六、北九州市大空襲
「七〇年前の年八月八日に、ここで大空襲があったんだね」
夏都は思わずつぶやいた。慰霊祭の前日にも関わらず、八幡東区の小伊藤山公園には、何人もの黒い喪服姿の人々が行き交っていた。慰霊塔の前にもそこそこに人がおり、その中の小さい子供を連れた年配の女性が話しかけていた。
「空襲の火と煙でたくさんの人が死んだんよ。戦争は絶対にしちゃあいけんのんよ!」
アルクは慰霊塔に向かい、静かにつぶやいた。
「グランパの代わりに私がお参りに来ました。グランパもずいぶん長い間、傷つき、そして旅立ちました。どうかグランパを許してやってください」
ひたすらに祈るアルクを見ていると、いつの間にか夏都の目からも涙がこぼれていた。
振り返ったアルクは晴れやかな笑顔で
「夏都、ありがとう!」と言った。
「そんな・・・、こっちこそ・・・」
夏都はさらに涙をこぼした。ほんの小さな親切のつもりだった。それが、アルクのおじいさんの悲しみやとアルクの苦悩を垣間見たような気がして・・・なぜか涙が止まらなくなっていた。引っ込み思案で、最近はそんなに大泣きすることもなかった夏都だったが、何だかせつなくて・・・、ほんの少しでも役に立てたことがうれしくて・・・。
小さい頃から幾度となく広島市を訪れ、今も市内の短大に通っている夏都ではあるが、実は原爆の平和祈念式典には一度も参加したことがなかった。もちろん平和公園や原爆資料館へは何度も足を運んでいるし、このような悲惨な事態を招く戦争は絶対にしてはいけないと思ってはいるが、これまでもどちらかというと他人事のように過ごしてきた感があった。それは、夏都の誕生日がたまたま八月九日の長崎原爆の日と重なっており、自分自身の誕生祝いに若干のうとましさを感じてきたからなのかもしれない。小さい頃は幼稚園や小学校でお誕生会があったが、夏休みの八月は当然なかったし、家でもそんな日に盛大なお誕生会をしにくかったのか、いつも家族だけで小さなお祝いをするだけだった。そのことが影響してか、夏都の中には長崎原爆の日を違う意味で憂鬱に感じるところがあった。そして逆に、そんなふうに考える自分は最低だと責めるもう一人の自分もいて、複雑な思いで生きてきたのである。それが今日、一人の若者と出会い、あまりに些細なことで悩んでいたんじゃないかと気付かされ、夏都は心の氷が溶けていくような気がしたのである。
アルクは、泣いている夏都の頭をやさしくなでてあげた。
アルクは、迷っていた。八月九日までは、まだ一日半ある。このまま長崎に入ってもよいが、その前にできれば祖父が墜落したところに行ってみたいと思った。しかし小さい頃、アルクがハルク ハイネンから聞いたその場所は実にあいまいで、北九州市の南、筑豊のどこかだろうとのことだった。アルクは、をふっとその時のことを思い出していた。
「グランパだけ助かったの?」
「そうだよ。森に落ちたと思って、気がついたら、グランパは木の枝に引っかかっていて、下ではB29の残骸が炎に包まれていたよ。私はどこにもたいした怪我もなくて、すぐに木から降りて仲間をを探したけど、助かったのはグランパだけだったんだ。しばらくの間、呆然としていたんだけど・・・(敵に見つからないように逃げなければ)と思って、無我夢中でその場から逃げだしたんだ・・・逃げながら(明日は八幡に原爆が落ちる。だから、できるだけ南に遠ざからなければ・・)と考えていたよ。実際に落ちたのは長崎だったけどね。そして(それによって日本は間もなく降伏するだろう)と、(それまでは、絶対に生き延びようと・・・)と。それから、おかしな話だけど(サンゴの実家は近いのかなあ? サンゴの家族だけは無事でいてほしいなあ・・・)なんてことも考えて、(こんな時に・・・?)と急に可笑しくなって大笑いしたことも覚えているなあ」
「それから、どうしたの?」
「森を抜けて畑と小さな家があるところに出たんだ。森の中には小さな神社もあって・・・日本兵に見つかれば何をされるか分からないから、取りあえず、その神社の辺りに隠れて、その家の様子をうかがうことにしたんだ。畑では、若い母親と四、五歳の女の子が作業をしていて、水をまいたり、雑草を取ったり、食べる分の野菜を収穫したりしていたよ。それで、夜になるとグランパもその畑からこっそりいただいて何とかしのいだんだ。その親子は毎日、神社で『出征したお父さんが無事に帰ってきますように』って、お祈りしていたなあ。グランパは、サンゴに日本語を習っていたから、二人の様子が分かったんだよ。一週間ほど、過ぎた頃だったか、二人が泣きながらお参りしていて『日本が負けた、戦争が終わった、お父さんも帰ってくる』って、言っているのを聞いて、(あー、これで自分も生きて帰られる)と喜んだもんだ。(もう少ししたら連合軍が来る)って・・・。それで気が抜けて、つい寝こんでしまって、気がつくと目の前にその女の子がいたんだ」
「えっ、見つかっちゃったの? 大丈夫だったの?」
「お互いに驚いたさ。その子は、今にも泣き出しそうな顔をしていたよ。でもグランパが日本語で『大丈夫!おじさんは良い人。怖くないよ』って言うと、『何もしない?』と聞いたんだ。それで『うん、何もしないよ』と答えると、とてもすてきな笑顔で笑ったんだよ。グランパは(あー、天使だ!)と思ったよ。でも、その後(すぐに母親や村人が飛んでくるに違いない)と思って身構えていたら、その子がとうもろこしと芋を持ってきてくれてね、そして他の人には黙っていてくれたんだ。本当に優しい子だったなあ。そうしてもう一週間待ってから、母親や村人と会って、連合軍に合流したんだよ」
アルクは懐かしそうに夏都に語った。
「私が、『その時にグランパが死ななかったから、僕がここにいるんだね』って言うと、グランパは『そうだね・・・今頃、あの子はどうしているのかなあ・・・』って。そして『おじいちゃんだけ生き残ってしまってさみしいけど、アルがいるからグランパは幸せだよ』って言ってくれたんだ。あの時のグランパ、うれしそうに笑ってくれたけど、心の中ではきっと泣いていたんじゃないかなあ?」
アルクは祖父の言葉を一つ一つ思い出すように、丁寧に語ってくれた。そして
「できればその場所にも行きたんだけど・・・」と。
「落ちた場所? その子とあった場所?・・・具体的な地名が分からないと難しいと思うなあ」
「そうだね・・・」
夏都の尤もな答えにアルクは残念そうに呟いていた。
「でも、行ってみたいんでしょ・・・あのね、小倉駅から筑豊を縦断して大分県日田市に抜ける日田英彦山線っていう鉄道があるの。それに乗ってみない。窓越しに沿線が見えると思うの。私も小さい頃は何度も乗ったんだけど・・・。のんびりしてて、私、好きなんだ。もちろん落ちた場所とかは分からないかもしれないけど、その辺りの雰囲気ぐらいは感じられるかもしれないよ」
そして夏都は、ついでに日田の祖母の家に泊まらないか?とも付け加えた。アルクがこのまま小倉駅から長崎に向かえば、あと一時間でお別れとなってしまうからだ。夏都は(もっとアルと話がしたい!)と思っていた。