに戻すと」
「……なんでだ」
胡乱そうに見上げてくる白い顔を見返しながら、僕は手を離し、中指の途中にはめたままだった二つのリングを抜いた。
少し大きめのほうを左の薬指にはめ直し、次いで彼の細い薬指にもう片方のリングをはめる。その間も黒い瞳は僕を見つめていた。
「十八歳は人生で一番、衝動に逆らえない年なんだって」
自分のシャツを脱いで諸肌になり、彼の襟に手をかける。
「まったく同感で、手加減できる気がしない」
パジャマを取り去ってサラシを巻いた体を露にし、肌を合わせる。彼はどこか泣きそうな目をしながら口の端を上げて笑った。
「上等だ。存分にやれよ」
その顔に手を添え、顎を上向かせる。
「だから責任を取らせてくれないと。しばらくは通いでお世話するから。それに土日の泊まりと水曜日の復活。あと、治ったら話を聞いてくれると約束してください」
「……ずいぶん欲張りだな」
「必要だから。いいですか?」
唇が触れる寸前で聞き返すと、彼の手が僕の首に回された。
「好きにしろ……」
僕は逆らわずに唇を重ね、襲い来る官能の波に身を委ねた。
これは罰だ。
大切な、愛しむべき存在に苦痛を与えるという、僕に課せられた罰――。