失意の底で
翌週から、まるで薄氷を踏むような日々が来た。
土日をまんじりともなく自宅で過ごし、月曜日は下校後にいち早くGプロビルに行ってみたが、僕のいる時間帯に俊くんが姿を現すことはなかった。
そんな日が二日三日と続き、週末を迎える頃には、さすがにこれは避けられているのだと確信した。同時に今まで毎日のように顔を会わせていたのは、僕が来る時間帯にGプロビルにいられるように、彼が自分のスケジュールを調整していたのだと知ることにもなった。俊くんにとっては、僕に合わせることのほうが大変だったのだ。
それを知ってはなお居たたまれず、ならば水曜日の手伝いを軸に頑張ろうと思っていたのだが、その翌週になると、彼から「今は手が足りてるから当分、水曜日の手伝いは不要」との伝言がもたらされ、こちらからアプローチする手段を絶たれてしまった。
「なんて肝の小せぇヤローなんだ。そんなに自分の態度に自信がないなら師匠なんてやめちまえ!」
拓巳くんが毒づくのを真嶋さんがたしなめたが、しかし気がかりそうにこぼした。
「雅俊はどういうつもりなんだろう……和巳を遠ざけたって意味はないだろうに」
僕がまず伝えてくるから、わけを話してくれないかい? と申し出られたが、それはさすがに固辞した。
「今度こそ、自分の口で雅俊さんに話したいんです」
真嶋さんはなおも心配そうにしていたが、ごり押しはしなかった。
俊くんが話を知ってしまったのは本当に偶然で、仕事帰りの陰山とギャラリー柏原の文房具コーナーで鉢合わせたせいだった。
「すまん。まさか話してなかったとは思わなくて……」
なんとか思い止められないのかとの一心でスランプの度合いや進路替えについてあれこれ質問し、彼の形相が変わるのを見てまだ何も知らないのだと気づいたものの、すでに後の祭りだったという。
恐縮した様子の陰山に八つ当たりするわけにもいかず、返事を返すのが精一杯だった。
「陰山先生から聞いたよ。なんともまずいタイミングだったなぁ……」
事情を漏れ聞いた向井は嘆息して言った。
彼も状況を知ると、俺から説明するから一緒に行こうと言ってくれたが、「ここで人を頼ったら、逆に軽蔑される気がして怖いんです」と断ると、経緯を把握しているだけあってすぐに察してくれた。
そのときの僕はまだ、これは彼が自分の心を落ち着けるために必要としている時間なんだと考えることができた。拓巳くんのスケジュールには当然、メンバーで行動する時間があって、挨拶しか交わせなくても姿を見ることはできたからだ。
以前のように仕事の合間に声をかけてはもらえず、アイコンタクトや笑顔など、心が届くようなやり取りも一切なくなってしまったが、時折こちらに物言いたげな目線が投げられるので、心を宥めることができた。
しかし二週間、三週間と日が経つにつれ、メールも電話も忙しいから控えてくれと断られたまま放置となると、さすがにそうも構えていられなくなった。
「雅俊さん。今、少し時間ありますか?」
これもすべては身から出た錆だと思い、勇気を出して仕事の合間に呼び止めてみたが、大抵は忙しい素振りで手を振られた。
「スケジュールが立て込んでいる」
それを何度か繰返したのち、思い余ってとうとう地下駐車場まで追いかけた。
「今週の土曜日はだめですか?」
「悪いが忙しい」
「じゃあ日曜日は」
「日中は雑誌の関係者と会うことになってる。さすがに夜は休みたい」
「―――」
言外におまえといたのでは休まらないと言われては、それ以上食い下がることができない。
むろん個別懇談の話などしようもなく、結局なんの説明もできないうちに当日を迎えてしまった。
「もうよせ。あいつはおまえより自分と仕事が大事なんだ」
萎れる僕を、拓巳くんが慰めてくれるのだが、基本、彼は絵のことに興味がない。そんな彼から出る言葉を複雑に感じてしまう自分が心底嫌になった。
そんな風にしてなすすべもなく一ヶ月が過ぎた頃、ついに心が折れそうになる出来事が起きた。
「ちょっと予定より早いんだが、来週から和巳君の時間を柳沢亜美君に少しもらっていいかな?」
「………」
音楽雑誌のインタビューを終え、ビル内の休憩室で次のスケジュールを確認していた矢先。顔を出した後藤社長の言葉に、僕と沖田さん、そしてテーブル備え付けの椅子に腰かけていた〈T-ショック〉の面々はしばし沈黙した。
社長はにこやかな表情で給湯器のそばに立つ僕と沖田さんに歩み寄った。
「うちの幹部たちからの要望なんだが、彼女のスケジュールを早めたいそうでね。榑林君からの申し出もあって、グループ卒業のあとすぐにこちらで活動できるようにしたいんだよ」
言葉を返せずにいると、沖田さんがおずおずと申し出た。
「あの、でも来週はもう八月です。こちらも札幌コンサートの予定が詰まってくるのですが」
夏休みに入って一週間、季節は連日猛暑日に見舞われている。早く札幌に行きたいでしょうとの言葉が、先ほどのインタビューの合間にも出てきたところだ。
「和巳君も受験に向けての講習が入ってますから、九月までそのお話は……」
歯切れの悪い様子で説明する沖田さんを、後藤社長は苦笑で止めた。
「もちろん考慮するとも。ただ、八月いっぱいは夏休みだろう? 講習は大抵が午前中だと聞いている。午後の空いている時間なら大丈夫かと思ってね」
それに心配はいらない、と彼はテーブルの奥に目を向けた。
「最近、和巳君は水曜日に手が空いているそうじゃないか。だからちゃんと雅俊君の許可は取り付けておいたよ」
――えっ!
一瞬、耳を疑う。
拓巳くん、そして祐さんが、間に座る俊くんを見る。
「そうなんですか?」
沖田さんがメガネの奥の目を見開いて問い返すと、社長はいいんだろう? とやや俯いたままの俊くんに呼びかけた。
「本当なのか雅俊」
拓巳くんが横から身を乗り出すと、顔を上げた彼はチラッとこちらに目線を投げてから平坦な声で言った。
「ああ。なにしろ先日、仕事先で行き合わせた榑林マネージャーが挨拶に来て、和巳本人の承諾は得ていると聞かされたんでな」
「なに?」
拓巳くんが一瞬、こちらを見る。俊くんが続けた。
「いつの間にコンタクトを取っていたのかは知らないが、話がもう纏まってるなら、手伝いを断ったおれが口を出してもしょうがない」
「………」
拓巳くんが黙り込み、俊くんは皮肉げな笑みを浮かべた。
「まあ、おれとしては、進路を変えて勉強が増えたはずの和巳を気遣って仕事から外したつもりだったんで、少々言いたいことがないでもなかったがな。柳沢亜美はたいそう喜んで張り切ってるそうだから、やりがいのあるマネージャー業に熱中したほうがいいのかもしれないと思い直したのさ」
―――!
それは絵を中断したことへの痛烈な皮肉だった。
僕は腹に力を込めて言った。
「違います! 亜美さんのことは移籍してくる秋以降の話です。それに承諾したんじゃなくて、話が正式に示されたとき、雅っ、……みなさんからの許可が得られる形なら拒否しないとの気持ちを伝えただけです。自分から申し出たわけじゃないし、八月に受けるつもりもありませんっ!」
肩で息を継ぐと、俊くんが冷めた目で僕を見た。
「引き受けるなら、八月も九月も同じだろう。メインマネージャーの手伝いだろうから、修行と思って引き受ければいい」
背筋に冷たいものが落ちる。
「雅俊さんには……っ」
僕はもう、必要ないですか。
喉まででかかった言葉はバンッ! とテーブルを叩く音に遮られた。
誰もが咄嗟に拓巳くんを見たが、彼も驚いた顔でテーブルを叩いた長い手の主を見ていた。
「いい加減にしろ」
底冷えするような低い声を発したのは祐さんだった。
「このところのおまえが、前にも増して和巳に素っ気なかった理由はよくわかった。だがな」
彼はゆっくりと首を巡らせて俊くんに顔を向けた。
「言いたいことがあるなら本人とちゃんと向き合え。仕事を隠れ蓑にしたまま耳を塞ぐな。クオリティが落ちる一方で迷惑だ」
「………!」
俊くんが傷ついた顔をした。しかし祐さんは容赦なく畳みかけた。
「確かに、和巳はやり方を間違えたかもしれん。だがその後は礼を尽くしておまえを待ち、伝える努力もした。これ以上、おまえが情けない態度を取るなら俺にも覚悟があるぞ」
青ざめて押し黙る俊くんの横で、拓巳くんが迫力に飲まれたように覚悟って、とつぶやく。それには答えずに祐さんは椅子から立ち上がると、長身とは思えない静かな足取りでこちらに歩み寄ってきた。
「社長。悪いがその話はこっちの問題が片付くまで却下だ。他の者で対応してもらいたい」
「や、そうは言っても榑林君との話で」
「その若いタレントと俺たちとどっちを取る」
社長、そして沖田さんも僕も一瞬ギョッとした。
「なにをばかなことを」
空気を和らげるように社長は苦笑した。
「これは正式な業務変更じゃない。彼女が慣れるまでの間、和巳君の空いた時間をちょっと分けてもらいたいというだけの話だよ。とはいえこちらの都合だから、君たちへの誠意として私が説明しに来たんじゃないか」
「物事を読み違えないほうがいいぞ」
祐さんは社長の前で立ち止まると、彫りの深い目元を陰らせて見下ろした。
「社長が何を考えて動いたのかはわかる。和巳の力を正しく評価したということも。だが肝心なことを見逃している」
「か、肝心?」
祐さんはそうだと頷いた。
「見てわかるとおり、和巳と雅俊は問題を抱えている。さらに不和を招くような介入はこっちの仕事に響く」
「いやしかし、雅俊君は仕事に私情を持ち込んだりしない人だし」
「今のところは、だ。雅俊にとっても和巳はもはや欠かせない存在、放置できる段階じゃない。あんたがやろうとしていることは雅俊の感情を乱し、俺たちの音楽にひびを入れている。そのままあんたが推し進めるなら、遠からず俺たちは崩壊するぞ」
「まさか……」
社長が言葉に詰まると、祐さんはテーブルを振り返った。
「雅俊。後悔したくないなら逃げるな」
俊くんがハッと祐さんを見る。それを眉根を寄せたまま見つめると、祐さんは次に僕を見た。
「和巳もいいな。決着がつくまで俺は許可しない」
「祐さん………」
言葉を失っていると、社長が慌てたように言った。
「待ってくれ祐司君。亜美君のことは」
「却下だ。マネージャーも同じ意見のはずだ。担当者の言葉によく耳を傾けてくれ」
祐さんは沖田さんに目を向けたあと、踵を返して休憩室を出ていった。
◇◇◇
「祐司さんが反対……!」
「声が大きい」
教室の隅で声を上げた健吾をたしなめながら、僕は周囲に目を配った。
幸いなことに、模試を終えたクラス内はざわめいていて、こちらに注目する者はいない。
僕は手早くロッカーから鞄を出すと、健吾と連れ立って廊下に出た。
一週間続く夏期講習は三日連続の模試で、うだるような外の暑さとともに生気を奪われた気がする。
これであの炎天下を歩いて帰るのかと思うと足が重くなる。
今日は水曜日か。どうせバイトはないだろうから図書館でも寄ろうかな。
そんなことを模試の前にぽろっと口にしたら、健吾に何があったと聞き返され、休憩時間ごとに追求、先日の顛末を説明する羽目になったわけだ。
中庭に差しかかったあたりで周囲を見回した健吾が聞いてきた。
「祐司さんが動くなんてよっぽどだな。じゃあひとまず亜美ちゃんの話はナシか。雅俊さんはなんて?」
今日は三年しかいないせいか、昇降口に続く廊下までの歩道の人影もまばらで近くには誰もいない。
「別に。あれから一週間経ったけど、向こうからの連絡はないし土日の許可もない。だから水曜日も空いたまま」
健吾はしばし口を開けたまま沈黙し、やがて肩を落とした。
「……祐さんに突っ込まれたことで、逆に頑なになっちゃったのかな……」
「それはあるかもね」
受け流すように返すと、健吾がフッと足を止めた。
「なんだよ、その素っ気なさ。これはおまえの話だろ」
咎めるような口調に、僕はついカッとなった。
「しょうがないじゃん。電話もメールも禁止されたままだし、昼にマンションを訪ねても滅多にいないし、いても応答してくれないし。夜は音楽関係の人と飲みに行っちゃってるみたいだし、ここまで徹底して避けられたら僕にできることなんて……っ」
「わかった。わかったから声を落とせ」
悪かったから、と肩を押さえられ、僕は自分が健吾につかみかかる勢いで詰め寄っていたことに気がついた。
「ごめん……」
力を抜いて頭を下げると、彼はちょっと寄り道しようといつもの遊歩道に進んだ。
青く繁る木々の中に入ると、幾分暑さが和らいだ。生ぬるい風も心なしか涼しく感じる。
ベンチのそばまで来ると健吾が振り返った。
「あのさ。おまえがもし、雅俊さんから嫌われちゃったとか考えてるなら、それは違うと思うんだ」
緑が作る日陰の下で、涼やかな目元は真面目な色を映していた。
「……こんなに出入り禁止で、話すら聞いてもらえないのに?」
他に考えようがないと思うけど、と続けると、健吾は困ったように短髪の頭を掻いた。
「そこ。憶測ではあるんだけど、雅俊さんみたいな人が本当に見切りを着けちゃったなら、逆にさっさと会って決着をつけると思うんだ」
「………」
「それが、祐司さんが怒るほど歯切れ悪くおまえを避けてるってことは、何か面と向き合えない別の要素があるんじゃないかと思うんだよ」
思いもよらぬ角度からの指摘に、胸の奥のもやもやが少しだけ薄れる。
「別の要素って?」
「さすがにそこまではわからないけど」
健吾は困り顔でベンチに歩み寄ると「でも怒って避けてるだけとは思えないんだよなぁ」と腰を下ろした。
「もうすぐ札幌じゃん? 偵察してみるからさ。おまえも腐らずにもうちょっとだけ」
健吾がそこまで言ったとき、小道の奥の茂みからザザッと音をたてて小柄な姿が現れた。
「あのっ、……っ」
息を弾ませていたのは、いつぞやと同じく夏の制服を着た、メガネにお下げ髪姿の亜美だった。
「亜美さん? どう……っ」
したの? と言う前に亜美が突進してきた。
「わ、私の……っ、皆さんが、反対して……っ」
呼吸する胸の奥が嫌な音を立て、必死の形相の顔には汗が浮いている。僕はシャツをつかむ小さな二つの手をひとまず押さえた。
「えーっと、まずは落ち着いて深呼吸ね。はい、鼻から吸って~」
背中をトントン叩きながら拍子をつけると、亜美はつられたように息を吸い、そして吐いた。
何度か繰り返すうちに肩から力が抜け、まもなく喘鳴がなくなる。様子を確認して、僕はシャツをつかむ手をそっと外した。
「うまいもんだな」
健吾がつぶやくのを「まあね」と受け流す。
拓巳くんの過呼吸に比べたら易しいものだ。
「ごめんね。きっと榑林さんから話を聞いたんでしょう。大丈夫。そんなに心配しなくても君の移籍は変わらないよ」
「で、でもさっき、徹底的に避けられて話を聞いてもらえないって……っ」
「聞いてたの?」
つい語尾が強くなってしまう。
「ご、ご免なさい。今週は模試があるって社長さんに聞いていたから、もしかしたら中庭で会えるかもと思って木の影で待ってたら……」
身を縮める様子に僕は赤面した。つい声を荒らげたのが聞こえたのだ。
亜美は小柄な体を丸めながらもなお気がかりな様子で僕を見た。
「あの、私、直接お願いしに行きます。どうか会わせてください」
誰に? とは問いかけるまでもない。
僕と健吾は顔を見合わせ、次いで亜美を見た。
「いやいや、それはまずいわ亜…じゃない、愛美ちゃん」
健吾がこめかみを掻きながら言い、僕も頷いた。
「今ね。ちょっとみんなツアー前でキリキリしてるんだよ。だから会うのは逆効果になっちゃう気がする」
「………」
亜美の顔が絶望に歪む。僕は宥めるように笑いかけた。
「社長は今、しっかりしたメインマネージャーさんを選んでいるし、決まったらその人に僕があらかじめ対処法を書いて渡しておくよ。Gプロには優秀な人が揃ってるから安心して」
大きな目がメガネの奥から探るように覗いている。
なんか僕、この必死の目に弱いんだよなぁ。
この姿だから尚更感じるのかも知れないけれど、まるで捨てられた犬が拾ってくれた人に縋ってくるようでどうにも邪険にできない。
「それに、このまま水曜日の手持ち無沙汰が続くなら、模試の結果次第では手伝うことだって」
亜美の目が「えっ」と見開かれる。すると健吾の鋭い声が飛んだ。
「和巳! そういう迂闊な発言はやめろよ。誰が反対してると思ってんだ!」
無理に決まってんだろ、と目で諌められ、僕は「ごめん」と嘆息した。
俊くんが僕を放り出したくても、祐さんが許可しないからには難しいだろう。
「じゃあ拓巳くんと相談してみる。ちょっとくらいなら譲ってもらえる時間があるかもしれないから」
「だからっ。それは問題を解決してからにしろよ!」
健吾が立ち上がり、亜美がビクッと振り返る。僕は苦笑して健吾に言った。
「もちろん、そうしたいよ。雅俊さんさえ話を聞いてくれるなら。けど実際、これ以上どうやってアプローチすればいいんだろうね」
「……そりゃ」
健吾はバツが悪そうな顔になり、僕はわざと目を逸らして言った。
「縁あって、一人の女の子がGプロに来る。人気だけど、まだ若くて身よりもなくて、これから生きていくためには、とにかくいい仕事をつかめるように頑張らなくちゃいけない子が。しかも人よりハンデを背負って」
きっとGプロでだって、最初の一年は売り込みでハードなスケジュールを組むだろう。
「何に気をつけるべきか。それがわかってるのに僕にはなにもできない。ホント早く一人前になりたいよ」
「だから俺たちは大学へ行くんじゃん。雅俊さんは集中してほしいって気持ちだったって言ってたんだろ?」
「どうだろう。あれは僕の見たところ、皮肉の一種で」
「和巳!」
「あのっ、私!」
ふいに声をかけられ、ハッと状況に気づく。
しまった。つい。
健吾も「いけね」と口の中でこぼしている。
「ごめん。驚かしちゃった? 僕たちにはこんなのケンカのうちにも入らない日常のやり取りだから」
慌てて取り繕ったが、亜美は泣きそうな顔で首を横に振った。
「違うんです。でも、ごめんなさい。私には……っ!」
彼女はさらに何度か首を振ると、サッと踵を返して駆け去っていった。
僕たちはお互いその場に立ったまま、しばらく口を開かなかった。
やがて健吾がポツリと言った。
「誰にとってもいいことないな。この状況は」
「……そうだね」
わかってはいても、僕にはどうしようもない。
このまま日が過ぎるなら、もう何も話さずに離れたほうが、傷が少なくて済むんじゃないのかな。
最近では、そんな諦めにも似た感情が芽生えはじめている。
そんな風に自分の内面に囚われていたので、そのときの僕は亜美の様子を見逃した。そのことに早く気がついていたなら、事態の方向が少しは違っていたかもしれない――。
まんじりともしないうちに一週間が経ち、僕たちはコンサートのために札幌に移動した。
ホテルは俊くんとは別の部屋で、むろん埼玉のようなやり取りはないままだ。
札幌の市街地は想像したよりも暑かったが、夜はさすがに快適で、手の空いたスタッフは交代で繰り出していった。
メンバーはあまり外には出られないが、いつもならそれなりに息抜きに出かける。しかしここでは部屋からも出ず、コンサート会場とホテルの往復のみとなった。
「他に適当な会場があったら、札幌なんぞやめるんだが」
過去、この地で僕を誘拐され、痛い思いをした拓巳くんは、今でも札幌での仕事は乗り気ではない。
むろんそのときとはまったく別の場所にある施設――郊外のスタジアムを使うのだが、どうしてもいい印象は持てないようだ。しかし今回の外出の少なさは、僕にはそれだけではないように思えた。
一方、俊くんは祐さんに渇を入れられたせいか、ステージへの集中度が増したように見えた。
「そこ、やっぱ出だしはギターからにしよう。いいか祐司」
「わかった」
最終リハーサルのギリギリまで調整する姿はいつもどおりのストイックさで、指示を受ける若いスタッフたちも慣れてきた様子で動く。
今までも、僕は基本、拓巳くんの専属であって、俊くんのために多くの時間を割いていたわけではなかったが、熱心に彼とやり取りを交わすスタッフの姿が横目に映ると、どうしようもない疎外感と寂しさが募った。
そんな中で迎えた本番は、しかし熱狂的な大勢のファンで埋め尽くされた。
二万人近い観客に向けて響くステージの大音響。煌めくファンのペンライト、あちこちから上がる悲鳴にも似た歓声。
闇夜を貫くサーチライト、祐さんのギターパフォーマンスに沸き上がるどよめき、情熱を叩きつけるような俊くんのキーボードプレイ、拓巳くんの深みのあるボイス。
度肝を抜くような二十連発の花火が空間を彩り、興奮を煽る。
「いや、今日はパワー全開だね」
「こりゃいい映像が撮れそうだ」
ドキュメント企画の撮影スタッフが、浮き立った様子でカメラを片手に裏方を走り、僕たちが待機するステージ脇を係員が早足で通り抜けていく。
「次の曲の前に一回、照明が落ちるぞ。各自、移動場所はわかってるな」
「はいっ」
みんながひとつの方向に向かって駆け抜ける中を、一人、僕だけが取り残されたような気分で、けれども体だけは機械のように動かしているのだった。