九、戦地へ
| 昭和二〇年に入ると、太平洋戦争は明らかな劣勢となっていた。しかし、正しい戦況は隠蔽され、大本営からは異なる報道しか、なされなかった。以前、英国租界で正確な情報を得ていた三五はこれらをまったく信用していなかったが、部隊内でそれを語ることはなかった。ただ、関東軍の多くの兵士達が、南方の戦況悪化を受けて南方への従軍を強いられていたし、抗日戦争も悪化しつつある情報を漏れ聞いていたので、もしかしたら他の隊員達もうすうす感じていたのかもしれない。
春を過ぎるとロシアが参戦して満州へ進行してくるとの警戒感が強まっていた。そして三五は、その国境防衛を担う部隊に配置されていた。
丸山修二小隊長は二二歳で、帝大から学徒動員された実戦経験の少ない少尉だった。隊員達は、まだ十歳代の者や乙種合格の三十歳前後の者で占めていたが、上等兵となった三五は、元来の面倒見の良さから小隊内でも人望を集めていた。丸山小隊長も赴任してまもなくすると、年上で知性の高い三五に絶大なる信頼を寄せるようになった。そして、三五が同じ九州男児と知ってからは、三五のことを兄のように思い、丸山はこっそりと三五にだけは本心を打ち明けるようになっていた。
「姫山上等兵、きみはこの戦争をどう思う?」
最初は、曖昧な答えをしていた三五だったが、丸山が家族思いのやさしい性格で、三五には本音で相談していることが分かってからは、三五も本心を語るようになっていた。
「丸山少尉殿、私は当初から無理があることは分かっていました。私にはオランダ、イギリス、ロシア、そして中国や朝鮮の友人が数多くいました。私は彼らから、多くのことを学びました。彼らはいつも正確な情報を持っており、民主的で科学技術、知識も優れていました。ですから、彼らと戦うなど無謀すぎると私は思っていました。・・・そして出兵する前に彼らとは、もう二度と会えない、つまり私は生きては帰れないだろうという最後の別れをしてきたのです・・・」
「君は非国民と笑うかもしれないが、僕は死にたくないよ。もっと勉強がしたいし、母を悲しませたくない。もちろん、部下達にも無駄死にはさせたくないんだ」
「少尉殿、そう思うのは当たり前のことです。恥じることはありません。正直言えば、私だって・・・」
ロシア軍が攻めてきたのは、くしくも長崎に原子爆弾が落とされた八月九日であった。ロシア軍の圧倒的火力に対し、日本軍はみるみる屍の山を築くことになった。昨日まで隣で語り、笑い合っていた仲間が、傍らで血だらけとなり、中にはバラバラの肉片となって影も形もない者さえいた。身体は無事でも精神に異常を来す少年兵もいて、三五は戦闘に加え、それらの隊員の世話など、少しでも犠牲者を出さないように奔走していた。そしてそれは、終戦の八月一五日が過ぎても続いた。最前線には玉音放送はもちろん、終戦の連絡も届かなかったのである。多くの将兵を失い、弾薬、兵糧が底をついて、遂に持ちこたえられなくなった連隊本部は、小隊毎に離散して撤退するように命令を出した。丸山小隊も十名に満たない状態になっており、自力で歩けない者は泣き泣き置き去りにして、退却するしかなかった。残った七名の隊員を、原野の徘徊に慣れた三五が先導し、敵から隠れるようにして南下した。その行軍では、ロシア兵だけでなく、進出してきた共産党軍の目からも逃れる必要があった。途中、たくさんの日本兵の屍を踏み越えた。内地から入植した日本村では、凌辱され虐殺された日本女性や、幼い子供達の無残な屍に目を覆いながら抜けていった。
退却行軍は夜間を中心に行い、昼間は見張りの一名を残して、隠れて三、四時間の仮眠をとった。食料は底をついていたが、三五の山野草の知識が役立ち、僅かではあるが空腹をしのいだ。その日も林に隠れ、当番の少年兵を見張りにおいて、他の者は仮眠を取ることにした。連日の行軍で疲れはピークに達しており、見張りの少年兵も知らず知らずのうちに深い眠りに落ちていた。聞き慣れぬ声に顔を上げると、十数名のロシア兵が銃口を向けて、三五達を取り囲んでいた。
「みんな、銃を置くんだ」
三五はそう言ってゆっくり立ち上がり、ロシア語で告げた。
「撃つな。降伏する」
すると一人のロシア兵が言った。
「知らないのか? 八月十五日に日本が全面降伏したのを・・・」
それは八月二二日のことだった。三五と丸山は愕然とし、一五日以降に死んでいった仲間達の顔を思い浮かべていた。しかし、むしろ三五達は幸運だったのかもしれない。敗戦、全面降伏の報を受けて、部隊によっては、突撃・玉砕を敢行したり、集団自決を強いた隊もあったのだ。