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ターンアウト~手探りの未来図  作者: 木柚 智弥
手探りの攻防
10/25

アイドルの事情

 こんな風に誤魔化しながら過ごすことが、本当に二人のためになるのだろうか。


 もう何度、自問自答を繰り返してきただろう。そのたびに結論が堂々巡りする。

 だめだ。ただでさえ彼はあの事件の責任が自分にあると考えている。僕の現状を知ったら、その原因を突き止めたらきっと今以上に自分を責める。それは嫌だ。

 ――でも。

 隠していたことがあとでバレたら。そのほうがもっと傷つける。

 それに比べたら今のうちに打ち明けてしまったほうが……いやでもコンサートが迫って――。

「そうだな、吐け。今すぐ吐くべきだと俺は思うぞ、和巳」

「うわっ!」

 いきなり目の前に顔を突き出され、反射的にのけ反る。

 そんな僕を、目を眇めた健吾が胡乱(うろん)な表情で見つめていた。

「ったく。日に日に余裕のない顔しやがって。黙って見てんのも限界だっつーの」

 おまえ、ここ中庭だってわかってないだろ、と言われて辺りを見渡すと、確かにここは校舎と講堂の境に位置する中庭だった。目の前の遊歩道の奥にはベンチがある。来た覚えはない。

「あ、あれ? いつの間に……」

「くわーっ、重症! ホームルーム終わって下校しようとしてんのに、おまえってば鞄抱えたままフラフラ歩いてっから、跡つけて来たんだよっ。そしたら中庭方面に入っていくから、こりゃだめだと思ってさ」

 座れよ、とシャツの袖を引っ張られ、僕は健吾と並んでベンチに座った。

「あのさ。おまえが絵の関係で悩んでるのは知ってるけどさ」

「えっ! なんで知ってるの?」

「おい……」

 健吾はベンチ脇に鞄を放ると、やってらんねぇとばかりに足を組んで背もたれに背中を預けた。

「おまえの様子と美術の陰山の曇った顔、それに何度も向井に相談行ってるの見りゃ、学部を芸術から一般に変更しようとしてることくらいは察しがつくぜ」

「――……」

 バカのように口を開けたまま健吾を見つめていると、彼は片手で耳の後ろをコリコリと掻いた。

「そんな天才を見るような目で驚くなよ。照れるぜ」

「うんまあ、驚いたよ。その程度のことも隠せなかった自分に」

「そうかよ。じゃあもういいよな? いい加減、知らんぷりは疲れんだよ。夢遊症状が出たからには限界が近い。俺にも心の準備が必要だ。なんかやらかす前に吐け」

 おまえに何かあると俺が周りに聞かれるんだよとぼやかれ、僕は「ごめん」と頭を下げた。

 確かに、そこまで滲み出ていたならちゃんと知ってもらったほうがいいかもしれない。

 自分だけではもう抱えきれない証拠でもある。向井のアドバイスはありがたいが、どうにも胸に抱え続けることが重いのだ。

「……前に聞いたけど、健吾はさ。音楽じゃなくて、普通に大学行くんだよね」

「まあな。スポンサーが親なんで。諭されれば従うしかないかなと」

 それだけじゃないけどな、と健吾は笑った。

「俺に才能と運があったらとっくに何か話が転がってきたはずだ。けどなかった。つまり現時点では、プロになるだけの要素がないってことだ」

「そんなこと、今すぐなんて」

「すぐだよ。プロになりたいなら」

 祐司さんのプロフィールを考えてみろよと言われて口を閉じる。彼は高校二年のとき、所属するバンドすらなかったのに、助っ人でギャラを稼ぐセミプロだったのだ。

「でさ、親父にそれを指摘されたとき、こうも言われたんだよな。『どの世界でもプロになるヤツには共通点がある。それは幼少時から寝食を忘れて練習できることだ』って」

「寝食を忘れて……」

「ガキの頃から誰に言われたわけでもなくバットを振る。ガラスに自分が映ったら無意識にフォームを研究してしまう。それがプロ野球選手になるヤツだって。祐さんてそんな感じだったんじゃないか?」

 僕はふと思い出した。

「……俊くんと初めて顔合わせしたとき、いきなり音合わせに入っちゃって、気がついたら五時間経ってて、祐さんの母さんに怒られたって聞いたことがある」

 当時、俊くんは十五歳。彼もプロになるべき人だったわけだ。

「なるほど、親父の言は証明されたか。でもって俺には『そこまでのめり込む気配がない』ときた。なんか暴かれたなーと思ったよ」

「………」

「でも、俺もしたたかでね。世の中には大学に行ってから運命を変えたヤツも結構いるから、それを狙ってまずは経済学部に進学。卒業する頃までには折り合いをつけようと思ってる」

 健吾は自分を茶化すように笑った。

「で? おまえはどうなってんだよ。芸術学部をやめる理由がいまいちわかんねーんだけど」

 デザイン科ならバイトする時間は十分取れるんじゃなかったっけと言われ、僕は目線を健吾から離して正面に向けた。少し開けた空間の先には、青々と葉を茂らせる銀杏の大木があった。

 この木の葉っぱが色を変えはじめるまでは。そう思っていたけれど。

「筆がね。持てなくなったんだよ。フラッシュバックのせいで」

「―――!」

 健吾がガバッとこちらに体を起こす。僕は目線を戻し、ここまでの経緯を手短に説明した。

「っ、あのときの……」

 健吾の呻きを聞きながら、僕は鞄を胸に抱えて銀杏のほうに体を向けた。

「ずっと拓巳くんを見てきたからわかるけど、これは誰かに診てもらえばすぐに治るとかのものじゃない。だから長引く覚悟はもうできた。僕が今一番悩んでるのは、このまま黙っていることがいいのかどうか確信が持てないことなんだ。実はね……」

 僕は淡々と移籍の件とGプロからの提案を話した。

「亜美ちゃんの……!」

「まだ極秘の、内定の話なんだけどね……だから余計、雅俊さんはピリピリしてる。これで学部を変えるなんて言って冷静に受け止めてもらえるか自信がない」

 ――いくら可愛くても、和巳が浮気なんて。

 酔っているときは結構な本音が出ると祐さんは言った。だとしたらあのときの言葉はすべて彼の不安なのだ。どんなにばかなと思えても笑い飛ばすわけにはいかない。

 健吾を見ると、普段、陽気な笑顔が多い彼の表情にも余裕がなくなっていた。さすがにあの柳沢亜美の付き人だとはしゃぐ気配はない。そういう彼だからこそ話せるのだが。

「ごめんね。厄介な話で」

 健吾は「いや」と首を横に振ると、しばらく目線を宙に投げ、やがてこちらに顔を戻した。

「……おまえが悩んでる理由はよくわかった。さすがに…なんて言ってやればいいのかわからない。向井の言い分もわかる。確かに一理あると思う。それでも……」

 健吾はそこで一旦、言葉を切ると、意を決したように言った。

「おまえは基本、嘘や誤魔化しが嫌いなやつだ。このまま秋まで隠し通すのは負担が大きすぎると思う」

 健吾は体を寄せると僕の肩に手を置いた。

「相手はあのマースだぜ。どんな逆境も乗り越えてきた人なんだ。今すぐとは言わないけど、六月のコンサートが終わったら言ったほうがいいんじゃないのか?」

「………」

 少し俯くと、健吾はハッと手を引いた。

「ごめん。そう思い切れないから迷ってるんだよな」

「……いいんだ。健吾の意見は貴重だから。そうだね。六月のコンサートが終わったら、っていうのはひとつの目安になると思う」

 顔を向けると、健吾は痛そうな顔をした。

「それまで健吾も見張っててくれる? 僕がうまくやれてるかどうか。コンサート中も怪しかったら教えてほしい」

 埼玉のコンサートまではあと十日足らずだ。コンサートの臨時スタッフとして健吾も同行するので心強くもある。

 健吾は少し強張った顔をしながらも「わかった」と頷いた。

「ありがとう」

 少し肩の荷が減った気がして笑いかけると、彼は気がかりそうに言った。

「それで、Gプロの話はどうするんだ。その、付き人の件は受けるのか?」

 僕は首を横に振った。

「正直、とてもそこまで考える余裕なくて」

 その件は当分後回しかな、と答えたところでこちらに小走りに駆けてくる足音に気がついた。

「あー、やっぱり」

 木々に隠れた小道の向こうから姿を現したのは、スポーツバッグを肩に引っかけた優花だった。

「待ってても来ないわけね」

「おっ、優花」

「もしかして健吾と待ち合わせてたの? ごめん」

 健吾がちょっと驚き、僕が慌てて腰を浮かすと、優花は「いいのいいの」と手で制した。

「話し込んでたんでしょ? まずは健吾が話を聞いたほうがいいって言ったのは私よ」

 フフンと腰に手を当てられ、僕は恐縮して頭を下げた。

 優花も観察眼は鋭い。当然、僕に関して健吾と話し合い済みなのだろう。

「待ってたのは和巳のことよ。私は先に部活に行く予定だったんだけど、忘れ物を拾っちゃって。まだ話が終わってないなら出直すわ」

「僕? いいよ。ちょうどキリがよかったから。忘れ物って……ん?」

 忘れ物を拾った?

「落とし物じゃなくて?」

「忘れ物をしちゃっての間違いだろ?」

 僕と健吾が口々に指摘すると、優花は「いーえ」と顎を逸らし、女王様のように僕たちを睥睨した。

「一年前に約束したことを忘れてて、さっきその欠片を拾ったのよ。だから果たしに来たわけ」

 言いながら優花は後ろを振り返った。

「マナミ、あれ、そんなところに隠れてないでこっちにいらっしゃいよ。相変わらずシャイな子ね」

 優花は遊歩道を二、三歩戻ると、木陰に身を縮めるようにしていた華奢な女の子を引っ張り出してきた。

「こっちのツンツン頭だって見覚えあるでしょ? 軽音の宮内健吾よ」

 そして「ほら」と僕たちの座るベンチの前に女の子を立たせると、安心させるように笑った。

「優花先輩は一度約束したことは守るのよ。さ、心置きなくアコガレの高橋先輩とお話しなさい」

 やれやれスッキリした、と誇らしげに笑う優花の前で、僕は目の前の小柄な少女を見たまま絶句した。

 ―――亜美さん!

 それは紛れもなく柳沢亜美――もとい拓巳くんの言うところのアニメのコスプレのようなメガネにお下げ姿の白川愛美だった。

 百五十センチあるかないかの小柄な体。長めの前髪とセルフレームのメガネに隠れたどこか頼りなげな幼顔。あの日との違いがあるとすれば、制服が旭ヶ丘のものであることだ。

 一体、どういうことなんだ。

 目を見開いたままの僕をどう思ったのか、亜美の肩に手を添えた優花が言った。

「あ、この子は拓巳くん目当てじゃないから大丈夫よ。〈T-ショック〉のことも去年まではよく知らなかったくらいだし。和巳に憧れてたのはもっと前からなの」

「えっ……?」

「あ、あのっ、優花先輩!」

 亜美が慌てて遮ろうとするのを優花がまあまあと宥める。

「いいじゃない。最後に一度会わせてあげるって言ったでしょう? あのとき約束してあげたのに、なかなか果たせないうちに転校しちゃったから、これでも一応、心残りではいたのよ。会えてよかったわ」

「転校……?」

 ようやく声に出してつぶやくと、優花がそうなの、と明るく説明した。

「この子、テニス部の後輩なの。といっても少し喘息があったからマネージャーだったんだけど。私も経験者だったから話が合ったというか。二つ下なのによく気がつく子で、試合では何度も世話になったのよ。ちょっと口下手(くちべた)だし、引っ込み思案なところもあるけど、準備とか後始末とか仕事はキッチリ最後までやる子でね」

 優花は目を細めた。

「去年の夏休みに転校するって聞いて、部活のあとで話をしたら、この子行きたくないって泣いたの。で、和巳に前から憧れてたのを知ってたから、慰めになればと思って『最後に一度会わせてあげる』って約束したのにできなかったの。だから一年越しの忘れ物」

 はにかんで笑う優花を、亜美が恐縮したように、けれどもどこかまぶしげに見上げている。

 誰も、私が歌手だなんて知らないの――。

 調べた限りでは、彼女がデビューしたのは中学二年の十二月。そして転校したのが去年の夏なら、あれは旭ヶ丘にいたときのことでもあったのだ。

「………」

 なおも言葉を失っていると、さすがにおかしく感じたのか、健吾が僕をチラリと見ながら優花に告げた。

「経緯はわかったよ。和巳のことで女の子に何かを約束するのは感心しないけど、そういうことならまあ許容範囲だな。けどじゃ、なんで今日はここの制服着て学校にいたの?」

 優花が目を向けると亜美は俯きがちに背を丸めて健吾に向き直った。

「て、手続きの関係で、書類を受け取りに事務室へ行くところだったんです。制服を着ていけば、目立たずに済むと思って……」

 確かに、旭ヶ丘の制服は上が濃緑のブレザーに女子はベストやスカートがグレーのチェック柄で、中高の区別がない。今は夏服で上着は着ないが、学年は六種類あるネクタイのカラーで判別するので、以前の制服を使えば一見、在校生で通る。

 健吾が首を傾げた。

「なるほど。けど事務室へ行くのに中庭? 来賓用の表玄関を使えばすぐじゃん」

「そ、それは……」

「バカね。察してあげなさいよ」

 優花が健吾の頭に手を伸ばして髪を軽く引っ張った。

「中庭を通れば運よく下校中の和巳に会えるかもって思ったに決まってるじゃない」

 そうなの? とばかりに目線を向けると、こちらを見た亜美と目が合った。困り顔ながら赤面した様子に、半ば当たっているらしいと察する。

 制服でカモフラージュして僕に会いに来たのは間違いなさそうだ。多分、優花に見つかったのが誤算だったんだろう。

 さてどうするかと思案していると、優花がスポーツバッグを押さえて声を上げた。

「あーっと、ごめん。ラインきちゃった。多分、部員だわ。愛美、あとはいいよね?」

「あ、はいっ、優花先輩。ありがとうございました」

「元気でね。時間があったら部活にも遊びにおいで」

 じゃあね、と優花は爽やかに手を振り、満足げに木々の向こうへと駆け去っていった。

 亜美の肩から力が抜けたように見えたとき、健吾がやや低い声で言った。

「悪いけど、俺は優花ほどお人好しじゃないぜ。君、何か隠してるだろ」

 亜美は一瞬、ビクッと震え、メガネの奥の目を見開いて健吾を見た。

「目立たないように制服着て、高等部の中庭通って書類を受け取る? どう考えたっておかしいだろ、その発想は。目立つのが嫌なら普通は下校時を外すよな」

 少し遅くするだけでかなり違うし、と健吾はベンチの足を組み替えた。

「つまり書類はついでで、目的は目立たずに下校時に来ることだ。それが和巳に会うためだっていうなら、俺も立ち会わせてもらうよ」

 得体の知れない子、こいつに近づけたくないんで、と付け足して健吾は口を閉じた。

「………」

 亜美が僕と顔を見合わせ、健吾がそれを注視する。彼女はしばらく迷っていたようだが、やがてしょんぼりと肩を落とすと頭を下げた。

「ご迷惑……おかけしました。会えて嬉しかったです。失礼します……」

 そのままサッと後ろを振り向くのを、僕は咄嗟に立ち上がって二の腕を捕まえた。

「ちょっと待って。君は前から僕のこと知ってたんだね?」

 亜美が頷く。

「それで、何か伝えたいことがあるからここまで来たんでしょう?」

 彼女は俯いたままつぶやいた。

「……いえ、いいです」

 おそらく移籍に関することだろう。

 僕はこちらを見ている健吾を振り返り、彼がちょっと驚いているのを確認してから亜美に顔を戻した。

「大丈夫、彼は信用できる人だよ。それに〈T-ショック〉のユージの付き人でもあるから、知ってもらって構わないと思う」

「えっ……?」

 亜美が健吾に目を向ける。僕も彼女に並ぶようにして健吾に向き直った。

「なんだおまえ、その子と知り合いなのか?」

 優花はそれを知らない? とこんがらがるのを見て僕はちょっと笑った。

「健吾はある意味、僕よりも詳しく彼女を知ってるようだよ」

「ええっ? 二つ下だよな? 誰だったっけな……」

 頭に手を当てて真剣に思い出そうとしているのを、僕は苦笑しながら訂正した。

「ごめん。学校じゃないんだ。健吾が知ってるのは主にテレビ画面の中」

 そして顔を近づけて芸名を耳元で告げると、彼は棒を飲んだような顔になった。

「うっ(そ)――っ、やなっ、……、み…っ、(ちゃ)ん――っ!」

 偉業、再び達成。しかもセリフの暗号化に成功……。

 涼やかな目をまん丸にして固まっている健吾を横目に、僕は亜美をベンチに導いて自分の隣に座らせた。

「……優花も、部活の友達も、本当に誰も知らないんだね」

 神妙な顔ではいと頷く亜美を見て僕は内心、首を傾げた。

 なんだか一昨日より顔色が悪いな。

「ね。わざわざ僕に会いに来たのはどうして?」

 水を向けると、亜美はハッと顔を上げ、口を何回か開け閉めしたあとで思い切ったように頭を下げた。

「ご、ごめんなさい。高橋先輩に迷惑かけるつもりじゃなかったんです。だけど私、もう他に行くところがなくて……っ」

 ガバッとベンチの座面に手をつかれて呆気に取られる。

「半年。半年間だけ我慢してください。それまでに私、自己管理できるように努力します。〈T-ショック〉の皆さんには申し訳ありませんが、どうか移籍を許してください!」

 そうしてこちらに深く頭を下げた格好は、足をベンチの座面に畳んだら土下座そのもので、僕は泡を食って両肩をつかんだ。

「ちょっ、やめて! なにしてんのっ!」

 そして元の位置に引き上げながら周囲をキョロキョロ見回した。

 拓巳くんの例がある。万が一にも姿を見破ったファンにこんな場面を目撃されたら、こっちの命が許してもらえなさそうだ。

 最後に後ろを窺うと、「こ、この通りのいい美声は紛れもなく亜美ちゃん」と呻いた健吾が僕に怖いものを見るような目線をよこした。

「おまえ、いつの間に移籍決定権まで持つ身分にのし上がってたんだ……?」

 僕は亜美の姿勢を元に戻してから健吾に向き直った。

「人を黒幕設定するのはやめてね。ここに冗談が通じないかもしれない子がいるんだから。どこの事務所だって決定権を持つのは社長ただ一人でしょ」

「あの、でも社長さんに、『すべての鍵を握るのは和巳君だから、なるべく早いうちにお願いしてきなさい』って言われました……」

 だ、だから私、制服使えば目立たずにすぐ会えるかもしれないと思って、と涙目で訴えられ、僕は頭を抱えた。

 社長。確かに、確かに拓巳くんや俊くんを敵に回したくない気持ちはわかりますけど、ヒドいです……。

 同じことを察したらしい健吾も、顎に手を当てながらしみじみとした口調で言った。

「さすがは大手芸能事務所の社長。人当たり良さそうな顔してエゲツなさは一流だったか。鬼畜なほど的を射た指示だな」

「僕にそんな力はないよ。スケジュールを調整するのは沖田さんなんだから」

 慌てて反論すると、健吾はチッチッチと人差し指を立てた。

「謙遜は時として罪だぜ。いい加減、自分の影響力を冷静に分析して状況判断に役立てろよ。なんだかんだ言って拓巳さんも雅俊さんもおまえには弱い。社長の狙いは当たってるのさ」

 亜美が「やっぱり」と恐れの入り交じった顔になり、僕はまともに反論するのが面倒になった。

「あー、じゃあそういうことで……。それで亜美さ……ええとここでは愛美さん。別に僕に決定権があるわけじゃないけど、ちょっと気になったから訊かせて。さっきの『もう他に行くところがない』ってどういう意味?」

 幾つものプロダクションが獲得に凌ぎを削ってたんじゃなかったっけ、と訊ねると、亜美はまた俯いた。

「Gプロさんが……入札で私の交渉権を得しました。私のいる事務所と手続きに入ってます」

「交渉権を入札で獲得? なんか数年前までのプロ野球のポスティング制度みたいだな」

 健吾が眉をひそめ、僕の眉間にもシワが寄った。

 ポスティングシステムとは、プロ野球選手がメジャーリーグに移籍するときに使う制度のひとつだ。

 選手の交渉権は所属球団にあり、メジャー球団は入札で交渉権を競う。所属元が儲かる分、選手の利益が削られると言われ、数年前に選手が交渉しやすくなるよう改正されている。

「そういや最近、まず女の子たちをグループでデビューさせて、インターネットの人気投票で個人のランク付けしといて、人気が高まったら大きいプロダクションの契約を取り付ける会社があったよな。あれに似たような感じ?」

 健吾が亜美に訊ねると、彼女は少し考えてから頷いた。

「はい。私のいるグループも、そうやってメンバーが変わっていってます」

「けど、あれは本人が交渉の末に断ったら所属元に残るよな? なんで亜……じゃない、愛美ちゃんは行くところがないの? 売れっ子なんだからGプロとの話がまとまらなくても困らないじゃん」

 亜美は首を横に振った。

「所詮はアイドルですから……旬にしか高く売れません。だから事務所と交渉が始まったら移籍はほぼ決定で、譲渡金が支払われたら私の事務所での籍はなくなります。私には移籍を拒否する権利はありません……」

 亜美が申し訳なさそうにうなだれる。僕はちょっと疑問に思った。

「でも売れてるのなら、普通は事務所に残っても大事に」

 そこまで言ってハッと思い出す。

 彼女は先輩女優や小狡そうなマネージャーに邪険にされていた。まるで追い出したいような口振りだった。

「そういえば、あのときのキツそうな女優さんも『せいぜい高く売れればいい』とか言ってたね……」

 要するに亜美の事務所では、寿命の短そうなアイドルは譲渡金を稼ぐためだけに育てていて、本人に拒否権は最初からないのかもしれない。

「そんなこと言ってんの? 亜美ちゃんに?」

 健吾が声を荒らげ、「やべ、ゴメン」と口を塞ぐ。すると亜美がポツリと言った。

「私は、特に目障りみたいだから……」

「それ、ビルで会ったときもそんな会話をしていたね。あの女優さん、随分冷たい感じだけど、いつもああなの?」

 亜美のいる事務所では、女優とアイドルでは極端に待遇が違うのだろうか。

 首を傾げていると、俯いていた亜美が思い切ったようにこちらを向いた。

「あの人は……私の母です」

 ――えっ!

 一瞬、言葉を失う。

「お母さん? あっ」

 そうか、白川皐月だ。あれが。

 身動きできずにいると、メガネ越しの顔が自嘲するような笑みを浮かべた。

「……向こうは、娘なんて思ってないかもしれないけど」

 彼女はどこか遠い目をして話しだした。

「私は母が若い頃に生んだ私生児で、祖父母の養子になってたみたいなんです。知らなくて……横浜で、祖父母をお父さんとお母さんだと思って暮らしてました。二人も、私は年を取ってから生まれた子どもなんだって言ってたし」

 亜美はそこで少し笑った。

「ごく普通に小学校を卒業して、旭ヶ丘は中等部から通いました。高橋先輩はみんなの憧れで……でも、友達みたいに手紙渡す勇気はありませんでした」

 すごかったですよね、と微笑まれ、僕はバツが悪くなった。中学三年のときといえば、自分の出生の謎や俊くん、稜先輩のことで手一杯で、手紙をもらっても読まずに返していた頃だ。

「小学六年のときにお父さんが、中学二年になる直前にお母さんが亡くなって、そこで初めて自分が白川皐月の娘なんだって知りました」

 僕は思わず質問した。

「じゃ、それまでまったく接点なし?」

 亜美は言葉を探すように目線をさ迷わせ、やがて小さく首を横に振った。

「あの人は……たまに両親に会いに来ていました。呼ばれて一緒にお茶をしたこともあります。でも私、大人の女優さんとかよく知らなくて……綺麗なお客さんだなぁくらいにしか思ってませんでした。両親もあの人のことはお客さんだとしか言いませんでした。けど……」

 そこで亜美は暗い顔になった。

「うちは別に大金持ちとかじゃなかったけど、お父さんが亡くなってからも生活に困った感じじゃありませんでした。けどお母さんが癌で入院して、亡くなる一週間前にあの人とマネージャーの高山さんが来て……」

 亜美はそこで一瞬、肩を震わせた。

「お母さんに、私の本当の母親はこの人だと教えられて、高山さんから『今日からおまえは彼女の付き人になるんだ』と言われて、私は事務所の用意した寮に連れていかれました」

「中学生で付き人を、すぐに?」

「はい。『おまえの家は医者にかかった金のために売りに出した。この先の食いぶちは皐月さんに稼いでもらうんだから』って」

「………」

 思わず健吾に目線を投げると、彼もまた僕に目を合わせてきた。亜美は坦々とした調子で続けた。

「それで半年後に〈FAN・C〉に入って、次の年の夏ごろにセンターになって……」

 亜美は胸に手を当てて眉根を寄せた。

「母は早く自分で稼げるようになってちょうだいって言ってました。高山プロダクションは大きい事務所じゃないから、私が売れないうちは、母が私にかかる費用を賄わされたんだと思います」

 だから頑張って売れるようになれば、気兼ねなく居られるのかなって思ったんですけど、と亜美は悲しげに笑った。

「この前、母に言われました。『近いうちに売りに出すから、せいぜい高く買われなさいね。二度と戻ってこないように』って」

「ちょっと待って。それっておかしくね?」

 あまりの内容に健吾が口を挟む。僕の肩をつかんで身を乗り出した健吾に亜美が答えた。

「母は事務所の古株で、高山さんは二代目社長になる人で、今の母のお相手なんだそうです」

「あ、……なるぼど。そーゆーコト」

 えっ、お相手? と僕が目を剥く横で、健吾が顔をひきつらせながらも相槌を打った。

「つまり君の存在は基本的には二人の邪魔で、移籍で儲けるためだけに引き取ったわけだ」

「け、健吾、そんな言い方」

 驚いてたしなめると、彼は手のひらを上向けて肩を竦めた。

「今更言葉を飾っても意味ないだろ。本人がここまで理解してんだから」

 どうやら母親の仕打ちに腹が立ったらしい。僕は明るい要素を思い出そうと試みた。

「榑林さんは? あの人は心あるマネージャーさんのようだし、移籍先の条件をかなり吟味していたよ。彼がいるんだから、居場所がなくなるなんてことはないんじゃないの?」

 亜美は薄く微笑んだ。

「榑林さんはすごくいい人です。私のことも最初から本当に親身になって世話してくれました。他にもたくさんの子を担当しているのに、自分の休みを削って私の体調に気を配ってくれて……けど、やっぱり社員さんですから……」

 次期社長の高山や、そのお相手である古株の女優には逆らえないというわけだ。

「私の移籍先を吟味したのも、理解のないところを選んでもし何度も仕事に穴をあけてしまったら、使い捨てされるだろうってわかってるからです。それをどうにかする力が自分にはないからって……」

 だからごめんなさい、と亜美はまたこちらに頭を下げて座面に手をついた。

「私にはGプロで頑張るしか道がありません。お願いです。ちょっとの間だけ、私の付き人になってください!」

「―――」

 それは小声に抑えた分、魂の底から吐き出されたような渾身の一声で、これを拒絶するだけの強い意志を持てないことを僕は瞬時に悟った。

 ――きっと後悔する。

 どんなに社長や沖田さんが工夫してくれたとしても、自分が一番役立ちたいと願った人たちに向けた時間を削ることになる。

 わかっていても、彼女の置かれた厳しい状況を無視することは、同じく困難な生い立ちゆえに傷を負った父親を持つ僕にはできなかった。

「……わかった」

 パッと亜美が顔を上げ、健吾がギョッとして肩をつかんだ。

「おいっ。そんな返事しちゃっていいのか? 拓巳さんや雅俊さんに……!」

 僕は首を横に振った。

「僕に決定権はないよ。だから彼女に言ってあげられるのは、話が示されたとき、僕からは断らないということだけだ。それでいい?」

 むろん、それが社長にどう受け取られるかはわかっているけれども。

 亜美に顔を向けると、彼女は両手で口を押さえ、笑みと涙を目に浮かべて何度も頷いた。

「はい……はいっ! ありがとうございます……!」

 そしてサッとベンチから立ち上がると、もう一度深く頭を下げてからこう言った。

「わ、私も、高橋先輩がスカウトの人に目をつけられないように守ります。今度タクミさんとのことを質問されることがあったら、勇気を振り絞って演技しますから!」

 失礼しますっ、と飛ぶようにして駆けていった彼女の後ろ姿を、僕は呆気にとられて見送った。

 勇気を振り絞って演技。一体、どんな。

 額を押さえると、隣の健吾がボソリと言った。

「おまえ、バカだろ。あらゆる意味で」

 目線だけで動かして手の間から健吾を見る。彼は渋い顔で腕を組んでいた。

「……拓巳くんには、大好物を用意して謝るよ。意外に亜美さんを気に入ってたから、今日の話をすれば、最後はわかってくれると思う」

 この前のタクシーで、彼女の受け答えを拓巳くんは珍しく誉めた。うまく話を進めれば説得は可能だろう。

「俺が言いたいのはそっちじゃない。わかってるくせに逃げるなよ」

 健吾の目が据わり、額の手を取り上げられる。さらに言葉を続けようとした健吾は、けれどこちらを見て動きを止めた。

「和巳……」

「確かに、バカだね」

 ただでさえ言えないことがあるせいで不安にさせている。この上、もし手伝う時間まで削ることになったら波風が立つとわかっているのに。

 僕は少しだけ目尻に溜まったものを、空いているほうの手の指先でぬぐった。

「ごめん。余計な心配事、増やしちゃって。自分でもどうかしてると思うよ。でもさ……」

 実の母親から追われながら、別天地で頑張ろうとしている彼女の願いを、今日に至るまでぬくぬくと守られてきた僕には拒絶することができないのだった――。



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