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ターンアウト~手探りの未来図  作者: 木柚 智弥
手探りの攻防
12/25

発覚


「ねえ拓巳くん。ちょっといいかな」

 埼玉でのコンサートが終わり、順調に日々が過ぎた金曜日の夜、食後のコーヒーを用意した僕は、リビングのソファーに寝そべる拓巳くんに呼びかけた。

「明日は目黒へ行くから、その前に話したいことがあるんだ」

 時刻は夜の八時二十分。真嶋さんにも加わってもらえるよう、話はつけてある。八時半までにここに来てもらう段取りだ。

「どうした。……もしかして子タレの件か」

 拓巳くんが上体を起こし、僕はローテーブルにカップを二つ置いてから彼の隣に座った。

「それもあるけど、まずは僕の進路のことだよ。七月に入ったら三者面談があるのは知ってるでしょう?」

「進路の確認とやらを担任とするんだったな」

 あの譲とな、と拓巳くんが目線を宙に泳がせ、僕は口元を綻ばせた。

 昨日のうちに進路相談を申し出ていた僕は、今日の昼休みに向井と、放課後に陰山と話をした。

「うーん、そうか……。宮内にバレるくらいじゃ、あのお師匠様を誤魔化すのは難しいか」

 向井は少し思案を巡らせてから言った。

「おまえの仕事ぶりを見ていて感じたんだが、Gプロのスタッフにとっておまえは単なる付き人じゃなくて、あの大物たちとスタッフの距離を縮める接着剤なんだな。マースも頼みにしてるようだし。きっと精神的な部分でのつながりが深いんだろうな」

 一人頷く向井に、そこまで読み取れるのかと舌を巻いたものだ。

「あれじゃ迂闊に打ち明けることも、かといって隠し通すのが難しいこともよくわかったよ。よし。満を持して打ち明けるほうに勝機を求めようぜ」

 向井はそんな言葉で後押ししてくれた。

 一方で、学部替えと退部を申し出た僕を、陰山は複雑な表情で見つめてきた。

「残念だ。本当に残念だよ。君は素晴らしいものを持っていて、それをバックアップしてもらえる理解と財力に恵まれた環境にあった。芸術は、よほど突出していない限り才能だけではやっていけない。その点君は……」

 僕が俯くと、彼は慌てて「いや、すまん」と謝った。

「向井先生からくれぐれも愚痴めいたことは言わないよう注意されてたのにな。スランプに陥ったのは君のせいじゃないし、最も残念なのは蒼雅先生のはずだ」

 陰山は、向井から『かなり深刻なスランプに陥っている』と聞かされても、何かの拍子に脱する可能性もあると思い、受験の準備を進めておいたのだという。

 彼は散々惜しみながらも僕の意志が変わらないとわかると、「絵描きに寿命はない。いつかまた自分の絵が描ける日がくることを祈ってるよ」との言葉をくれた。

 あとは拓巳くんと真嶋さんにある程度の事情を説明して、すべてを知ることになる俊くんを気遣ってもらおう――。

 そんな風に考えて今日の時間を選んだのだった。

「色々悩んだんだけど、僕は自分の芸術を極めるよりも、才能ある人を支える側に回ろうと思うんだ」

 拓巳くんは少しだけ目を見開き、僕に向き直った。

「それは大学をやめるってことか。まさかこの前の社長の話を聞いて」

「社長さんの話に乗ったわけじゃないよ。でも選択肢のひとつにはなると思う」

 笑顔を浮かべつつ遮ると、拓巳くんはわからないという風に眉根を寄せた。

「じゃ、大学は行くんだな? コースの選択を変えるってことか」

「大学は経済学部を。もう書類は整えてあるんだ」

 そこで拓巳くんは「えっ?」と目を見張り、僕の顔をまじまじと見た。

「芸術学部をやめるのか。雅俊はなんて?」

「俊くんには明日説明するつもり。だからその前に伝えておきたくて」

 もうすぐ真嶋さんも来るからと付け足すと、彼は戸惑った顔をした。

「芳弘はいいにしても、雅俊は反対すると思うんだが……」

「拓巳くんは、僕が経済を取ってGプロに入ったら困る?」

 改めて問いかけると、拓巳くんはハタと我に返ったかのように顎を引いた。

「いや、もちろん俺は嬉しい。なにしろ横澤がいなくなって智紀が忙しいんで、おまえがいない時間帯は本当に不便でな」

 俺とまともに会話できるやつがいなくて、と彼はこめかみの奥を掻いた。

「けど、だからといって、やりたいことを捨てまでそばにいてくれとか言うつもりはないぞ。まあ、もしおまえがデザイン関係の仕事に就いちまったら、早々に事務所でも持たせて、仕事先を紹介する代わりに俺のヘルプも続けてもおうとか思ってたけどな」

 さりげなく外道な計画を聞かされて、あははと笑いながら内心で(あり得たかも)と冷や汗をかいていると、拓巳くんが表情を改めた。

「前に雅俊と口論になったのは、あいつが芸大に行ったらバイトも減らすんだみたいなことを言ったからだ。現状維持してくれるなら絵の勉強だって続けていいんだぞ?」

 念を押すように言われ、僕は首を横に振った。

「デザイン系の仕事はどんな職についても時間を取られる。かけ持ちでバイトできるような世界じゃないよ。でも僕は欲張りだから、拓巳くんのサポートを他の人に任せたくないし、俊くんが作る音楽の世界にも触れていたい。それが自分の勉強につながると思う」

「それは……いずれは選ばなきゃならんだろうが、まだいいと思うんだが……」

 うーん、と腕を組んで呻かれ、僕は内心でやきもきした。

 この話をどこまで打ち明けるについて、拓巳くんへの内容は以前から決めてある。

 あのときの監禁事件が発端で筆を取れなくなったなどと知れば、加害者の男――名を零史(れいし)と言ったかつての同僚を彼は許さないだろう。俊くんに知れるのも気が重いが、拓巳くんがどう出るかはもっと計り知れない。挙げ句に新聞沙汰にでもなったら取り返しがつかないので、すべてを打ち明けるのはまず俊くん、日を改めてから真嶋さんと決めている。

 週明けには仕事で顔を揃えるのに、父親が何も知らないではまずいから、ある程度までは話すのだが、学部を変える理由には触れたくないところだ。

「……亜美さんの話を聞いて思ったんだ。僕は拓巳くんや周りの人のお陰でそんな贅沢なことを言ってもらえるんだって」

 拓巳くんは少し眉をひそめた。

「子タレの事情は子タレの運命だ。なにも自分と比べることはないだろうが」

「拓巳くんだって俊くんだって大変だった。僕だけが手厚く守られてるのは心苦しいよ」

「祐司は普通だぞ? でも俺たちといて、自分が恵まれてて気が引けるなんてことは言わなかった」

「祐さんは高校のときには自分の足で立ってたんだよ。それで拓巳くんたちを後ろから支えたんだ。家でぬくぬくとしていたわけじゃない」

 さすがに進路を変える理由としては弱いのか、なかなか納得してくれない。

 でも、これで押すしか僕には……。

「僕は、守られているより支える側になりたいんだ!」

 つい語尾に力が入ってしまった。すると拓巳くんが驚いたように僕を見た。

「おまえは……」

 彼はそこで言葉を切るとフッと目線を逸らし、やがて懐かしむように目を細めて僕を見た。

(わか)()と、同じことを言うんだな」

「若砂さんと?」

 亡き母の名を出されて戸惑うと、拓巳くんは薄く頬笑んだ。

「出会ったばかりの頃にな。母親や姉に守られてばかりじゃ情けないから、自分も役に立ちたいと思ってバイトをしてるって言ったんだ」

 彼はその頃の思い出に心を巡らせるように目を閉じると、しばらくそのまま動かなくなり、やがて半眼を開けて言った。

「そうだったな……おまえの気質は若砂から受け継がれたものだ。あいつなら、安全に囲われるばかりじゃ嫌だ、自分もみんなの役に立ちたいって言うだろう」

 納得したようにつぶやかれ、僕は胸が熱くなった。

 天国のお母さんが、僕を憐れんで力を貸してくれたに違いない。

「わかった。おまえの思うようにしろ。俺にはありがたいことだ。芳弘にも話をして――」

 そこまで拓巳くんが言ったとき、遠くで玄関のドアが開け閉めされる音がし、人の声とともにバタバタと響く足音が聞こえてきた。

「芳弘……じゃないよな?」

 一瞬、拓巳くんと顔を見合わせ、次いでリビングのドアに顔を向ける。途端、ドアがバンッと開かれ、誰かが飛び込んできた。

「和巳! お、おまえ、スランプで描けなくなったからデザイン科をやめたって本当なのかっ!」

「―――!」

 肩で息をしながら叫んだのは、血相を変えた俊くんだった。

 ――なんでそれを、俊くんが。

 拓巳くんが驚いてこちらを見つめる中、凍りついたように動けずにいると、「ごめん、勝手に入るよ!」と後ろから真嶋さんが姿を現した。

「そんな風に問い詰めちゃだめだ! まずは話を聞かないと」

 どうやら玄関先で鉢合わせたらしい。

「スランプ? ……そうかそれで」

 拓巳くんが僕を見ながらつぶやく。

 真嶋さんもチラッとこちらを見てから俊くんの肩に手をやった。

「ほら、ちょうど二人も揃ってるからソファーに座ろう。和巳、僕もコーヒーをいただこうかな」

 僕は呪縛から解かれたように立ち上がった。

「は、はい。すぐに」

 冷めてしまった二つも入れ直そうとローテーブルに手を伸ばすと、俊くんが「コーヒーなんていい!」と声を荒らげた。

「質問に答えろ。本当なのか!」

 ソファーの手前からこちらを睨みつける表情は苦しげで、激しい感情を辛うじて押さえていることを窺わせる。僕はテーブルに伸ばした手を戻して彼に向き直った。

 スランプという設定は向井の発案だ。どんな経緯があったのかは知らないが、彼から話が伝わってしまったのだろう。

 時間にして僅か半日。

 自分から話すまではと口止めしておいたはずなのだが、知られてしまった以上は誤魔化しても意味がない。

「……本当です」

「………っ」

 俊くんは一瞬、目元を歪めると、素早くソファーを回って僕のシャツの襟元をつかんだ。

 拳ひとつ低い位置から、オニキスの瞳が燃えるような光を放つ。

「なんで。なんでおれに言わなかった。相談もなく決めるなんて……!」

「それは、明日の夜に……」

 打ち明けるつもりでしたと続けようとすると、襟元をつかむ手が別の手にもぎ離された。

「やめろ雅俊! おまえがそうやって荒れるとわかってるから言い出せなかったんだろうが!」

 割って入った拓巳くんは、俊くんから僕を引き離した。前に出ようとした俊くんの肩を真嶋さんが押さえる。拓巳くんは僕を少し下がらせると、俊くんに言った。

「今のスケジュールを考えてみろ。おまえに心配かけたくなかったに決まってるだろう。和巳は少し前から何か悩んでるようだった。何度かおまえに伝えたそうにしてるのを俺は見たぞ」

「………!」

 俊くんが目を見張ってこちらを見る。その痛そうな色に僕は俯いた。

「ただでさえ立場や年に開きがあるんだ。気軽に相談できなくても不思議はないだろうが。そのあたりのことを自覚してんのか」

 目線を上げた先で、心外そうな表情の俊くんが拓巳くんに食ってかかった。

「おれが和巳に対して高圧的だっていうのか」

「おまえにそのつもりがなくたって滲み出ることはある。現にコンサートのときなんか、周りの連中はおまえに対して萎縮ぎみだろうが」

「………」

「そんな風に詰め寄ったらますます何も言えなくなるぞ」

 俊くんはカッと顔に血の色を上らせた。

「詰め寄りたくもなるさ! 師匠として真っ先に明かされるべき決断を、まさか部活の顧問から聞かされるとは思わなかったからな! こんな情けない話があるか!」

 真嶋さんが「えっ!」と肩から手を離し、拓巳くんが振り返る。僕は頭の中が真っ白になった。

 よりによって陰山先生から――。

 それを避けたくて、ギリギリまで言わないできたのに。

「部活の顧問に? 先に話してたのか」

 さすがに驚いた様子で拓巳くんが言い、僕はなすすべもなくうなだれた。

 最後の最後で先に陰山に話したのは、願書の期日が迫っていたのもあるけれど、結局は俊くんの反応を恐れ、切り出しやすい人を先にして自分の負荷を減らそうとしたからだ。週末の夕方なら、万が一にも俊くんに伝わることはないはずだと、甘く考えて逃げたのだ。

 その結果、一番気遣いたかった人を手酷く傷つけた。

 もはや取り返しがつかない事態に、僕は目を伏せて息を吸い、そして深く頭を下げた。

「……先に相談せず、申し訳ありませんでした」

 アイポリーのカーペットを踏む俊くんの足が一歩こちらに近づいた。

「姿勢を戻せ。そして質問に答えろ。なんでスランプに陥ってることを言わなかった。おれはそんなに頼りないか」

「違います!」

 僕は頭を下げたまま答えた。

「雅俊さんが理由なんじゃない。僕に勇気がなかったからです」

「まるでおれには端から相談するつもりがなかったような言い方だな」

「そんなことはっ」

 反射的に顔を上げると、拓巳くんをかわした俊くんが目の前に迫っていた。

「そうじゃないのならなんで言わなかった」

「………」

「絵が描けないってのは、アイデアが浮かばないことか。それともデッサンがうまくとれないことか」

「………」

 何をどう話せばこの場がうまく収まるのか、頭がまったく働かない。

「和巳……っ」

 再び胸元と肩をつかまれ、今度は真嶋さんが腕を押さえて止めに入った。

「雅俊。今日のところはやめよう。君も頭を冷やしたほうがいい」

「だって芳さん! こんなことって……!」

「わかる。君の気持ちはよくわかる。けどとにかく今はやめよう。お互いの傷が深くなるだけだ」

「だけど……っ」

「それとも君はもう和巳を信じられないかい? 話すまで待つほどの愛情は持てない?」

「………」

 俊くんの気配が揺れ、真嶋さんが俊くんから手を話した。

「だったら仕方がない。気が済むまで聞き出せばいい。ただし、悪いけど僕も立ち会わせてもらうよ」

 真嶋さんはソファーの手前側に腰かけて足を組んだ。

「今の君は絵画の師匠じゃなくて、大事なことを他人に先に相談されて嫉妬する恋人の目線で物を言っている節があるからね」

「………っ」

 俊くんは怒りに燃え立つ眼差しで真嶋さんを睨みつけたが、彼から真っ直ぐに見つめ返されると肩を震わせて拳を握り締めた。そしてしばらく自分の内側と戦うように目を瞑ったあと、大きく息を吐いてこちらに体を戻した。

「……おまえのことだから、うまく描けなくて一人で悩みすぎたんだろう。いくら忙しいからってそこは遠慮しなくていい」

 華やかな美貌に自嘲混じりの苦い笑みが浮かぶ。

 居たたまれない思いで見つめていると、彼は気持ちを切り替えるように表情を改めてこちらを見上げた。

「なにも結論を急ぐことはない。まずはデッサンが狂ってないか確かめよう。下書きでもなんでもいいから最近描いた絵を見せてみろ。原因が見極められればだいぶ違う」

「絵を」

 瞬間、不覚にも顔が引きつり、僕は咄嗟に腹に力を込めた。

 しっかりしろ! スケッチブックがある。鉛筆で描いたのが何枚も。あれなら――。

 しかし「はい」と返事を返そうとしたときには、こちらを見る俊くんの目が見開かれていた。

「……まさか」

「今、持ってきます!」

 慌てて部屋へ行こうとすると、僕より先に俊くんが体を返した。

「待って!」

 このタイミングで今、あの部屋を見られたら……!

「待って、待ってください! 僕が……っ!」

「おい雅俊。和巳!」

 戸惑う拓巳くんを振り切ってあとを追いかけたが、先に部屋のノブに手をかけたのは俊くんだった。

「まっ……!」

 腕をつかんで止めようとしたが、ドアが押し開かれるほうが早かった。

「―――」

 中に一歩踏み込んだ瞬間、俊くんは何かにぶつかったかのように足を止め、僕は腕から手を離した。

 彼が凝視する部屋の先には馴染みの空間がある。

 一番奥にシングルベッド、その対角線には落ち着いた色をした木製の勉強机、パソコンの置かれた同じ素材の引き出しと小振りのタンス。

 しかし壁に立てかけてあった木製パネルやパネル額縁の作品、そして部屋の隅を独占していたイーゼルは、絵の具セットや道具を置いてあった三段ボックスごとなくなっていた。――むろん、僕が片付けたのだ。

 追いついた拓巳くんが僕の隣に立った。

「……ずいぶん、思い切って片付けたんだな」

 知らなかったとつぶやかれ、僕は目を瞑った。

 木製パネルやパネル額縁の作品は症状がひどくなってからすぐに片付けたけれど、イーゼルや絵の具までしまったのはつい昨日のことだ。

 あれがあれば、まだしも弁明のしようがあったのに……。

 俊くんはしばらく立ち尽くしたあと、くるりとこちらに向き直ってグッと背筋を伸ばした。

「前におまえは『アトリエで作業しないのは自分の我が儘だ』とおれに言ったな。あれは嘘か」

「いいえ。本心です」

「じゃあどうしてここで描いていない。なんで道具をしまったんだ」

「………」

 今ここで、拓巳くんのいる場所では理由を明かせない。

 僕が言葉を続けないとわかると、俊くんは眉根を寄せて額に手を当てた。

「おまえが何を考えているかが、まるでわからないなんて……」

 そして僕を避けるようにして部屋のドアをすり抜けた。

「明日、明日には……っ」

 咄嗟に声をかけたが彼の足は止まらず、僕はあとを追いかけた。

「明日、必ず話します。朝一番で行きます。だから……!」

 玄関で少し屈んで靴を履く背中に呼びかけると、体を戻した彼は振り向かずに言った。

「……いや。この話は当分やめよう。おまえの中ではもう結論が出ているようだし……おれも忙しい」

「雅俊さん――」

 思いがけない言葉に息を飲むと、追いついた拓巳くんが僕を押し退けて俊くんの肩をつかんだ。

「待てよ! 和巳は明日、わけを話すって言ってるんだぞ。そんな言い方はないだろっ!」

 こちらを僅かに向いた俊くんが感情のない声で答えた。

「部屋を見ただろう。この先、和巳は絵を描く気がないんだ。結論が変わらないなら急いで聞く必要はない」

「ふざけんな! 師匠なら弟子の願いをすげなくしてもまかり通るのかもしれないが、和巳は貴様が選んだ伴侶だろう! 伴侶が話を聞いてくれって頼んでるのを無視するのかよ」

「だからだろうがっ!」

 俊くんは肩を怒らせた。

「冷静に話を聞くなんてすぐには無理だ! おれは今、仕事を投げ出すわけにはいかないんだよ!」

「へぇ……っ。そうかよ!」

 拓巳くんは放るように肩を離した。

「じゃ、認めるんだな。貴様が話を聞いてやれないのは、私情を抑えられないからだって。それなのに、思い詰めた和巳が、弟子としての礼儀を守るより、おまえを気遣かって相談しなかったことを責めるわけだ」

「………」

 俊くんが煮えたぎるような目で拓巳くんを見上げる。たまらずに僕が拓巳くんの前に立つと、後ろから真嶋さんの声がかかった。

「やめなさい拓巳。雅俊を責めるのは酷だ」

 彼はやんわりと拓巳くんの肩を押さえると、俊くんに顔を向けた。

「だけど雅俊。和巳の話は、君自身のためにも早く聞いたほうがいいんじゃないのかい?」

「………」

 俊くんの頭がうなだれたように下がり、僕は居たたまれずに横から申し出た。

「いいです、待ちます。だから……」

 黒目勝ちの瞳が、僅かに潤んでいるのが胸に迫る。

「これだけは信じてください。今は絵の具をしまったけど、けして絵を捨てたわけじゃありません。僕の師匠は雅俊さんで、望んだ人もあなただけです」

「―――」

 彼はそれには答えずに背を向けると、口の中で何かつぶやき、振り返ることなく玄関の向こうへと姿を消した。

 崖の底に落ちていくような感覚をこらえながら、僕は閉じられた玄関の扉を見つめ続けた。



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