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ターンアウト~手探りの未来図  作者: 木柚 智弥
手探りの攻防
11/25

決心


「高山プロダクションってホントエゲツない事務所でね」

 荷物のあふれた楽屋の一角。細長いテーブルのそばにあるパイプ椅子に座ったコースケさんは、差し入れに持ってきたペットボトルのお茶を飲みながら言った。

「亜美ちゃんはさ。あんなに売れて、しかも気立てもよくてスタッフにも受けがいいのに、白川皐月に目の敵にされて追い出されるようなもんなんだよ」

「目の敵、ですか」

「そうだよ」

 テーブルにボトルをドンと置いたコースケさんは低い声になった。

「彼女みたいなベテラン女優には、黙ってたって結構な役が来るんだからさ。娘が売れてるからって目くじら立てることないじゃんか。そりゃ、親子だって芸能界ではライバルだろうから、表だって応援しろとは言わないけど、陰ながら見守るとかはあってもいいじゃん?」

 それなのにさっ、と彼は脇に立つ僕を見上げた。

「娘についたスタッフが気の利く子だったりすると、『私のほうが忙しいのよ』とか言って勝手に連れていっちゃったりするんだよ? 見てて呆れちゃったよ」

 どうやら彼はその場に遭遇したらしい。

「だからあの収録の日、僕をマネージャーと勘違いした皆さんは喜んだんですね」

「そう。榑林さんは優秀だけど忙しくて、亜美ちゃんに付き添うのは雑魚の見習いばっかだったからね」

 コースケさんは拳を握って続けた。

「あれは絶対追い出すための嫌がらせだよ。いくら事務所の社長の愛人で、昔の男の子どもを手元に置くのが体裁悪いからって、母親の癖に……って女優さんに言っても仕方ないけどさ」

 女優さんは自分本意で恋多き人こそ芸が深まるっていうもんね、とコースケさんが嘆息し、僕は記憶と照らし合わせて「えっ?」と聞き返した。

「社長の愛人? マネージャーをやっている息子じゃなくてですか?」

「それ、亜美ちゃんが言ってたんでしょ」

 コースケさんは僕を手招きして目の前のパイプ椅子に座らせた。

「大きな声じゃ言えないけど、どうも白川皐月は社長と息子をうまく股にかけてるみたいだよ。社長があくまでも本命で、息子はつまみ食い的な。けど息子は親父さんのいないところでは自分が皐月の相手だって吹聴してるようなんだ。特に亜美ちゃんにはね」

「亜美さんは知らないんですか」

「まあ、まだ三十前の見栄っ張りヤローだから、親父さんのおこぼれって認めたくないんだろうね。自分より目下のスタッフやタレントにも睨みを利かせてるから、亜美ちゃんの耳には届いてないと思うな」

 あの顔色の悪そうな男、拓巳くんより六つ以上、年下なんだ。

 ある意味、衝撃だなと思いながら、再びペットボトルを取り上げるコースケさんを見たところで、奥の扉が開く音がした。

「おっと、リハーサルが終わったかな。僕の知ってるのはだいたいこんなとこ。他に何か聞きたいことある?」

 場所移そうか? と訊かれて「いえ」と首を振る。ありがとうございましたと頭を下げ、サッと立ち上がったところで、複数の足音とともに声がかけられた。

「人の楽屋に来て、ナニもてなされてんだよ。陣中見舞いなら差し入れ持ってこい」

 スタッフやメンバーが入り乱れる中、真っ先にこちらに来たのはもちろん拓巳くんだ。

「えー、持ってきたよぅ。これは僕が買った中のひとつを出しただけだよ」

 コースケさんが指差したテーブルの中央には、先ほど受け取ったお茶やジュースのペットボトルの他に、お菓子、サンドイッチ、惣菜などがところ狭しと置いてある。

 拓巳くんは僕が今座っていた椅子にドカッと腰を下ろすと、緑茶のペットボトルに手を伸ばした。

「じゃナニか。俺たちの差し入れに手を出したってことか。もっと悪い」

「ええっ、せっかく埼玉まで来たのに説教くらうの? しかも拓巳くんに」

 コースケさんが悲鳴じみた声を上げ、後ろのスタッフから笑い声が上がった。

 六月第三週の土曜日。今日と明日の二日間にかけて、ツアー第二段、さいたまアリーナ二日間コンサートが行われる。

 昨夜のうちにホテルに入り、今日は六時の開演に向け、昨夜までにセッティングされたステージを午前中に確認、今は午後三時、最後のリハーサルが終わったところだ。

(こう)(すけ)君、よく来てくれたね。スケジュールは大丈夫だったの?」

 拓巳くんの次に姿を現した真嶋さんも、もちろん祐さんの同年だったコースケさんを知っている。

「あ、真嶋さん。聞いてくださいよ。僕は今日、息子のアッシーにされちゃったんですよ。五月のコンサート、限定で入れなかったからって」

 僕だけもうすぐ一旦、帰るんです、と泣き真似をするコースケさんに真嶋さんが笑う。すると彼の後ろからひょっこり顔を出した男が言った。

「自分だけ裏から手を回して限定の東京Sホールに行ったからでしょーが。子どもはちゃんと親の所業を見てるんですよ」

「あっ、オマエは向井譲! 祐司にまとわりついてたライブハウス桜木(さくらぎ)の息子じゃないか! なんでこんなところにいるんだよ!」

「息子じゃなくて甥ですって。もちろん、ユージが誘ってくれたからです。俺は五月のチケットも手に入った長ーい付き合いのファンですからね。いっときのバンド仲間だったあんたとは違うんですよ、(ふじ)(さわ)さん」

 藤沢(ふじさわ)(こう)(すけ)というのがコースケさんの本名だ。

 二人が旧知の間柄だということは、向井に相談する過程でつい最近、知ったことだ。

「な、なんだって……っ」

 本気で顔色を変えたコースケさんが両手で頭を抱えると、振り向いた拓巳くんが言った。

「あれ? あんたは担任として和巳の仕事ぶりを見るためにここにきたんじゃなかったっけ」

 さっき俺の名前で入ってきたよな、とつぶやかれ、向井がおどけた素振りで人差し指を振った。

「ダメだぜお父さん。それ言っちゃ」

「なーんだ。祐司じゃないんだね。ってナニ? おまえが和巳くんの担任? とんでもないじゃん!」

「何がとんでもないんだ」

 落ち着いた低音に目を向けると、黒いTシャツに革パン姿の祐さんが、ドアを出入りするスタッフの間からこちらに抜けてきた。

「祐司! お疲れ様ーっ」

 コースケさんが声を上げ、向井が「ユージ!」と振り返る。祐さんはそれに一言声をかけ、コースケさんの隣に立つ僕を認めると手招きしてきた。

「これでいいのか、和巳」

 そばに歩み寄ると、祐さんの指先には小さくて薄いものが二枚、挟まれていた。フェルナンデス製のギターピックだ。

「ありがとう。向井先生にあげたいんだけど、いいかな」

 僕がちょうどそばにいた向井の袖を引っ張ると、祐さんは「そうか」といってピックをそのまま向井に差し出した。

「えっ、あっ! いいんスか? ありがとう、ユージ!」

 向井が貴重な宝物をもらうように両手でピックを受け取る。すると後ろのパイプ椅子がガタンと鳴った。

「ず、ずるい! 譲にピックなんて! 僕、祐司からもらったことないよ!」

「なんだ。おまえはギターなんて弾かないだろうが」

「む、息子の圭介(けいすけ)は弾くもん! 僕にもちょうだい!」

「えー? 自分、なんにもしてないのにおねだりッスかー」

「オマエがナニして祐司からピックなんてもらうんだよ」

「なにしろユージの甥にも等しい和巳君の担任ですからね。和巳君が感謝の気持ちでどうしてもって、ユージに頼んでくれちゃってねぇ……」

 そのあたりで僕が祐さんに「すいません」と耳打ちすると、彼は口の端で笑いながら僕の肩を押した。

「気にするな。それよりここは俺と芳兄さんで見てるから、おまえは雅俊のところに行ってやってくれ」

「でも、まだ音響の打ち合わせが終わってませんよね。邪魔にならないかな」

「おまえがそばにいて邪魔になんぞならん。それより、だいぶ根を詰めているから少し休ませたほうがいいようだ。おまえは大丈夫か」

 彫りの深い眼差しに少し気がかりそうに見下ろされ、僕はちょっとだけ目を伏せてからグイッと見上げた。

「はい」

 祐さんは目を細めて頷いた。

「ここは騒がしいから反対側の衣装部屋のほうにでも行っとけ。拓巳が何かやらかすようなら健吾を呼びに行かせる」

 祐さんが背後を窺うと、段ボール箱をそばに下ろした健吾がこちらを向いて親指を立てた。

「任せて」

 そしてまだ言い合い中の向井とコースケさんをチラッと見た。珍しく祐さんが苦笑しているのは、騒がしい原因が自分の取り合いのようことになっているからだろう。

「わかりました。じゃ、行ってきます」

 僕は軽く頭を下げてからステージに通じる奥のドアを抜けた。

 短い通路を進み、角を曲がって階段を数段上がると、そこはもう収容人数約二万人の座席が組まれた巨大な仮設ステージだった。

 僕は三歩ほど進んで足を止め、観客席をぐるりと見渡した。

 なんて広いんだろう。

 このアリーナの空間を、夜には満員のファンが埋めつくすのだ。

 目線をステージに戻すと、バックバンドのメンバーや音響スタッフが音を調整したり床を這うコードを動かす中を、ちょうど沖田さんと俊くんがこちらに歩いて来るところだった。

「和巳」

 顔を上げた俊くんがこちらに気がつき、沖田さんもすぐに続いた。

「和巳君、ご苦労様。コースケさんは無事に着いた?」

「はい。ご案内できました」

 こちらに近寄りながら俊くんが言った。

「悪かったな。迎えになんて行かせて。人混みで大変だったろ」

「大丈夫。メールで示し合わせてこっそり裏から入ってもらえたよ」

「あのヤローもまったく。息子に弱すぎるし、我儘だし……」

 息子さんにねだられたコースケさんは、仕事の合間を縫ってここまで車で送ってきたという。しかし次の仕事にはまだ間があるので、遅い昼食を一緒に食べようとしたら、息子さんは他のファンのグループと意気投合して行ってしまったらしい。一人になったコースケさんはふと楽屋へ陣中見舞いをしようと思い立ち、俊くんの携帯に連絡した。

 俊くんの手が空かずに僕が出て、即座に迎えを申し出、楽屋に来る道すがら、亜美の母親の話をこっそり訊ねたと言うわけだ。

「でも向井先生となんだか因縁があるみたいで。楽屋で祐さんの取り合いにみたいになっちゃってるよ」

 大丈夫だったのかなとつぶやくと、俊くんがフッと気配を緩めて笑みを浮かべた。

「譲とコースケか。懐かしい顔ぶれだな。あいつらは俺たちが出会うより早く祐司を知ってたんだよな」

「そうなんですか?」

 沖田さんが驚く。

「一年くらいの差だと思うがな。おれと拓巳がまだ出会ったばかりの頃、祐司はすでに学生の間じゃギタリストとして有名で、桜木町でライブハウスを開いていた譲の叔父から、助っ人のバイトを持ちかけられるほどだったんだ。祐司に憧れていたやつは大勢いたと思う」

「高校生なのにすごかったんですねぇ」

「だから祐司と〈T-ショック〉を立ち上げてからしばらくは、周囲の学生たちからイチャモンつけられて大変だった」

 なにしろキレた拓巳がステージをいやがるんで宥めるのに一苦労で、と彼は遠い目になり、僕は事情を察して心の中で手を合わせた。

 祐さんのファンはバリバリのロック野郎が多い。対して当時の俊くんは天使の異名を持つ美少年、拓巳くんは無愛想な超絶美形。おまけに二人とも中学生。〈一匹狼のユージ〉が組むにしては違和感を覚えることこの上ない。おそらくは色気で誑かした等、色々言われてボイコットしたのだろう。

「そのときコースケが『見た目に騙されてないで曲聞きなよ。誰にでも出せる声かどうか考えたらどうなんだい!』って庇ってくれて、拓巳のことを根気よく宥めたり、面白い話で気を紛れさせてくれたりして助かったんだよな……」

 だからまあ、おまえを迎えに行かせるだけの価値はあるか、とつぶやかれて僕は興味深くなった。

「じゃ、向井先生は? 先生も俊くんたちの味方だったってこと?」

「譲か。あいつもロック野郎だが、祐司の信奉者だったからな。『ユージが選んだ相手にモンク言うな!』って食い下がっちゃヤローどもを説教してたな」

 面白い話と説教。

 今の職業に繋がるルーツを見た気がして楽屋の方向に目線を投げると、ちょうど俊くんをサポートする男性スタッフが、黒いファイルを二冊抱えてこちらに走ってきた。

「雅俊さん、進行スケジュールのファイルお持ちしました。どちらですか?」

 それを見た俊くんが顔をしかめた。

「それは別のやつだ。午前中に使ってたのは白だっただろう」

「あっ! ……えっと、あの、し、白……?」

 どうやら彼の記憶にはなかったようだ。

 同じく察したらしい俊くんからイラッとしたものが吹き上がり、スタッフの青年がビクッと首を竦めた。

「もういい。自分で探すから」

 僕は咄嗟に割り込んだ。

「そういえばさっき、白いファイルが雅俊さんの使っていた鏡台の脇に置いてあるのを見ました。楽譜やファイルを置いた机からは離れていたから、わかりにくかったかもしれません」

 青年の表情が僅かに緩んだのを認めてから、俊くんに少し顔を近寄せる。

「祐さんから伝言。『根を詰めすぎてるから休憩しろ』だって。衣装部屋が空いてるそうだよ。ファイルはあとで取ってくるから、今はちゃんと休もうよ。みんなも気にしてるよ」

 俊くんは少し目を見張ってから沖田さんを見、彼が気がかりそうに頷いたのを認めて青年に視線を戻した。

「悪かったな。おれが変なところに置いたらしい。和巳を取りにやらせるからステージの作業に戻ってくれ」

 青年は「いえ、そんな」と恐縮して一礼したあと、来たときより軽い足取りでステージのほうへ駆けていった。

 それをホッとした顔で見送った沖田さんが、こちらに目線を戻して言った。

「あとは大丈夫です。支度の時間まで休憩してください」

「そうか。……そうだな」

 沖田さんが僕に「頼むね」とばかりに目配せし、僕はそれに軽く頭を下げてから俊くんの肩を押すようにしてステージの袖へと戻った。


 衣装の吊る下がった部屋に入り、ドアノブについた鍵をかけてから奥にあるフィッティングスペースに進むと、先に入っていた俊くんが壁に立て掛けてある姿見を見ながらポツリとこぼした。

「おれ、カリカリしてるのか……?」

 淡いパープルのシルクシャツの背中がどこか頼りなげに見え、僕は後ろから寄り添うと、そっと抱くように腕を前に回した。

「大丈夫。カリカリじゃなくてキリキリだから」

「……どこが違うんだよ」

 すねた声に笑いを誘われながら、ウェーブの髪の間に覗く耳にささやく。

「カリカリは周りに当たり散らす人。キリキリは自分を追い込む人。触ると切れそうで怖いけど、その分、自分にはもっと厳しいって知ってるから、誰も煙たく思ったりしてないよ」

 胸の下辺りで手を組むと、彼は体の力を抜いてこちらに背中を預け、仰向いて僕の頭に手を伸ばしてきた。僕は引き寄せる力に逆らわずに顔を傾けた。

「――……」

 甘く、熱く、どこか縋るような気配を帯びた口づけを、求められるままに応えながら、胸の下の腕に力を込める。

 いつもより長いそれはやがて名残惜しげに離れ、僕はそのままゆっくり腰を下ろして壁に寄りかかった。

 体を巡った熱を意識の底に押さえながら、細い体を横抱きに直す。

「……暑いか?」

「全然。ここは冷房が効いてるし。少しこのまま休んでね」

「……ん」

 そのまま懷に収めるようにして、ほつれた髪を指先でとかしていると、彼は安心したように小さく息を吐き、コテンと胸に頭をついた。

 預けられた体の重みが、必要とされている証のように思えて嬉しい。

 六月のコンサートが終わったらすべて話そう――。

 それが最終的に辿り着いた結論だった。

 亜美の件を承諾すると決めた以上、たとえ内容が重くとも、隠し事があるのはよくないと考えたからだ。健吾の言った『あらゆる苦難を乗り越えてきた人だ』との言葉が胸に落ちたためでもある。

 それがよかったのか、俊くんとは穏やかに過ごせるようになった。

 踏ん切りをつけた分、緊張することがなくなり、それが彼の不安を減らすことに繋がっているのだろう。プライベートの時間ではなるべくそばに寄り添って過ごしたのもよかったかもしれない。

「……こんなところを記者どもに目撃されたら、さぞかし拓巳から高いペナルティーを食らうだろうな」

 なんのために俺が苦労してるんだとか言われてな、と俊くんがつぶやくのに、僕は大丈夫と受け合った。

「鍵はかけたし窓はないし。それに拓巳くんもだんだん囲まれるのに慣れてきちゃったし……」

 拓巳くんと亜美はあれからもちょくちょく誌面を賑わせてはいたが、こちら側の内情がだいぶ変わった。

 衝撃の事情を聞いた翌日、僕は榑林マネージャーに連絡を取ってアドレスを交換し、二人に承諾を得たあとで拓巳くんに事情を話した。

「……なるほど。だからあの小娘は子タレのわりに根性があったのか」

 そんな表現ではあったが、拓巳くんは亜美の中に、おそらくは親との確執を背負ってきた者として共通する何かを感じたようで、以来、取材陣に声をかけられてもイライラすることなく余裕顔で通り過ぎることが多くなった。

 そうなると俄然、張り切るのが週刊誌記者だ。彼らは早速、亜美にも攻勢をかけたようだが、こちらも移籍がほぼ決定した状況のもと、あの日の決意(?)を実行しているようで、立ち回りがずいぶんうまくなってきた。

『私じゃ釣り合いません。でも大先輩と噂になるなんて光栄です』

『デートなんてとても。一対一でいる勇気ないです。けどメンバーのみんなと一緒になら、そばに近寄れるかなとも思います』

 謙遜することではっきりと噂を否定しながらも、一後輩として噂があることに感謝し、かつメンバーを記者に意識させることで彼女らも仲間に引き込む。知名度につなげて孤立を防ぐあたりがなかなか老獪(ろうかい)である。

 つい先日発表された彼女のグループ卒業は八月下旬。移籍は九月を予定しているという。榑林さんの心遣いで、そういった事前情報やメディアに載るような動きがあるときは必ず知らせてくれるので、前より心が騒ぐこともなくなった。お陰でスキャンダルの成果も上々との判断が下り、ようやく先日、自宅への帰還を果たすことができた。

 とにかく今は仕事に集中する。そして来週の末には今までのことをすべて伝えるんだ。

「だから安心して、俊くんはリラックスして休んでね」

 声を落として話しかけると、緊張を解いたせいか彼はすでに目を閉じていた。

 こうして腕に抱く体はどことなくしなやかで、僕の属する性別とは明らかに何かが違う。けれど中に宿る魂は輝きに満ちていて、音楽や絵画に込められた想いは多くの人を惹きつける。

 その集大成ともいえる大事な時期に、僕のせいで傷ついてほしくない。――でも、だからこそこれ以上、隠してはいけないのだ。

 描けなくなってから、ひとつわかったことがある。

 それは周りの人たちから必要とされ、感謝されることで、切なさや悲しみが薄らぐということ。

 そのことをしっかりと伝えて、自分が今できることを精一杯やる覚悟を見せる。そういう前向きな姿こそが彼の癒しにつながると信じたい。

 伝えるチャンスは俊くんが僕の誕生日を祝ってくれる来週末だ。

 僕の誕生日は明後日の月曜日で、拓巳くんがすでにレストランを予約している。一方の俊くんは、『十八になった記念日だから自宅でゆっくり過ごそう』と言って次の土曜日に決めていた。この日に伝えるのが一番だ。

 そんな考えを巡らせながら、僕は腕にかかる重みと体温を感じ、まもなく始まる戦いの時間までを過ごした。

 その、コンサートを終えてから一週間を待ったことが、のちの運命を大きく変えたのだとは、そのときはわかるよしもなかった。



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