四、ハルク ハイネンと林陽鵬、そして李愛琳
| その若者は、群衆の中から三五を強引に引っ張り出し、ズンズンと英国租界のスタンドバーへと連れていった。その場にいた英国人達は、突然入ってきた東洋人をいぶかしげに横目で見ていたが、金髪の若者が演説をすると、拍手と共に並々と注がれたビールが運ばれてきた。そして、若者のかけ声で乾杯となった。
訳の分からない三五は(えーい、こうなっては飲むしかないか)と覚悟を決めた。幾度目かの乾杯が過ぎた頃、三五と同年代の小綺麗な中国人男性が入ってきて若者と話をし始めた。三五は歓迎されていることは分かっていたが、話している内容がさっぱり分からないため、そろそろどうにかして、この場から逃げ出したいと考えていた。
するとさっきの中国人が、流暢な日本語で、
「お話は伺いました。私は、林陽鵬と言います。私からもお礼を言わせてください。同胞を救っていただき、本当にありがとうございました。すみませんが、あなたのお名前を教えていただけませんか?」
「私は、営林署職員で姫山三五です。これはいったい、どうなっているんですか?」
「ハルクさんが、あなたのことを、子供とか弱い娘を日本兵から助けた英雄だと言っているんですよ」
そう言って、彼はあの金髪の若者を指さした。
(あー、脳天がぐらぐらしちょる!)
目を覚ました三五は、自分が見慣れぬ洋館のソファで寝ていたことに気がついた。となりには昨日の金髪の若者がいびきをかいて寝ていた。
「目が覚めましたか?」
小綺麗な服装の林陽鵬が、珈琲のかぐわしい香りを運びながら、声をかけてきた。
「ここは、どこですか?」
「ハルク ハイネンさんのお屋敷ですよ・・・借家ですけどね」
「ハルク ハイネン・・・」
三五はようやく昨日の出来事を思い出していた。
陽鵬の話によると、ハルクは二二歳(三五と同い年)のオランダ人で半年前からここを借りて暮らし始めたとのこと、自分とは大学で知り合い、同級のよしみで、何かある度に通訳として、遊びや飲食等に付き合わされているとのこと、でもとても良い人なので自分も話をしていて楽しいのだと言い、さらに『これまで日本人は大嫌いだったが、三五とは絶対に友達になるんだ!』とスタンドバーで宣言していましたよと教えてくれた。
「そうなのか・・・」
(そう言えば、昨日の夜は陽鵬が通訳をしてくれて、ハルクといろんな話をしたんだっけ・・・?)
(金髪の外人の友達・・・か?)
思いがけない展開になったが、三五も悪い気はしなかった。
陽鵬は、珈琲に続き、カットした黒パンを運んできた。
「ハルク、もうお昼になるよ」
陽鵬は英語でハルクを起こした。
「オー、サンゴ、グッモーニング」
寝ぼけ眼ながら人懐っこい笑顔の若者がそこにいた。
覚醒するにつれ、三五は心配になっていた。
(あれから、娘と子供はどうなっただろうか? それに営林署への帰庁報告もまだだった!)
気持ちは焦ったが、すでにお昼近くである。
(報告はきっと部下達がしてくれているに違いない。今日はちょうど休日だし、まあ仕方がないか?)と二日酔いの頭の中で、言い聞かせた。
遅い朝食が済んだ頃、玄関のカウベルが来訪者を告げた。そして、陽鵬が案内してきたのは、部下の陳副主任であった。
「姫山監督、大丈夫でしたか?」
「陳さん、申し訳ない。成り行きでこんなことになってしまって・・・」
陳はにこやかに笑ってこう告げた。
「姫山監督、署の方は大丈夫です。署長さんにも説明して、後のことは任せろと言ってもらいました。軍が何か言ってきたら、署長さんが対応するから、二、三日はゆっくり休んでもいいぞとも。それから、みんなからも。『監督はやっぱり最高だ!』と伝えるようにとのことでしたよ・・・・それと・・・この方を案内してきました」
と言って、陳副主任が横に移動すると、その影には、中国のお姫様かと思わせるような綺麗な正装をした若い女性が立っていた。
「えっ、もしかして、昨日の娘・・・?」
彼女は凜とした綺麗な声で、私とハルクにお礼を述べた。陽鵬は通訳をしながら、途中で質問もはさみ、彼女は李愛琳という清朝の元高官の娘であること、無我夢中で子供の盾になっていたこと、三五とハルクは命の恩人であり心から感謝していること、そして一八歳であることなどを教えてくれた。昨日の余裕のない状況だったので、三五は十四、五歳のまだまだ幼い娘だと思い込んでいた。しかし、今、目の前にいるのは、見たこともないようなあでやかな出で立ちの綺麗な女性であった。三五は一瞬で心を引かれた。その様子をニヤニヤと見ていたハルクは、後日、綺麗な女性を見る度に
「あれから、サンゴがあんなに鼻の下の伸ばしたのは見たことがないなあ」
と言って、よくからかった。
出会ってから一年が過ぎようとする頃には、ハルクは片言ながら日本語と中国語を、三五は英語を話すようになっていた。そして、三五は、英国租界のスタンドバーで常連客のように扱われ、多くの英国人、仏国人、和蘭人とも話をするようになった。愛琳もアイドル的な存在となり、毎回、三五以上の歓待を受けた。
元々、日本の軍国主義に違和感を持っていた三五は、彼らと交流することでますます特異な存在となっていったのかもしれない。事実、いつの間にか日本人の同僚や先輩達からは一目置かれながらも煙たがられるようになり、逆に日本人以外の同僚や部下達からは大いに慕われる存在となっていった。同じ九州出身の署長だけは、あの一件以降、九州男児らしい真っ直ぐな生き方をする若者だと三五のことを息子のように思い始めていた。
乗馬が得意だったハルクは、よく三五と共に山野を駆け回って楽しんだ。時には、陽鵬も加わり三兄弟のように遊んだ。ハルクと陽鵬は、春には「花見だ」、夏には「川釣りだ」、秋には「キノコ狩りだ」などと言って三五を連れ出した。そして、いつの間にか愛琳も誘い出すようになっていた。十一月に入ると、満州の原野には雪が舞うようになる。四人は今年最後と、晩秋の山野を駆け巡り、いつものように営林小屋を宿にして、遅くまで語り合った。
「三五さん、やっぱり欧米と戦争になるのかなあ?」陽鵬が憂鬱そうにつぶやいた。
「そうだな、満州はこれからどうなっていくんだろう?」
「サンゴは将来、どうするんだ?」とハルク。
「分からないな。俺はこうして山野を駆け巡り、木の伐採や植林を続けていきたいんだけどなあ・・・。ハルクこそ、どうするつもりなんだ? まもなくオランダ領事館は閉鎖されるんだろう」
「オランダには帰れないし・・・俺は、アメリカにでも行くかなあ? ヨーロッパもアジアも戦争だらけだからなあ。俺は戦争なんかより、笑って暮らす方が好きだからな」
「遊んで暮らす!だろう」
三五が笑いながら言うと、みんなも「違いない」と大笑いになった。
「愛琳は、どうするの?」
三五が聞くと、愛琳はだまって下を向いた。
「サンゴは、にぶいなあ。二三歳と一九歳、いいカップルじゃないか。結婚式は急いだ方がいいぞ!」
ハルクは、笑いながら大声で言った。陽鵬も
「中国式がいいよ。三五さんの衣装はまかせといてよ」と笑った。
愛琳も頬を染めながら、うれしそうに笑っていた。
陽鵬は、この三人が大好きだった。愛琳のことは気になっていたが、三五と愛琳が幸せになってくれればそれでよかった。それに、育ててくれた日本人養父のことも気がかりだったし、(どう恩返しをすればいいだろうか?)と、いつも考えていた。
雪はまだ降っていなかったが、日が沈んで三時間も経つと、少しずつ冷え込みが強くなってきた。ハルクと陽鵬は「ちょっと馬の様子を見てくるよ」と言って小屋を出ていった。そして、すぐにハルクと陽鵬から
「サンゴー、今日は愛琳と二人きりにしてやるよ!」
「三五さん、がんばって!」
と声があり、二人は蹄の音を響かせて遠ざかっていった。
馬納屋の方には、パイだけが残され、愛琳の馬も消えていた。
「やられたなあ・・・」
三五は困りながらも、友人の気遣いをうれしく感じていた。そして、傍らに寄り添う愛琳のやわらかい身体とぬくもりが、三五の心臓を急激に高めていた。
「愛琳・・・」
三五が愛琳を抱きしめると、愛琳はうれしそうに目を潤ませ、三五の胸に顔を埋ずめた。そうして、熱く甘い夜が流れていった。