綱渡りの日々
ターンアウト~手探りの未来図
高校三年の春――それは誰もが直面する選択の時期。
一枚の紙切れに表された将来像。
ある者にとって、それは心踊る未来への設計図である。
「私は美容専門学校よ。お父さんと同じ道に進むつもり。テニスをやってきたから体力には自信あるし、厳しい世界だけど、お父さんも本気なら反対しないって言ってくれたの」
――親と子の意見の一致は美しい。
またある者にとって、それは夢と現実の厳しい選択の場面である。
「俺? まあ一応、系列大の商業科って書いた。……わかってるさ。プロのギタリストになれるのなんてほんの一握りの人たちで、俺にはそこまでの才能はないって。でもさ。今まで好きにさせてくれといて、いざ本気を匂わせた途端『趣味と仕事を混同するな』って、ひでーと思わねぇ?」
――親との意見の相違。それは苦しい関門だ。
しかしそれすらも親子が大人同士の間柄になるための正しいやり取り、家族の絆を深める通過儀礼のように思える。
なぜといってウチの場合は――。
「ふざけんなよ拓巳! 和巳は芸大を受けるんだ。この先、講習で忙しくなるっつーのにこれ以上、テメーの付き人の時間なんぞ増やせるか!」
「黙ってろ雅俊。絵はキサマが見てるんだから十分だろうが。だいたい和巳はGプロの社長に幹部候補にするって誘われてんだ。大学は系列大の経済学部に入りゃ十分って話も聞いてんだぜ! 余計な嘴を挟むんじゃねぇ!」
「なんだそりゃ! テメーに都合がいいからって勝手に話決めんな!」
「キサマだって和巳とゲージュツ家同士になりたいだけのくせして人のコト言えたタマか!」
「あの、僕、まだ何も言ってないんだけど……」
そもそも僕の意志が入っていない。
「……ってわけなんだよ」
心地よい風が窓から入る春の放課後。
クラスメートが次々に下校する教室の左の窓際で、机に肘をついてため息をつくと、下校準備を終え、目の前の席の椅子に後ろ座りした親友の宮内健吾が目をぱちくりさせた。
「おまえが進路希望を伝えたから言い争ってるって話じゃないのかよ」
「芸大へ行くとか? ひとっことも言ってないよ」
むろん、Gプロから話が来ているなんてことも聞いたことがない。
そう告げると、こちらも下校仕度を済ませ、健吾の隣の席から椅子を引き出してきた僕の幼馴染、健吾の彼女でもある真嶋優花が言った。
「でもマネージャーの沖田さんは、大学を卒業したら必ず来てねってしょっちゅう言ってるじゃない。Gプロの社長さんがうちのお父さんに話してるのだって聞いたことあるわよ」
「あ。俺も。コンサートのときにスタッフさんたちがその話をしてんの聞いたぜ」
健吾が相槌を打つ。僕はギョッとして聞き返した。
「なにそれ」
「ほらこの前のコンサートのとき。俺、裏方でバイトしてたじゃんか。『あの二人に忍耐を鍛えられた和巳君が本当に入社してきたら、どんなタレントさん任せてもそつなくこなせるよなー』とか言って休憩時間に盛り上がってたぜ」
あの二人とは、言わずと知れた僕の父親と僕の師匠にしてパートナー、芸能事務所GAプロダクツの看板アーティスト、ロックバンド〈T-ショック〉のボーカル〈タクミ〉とキーボード〈マース〉のことだ。
つい一週間前の五月連休中、結成して丸二十年を迎えた〈T-ショック〉は、二十周年記念イベントの幕開けとして東京のSホールで三日間のコンサートを開いた。
一年に及ぶイベントのスタートに相応しく、この三日間は全国に散らばる四十万のファンクラブ会員のうち、二十年以上の入会歴を持つ一万人の超プレミア会員に優先して分配され、連日の会場を埋め尽くした。
僕と健吾は当然のようにバイトスタッフとして駆り出され、もはや定番の感のあるそれぞれの業務――健吾は祐さんの付き人及び楽器の搬入やセッティング補佐、僕は拓巳くんと俊くんの付き人兼、沖田さんのサポート――に従事した。
メンバーの世話をするのが主な仕事の僕に比べ、軽音部所属の健吾は音響スタッフさんたちと行動をともにする機会が多い。交流が深まるのは当然といえば当然なのだが。
「それは単なる噂話でしょ?」
「いやぁ? 皆さん、わりと信憑性があるような口振りだったけどなぁ」
社長さんや沖田さんの言動を耳にしての話題なんじゃないのか、との言葉を聞いて僕は額に手を当てた。
「だから昨日、真剣なカオして言い争ってたのか……今はそんなことにかまけてる場合じゃないのに」
なにしろ二十周年イベントは始まったばかりだ。
この先は六月下旬、八月中旬と全国五ヶ所のツアーが続く。合間に都心でのイベントや各種の取材、メディアへの露出をこなしながら、ラストの年末恒例コンサートまで地方と都心を行ったり来たりするのだ。
次のコンサートまであと一ヶ月あまり、場所はさいたま市だ。都心に近いとはいえ今、余計なことで揉められるのは周りにも迷惑がかかって困る。
それでなくても記念企画で欲かいちゃったせいで綱渡りの日々なのに。
眉根を寄せていると、優花が僕の机に少し身を乗り出した。
「もう三年生だもの。進路の話は疎かにはできないわ」
健吾も腕を組みつつ頷く。
「和巳が将来どっちの方向を選ぶのか。拓巳さんと雅俊さんの関心が高まるのは当然だな。決まってんなら早めに伝えとけよ」
「いや、どっちって……」
「うちの学園の系列大学ならどの学部だって推薦なんだろ? 確か前の進路調査のときは芸術学部のデザイン科にするつもりだとか言ってたじゃんか」
旭ヶ丘学園の系列である旭峯大学の所在地は二ヶ所、横浜と世田谷で、芸術学部は世田谷のほうだ。
「和巳だって、ウチの系列の推薦なら受験勉強に時間取られないで済むから、旭峯に絞ってGプロのバイトを続けるのがベストだって言っていたじゃないの。この先ますます忙しくなるんだから、早く伝えておいたほうがいいわよ」
真顔で忠告され、僕は言葉を濁した。
「……そうだね。なるべく早くしないとね」
そして手早くノートをまとめ、机の脇にかけてあった鞄に手を伸ばした。
「引き留めちゃってごめん。二人とも早く部活に行って。みんな待ってるんでしょう?」
五月も半ばを過ぎ、どの部活も試合を控えて忙しい。今や健吾は軽音部、優花はテニス部のそれぞれ部長であり、美術部幽霊部員の僕とは立場が違うのだ。
「そうだな。それにおまえも急いだほうがいいよな。じゃ、行くわ」
「私も」
二人は相次いで立ち上がると「じゃ、明日な」と和巳に手を振り、まだちらほらと残っているクラスメートと挨拶を交わしながら教室を出ていった。
それを見送ってから机に鞄を置き、教科書を放り込んでいると、二冊のノートの間に、三日前に配布された進路調査票が挟まれたままなのが目に入った。
第一希望、第二希望、保護者サインの欄。すべて空欄だ。
「………」
僕はため息とともに調査票を引き抜き、引き出しに戻してから鞄の蓋を閉めた。
勝手知ったるビルの階段を駆け降り、忙しく立ち働く人々をよけながら、小走りに廊下を進んで目的の場所に到達する。ひとつ呼吸を整えたあと、関係者以外立ち入り禁止の貼り紙のついた分厚いドアをそっと開けると、予定どおりの場面が展開していた。
手前に立つ数人のスタッフのうち、グレーのスーツを着た中肉中背の男性がこちらに気がついて振り返った。
「和巳君、待ってたよ。ご苦労様」
僕のバイト先の上司、GAプロダクツの〈T-ショック〉担当マネージャー、沖田智紀さんだ。
彼は柔和なメガネ顔にホッとしたような笑顔を浮かべると、他のスタッフから少し下がって手招きした。僕は足音をたてないよう気をつけながら彼のそばに近寄った。
「遅れてすみません。様子はどうですか?」
「大丈夫。今のところ順調だよ」
ほら、と示されて目線を前方に向けると、目の前にお馴染みの、しかしある意味、珍しい場面が展開されていた。
教室ほどの広さの部屋の奥には、楽器の器材――アンプやらスピーカーやらの音響設備が調ったステージがある。そこには今、ロックバンド〈Tショック〉の面々が顔を揃え、それぞれ所定の位置に着いていた。
リーダーの〈マース〉こと小倉雅俊、僕の絵画の師匠兼、パートナーである俊くんが向かって左側のキーボード前に、右側には祐さん――リードギターの〈ユージ〉こと井ノ上祐司さんが黒光りするギターを構え、そして中央にはボーカル〈タクミ〉こと高橋拓巳、僕のただ一人の親である拓巳くんがスタンドマイクを前にして立っている。
今、彼らはGプロが自社ビルの地下に備えている三つの練習用音楽スタジオのひとつにこもり、コンサートナンバーの確認をしている。これはいつものコンサート前の風景だ。
いつもと違うのは周囲で、小型ではあるものの二台の収録用ビデオカメラと集音マイク、そしてそれを操作する複数のスタッフがステージの周りを取り巻いている。
極力目立たぬように配慮しながらも、潜めた背中にどこか興奮した気配が漂うのは、彼らが粘り強い交渉の末に収録を許可された、とあるテレビ局の撮影クルーだからだ。
今や必要最低限のメディアにしか姿を現さない伝説のロックバンドが、二十周年企画の一環として初めて裏方の撮影を許可したのが、民間テレビ局の音楽番組なのだった。
年末の特番として放映が予定されている番組のタイトルは『〈T-ショック〉未来への軌跡』。
といってもバラエティー番組のコーナーによくある、芸能人の生い立ちや人生を辿るといった類いのものではなく、コンサートのメイキングを軸にしたドキュメントで、中で歌われる楽曲の練習風景や、それぞれの曲を作ったときのエピソードを紹介するといった、真面目で芸術性の高い内容になる予定だ。
ナレーションの合間に入るインタビューに答えるのはリーダーの俊くんだけで、拓巳くんや祐さんはほぼいつも通りに振る舞う。放映日は年末三日間コンサートの最終日、初日のオープニングを収めた映像が番組のラストシーンになるのだという。
この企画を持ち込んだのは、Gプロの後藤社長と懇意のプロデューサーで、何年も前から企画を温めていて、自分の勤めるテレビ局にも根回しをしていたという。
二十周年に何らかのイベントがあることを予測し、満を持して持ちかけられた企画は、内容がよく練られていて、交渉の最終決定権を持つ俊くんがこれは無下しないほうがいいと判断した。僕も企画書を読んで『その番組、見たい』と望んでしまったくらいだから、Gプロスタッフは言うに及ばずで、ファンの人たちにも喜んでもらえるだろうとみんなで乗り気になった。
問題はテレビの収録があまりお好きでない拓巳くんで、ステージ以外の場所でカメラが回ることを同意させるのはホネが折れたが、僕や祐さんで宥め、最後はエサで釣ってなんとか承諾にこぎつけた(後日、エサの内容について俊くんにスネられた)。
そんな経緯を経て、この春からカメラマン二人とアシスタント二人がメンバーに同行することになり、今日はスタジオで二回目の撮影が行われていた。健吾が急いだほうがいいと言ったのはこのためで、乗り気でない拓巳くんが脱走する前に辿り着けというわけだ。
「あとどのくらいですか?」
三人の表情を順に追いながら質問すると、律儀な沖田さんは左手の腕時計に目線を走らせた。
「三時半に始まって今は五時過ぎだから……あと三十分ってところかな」
「そうですか。無事に終わりそうですね」
なにしろ進路についての口論は昨日のことなので、一日中ずっと気がかりでいたのだ。
ひとまずホッとし、ステージ中央に立つ、未だ人々に『絶世』との形容詞を冠される美貌の主の様子を観察した。
ラフなシャツにジーンズの出で立ちにもかかわらず、青い宝石のようなオーラを放つその姿。
すらりとした体型は二十歳前後の青年と並んでも遜色ない無駄のなさだ。
艶のある長い黒髪に縁取られた細面は白く、高い鼻梁と薄く整った唇を長めの前髪から覗かせている。影が差す深い眼窩にもし今、ライトが当たったら、奥にある二重切れ長の瞳が緑を帯びた薄茶色であることがわかるだろう。
その硬質な美貌が俊くんの指示を受けてチラリと目線を動かすたびに、至近距離で作業する撮影スタッフが動揺するのがわかる。おそらくその不思議な色合いの眼差しをモロに見てしまい、まだ免疫が体内に組成されてないので衝撃でクラクラしているのだ。
これぞ彼の異名〈衝撃の美貌〉の所以である。
しかし、およそ六千日に亘ってそれを浴び続けてきた僕の視神経はグラスファイバー並みの強度を持つに至ったので、ステージから少し離れたこの距離でも、彼の眼差しの意図するところは正確に読み取れた。即ち。
あー、ちくしょー。カメラうぜえ。早く終わんねーかなー。腹へった。
うわぁ。限界ギリギリ。
収録用カメラが特にお気に召さない拓巳くんは、ただでさえ無表情なのが今や美貌台無しの仏頂面だ。
けれども台無しだと思っているのは笑顔を知っている僕だけで、Gプロスタッフのみなさんは『ハタからじゃ、地顔と仏頂面の見分けなんてつかないから大丈夫』との意見で、滅多に露出しないメンバーのプライベート(に近いと想像される姿)を年末にはビデオデッキに録画できると張り切っている。
とはいえあまりにナゲヤリな態度を取られては、リーダーの俊くんから厳しいクレームが出されて険悪ムードになるので、自分の欲もあって撮影を推した僕としては心臓に悪い。
そんな日々が始まったところに、運悪く進路決めの時期が重なってしまい、トラブルの種になって現場に響いたら正直、手に余る。
進路の話なんて、本来なら種になる余地もなくとっくに決まっていたはずなのに。
うまくいかないなと落ち込みそうになり、今は仕事中だと気を引き締める。顔を上げると、ステージでは俊くんが今日最後の曲を合わせるべく合図を出し、祐さんが複雑なメロディーの前奏を弾き始めていた。
コンサートの中盤に予定している、古いナンバーからピックアップされたヒット曲のひとつだ。
「この曲、懐かしいよな」
沖田さんの向こう隣に並ぶGプロスタッフの面々が囁く。僕より一世代上の人が多いためか、彼らの気配が一様に浮き立った。
キーボードの鮮烈な音がギターに重なり、僕も沖田さんの後ろから少し身を乗り出した。するとスタンドマイクに手をやった拓巳くんとパッチリ目が合った。
瞬間、長い睫毛を従えた目が少しだけ見開かれ、次いで「待ってた」とばかりに喜色を浮かべた。
硬質な気配が一瞬にして眩い輝きに包まれる。
途端、右側にしゃがんで集音マイクを支えていたスタッフがバタッと床に手をつき、正面の左側下方、立ち膝で拓巳くんを撮影していた男性カメラマンが大きく体を揺らがせた。その結果、撮影用のカメラが肩からずり落ちて――。
ガッシャン!
「――……っ!」
周囲のGプロスタッフから声なき悲鳴が上がった。
バカッ! もうすぐ出だしなのに!
邪魔したらタクミがごねる!
ボイコットになったらマースが荒れる!
どうしてくれるんだ!
見れば出だしを邪魔された拓巳くんが、慌ててカメラを抱え直す男に氷のような視線を突き刺している。
キサマ。なにやってんだ。
しかしそのとき、彼の左横から冷静な声が飛んだ。
「拓巳」
見れば俊くんも祐さんも演奏を止める気配はない。歌が入るまでにはまだ四小節あるので、続行する気なのだ。
しかしすでに気を削がれた拓巳くんは額に縦ジワを寄せた。
ざけんな。今日はヤメだ。
次なるセリフの幻聴が聞こえ、僕は咄嗟に沖田さんをかわして一歩前に出た。
拓巳くんっ!
心で叫びながらカッと両目を見開き、不機嫌を露にする傾国の美女のような顔を見つめる。
はーいはい! もうちょっとだからがんばろーねー。ホラッ、おやつもあるからね!
手に提げていた緑色のロゴ入りレジ袋を少し持ち上げるのも忘れない。
するとこちらを見た拓巳くんがハッと気配を変え、額のシワを戻して目を閉じた。
前奏、残り二小節だ。
――間に合った……。
艶のあるテノールが出だしにピタリと乗って紡ぎだされ、スタジオの隅々まで安堵と称賛の気配が満ちる。
そのとき俊くんがチラッとこちらを見たのが目に映り、悪戯を見咎められたような気分になった。僕はレジ袋の中味――このところお気に入りの甘味、大和屋の特製蕨餅に目線を落とし、トラブル対処法が好物頼みになってきていることを反省した。
「や、和巳君。さっきはありがとう。さすがの目力だったね」
スタジオ練習の時間が終わり、休憩室に移動してテーブルの隅を拭いていると、あとから入ってきた沖田さんが小さく声をかけてきた。
「危うくボイコットシーンを収録されちゃうところだったよ」
目線を投げた先には、早くも奥の椅子に陣取り、特大の蕨餅をテーブルに広げて堪能している拓巳くんの姿がある。俊くんと祐さんはいつものように他のスタッフと打ち合わせをしているのでまだ来てはいない。
「ファンのみなさんの夢を守れてよかったです」
いくらドキュメントとはいえ、伝説と謳われるバンドのボーカリストが、幼児レベルでスネたりゴネたりおやつで宥められたりするシーンはファンも見たくないだろう。
昨夜、拓巳くんと俊くんが僕の進路(に選ばせたい大学)を巡って激突した。
運悪く、今日のスタジオ練習は拓巳くんの嫌いな撮影付きだった。そのためいつもよりふて腐れ、俊くんと揉めることが容易に想像できた。
そこで今朝、沖田さんに事情を伝え、外部スタッフの前での衝突を避けるべく一計を案じた。
僕がとっておきの好物を用意してなんとか練習を乗り切り、先に休憩室に引き揚げてくる拓巳くんに供して小腹を宥める。俊くんたちが来る頃には満足して次のスケジュールに向かうという計算だ。
知らない人が聞いたなら、どんだけワガママな子役タレントか知らないが大の男が二人して振り回されてと笑うだろう。しかしGプロには僕と沖田さんの努力を笑う者は一人もいない。他の人にはそもそも時々変化する彼の好みが把握できないし、なによりこの作戦には事務所の命運がかかっているのだ。
すでに投じられた二十周年記念企画の巨額な予算と、巷で捌かれたチケットの売上高を計算しただけで冷や汗が出る。計画がスタートしたばかりの大事な時期に、ボーカルとリーダーが衝突するのを防げるなら、老舗の甘味などいくらでも買いに走るというものだ。
とはいえボーカルの世話にかまけすぎると、今度はリーダーの機嫌を損なうので匙加減が難しい。
つまるところ遠因は僕にあるわけだから……。
「忙しい時期に余計な気を遣わせてすみません」
恥じ入って謝ると、沖田さんはメガネの奥の目を見開いた。
「なに言ってるの。和巳くんのせいじゃないでしょう。それに担当するタレントさんの気分や好みをしっかり把握して仕事につなげるなんて、ベテランのマネージャーだってなかなかできないことだよ」
感腹したように言われ、僕は身内なわけだからそれには当たらないんじゃないかなと内心で突っ込んでいると、後ろのドアのほうから耳に馴染んだ、けれども少し緊張を覚える声がした。
「ベテランは度を越して甘やかしたりはしないぞ、智紀」
「雅俊君」
沖田さんが振り返り、僕は振り向き様に先手を打った。
「俊くん。気に障ったならごめんなさい」
やや目線を下げた先には、南国系の華やかな美貌にやや渋い表情を浮かべた俊くんがいた。
こちらも年齢不詳の少年のような体型を、今日はプリント柄のシャツブラウスとデニムパンツに包んだ普段着姿だ。
天然ウェーブの長い髪を片側でひとつに束ね、黒目勝ちの瞳でこちらを見上げてくる姿は、一見、大学などでたまに見かける中性的でお洒落な学生に見える(実年齢からすると恐ろしいことだが)。
しかし少しでも言葉を交わせば、華奢で華やかな外見とは裏腹に、人生の荒波を乗り越えてきた人であることがわかるだろう。
ただし一部オトナゲないところがあったりもするんだけど。
俊くんは僕の目の前に立つと、アーモンド型の瞳を眇めて腕を組んだ。
「あの程度の雑音、無視できないようじゃプロじゃない。いちいち宥めるな」
そう言いながらも、表情が若干緩んだのを僕は見逃さなかった。
俊くんも、今衝突するのがよくないことは承知してるんだよね。口論してまだ間がないから、僕が拓巳くんに甘くなるのが気にくわないだけで。
そのあたりの心理は十分に理解しているので、僕はここぞとばかりに神妙な表情を作った。
「肝に銘じます。俊くんも疲れたでしょう? お茶淹れるから座って。祐さんは?」
「祐司はもうちょっとかかる」
僕に椅子を引かれた俊くんは、腕を解いてテーブルに着いた。
ホッとしたのも束の間、テーブルの先を見てすぐに気を引き締める。はす向かいに座る拓巳くんは、まだ蕨餅を食べ終えていなかった。
しまった。喜ばせようと特大にしたのが仇になったか、ペースが遅い。
案の定、備え付けの給湯器でハーブティを用意している隙に、拓巳くんが俊くんに向けて低い声を発した。
「ナニ、偉そーな理屈こねてるんだか。キサマは和巳が俺を構うのが気に食わなくてイチャモンつけたいだけだろうが」
拓巳くん! それ言っちゃダメだよ!
慌ててカップを手にとってテーブルに戻ったが、すでに俊くんは顎を引いて拓巳くんを睨んでいた。
「テメーと一緒にするな。仕事にはケジメを持ちやがれ」
拓巳くんは行儀悪く椅子に片膝を立ててせせら笑った。
「へー。前に『集中を妨げるのはスタッフがもっともやってはならないミスだ』とか言ってGプロの若い連中に説教してたのはダレだよ」
うっ。確かに。
それは事実だったので俊くんの形勢が不利になった。
「あ、あれは着信音で、マナーモードを忘れた不注意によるものだからだ。さっきの不可抗力とは違う」
「俺の集中を切れさせる意味では同じだろ」
拓巳くんが鬼の首を取ったような悪い笑みを浮かべ、沖田さんは困り顔で拓巳くんと俊くんを見比べている。
意地悪な表情すら他人の目には『蠱惑的な笑み』とやらに映るようで、沖田さんやスタッフの人だけだと口が挟めずこのまま泥仕合へと突入するらしい。が、僕には幼稚なお山の大将にしか見えないのでそっちはスルーし、ガッとテーブルに手をついて身を乗り出そうとした俊くんとの間を手刀で一閃した。
「はいっ、そこまで」
用意したティーカップをサッと前に置く。
「冷めないうちにどうぞ。あとこれを」
さらに流し台の脇に置いておいたレジ袋の中からフードパックを取り出してカップの隣に置くと、動きを止めた俊くんから驚きの声が漏れた。
「和巳これ、この匂い」
「うん。前に一番好きなのはこの味だって言ってたから」
おやつ作戦第二弾、お店では買えない『プレミアたこ焼き』だ。
俊くんの好物はたこ焼き、それも一番のお気に入りは非売品だ。それはレストランを営む健吾の父、宮内健二さんが息子のおやつ用に作ったもので、伝授された健吾が昨年の文化祭にクラスの出し物で腕をふるい、俊くんのハートを射止めた逸品だ。今朝、宮内家に電話して健二さんにお願いし、下校途中でお店に寄って受け取ってきたのだ。
「最近、食欲落ちてるでしょう? 少し冷めちゃったけど、まだ十分美味しいと思うよ」
俊くんはしばしたこ焼きを見つめたあと、テーブルについた僕の手を片方つかみ、こちらを覗き込むように見上げてきた。
「いつもより来るのが遅かったのはこのせいか」
拓巳くんの蕨餅はここに来る道すがら買えるのだが、健二さんのレストランは僕の自宅マンションの近所なのでちょっと寄り道になる。頑張って走ったけれどいつもより電車一本、遅くなった。
「うん。ごめん」
少し屈んでから小声で告げると、俊くんの気配が明らかに色を変えた。
「昨日のことで気を使わせたか。悪かったな」
「そんなこと」
拓巳くんが気に食わなさそうにこちらを注視しているのが目端に映る。気づいているだろうに俊くんは僕の手を軽く引き寄せた。
「おまえの心遣いの深さが身に染みるな。嬉しいよ」
わざと拓巳くんに聞こえるように言うところがちょっと大人げない。けれどもこの先は別行動になることを考え、今はそこに目を瞑って続けた。
「ちゃんと食べて、今日はゆっくり休んでね。明日は九時頃にマンションへ行くよ」
明日は土曜日、目黒にある俊くんの家に行く日だ。
俊くんは少し苦々しい、けれども余裕を取り戻した顔で言った。
「八時だ。迎えにいく」
「でも、このあと夜にかけて音響さんと打ち合わせでしょ? 休日の朝くらいゆっくり休まないと」
と言いかけたところで後ろから長い腕が胴に巻き付き、強い力でグイッと引っ張られた。
「九時だ。休みの日くらいゆっくり朝飯食わせろ。俺が送っていく」
耳もとに響くテノールの声が不機嫌さを増している。いつの間にやら蕨餅を食べ終えた拓巳くんが僕の背後を取っていた。
「休憩は終わりだ。和巳、俺たちは芳弘の美容室に行くんだろ。出るぞ」
「拓巳。話は終わってない。おれが迎えに行く」
「しつこいと嫌われるぜ。おとなしく諦めろ」
「この、万年幼児野郎が……っ」
俊くんが席を立ち、拓巳くんの手が僕を背中の後ろへと隠すようにする。
「ちょっと待っ……!」
それに抵抗しかけたところで、第三の手が二人の襟首をつかんだのが見えた。
「おまえらは一体、幾つになったら成長するんだろうな……?」
物悲しげな響きが混じった低音は、黒革の上下に身を包んだ祐さんだ。
身長百九十センチの引き締まった体が生み出す膂力で軽々と二人を引き剥がした祐さんは、彫り深く鋭角的な顔でひとつため息を吐いてから言った。
「まあいい。拓巳、送るならもう少し早くしてやれ。七時に起きれば十分ゆっくりできるはずだ。雅俊は家で待て」
「えー」
「祐司!」
口々に抗議する二人に構わず彼は僕に告げた。
「ご苦労だったな、和巳。ここはいいから早く拓巳を芳兄さんの店に連れていけ。衣装のスタッフも待ってるだろう」
百八十センチ近い拓巳くんに追いつきそうな僕の身長でも、彼と目を合わせるためにはまだ見上げなければならない。
「あ、はい。ありがとうございます。あとこれ、祐さんに」
素早くレジ袋をつかみ、残っていた最後の品を出して渡すと、祐さんは鋭い光を放つ目を僅かに和ませた。
「助かる。ちょうど切れたところだ」
そして僕が差し出したマルボローを受けとると、「さあ、行け」とばかりに僕と拓巳くんの肩を入り口のほうへ押した。
俊くんが横から抗議した。
「祐司! なんでだよ。おれが行くって」
祐さんは俊くんに向き直った。
「だったらその疲れた顔をどうにかしろ。そんな青白い顔色で迎えに来られても、和巳の心配が増すだけだぞ」
「………」
俊くんが悔しげに口を閉じる。さすがに自覚があるようだ。
「なるべく早く行くようにするから、ゆっくり休んでね」
僕は気持ちを込めて伝えると、祐さんに頭を下げ、沖田さんにも会釈してから、再び腕をつかんできた拓巳くんに腕を引っ張られながら休憩室を出た。
一年ぶりになってしまいました(^^);。しかしいつもと同じくこの先は次々出していく予定です。長くて恐縮ですが、和巳のターニングポイントにどうぞお付き合いくださいませ。