一七、三五の覚悟
| 昭和二四年九月、三五はシベリア抑留から解放され、帰国することとなった。
シベリアでの抑留生活は過酷を極め、収容された半数近くが帰らぬ人となった。三五は、多少なりとロシア語が話せたこと、林業や馬の扱いに慣れていたことが幸いした。逆にそれをねたむ者達から嫌がらせを受け、身の危険を感じることも度々あった。生き残るためには、死肉まで食らうような、正に生きるか死ぬかの状態だったのである。中でも戦争末期の体験が、夢の中で蘇ってきては三五を苦しめた。冬の寒さで睡眠が浅くなると、敵軍との死闘、中国人村での食料の略奪、日本兵が行った村人への強姦や虐殺、それほど階級が高くない三五にはそれを止めることができず、ただ見ているだけの自分と、それを痛切に攻めるもう一人の自分が、悪夢として現れ、三五の頭の中を覆い尽くすのである。いつの間にか、自分自身さえ信じられなくなり、弱きを助け、強きをくじき、誰かのために正しく生きようと努めてきた姫山三五はいなくなっていた。ただ(丸山修二の遺品を絶対に家族に届けるんだ)という決意だけが三五から死を遠ざけていた。
ナホトカを出航した船は、舞鶴港に着いた。そこでは婦人会の方々から大歓迎を受けたが、三五の中に喜びはなかった。三五は、持ち物検査、入浴、消毒、衣類の交換を行って二千円の支給を受けると、直ちに丸山修二の実家がある長崎市に向かった。そして、母親のヨシ江と修二の甥の一男と姪のトシ子に遺髪と遺品を届けた。
「すみませんでした。丸山少尉殿を守れんと、自分だけ生きて帰ってきました。本当に申し訳ありませんでした」
三五は、丸山の遺髪と遺品を渡し、土下座をして謝った。三五は「なぜ連れて帰ってくれなかったのか!」と、ヨシ江に罵倒されるものと思っていた。そして(自分にはもう生きる資格はない。これで死んだ者達のところに逝ける・・・)と思っていた。ところが、ヨシ江は遺髪を抱きしめ、そして言った。
「どこでどげんなったんかも分からんで諦めちょった修二が、まさか帰ってきてくれるとは思いもしましぇんでした。修二を連れて帰ってくれて、本当にありがとうございました・・・姫山さんは修二の分まで長生きして、これからも時々、修二に会いに来てやってくださいね」
三五はヨシ江の思いがけない言葉に動揺した。そして嗚咽しながら言った。
「わ、私のような者が生きていて、いいのでしょうか? 私のような者が・・・」
(はっ!)ヨシ江は、このまま三五を帰すわけにいかないと思った。遺品を配り終えた後、三五が自らの命を絶つのではと危惧したからだ。ヨシ江は、中学生の一男にお風呂を湧かさせ、自分は小学生高学年のトシ子と共に食事の用意をした。蒸気機関車の煤で汚れていた身体を洗い流した三五に、ヨシ江は、修二が来ていたという浴衣を着せてくれた。そして、その時、初めてヨシ江は、三五の背中に顔を埋め、大粒の涙を流した。
着替えを終え食卓に着いた三五に、一男とトシ子は、修二叔父さんの話を聞かせるようにとせがんだ。結局、その夜は丸山家に泊まることになり、丸山少尉との思い出を話して聞かせた。
「少尉殿は、私達にいろんな話をしてくれました。大学でのこと、故郷長崎のこと、家族のこと・・・、特にお母様のことは・・・『自分は必ず生きて帰って親孝行をするんだ。お前達もきっとそうしろ!』といつも言っていました。そうそう、君達のことも・・・『自分にはかわいい甥と姪がいると。戦死した兄に代わり、自分が親代わりになるんだと・・・』、少尉殿は本当に家族思いで、部下思いで、やさしい人でした。私達もそんな少尉殿が、大好きでした」
翌日、三五は何度も礼を言って長崎を後にした。その際、ヨシ江達から、来年のお盆にも必ずお参りにくるように約束させられていた。その後、さらに戦死した他の戦友達の家を訪ね、報告と謝罪を繰り返した。そうして帰国してから三週間後、ようやく故郷の引治村へと向かった。
故郷に帰ると家族はたいへん喜んだが、村人の対応はこれまでとは違っていた。シベリアからの帰国者は、収容所で受けた共産党のプロパガンダにより「赤」、「共産主義のスパイ」と疑われ、警察に尋問を受けたり、排他的な目で見られたりした。そこで三五は、家族にいやな思いをさせないようにと、再び郷里を離れることにしたのだった。
郷里以外で土地勘があり、知人が多いのは高校の三年間を過ごした日田市だった。三五は先ず尊敬していた恩師を訪ねた。
三五をかわいがっていた恩師は生還をたいへん喜んだ。そして、すぐに就職先を世話し、その後、早く嫁も世話をしようとした。三五にとって就職は当然のことだったが、結婚は、当分する気にはなれなかった。三五の心の中にはまだ愛琳がいたからである。
ある日、その恩師から頼まれた。
「お前の後輩で戦死した教え子ん墓参りがしたかけん、お前、組合ん車を借りちきて、わしを乗せていってくれんか?」
「分かりました。先生の名前を出せば、たぶん大丈夫だと思います」
日田から小石原を抜けて英彦山方面に一時間半ほど走ったであろうか、山間の集落に車を駐め、五分ほど歩いて一軒の小さな農家についた。そこには畑で作業をする若い小柄な女性と小学三、四年くらいの女の子がいた。
「あっ、先生、今年もわざわざ、ありがとうございます」
農作業の手を止め、大野ユキは言った。
「すぐにお茶の用意をしますけん」
そして、家の中に駆けていき、女の子も後を追った。
「姫山君、君の二年後輩じゃった大野君は沖縄戦で死んでなあ・・・将来を託せるち思よった教え子がたくさん死んでしもうた・・・じゃから、君はこれからも生きにゃあいかんぞ。それも誰かを幸せにしてやりながらな」
後から分かったことだが、これは恩師の仕組んだお見合いであった。もちろん、三五にもユキにも内緒でのことだったが、お参りをし、話をするうちに、お互いにやさしく思いやりがあることはすぐに分かった。父の顔をほとんど覚えていない子供の敦子は、父親が帰ってきたみたいに思ったのか、はしゃいでいた。それを見て、三五は(愛琳との間に、もし子供ができちょったら、こんな感じなんかなあ)と思っていた。
「姫山君、どうじゃったかね?ユキさんは・・・美人じゃし、やさしいし、敦子ちゃんも可愛かったろう!・・・わしゃあ彼女達の苦労する姿を見とうないんじゃ。どうじゃ、できれば君が二人を幸せにしてやっちくれんね? 君じゃったら、わしも安心なんじゃがなあ・・・」




