序章
綺麗に生え揃った羽毛のように柔らかい毛に包まれたそれは、海のように透き通った眼でこちらを視てくる。
見る、ではなく視る。それに対抗するように当時五才だった、井上 加奈はじっと目の前にいる猫を見つめていた。
それは、加奈が初めて哺乳類と出会った瞬間だった。
どんな感触だろうか?
触ればどんな反応をするのだろうか?
どんな風に動くのだろうか?
どんな声で鳴くのだろうか?
加奈にとって初めて見るそれは、彼女の好奇心を大いにくすぐるものだったのだ。
猫はしばらくして、自分から加奈に近づいてきた。その猫は加奈の母の友人宅で飼われていて、多くの人と接してきた為か警戒心が薄い為だろう。
これは好機と、当時の井上も純粋な心のまま、猫に近づいてその毛に触れた。
――その直後、家中に井上の叫び声が木霊した。
慌てて母とその友人が様子を見に来ると、全身の毛を逆立てた猫の前でダンゴムシの様に蹲る井上の姿があったという。
「でもまあ、良かったですね、軽傷で済んで」
医者はカルテから視線を小さな少女に移して言った。少女は猫に噛まれた右手首を包帯の上から抑え、溢れそうになる涙を必死に抑えていた。
「細菌感染はしてないので炎症が酷くなることは無いと思います。まあ一応、腫れが酷くなった時はこれを服用してください」
社交辞令のように淡々と話しを進めながら医者は、「気の毒だな」と心の中で呟く。
五才、色んなものに触れ学んでいくであろう時期に、痛い目を見たものだ。この経験は彼女のこれからに、少なからず影響するだろう、と。
加奈も、いまだに痛む腕から手が離せないでいた。自分の手首に、見た事の無い傷跡を負った。その光景が何度も頭の中を駆け巡る。
井上 加奈。彼女が生まれて初めて見る動物に、初めて抱いた感情は『恐怖』だった。
*
「井上君……そこを何とか考え直してもらえんかね?」
「何度でもお断りします。何でこんなクソ忙しい時期に人事異動なんですか!」
お世辞にも広いとは言えない事務所内に、高い女性の声が響く。
「クソ忙しい時期って、繁忙期は夏だよ井上君? それに人事異動は私じゃなくて専務が決めた事だし」
弱弱しい部長の口調はいつも通りの事だったが、今日は自棄にそれらが癪に障るというか、発言の一つ一つが加奈の逆鱗に触れた。
「確かに、今は十一月です。でも、だから『ウミウサギ』はこれから来るクリスマスイベントに備えての準備もありますし、その後に来る正月イベントへの切り替え準備もあります。グッズの販売も店のレイアウトも、やる事だらけですよ! 売り上げのノルマもありますよね? その予測もこの店の現場監督も殆ど私がやっているじゃないですか!」
うがああ、と怪獣のように加奈は吠えた。
グッズショップ『ウミウサギ』とは国営のテーマパークである『オーシャンワールド』の一部であり、人気の高いショップである。
加奈はそこの主任として、その内装や商品の発注、および時期によっては商品の入れ替えを担当している。オーシャンワールドは日本でも五本の指に入るほど人気のテーマパークであり、その人気は大人子供を問わない程。加奈自身も、内定を受けた際は周りを気にせず飛び回ったくらいだ。
人気の理由としてはまずはその敷地面積にある。駐車場を入れて東京ドーム三個分の広さはあり、一日来客平均が三万人という多くの人で賑わっていても肩がぶつかることは無い。その他に、中はジェットコースターや観覧車と言った遊園地の要素だけでなく、イルカやアシカと言った海洋哺乳類やウサギやリクガメなどの陸上動物の展示や触れ合いも行っているのが人気の大きな理由である。
また、部長は夏が繁忙期と言ったがそれは間違いである。正確には夏以外にもハロウィン、クリスマス、春休み、ゴールデンウィーク、と、年に数度、短期であれ長期であれ繁忙期はやってくる。そして今がまさにその時期だ。
「なのに!」
力強く部長の机を叩いて、涙目で顔を上げると震える声で加奈は叫んだ。
「何で私が……飼育担当に行かないといけないんですか!」
先程の説明にさらに付け足すと、年に一度時期としては下半期にオーシャンワールド内で人事異動がある。
加奈が務めるグッズを売る『販売』
展示動物の飼育管理を担当する『飼育』
パンフレットやホームページで宣伝等を担当する『広報』
予約担当や年間の来客数をまとめる『受付』
施設の点検や清掃を行う『清掃・整備』
どれも、おいそれと出来るものではない。だからこそ、それぞれの部署同士で亀裂が生まれやすい。私の部署の方が忙しいと言われる事も多々ある。加奈自身も他の部署の人達よりも仕事を熟してきた自信がある。オーシャンワールドの取締役は、だからこそ人事異動をし、部署同士他の部署の忙しさを知る事で思いやれる環境を作ろうと説案したのがこの人事異動だ。
ここまでは加奈も理解できた。
でも、何故今なのだ。何故、私なのだ。異動の目的は理解していても、当事者になれば話は変わってくる。
「なんで主任である私なんですか!」
「私に言われても困るよぉ……上が」
「上が! ああもう、口を開けば上が上が上が上が……! 部長の意見は無いんですか! 困るでしょう、私がこの現場を離れたら!」
「困る! 困るよ? 井上さんのお陰で切り抜けられた場面も私はしっかりと覚えている。けど本当にどうしようもない事なんだ」
「……でも、何でよりにもよって飼育なんですか? 部長も知っているでしょう? 私は……動物が嫌いなんですよ」
「それこそ仕方がないと理解してくれ。今人が抜けて人員が足りていないのは全部署の中でも飼育がぶっちぎりなんだから」
「……じゃあ、何で主任である私が候補に挙がったのかを教えてください」
「詳しくは話せないし……言い辛いんだけど、井上さん」
「なんですか?」
「周りから……やりにくいって……」
巨大な鉄球が後頭部にぶつかったかのような錯覚を覚えた。一瞬、部長の言葉の意味が解らなかったほどである。
やりにくい? やりにくい?
脳内で何度も復唱してしまう。加奈は人当たりが強い。それは何度も他者に言われてきたし、加奈自身もそれは自覚していた。だがそれは、仕事の中に留めていたし部下も上司もそれは自分の『良さ』として認めてくれているものだと持っていた。そう思っていた。だからこそ、今までの自分そのものを全否定されたような気がし、全身から力が抜け落ちた。
「そんなぁ……」
「そういう事だから……辛いと思うけど、こことは違う経験を積むチャンスだと受け止めてくれ。周りの評価がどうであれ、ウミウサギでの功績は本物なんだからさ。またここに戻ってくる時、君の目線は今とは違うものになっている筈だ。それを生かせる日を私は楽しみにしているよ」
微笑んで言う部長の言葉は、放心状態の加奈には届いていなかった。
何はともあれ、こうして加奈の人事異動は有無を言わせず強制的に決定したのだった。