5.終焉の使者
「魔王……」
その言葉が自然と口より漏れ出たのは、相手の力量が恐るべきものを秘めているからという理由からだけではなかった。ケントはその者が発する禍々しい物を本能的に感じ取っていた。
この世のあらゆる者をあざ笑う存在。すべての生の尊厳を踏みにじる悪意。それらを体現しているかのような姿に、ケントは戦慄した。その者が忌むべき存在だと、五感を超越して悟った。
唐突に、目の前に佇んでいる黒い影の翼が蠢いた。鳴動し、形態を変えていく。漆黒の鎧の肩の辺りに丸い塊になると、その球体はギョロリと目を見開いた。球全体が目であるかのような大きさだった。
目は、ケントのことをじっと見つめていたかと思うと、どこから発しているのか分からないが、声を上げた。
「ターゲットを確認、解析開始」
目が光を発したかと思うと、程なく目がもう一度呟く。
「スキャン終了、ホストと断定」
ケントには言葉の意味は分からなかったが、漆黒の鎧の人物はこちらの反応を気にした様子もなく、血の付いた刀をケントの方へと差し向けた。
「閉鎖部です。無駄な抵抗はやめてください」
驚くことに、その声は女性の声だった。声音から察するに、若い女性のように思える。重厚な鎧の姿からは想像し難い、か細く、弱々しい声だった。
その彼女に対して、目の発する声は冷淡だった。
「警告は不要と進言。説得に効果は見込めないと予測されます」
まさに機械音声のような目の声に、ケントは違和感を覚え始めていた。こいつらは、本当に魔王の手の者なのだろうか。もっと異質な何かのような気がする。
いずれにせよ、相手が警戒すべき相手であることには違いはない。先ほどの、探知スキルの不備を突いたような戦術。スキルの性能や性質を熟知している。ただステータスが高いだけの奴らではない。
(こんな戦い方出来る奴らが、この世界に居るのか?)
そんな考えを、ミーファの叫び声がかき乱した。
「ラシィ!」
倒れ伏している自身の妹に対して、悲壮な思いをぶつけるが如くに叫ぶ。
ラシィのうめき声が聞こえる。先の一撃で深手を負ったが、絶命は免れたらしい。傷の痛みに震えているというよりも、意識が混濁して反射的に漏れ出ているように聞こえる。おそらく、自身で傷の治療を行える状態ではないだろう。
「ゴチャゴチャ訳分かんない事言ってんじゃないよ!」
怒りに任せたかのようにミーファが炎の矢を放つ。しかし、そう見えるだけで彼女は至極冷静だった。倒れているラシィに被害が及ばないように、あえて小火力の魔法を放った。コケ脅しの一撃だが、それでも黒鎧の女は大きく後ろに飛びのいた。
ケントは心中でガッツポーズした。ケントにも中級程度までだが回復魔法が使える。もっと敵を引き離せば、ラシィの傷を癒すことができる。
「ヒーラーさえ回復させれば、態勢を立て直せる!」
上空に響き渡るほどの声量で叫ぶ声。
「とでも思ってんのかァ!?」
その上空から、影が降り注ぐ。その影が実体を持った何かだと気付いたのは、それが激突して地面が爆散してからだった。その地点には、ラシィが倒れていた。
「あれれ、何か踏んだかな?」
軽薄そうな男の声が聞こえて来る。
「いやあ悪い悪い。ムシケラが居るの気付かなくて踏み潰しちゃったぜ」
濛々と立ち上がる土埃の噴煙の中から男が姿を現す。こちらも漆黒の鎧を纏った姿だった。その男が、頭が砕けて無くなったラシィの遺体を眺めながら、薄ら笑いを浮かべていた。
「あーあーバッチィなぁ」
男がラシィを眺めて居たのも一瞬のことで、男は足に着いたラシィの血糊の方が気になったようだった。まるで犬の糞でも塗りたくるように、地面に足を擦り付けていた。
「キッ――」
今度こそ、ミーファがブチ切れた。
「キサマァッー!」
叫んで、右手に獄炎の火球を呼び出す。手のひら大のその魔法に、鉄をも蒸発させるほどの熱量が籠められている。それが、殺意をもって投じられる。
放たれた火球が、さらに収束しながら男に襲い掛かる。凄まじい速さで疾走する炎の弾丸だったが、男は事も無げに躱してみせた。上体を僅かに翻して、飛んできた虫でも避けるように。
男の後方で、魔法が爆散して派手に土煙を巻き上げた。その爆風で乱れる髪を煩わしそうに押さえつけながら、男は面倒くさそうに呟く。
「ちょっと、何怒ってんの。暑苦しいなぁ。家族でも殺されたか?」
分かっていて口走っているのだろう。顔に満面の薄ら笑いを浮かべていた。明らかな挑発だった。
「はああああああァッ!」
さらに気合の雄たけびをあげ、熱量を増していくミーファ。先ほどと同じ火炎弾が、彼女の周りの虚空に無数に生じる。それは彼女の意志に従い、黒鎧の男へと殺到した。
しかし当たらない。当たる気配すらない。いくつもの火球が男に襲い掛かるが、男はことごとくそれを躱していった。最後の一発も余裕で避けられたと思えたが、男はわざわざ手に持った剣でそれを叩き落してみせた。鉄をも溶かす火炎が、いとも簡単に砕かれる。
「ショボすぎてウケるわ。もっとマシな魔法使えないのかよ」
さらなる男の挑発にミーファは呻くと、朗々と語りるように詠唱を始めた。
「我が名ミーファ。父なる火の神の名の下に、精霊よ集え! 炎となりて姿を成し、我が敵となるものを屠り——」
「はいはい、すごいすごい」
男の剣の先端が、ミーファの胸を抉る。彼女が血を吐くと、何かの形を取ろうとしていた炎が一瞬で霧散していった。
「そういう茶番はさ、俺らの居ないところでやってくれや」
男はミーファから剣を引き抜くと、あとは彼女のことなど眼中にないように見向きもしなかった。自らの剣が彼女の心臓を捉え、確実に生命を奪ったことへの自信の表れのように見えた。
「さて、俺の仕事はここまでだな」
男は唐突に宣言すると、その場にどっかりと座り込んだ。取り残されたケントのことなどお構いなしに、話は進んでいるようだった。
「お膳立てはしてやったんだから、ちゃんとやってくれよな」
まるで子供のように足を投げ出し、男は完全に鑑賞モードになっていた。介入してくるつもりはないらしい。
「クソッ!」
弄ばれている状態だった。嘆くしかない状況に、ケントはそれでも諦める意志を示さなかった。
(こんなところで死んでたまるか! 絶対に生き延びてやる!)
目の前の黒鎧の女の方が、やる気を漲らせていた。どうやらケントの相手は初めからこの女がする予定だったらしい。相手の都合で生かされている状況だったが、ケントにとってはチャンスでもあった。
(コイツさえ退けられれば、まだ打開策はあるかも知れない……)
具体的にどうすると言うこともできないが、それでもやるしかない。相手の油断に付け入ることができれば、なんとかなるかも知れない。まさに藁をも掴む状況だが、掴まれる藁があるなら掴むしかない。
(絶対に生き延びてやる!)
決意を漲らせると、彼は手始めにパーフェクトガードのスキルを発動させた。彼の極まった盾スキルのおかげで、五回までならどんな攻撃も完璧に防げると言うチート級のスキルだった。どんな攻撃を仕掛けて来るか分からない未知の敵と戦う時の定石となっていた。これさえあれば、どんなダメージも、どんな状態異常の攻撃ですらも防ぐことができる。いきなり即死級の攻撃を仕掛けて来る敵でさえも、これがあれば対処することができる。
本当に手を出す気は無いのか、男の方は完全にダラけ切っている。寝そべって自宅でくつろいでいるような有様だった。
この男が弓矢で狙撃していたのだろうか。それとも別に仲間がいるのだろうか。
仲間がやられたことにショックを受けてもいられない。
雑多な考えを捨てて、目の前の敵に集中する。
(やるしかない!)
決意を胸中で叫ぶと、突如として浮遊する目玉が何事か囁いた。
「オートバフ管理モード起動。常時フルブーストで展開。MP残量に注意してください」
その宣言が終わると同時に、女の体から何かが迸った。光り輝く覇気のようなものを纏った女は、一気に駆け出した。ケントとの間合いを一息に詰めた。常人の移動速度を遥かに超えたスピードだった。
その僅かな間に、女の手から握られていた刀が消失した。そして、ケントの目の前まで迫って来た時には、彼女の両手に握られていたの、は刀から黒塗りの異質な見た目の大剣へと変じていた。
(アイテムボックスのスキルか!?)
原理は良く分からないが、彼女は一瞬で武器を持ち替えることができるらしい。そのことに面食らって、ケントはその振り下ろされる一撃を思わずガードした。
どんな一撃でもガードできるはずだった。しかし女の攻撃は、ケントのパーフェクトガードのスキルを貫通してダメージを与えていた。
何故なのか。大剣の衝撃に押し流されながら、その刃先を蠢く物を観察して分かった。一言で言えば、それはチェーンソーだった。無数の小さな刃が、盾の表面を幾度となく削っている。それは一撃ではなく、無数の小規模な連続攻撃だった。
一気にパーフェクトガードを剥がされてしまった。五回までなら大丈夫だと言う油断を突かれてしまった。
(こいつら、俺の戦い方を良く知っている……!)
癖や傾向、習得しているスキルについてもきっと知っている。まるでチャンピオンに挑むチャレンジャーのように研究されつくしている。一連の狙撃の応戦や、この戦い自体もきっと何度かシミュレートされているのだろう。それを感じた。
追いかけるように女が接近し、横なぎに振りかぶって大剣を叩きつけて来る。驚異的なスピードに、ガードするしかない。盾の表面をガリガリと削り取っていく。
ケントはいわゆる、防御力極振りタイプの人間だ。防御には自信がある。しかし、そのチェーンソーの攻撃は、そんな事お構いなしにケントのHPを削り取っていった。小さな刃の連なりが、彼にダメージを蓄積していく。
しかしもう一つ、その大剣は別の物も削り取っていた。盾の耐久値である。もしかしたら、そういうスキルも付けているのかも知れない。物凄い勢いで盾の強度を奪っていった。
やはり、ケントの戦い方を良く知っている。持久戦をさせるつもりはないらしい。タンク役のケントの基本戦術は持久戦だ。中級程度までの回復魔法を有しているため、持久戦となればケントの土俵である。どんなに恐ろしい相手でも、粘り勝つこともできるかも知れない。しかし、盾を壊されれば剣を失った剣士も同然である。盾は、ケントにとってメインウェポン同然なのだ。
ケントは舌打ちして後ろに飛んだ。これ以上、盾を痛めつけられたくない。
だが女は執拗にケントを追いかけた。畳みかけるように、大剣が振り下ろされる。
(回避はそんなに得意じゃないんだけどな)
悪態を吐きながらさらに後ろへ飛ぶ。相手は驚異的なスピードを誇っていたが、何とか避けることができた。振り下ろされた大剣が地面を砕く。
間髪入れずに、また女が迫って来る。横薙ぎに振り抜かれる大剣をまた後ろに飛んで避けると、ある違和感にケントはふと気付いた。
(こいつ……)
再び迫りくる女。ただただ前進してくる。振り下ろされる大剣。そして、攻撃のタイミングも同じだった。
ケントは後ろに飛ばなかった。軽やかにサイドステップすると、大剣の一撃を横目に、女の側面に回り込んだ。そのまま身を翻すと、女の無防備な背面へと滑り込む。
「疾風連撃!」
数少ない片手剣スキルで、ケントが繰り出せるもっとも上位の攻撃スキルを発動する。一息に内に四連撃放てるスキルだ。さらに、装備しているハヤテの剣の固有スキルの効果で、二回攻撃となる。計八連撃をその女の背後に叩きつけた。
女の悲鳴が聞こえた。どうやら防御力も相当高いらしく、ほとんどダメージは通っていなかったが、女は何度も転がって、互いの間合いから離脱していった。離れすぎなほどの位置で、その女は立ち上がった。
(こいつ……ステータスは信じられない程高いが、テクニックは素人レベルだぞ)
どうしてそんな事になっているのか分からないが、これは付け入るチャンスだ。僅かだが、勝ちの目が出て来たかも知れない。
女の手から大剣が消えた。代わりに、いくつもの突起が生えた槍のようなものが現れる。まるで削岩ドリルのような見た目のそれは、おそらく盾の耐久値を削るのに特化しているのだろう。
先ほどは間合いを詰め過ぎて反撃を食らってしまったので、遠くからチクチク削るつもりらしい。それなりに考えて戦っているようだが、逆に素人の臆病さを露見してしまっているように見える。
ケントは、武器を持ち替えた。軽くて立ち回りがしやすいハヤテの剣から、対ドラゴン用に準備しておいた肉厚で鋭い竜紋のバスタードソードへと。片手で扱うには少々重いが、破格の攻撃力を誇っている。その一撃は、竜の鱗も切り裂くと言う。
女が間合いを詰めて来る。やはり、こちらの攻撃の届かない範囲から槍を振って来る。リーチ生かして次々と攻撃してくる。
しかし、間合いを保つという事は、ケントが少し引けば攻撃が届かなくなるという事だ。ケントはその距離を読みながら、ギリギリの位置で躱し続けた。
女は当たらないことに苛立ち始めているようだった。それを確認するとケントは後ろへと大きく飛んだ。焦ったように、女が追随してくる。
ケントは上手くいったことに僅かにほくそ笑んだ。それは誘いだった。その誘いに合わせて繰り出される攻撃のタイミングに合わせてケントは飛び込んだ。大きく盾を振りかぶって、突き出される槍を盾で叩いた。
突き出された槍が大きく跳ね飛ばされ、驚愕に歪む女の様が分かった。その女のがら空きになった腹に、容赦なくバスターソードの刃先を突き立てた。ある意味盾の最強スキルとも呼べるパリィ。リスクのある技だが、タイミングが合えば大きな隙を作り、防御力を無視して数倍の威力で攻撃を叩き込める。
バスターソードの肉厚な鋼が、まるで柔肌を貫くように、鎧、臓物を貫き、そして背中を貫通していく。
勝利を確信したケントだったが、驚くことに女は刺された剣を握り返してきた。ケントの経験上、これで死ななかった敵は一人も居ない。圧倒的なパワーで必死でしがみつかれて、ケントは思わず剣を手放してしまった。
しかし、虫の息であることには違いない。ケントはハヤテの剣に持ち替えて、瀕死の敵に止めを刺す。鎧の間隙を縫って、首元から胸元の辺りを刺し貫いた。刃を引き抜くと、女は奇妙な音を喉に空いた空洞から漏らすと、そのままよろめきながら後ろへと倒れ込んだ。
荒くなった息を整える。圧倒的なステータスの差だったが、なんとか退けることができた。だが、問題がすべて解決したわけではない。パーティーはほぼ全滅状態。そして、まだ強敵が一人残っている。何も切り抜けたとは言えない状況だ。
男の方へと視線を向ける。男は笑っていた。おかしそうに声を上げて。
「何がおかしいんだ!」
仲間がやられて愉快そうにしている男に軽い怒りを覚えて、ケントは口走っていた。だがそんな彼を無視して、男は手を叩きながらけたたましく笑い転げていた。
「うははは! マジウケる! ダッセェ、やられてやーんの!」
端から男はケントの事など気にもしていない様子だった。やられた仲間へ暴言を浴びせている。
「ホラホラ、どうすんだよ。諦めんのか?」
「いい加減に――」
頑なにケントの事を無視する男に怒りをぶつけようと口を開きかけた時だった。
背後で動く気配を感じてケントは振り返った。そこには、よろめきながら立ち上がる女の姿があった。
「ウソだろ……」
思わず呟くケント。女はHPも化け物じみていた。あれだけやられてもまだ死なないと言うのだろうか。
女は腹に突き立ったバスターソードに対しておもむろに手を掛けた。そして一息の内にそれを引き抜いた。大きく開いた穴から体液が飛び散る。飛沫で汚れた大地に、手にある剣を投げ捨てた。
「オートヒールで応急処置を施しました」
唐突に目玉の化け物が声を上げた。
「MPを消費して全快させますか?」
「お願い」
目玉の化け物がやったのか、すでに女の喉に開いていた空洞は閉じていた。女が自らの声で宣言すると、見る見るうちに女の傷は回復し、全身のダメージは全て消え去ってしまった。
「マジかよ……」
軽い絶望に苛まれて、ケントは呻いた。だからと言って諦める訳にもいかない。新たに決意を固めて女と対峙する。
「さあどうするよ。また同じこと繰り返すのか?」
背後で男がニヤニヤ笑いながら眺めて居るのを感じた。無論、男はケントに語り掛けているのではない。そのことに関して男は徹底していた。ケント自身も、男がまるでケントのことを人間扱いしていないという事を感じていた。道端に転がる小石のように、気に掛けることはない。
男に言われた女が、明らかに困惑していた。先ほどの一件がショックだったのか、距離を開けてどうすることもできず、何やら思い悩んでいたようだった。
「オイオイ早くしろよ、客席冷えちまうだろうがよォ」
男は煽るのを止めない。面白がるように手を叩いて、女にブーイングを飛ばす。それに対して女は、まごついているだけで、一向に動かなかった。
「Dコマンドの使用を提案」
まるで助け船を出すように、目玉の化け物が宣言する。
「お願い」
女が呟く。
「うわー。それ使わないと倒せないとか。ダッサっ」
半ば白けた様子で男が女を煽り続けていたが、構わずに女と目玉の化け物は何やらするつもりのようだった。
「戦闘中のMP消費により、フルタイムでの使用ができません。残り時間に注意してください」
「うん」
女が頷くと、何かするつもりなのか、キラリと目玉の化け物の瞳が光ったような気がした。
「Dコマンド起動。カウントダウン開始」
それが宣言すると、目に見えない圧倒的な何かが溢れ出してその場を埋め尽くしたことが分かった。どんな攻撃が来るのかと思い、ケントはその場で身構えた。
だが、それだけだった。特にこれと言った攻撃が迫って来る訳でもなく、いつの間にか取り出した刀を手に、女が静かに佇んでいるだけだった。
「一体なんなんだ?」
訝しんで呻くが、もちろん答えてくれる者はいない。
ケントの事など無視して突っ込んでくる女を迎え撃とうと身構える。そして気付く。自らに現れている変化に。
手足が重い。身体が思うように動かない。
(まさか、デバフ系の魔法か!?)
ステータス異常を確認しようと慌ててステータス画面を呼び出す。呼び出して、異常事態を目の当たりにしてさらに彼は狼狽した。
(ステータス画面が出ない!?)
いつもなら彼の意志に呼応して姿を現す画面が、まったく反応を示さない。何かされていることは明白だった。
(ステータス画面を開けなくする魔法。そんなものがあるのか?)
聞いたこともない。しかし現にこうして何かしらの力によって封じられてしまっている。
考えているうちにも女は迫って来ていた。しかし、何故か分からないが、女の動きも緩慢だった。以前の動きに比べれば、取るに足らない程遅い。
訳が分からない。だが女は容赦なくケントを攻撃してきた。
振り下ろされる刀を、ケントは盾で防ごうとする。だが、身体が思うように動かない。いつもなら軽く捌けるはずの一撃が、まるで鉛のように重くなった盾で防ぐのがやっとだった。
何をバカなことを言っているのだろう。盾は鉛どころか鉄の塊だった。それを思い出す。
翻す刃で、女が再度切り付けて来る。盾が重くて今度の一撃は盾で防げそうにない。右手に持ったハヤテ剣で何とか受け止めようとする。だが、まるで羽のように軽いと感じていたハヤテの剣さえ、今は振り回すのも一苦労する有様である。
「痛ッ!」
右手に鋭い痛みが走る。刀を弾く際に刃が掠ったようだった。僅か数ポイントのダメージに過ぎないだろうその傷が、妙なほど痛む。
「なんだこれ……なんなんだよ……」
薄く切れた右手の指から、赤い血が滴っている。ズキズキと痛む傷口に、彼の心臓が早鐘のように鳴り響いていた。
そんな彼に、まるで死神のように、漆黒の鎧を纏った女が、刀を構えてジリジリと迫って来る。かつての圧倒的なパワーで襲い掛かって来た時でさえ感じなかった恐怖を、ケントは味わっていた。
再び切りかかって来る女に、ケントは盾を捨てて後ろへ下がった。こんな重たい物を持って動き回れるとは到底思えなかった。鉄板が派手な音を響かせて地面を跳ねた。
一の太刀、二の太刀と繰り出されてくる攻撃を、大袈裟と思えるほどの動きで跳んで躱すケント。とても紙一重で躱そうなどと言う気が起きなかった。
避けきれないと思った攻撃は右手の剣で何とか受け止めた。しかしその度に、ケントの身体には小さな切り傷が増えていった。
息が上がる。着こんでいる鎧さえ重く感じる。一体どうしてしまったのか。以前はどんなに飛び跳ねても、こんなに疲れることなどなかったのに。
ケントは半ば破れかぶれに切りかかった。叫び声を上げ、剣を振り回す。だが、ことごとく当たらない。女が軽く後ろに飛ぶだけで、剣は虚しく空を切り裂き、音を響かせる。
はあはあと荒い吐息が辺りに響く。まるで泥仕合のボクシングの試合のようで、だが満身創痍なのはケントだけだった。致命傷は無いが、身体には無数の小さな裂傷があった。
「残り一分」
唐突に、目玉の化け物が声を上げる。それこそボクシングの試合のように、残り時間を告げる。だが、次に放った言葉は、試合ならば反則だった。
「銃火器の使用を提案」
はっと気付いたように、女が腰に手を当てた。そして、何かを取り出して手を突き出した。黒いその何かの塊は、パンパンと乾いた音を響かせて弾けた。終わりを告げる合図としては、呆気ないものだった。
気が付くと、ケントは地面に倒れていた。右の脇腹と右肩に激痛が走っている。刀の裂傷などと比べ物にならない。意識を保つので精一杯だった。
「終わったな」
酷く冷たい声が聞こえて来る。背後から、男の足音が近づいて来るのを感じて、ケントは振り返った。まるで処刑人のように、首も落とせそうな肉厚な鉈を肩に担いで近づいて来る。
「クソ……こんなところで死んでたまるか……ッ!」
悪態を吐きながら立ち上がろうと穴の開いた脇腹を抑えながら足腰に力を入れる。しかし、思うように体は動いてくれない。
「俺は帰るんだ……魔王を倒して……地球に……ッ!」
気合を入れて踏ん張る。何とか立ち上がったその姿に、男は高らかに笑い声を響かせた。
「帰るだァ? お前が? どこへ?」
それは、男が初めてケントへ示した反応だった。その嘲りに負けじと、ケントは声を張り上げた。
「俺には、待っている家族が、大切な人たちがいるんだ! こんなところで死ねないんだよ!」
その気勢に男が押し黙る。そう思えたの一瞬で、また男は笑い声を滲ませた。そして、それがやがて哄笑へと変じると、見下すような視線をケントに向けるのだった。
「家族? 大切な人? 帰る場所だァ? ウケるわ。マジ傑作」
ケントをバカにするように、男は続けた。
「もしかしてお前、異世界転生とかしたタイプの奴か? それとも異世界転移か? トラックに轢かれて、この世界に来ちゃった系とか?」
「なんで……」
驚愕に目を見開いて見返すケントに男は指を突き付けた。
「お、ビンゴだな。魂がどうとか、魔王を倒したら元の世界に帰れるとか言われてその気になっちゃった系のバカなんだろォ?」
さらに男の笑い声は高まっていく。
「魂? なんだそれ。そんなこと本気で信じてるのか? 頭大丈夫か? 見せてみろよ、その魂っての」
唐突に蹴り飛ばされ、ケントは地面へ転がった。
「そんなモン、在るわきゃネェーだろ! キモいんだよクソが! 家族も帰る場所も魂も、お前にはハナっから存在してねぇーんだよ! クソ以下のゴミクズの分際で、人間みたいなツラしてんじゃねぇーよ!」
男は、ケントの瞳から絶望を覗き込むと、肩に担いでいた鉈を掲げて見せた。
「哀れなピエロだな。じゃあな、ゴミカス」
告げると、男は刃を振り下ろした。ケントの意識はそこで途切れた。