喧嘩騒ぎ
そんな日々に、しかし思わぬ形で変化が訪れるときが来た。
「しょーがねぇ。俺の時間をちょっとだけくれてやろう」
ダイニングテーブルに着き、ハウスキーパーの中川さん作り置きの煮物と白身魚のフライで夕飯を食べていると、箸を置いた拓巳くんが憮然とした顔で言った。
「えっ……?」
一瞬、何を言われたのかわからなくていると、彼はもどかしげに麦茶のグラスをつかんだ。
「だから、付き人の件だ。俺の時間を子タレに分けてやりゃ、雅俊には関係なくなるだろうが」
「でも、その話は祐さんが……」
「祐司は俺が説得する」
「ええっ……?」
麦茶を半分ほど飲んだ拓巳くんは、渋い顔でグラスを眺めた。
「智紀に話してスケジュールを調整するから、取りあえずは水曜日で補え。雅俊の手伝いが復活したらすぐに返してやる」
「だけど、それじゃ拓巳くんが」
あとあと困るんじゃ、と言いかけるのを彼の手のひらが制した。
「困るとしたら、イベントの出演が続くこの先の十日間だ。さすがにそんなにすぐには復活しないだろ。九月はコンサートメニューの入れ換えでスタジオ練習が多いから、後半から合流してくれればまあ、なんとかなる」
拓巳くんは麦茶を一気に飲み干し、グラスをテーブルに戻した。
「どうして……」
「おまえの我慢した顔をこれ以上、見たくない。俺の時間が増えて助かっても、おまえがそんな様子じゃ嬉しくないんだ」
「ごめん。僕、態度に出てるの?」
仕事をいい加減にしたつもりはなかったんだけどと縮こまると、拓巳くんは「それはない」とため息ついた。
「おまえは出来すぎるほどちゃんとやっている。若いスタッフの連中は、おまえが葛藤を抱えてるなんて気づいてもいない。出てるというなら雅俊のほうだな」
「………」
「雅俊がおまえを外したことについて、スタッフは受験のためとしか説明されてないが、さすがにベテランはどこかおかしいことに気づいてる。そんで雅俊についてる若い連中は『いつ頃から和巳君の手を借りてもよくなるのか』と智紀に聞いてくるんだと」
「それは……」
目を見張ると、拓巳くんは背もたれに体を預けて頷いた。
「あのピリピリ感が復活してるんだな。連中にも、和巳が一緒のときはこんな風じゃなかったくらいはわかる。緊張しっぱなしで仕事するのは誰だって嫌だろ」
「……でももう」
僕なんかが顔を出したら、かえってイライラが増してしまうだろう。
内心が顔に出たか、拓巳くんは目を眇めて僕を見た。
「そんなわけで、俺の時間を子タレにやる分には、雅俊との問題解決に触れないから祐司も反対はしないだろう。その代わり土曜日は雅俊のところへ行って、ちゃんとスランプのわけとやらを話してこい」
「………」
すげなく門前払いされる自分を想像して俯くと、「そこで俯くな」と拓巳くんの声が降ってきた。
「おまえは雅俊のマンションのパスワードも鍵も預けられている。かまわんから堂々と上がり込め」
だいたい鍵を預けるってことは、いつでも入ってくれって意味のはずだぞと付け足され、僕は顔を上げて訴えた。
「いくら鍵を預かってても、本人が来るなっていうのを無視なんてできないよ」
「んなもん建前だけだ。本音じゃない。部屋に入ったらヤツをジーッと見つめてみろ。賭けてもいいが絶対追い返せないぞ」
まあちょっとはグズるかもしれんが、と付け足されて肩を落とす。
「そんなこといって、もし自宅にまで帰ってこなくなっちゃったらどうするの」
「ヤツがそこまで根性なしだとは思いたくないが、それなら追いかけるまでだな。心配するな。智紀が行き先を把握してるし、祐司や芳弘も手伝うはずだ」
つまりはそのくらい、俊くんがおかしくなっているということなのだろう。
その考えを裏づけるように拓巳くんがつぶやいた。
「どうもな。雅俊の避けっぷりがさすがに引っかかる。祐司にあれだけのことを言われたら、本来の雅俊なら即、問題の解決に動くはずだ。祐司のギターがなければヤツは手足をもがれるんだからな」
それは俊くんにとって、息の根を半分、止められることに他ならない。
「俺の素行に腹を立てても文句言いながら粘るのは、俺がヤツの『声』だからだ。あいつにとって生きることは表現すること。けど、おまえはそれとは違うんだと思う」
「………」
「だからおまえが違う道を選ぶのを俺は不思議には思わない。だが雅俊にはどうしても受け入れられない。そこが引っかかる」
そういえば健吾も似たようなことを言っていた。
「何が引っかかるの?」
姿勢を正して言葉を待つと、考えるように宙を向いていたヘイゼルの瞳がこちらに戻った。
「……恐れのような?」
「恐れ? 何を」
「おまえを失ってしまうことを」
――は?
さすがにそれには反論した。
「そんなわけ……っ、むしろ逆じゃん! 絵を描かなくなった僕にはもう興味ないって」
だから話を聞く気はないし、会いたくもないと。
「それはない。それはないぞ、多分」
「他に取りようがないよ!」
拓巳くんは目の縁を掻いた。
「ってまあ、こっちでいくら憶測を膨らましていてもラチは明かん。だから行って捕まえて、決着をつけてこい」
「………」
「このままおまえたちが自然分解しても俺は別に困らない。おまえが気まずくて一緒に居づらいってんならバンドなんて辞めてやる。けどそれじゃ、おまえは嫌だろ?」
「……うん」
「じゃあ、なんとか捕まえるしか」
ないな、と拓巳くんが腰を上げたとき、僕の背後のカウンターでスマートフォンが鳴った。
「あ。拓巳くん。コースケさんからだよ」
画面を覗き込み、そこに浮かんだ文字を伝えると、拓巳くんは面倒くさそうに言った。
「おまえ出ろ。この時間ならどうせ飲み会の誘いだ。テキトーに流しとけ」
ソファーに向かうのを横目に見ながら画面を操作し、手を持ち変えて応答する。しかし僕が話し出す前に、コースケさんの声が大きく響いた。
『拓巳くん聞いて! 今、バーにいるんだけど、雅俊くんがヤバイんだよ。チンピラみたいな男とケンカして怪我を――!』
◇◇◇
コースケさんが連絡をよこした店は、横浜駅に程近い繁華街の奥にあった。
室内用のサングラスをかけた拓巳くんの後ろについて店内に入ると、薄暗い照明に照らされた店の中が見渡せた。
小規模ながらも高級な作りのフロアは、コースケさんの芸人仲間がオーナーだというカクテルバーで、カウンターは六人掛け、フロアもテーブルが六つほどとこじんまりしている。
芸人がオーナーだけあって芸能関係の客が多く、しかもフロアが八割ほど埋まると入り口をクローズにしてしまうので、人目をあまり気にせずに過ごせるとの評判が広まり、今日も賑わっていたのだという。
しかし今、カウンターにはバイトらしい若いバーテンが一人、所在なげに立つだけで、手前のスツールに座る者はおらず、フロアのテーブルに座る客もまばらで、幾人かがチラチラと奥の一角に目線を投げていた。
するとその奥から声がかかった。
「やっ! こっち、こっち」
低い位置からこちらに手を振っているのは、アロハシャツを着たコースケさんだ。
よく見ると、角に配置されたテーブルはどれも低めで、コーナーの壁に添うようにソファーが置かれていた。
「で? うちの酔っ払いはどこだ」
拓巳くんが不機嫌な声を発して近づくと、彼は自分の座るソファーの奥を指差した。
「ここ」
彼が示した先はコの字型に曲がっていて、その先に人が一人、ローテーブルに隠れるようにして突っ伏していた。拓巳くんの後ろから覗くと、半袖シャツの華やかな柄に見覚えがあった。
俊くんだ。
ピクリとも動かない姿に拓巳くんの後ろから出て近寄ると、こちらを向いた横顔に殴られたような痣ができているのに気づいた。
「俊くん……っ」
思わずそばに駆け寄ると、口の端に血が滲んでいるのが、淡いオレンジの明かりの下でも見て取れた。
「ごめんよ。僕が触ろうとすると怒るんだよ」
頼んでいい? と冷たいおしぼりを渡され、僕は少しためらいながらも頬の上あたりにある痣にそっと当ててみた。意識があるのかどうか、俊くんは一瞬、痛そうに顔を歪めたが、手を振り払ったりはしなかった。
ホッとしてまずは口許の血をぬぐい、畳み直してから頬に当てる。空いた手でほつれた巻き毛をとかすようになでると、寄せられていた眉根が僅かに緩んだ。
「よかった。やっぱり和巳くんならいいんだ。愛弟子だもんね」
「………」
言葉が出ない僕を察してか、拓巳くんがコースケさんの気を逸らすようにドサッと隣に腰かけた。
「祐司は? 呼んだとか言ってなかったか?」
小声で話しながらサングラスを外して店内を伺う拓巳くんに、コースケさんは胸の前でちょいちょいとカウンター脇を指し示した。
「あそこの奥。お手洗いの通路の横にスタッフルームがあるんだ。祐司はここの店長と一緒にチンピラもどきを取り調べてる」
「捕まえたのか」
「一人は逃がしちゃったけど、もう一人は。なんか知った顔みたいだよ」
「知り合いが雅俊を殴ったのか?」
「えっ!」
驚いてコースケさんに目を向けると、彼は「違う、違う」と僕に手を振ってから拓巳くんに答えた。
「知り合いってほどじゃないみたい。同業者というか、どこかのロックバンドの一員らしくて、雅俊くんも最初、仕事先で見かけたことがあるかもって言ってた。僕もなんとなく音楽関係のイベントで見た顔だとは思うんだけど、ロックバンドって似たような格好したのがたくさんいるからなぁ……」
コースケさんはこめかみを掻きながら思い出そうとし、拓巳くんは少し表情を険しくした。
「仕事で一緒になるような音楽業界の人間なら、こいつの体の事情は知れてるはずだぞ。男がこいつの顔を殴ったのか」
俊くんの骨格は、見た目にも男性と同列にするには細い。ましてや彼はISであることを公表し、女流画家としても名が知られているのだ。
コースケさんは頷き、声をさらに低めた。
「それがね。ちょっと変なんだ。僕たちは先にここに来てから祐司を誘って、着くのを待たずに飲んでたんだけど……」
そうして語られた内容は、確かに引っかかるだけのものがあった。
二十代後半に見える、金髪と茶髪といった二人組は最初、カウンターで飲んでいたのだが、手洗いに立った金髪男が、こちらは手洗いから戻った俊くんとぶつかったのだという。
「おい、ぶつかったなら謝れや」
やや大柄な、しかし明らかに年下らしきその男を俊くんは鼻であしらった。
「あ? ぶつかってきたのはテメーだろ?」
こんな三文芝居のような出だしで始まったそうで、コースケさんが慌てて駆け寄ったときには、一触即発の雰囲気になっていたという。
「お客さん。目上の人に対してそういった態度を取られるなら、出入り禁止にさせてもらいますよ」
オーナーの友人だという、雇われ店長が不快感を滲ませて忠告すると、男はあからさまな威嚇の気配を漂わせた。
「は? バカ言ってんじゃねぇよ。どうみてもこっちが上だろ?」
だいぶ酔ってでもいるのか、自分が絡んでいる相手が誰だかわかっていないようだと判断したコースケさんは、祐さんが来る前に騒ぎを大きくしたくないと考えた。
「まあまあ。こっちも君たちも飲んでるし、ぶつかったのはお互い様だから言いっこなしで」
「おいコースケ、なに言って……」
「酔っぱらっちゃうにはまだ早いよ雅俊くん。さ、戻ろう」
コースケさんは「もうすぐユージも来るからさ」と、わざと聞こえるように芸名を出し、素早く俊くんを抑えると、店長に穏便に済ませるよう目配せしてから席に戻った。男もカウンターに戻り、一旦、ことは収まったかに見えた。
が、しばらくしても二人が席を立つ気配がないのを見てコースケさんは不安を感じたという。
「普通、この展開でユージの名前を出したら、同業者なら『ちょっとまずいかも』くらいは察して出ていくんだよ。それがこっちをチラチラ見ながらニヤついていたからさ」
彼のカンは当たり、カウンターに注文に立った俊くんは、二人を無視して通りすぎようとし、金髪の男に足を払われて転ばされたのだ。
ドッと床に肘から倒れ込んだ俊くんを、男たちは笑った。
「あっと、ごめんなさいね~。酔っぱらっちゃったみたい」
明らかに侮蔑を込めた台詞に、自制心を吹き飛ばした俊くんは立ち上がり様に相手の脛を蹴り上げた。
「ぃてっっ!」
「おーっと、酔っぱらったかな? 悪いな。足がもつれたわ」
するとその男はいきなり俊くんの胸ぐらをつかみ、前のめりになったところで膝蹴りを脇に、次いで体を引き起こして顔を殴ったのだ。
「雅俊くん!」
突然の暴力に店内は騒然となり、放り投げられるように床に落とされた俊くんにコースケさんが駆け寄ったときには、金髪男はドアに向かい、連れの茶髪の男もカウンターにお金を直置きして椅子を離れるところだった。
「ちょっ、待て! 誰か、そいつを……!」
コースケさんの叫びに店長が男たちを追いかけていき、しばらくすると、茶髪の男を片手で引きずった祐さんが店長を伴って現れた。
「遅いよ、祐司! 雅俊くんが……っ」
祐さんは店長に「逃がすなよ」と茶髪男を渡すと、俊くんをソファーに運んで様子を窺い、やがてコースケさんに指示を出した。
「手当てだな。拓巳に連絡して和巳を連れてくるよう頼め。店はクローズにしてもらおう。俺はあの男にちょっと話がある」
かくして拓巳くんのスマホが鳴ったというわけだった。
「脇を蹴られてるんですかっ」
思わず声を上げると、コースケさんは宥めるような表情でこちらを覗き込んだ。
「そう。なんかすごく手慣れてる感じで、あっという間だったんだよ。で、祐司が言うには、『最初からやる気でないと、足と手で連打はできないだろう』って」
「最初から、狙っていたってことですか?」
「わからない。初めのいざこざで頭にきて、痛めつけてやろうと思ってのことかもしれないし。どっちにしろ、金髪のほうがケンカ慣れしてるのは間違いなさそうだよ」
コースケさんは眉をハの字にして言った。
「それだから、ちゃんと脇腹の具合を確認して、病院に行くか判断しないとまずいと思うんだよ」
その言葉で、僕はなぜ祐さんが僕を指名したのかを悟った。
彼が体の世話を許すのは今のところこの世で二人。僕と拓巳くんだけだ。
「タクシーを呼ぶから、雅俊くんを頼むね」
「わかりました」
コースケさんがスマホを操作し始めると、拓巳くんがサングラスをかけ直して立ち上がった。
「どこへ?」
「祐司のところへ顔を出してくる。和巳、おまえはコースケとここにいろ。タクシーが着いたら呼べよ」
「あ、じゃあその前におしぼりを変えてくるよ」
コースケさんに頭を下げてから僕も立ち上がり、一緒にカウンターまで連れ立つ。こちらに身を乗り出したバーテンにおしぼりを渡したとき、クローズの看板がぶら下がっているはずのドアが開き、二人の男が入ってきた。
「あ、すみません。本日はクローズにさせていただいておりまして」
サッとドアに向き直って声をかけたバーテンの声に、前に立つ男の声が被った。
「おう。ここにウチのもんが足止め食らってるはずだ。返してもらおうか」
そう言って中に踏み込んできた男は、意外にも見覚えのある顔をしていた。
あっ! あの痩せたマネージャー。確か高山とかいう、亜美さんの事務所の跡取り息子だ!
彼はカウンターのバーテンに目を留めると、後ろに続くもう一人に声をかけ、こちらに歩み寄ってきた。
「おい兄ちゃん。茶髪の細っこいのが厄介になってるだろう。迎えに来たって言ってこい」
少し着崩した感のあるサマースーツの高山は、横柄な態度で顎をしゃくった。
まるで任侠映画のヤクザのようだ。
「わ、わかりました」
バーテンは恐れをなした様子でカウンターを抜け、僕たちの脇を通りすぎて奥のスタッフルームへと消えた。
その姿を目で追っていると、背後から別の声がかかった。
「あれ? 拓巳の息子じゃないか。こんなところで再会できるなんて奇遇だな」
「―――!」
頭の中がスパークする。
まさか。なんでこんなところで。
二度と聞きたくないと思っていた声。僕の絵を奪った声。
けれども拓巳くんの、そして俊くんのために、絶対に屈してはいけない相手。
もはや忘れようのない美貌の男、零史――。
「確かそう、和巳だ。ということは、隣のロン毛サングラス男は拓巳か。相変わらず嫌みなほど綺麗だね」
零史の声がこちらに近づき、拓巳くんがサッと僕の肩をつかんで自分の背に庇った。
「おまえはずいぶん崩れたな、零史。連れ立つにしても面白い相手じゃねーか。芸能界デビューでも目指してんのか」
一気に好戦的な気配になった拓巳くんの肩越しに窺うと、こちらを緊張ぎみに見る高山の隣に、忘れ得ない男の顔があった。
去年となにひとつ変わらない美貌。
少し伸びた肩までの黒髪、彫り深く整った鼻梁。やや切れ長の、拓巳くんよりも大きく弧を描く二重の黒い瞳。紅に色づく唇。
何も変わらない中で、服装が黒のタンクトップにサマーセーターといったラフな出で立ちであることが、あの日との違いを感じさせた。
今ここで、拓巳くんの前で醜態を晒すことだけは絶対に避けなければ。
零史は拓巳くんの台詞に眉根を寄せた。
「冗談はおまえと雅俊だけにしておくことだ。高山さんのことを言っているのなら、彼は私が任されている店の協力者さ。今日はたまたま同席中に話を漏れ聞いたんで、雅俊の無様な姿を見物しにきただけだ」
今度は拓巳くんが眉をひそめた。
「嫌みな野郎だな。協力者ってのはおまえの店のか。要の店は辞めたのか?」
「自分の父親を呼び捨てるな。要さんから預かった店のひとつだ。なにしろ彼はおまえが余計なことをしてくれたお陰で、ロンドンへの出張が増えてしまったからね」
ロンドン――即ち僕の祖母であるセラのところだ。
「俺のせいじゃねぇ。じゃ、あいつはまだセラのところに顔出してんのか。迷惑な」
拓巳くんが尖った声を出すと、零史も肩を竦めた。
「こっちも迷惑さ。手が回らなくてね。そこに要さんのつてで紹介されたのがこちらの高山さん。スタッフ探しを手伝ってくださっているわけさ」
スタッフ、つまり若い男性ホストのことだろう。
じゃあこのマネージャーは、高橋要を知ってるんだ。
嫌な予感に背筋が震え、そんな自分を心で叱咤していると、高山が口を開いた。
「零史さん。余計なお喋りはやめてくれませんか」
意外にも迷惑そうだ。
零史はからかうような笑い声を立てた。
「いいじゃないか。彼は要さんの息子だよ? しかもGプロのドル箱だ。最近、君のところのアイドルもGプロに高く売れたんだろ? これも何かの縁だから、次期社長として繋ぎでもつけといたら?」
亜美の話題に高山の顔を窺うと、彼は苦虫を潰したような顔をしていた。
「あんたには関係ない話でしょう。それよりも車に人を待たせてる。早くしないと駐禁取られます。邪魔するならあんたも車に戻ってください」
高山がドアを手で示すと、零史はハイハイとつまらなそうにドアを見た。
「あんまり乗り気しないな。白川皐月と車中で二人きりって」
白川皐月――亜美さんの母親が一緒だったのか。
つられたようにドアに目を向けると、零史が僕の目線に気がついた。
「へえ。君は白川皐月が好きなのか。なんだったら紹介してあげようか。もっとも、プライベートではあんまり勧められないけどね」
「………」
思わず体が竦む。それが悔しくて言い返そうとグッと背筋に力を入れると、近づいてくる零史を拓巳くんが遮った。
「近寄るな。さっさと行けよ」
そして僕をフロアに押しながら高山に向き直った。
「あんたはちょっと顔貸してもらおうか。雅俊を殴った男があんたのところの所属タレントなら、責任が絡んでくるからな」
高山の痩せた面が少しひきつった。
サングラス越しでも面と向かうのは厳しいらしい。
「そ、それは変な話でしょうが。うちのもんは、先に手を出したのはおたくのリーダーのほうだって言ってんですよ」
「ふざけんなよ。突っ転ばしといてなにが先だ。こっちはかなりの怪我負わされてんだぞ」
「そりゃ、誰でも間違いってもんはありましてね。たまたま足を出したら運悪くそちらさんが引っかかっただけなのに、逆上するからつい応戦したってわけで。つまりは喧嘩でしょうが」
「へえ。あんな細いやつ相手にガタイのいい男が膝蹴りかましながら、わざと痛めつけたわけじゃないってのか。バックレるにもほどがあるな」
「なんのことかわかりませんね」
急いでるんで入らせてもらいますよ、と拓巳くんをかわそうとしたところで奥のドアが開いた。
「高山さん」
「達也」
少々青ざめた顔の、達也と呼ばれた茶髪の男の後ろから祐さんが長身を現した。
まるで犯罪者を連行する刑事のようだ。
怯えたような茶髪の男がサッと高山の背後に隠れると、祐さんは高山をじっと見下ろした。
「あんたが彼の所属事務所のマネージャーか」
高山は気圧されながらも祐さんを睨んだ。
「っ、……高山だ。手荒な真似はしてないだろうな」
いささか力んだ顔を祐さんはしばらく見つめていたが、やがて目を眇めて言った。
「あんたの主張は聞こえた。納得しがたい部分はあるが、今日のところは返してやる」
「祐司」
拓巳くんが抗議の声を上げるのを、祐さんは目だけで制した。
「まずは雅俊の状態の確認だ。診断書を取ろう。そこの若いのに聞いたところでは、あれが体格的には女性に準じる者だということは加害者も承知していたようだ。訴えたらどっちが勝つかは明白だな」
証言は取ったぞと黒いデニムのポケットからスマートフォンを取り出され、高山は脇に立つ茶髪の男を苦々しい顔で見やった。そしてギラつくような目で祐さんを睨むと、「行くぞっ」と男を押しやって大股に出ていった。
どこからともなく安堵のため息が漏れ、あちこちに再びざわめきが戻りだした。若いバーテンがカウンターに戻り、室内に残っていた客がカウンターに立ち寄り始める。
後ろに従っていた店長が祐さんに話しかけるのを見、俊くんのもとに戻ろうと振り返ると、いつの間に移動したのか、零史が俊くんのソファーを覗き込んでいた。
「っ……!」
コースケさんが不安げな表情で彼とこちらを交互に見ている。
慌ててまだ客の残る室内を横切ると、僕に気づいた零史がこちらを振り返った。
「そんな顔で睨まなくても。別に取って食ったりしないさ。こんなマズそうなやつ」
嘲るように言われ、僕は今にも震え立ちそうな背中に力を入れて俊くんとの間に割り込んだ。
「用がないなら離れてください。車が待ってるんでしょう」
努めて平坦な声で告げると、零史は顔を突き出すようにして距離を縮めてきた。
「あれ。震えてるじゃないか。ほんとかわいいな。拓巳の息子とはとても思えない」
至近距離の顔に足が竦む。
「君だったらよろこんでご馳走になるよ。今度はうちに来ないか? 趣向を凝らして歓迎しよう」
囁きながら腕をつかまれて全身が総毛立つ。彼は蠱惑的な笑みを浮かべて顔を寄せてきた。
「困ったことに、君は私好みなんだよ。ホストに育ててもイケそうだし。拓巳の息子だってのは厄介だけど、雅俊なんぞに独占されているのは宝の持ち腐れだ」
「じ、冗談はやめてください。たちの悪い」
「冗談なものか。そうさな。代わりにいいことを教えてあげよう。雅俊は偶然痛めつけられたんじゃない。ちゃんと依頼者がいるのさ」
「えっ!」
ギョッとして目を剥くと、彼は悪魔の誘惑もかくやといわんばかりの頬笑みを浮かべた。
「これも偶然、立ち聞いてしてしまってね。『半年くらいステージに立てないようにしてくれ』だって。物騒だねえ」
「……一体、誰がっ」
誘われるように前のめりになり、零史に腕を取られる。すると後ろから別の手が伸びてきて肩をつかまれた。
「くっそ……アイドルの次は、ホストかよ。おちおち横になってられねー……」
ぼやきながら背中に寄りかかってきたのは、弱々しくも聞き慣れた声の主だった。
「俊くん……!」
驚きと安堵と焦りで頭がごっちゃになり、一瞬にして体の呪縛が解ける。そのまま零史の腕を振り切って体を捻り、僕はずり落ちそうな体を受け止めた。
「零史の言葉なんぞ、真に受けるんじゃない。……そいつは、自分の野望のためならどんな嘘でもつくぞ……」
途切れ途切れの声に、コースケさんが慌てた様子で立ち上がった。
「雅俊くん! 起きちゃダメだよ」
「そうも言ってられない」
俊くんは縋るようにして僕の肩をつかみ直しながら、零史の顔を鋭い視線で見返した。
「テメーのことだから、面白いネタで、掻き回そうって魂胆だろう……その手には乗らん。さっさと帰れ」
そのときには、こちらの異変を察した拓巳くんが店内を横切ってくるのが見えた。それに気づいた零史は舌打ちし、一歩下がって僕に顔を戻した。
「嘘じゃないさ。君を気に入ったことも、雅俊のこともね。ま、本当かどうかはそのうちわかる。私に連絡したくなったらいつでも石川町の〈クラブ・バール〉に来ればいい。ただし君一人で」
「黙れ。おまえのところになんぞ誰が行かせるか」
俊くんが切り捨てる勢いで遮る。それをあしらうように笑いながら、零史は踵を返してこちらに来る拓巳くんとすれ違った。
「おい。和巳に何を吹き込んだ」
「別に? ちょっといいことを教えてあげただけさ」
彼は足を止めることなくテーブルの間を抜けると、ドアを開けて出ていった。
僕は再び力が抜けてきた俊くんを支えながら、告げられた店の名前を脳裏に焼きつけた。