進められないふたり
「いらっしゃいま――ユアン? また来たの」
お客さんで混雑し始めた夕刻。店内に入ってきた姿を見て、思わず眉根が寄ってしまった。
「なんだよ、得意客にその態度は。なってないな」
それを目敏く見とがめたユアンは、空いている席にどかりと偉そうに座って長い足を組む。
大きなお屋敷に住んでいる彼はいつも美味しいものを食べているだろうに、この食堂の庶民的な味をよっぽど気に入っているらしい。勉強や仕事の合間を縫ってはちょくちょく現れる。
それでも今日はお昼時にもやって来たのに。一日に二回目の訪問は初めてだった。
「注文は?」
「いや、いい。家で済ませた」
「え? じゃあ何しに来たの?」
当然の疑問をぶつける私に、何がおかしいのか、ユアンはくすくすと一人で笑い始める。
「たまたま。偶然にもこの辺りを通りかかって。どうせなからエマの辛気臭い顔でも見に来ようと思ってな」
「はあ? なんなの、その理由は」
「まあまあ、エマ。ユアン、夕食用の新作メニュー、味見していかないか」
厨房から顔を覗かせてこの場をとりなしたのは、この食堂のご主人、ベンさんだ。
「新作ですか? いただきます、ありがとうございます」
「じゃあちょっと待っててくれ。今準備するから」
ユアンはすっと立ち上がり、綺麗なお礼をした。ベンさんはそんな彼に、にっこりと頷く。
周りの人々からのユアンへの評価は、憎らしいことに高い。勉学には熱心に取り組んでいるらしいし、最近は家の跡取りとしての自覚が高まったのか、その振る舞いは前以上に紳士的だともっぱらの評判なのだ。
私には喧嘩を売っているとしか思えないような、わけのわからない態度のくせに。
ユアンの家は代々、数々の高官を輩出してきた名家だ。その跡取り息子とあっては、普通なら私のような庶民の娘が気軽に話せるような相手ではないのだけれど、数年前のある日、下町の子どもの遊び場にユアンが現れたのだ。家庭教師の授業を抜け出して遊びに来たのだという。最初こそ驚いたものの、細かいことは気にしない町の子供達の陽気で手荒い扱いに、彼はあっと言う間になじんでいった。
当時誰よりも足が速かった私に、負けず嫌いのユアンはかけっこの勝負を申し込んできた。結果は当然私の圧勝。そして、彼の私に対する風当たりはその時から急に強くなった気がする。他の友人には普通なのに、私の前だと偉そうだったり、嫌味を言ったり理不尽な喧嘩をしかけてきたり。
初めはそんな態度にいちいち本気で対抗していたけれど、年数が経つうちにさらっと受け流す術を身に付けた。根は良い人だと分かっているし。かけっこのときにゴール間際で転んだ私を、勝利を放棄して助けてくれたのは今でも心に残る出来事だ。
無邪気に遊ぶ年代を過ぎて一緒に駆け回ることもなくなった今は、私の勤め先に彼がお客さんとしてくることで交流が続いている。
仕事終わりの一杯を求めたおじさんたちでごった返す夕方は、昼食の時間よりも混み合う。
料理や酒を運んだり注文を取ったりと忙しい中、なぜかユアンが周囲をうろうろして、いちいち道をふさぐ。怪訝に思い、両手にお皿を持ったまま問いかけた。
「何?」
「何でもない」
彼は咳払いをして首を振る。
「何でもないなら、おとなしく座って待っててくれる? って、何、その花束」
「今頃気付いたのかっ」
大袈裟にのけ反って驚くユアンが抱えているのは、大輪の真っ赤な薔薇の花束だった。深い色合いのそれはとても綺麗で、ついでに改めて彼をよく見てみる。いつも以上に仕立ての良さそうな服を着て、髪の毛もこれまたいつも以上にに整えられていることに気が付いた。
「それにその恰好……これからパーティでも行くの?」
「ま、まあ、そんなところだ。というか、本当に気付くのが遅いな!」
大きくため息を吐くユアンをまじまじと見つめる。すらりとした体つき、綺麗な顔立ち。これで態度さえ大きくなければなあ。私の視線に気づいたのか、彼は咳払いをし、辺りのイスにぶつかりながら席に戻っていった。なんだか、とても様子がおかしい。
夜も暮れ、混み具合も一息ついた。
テーブルを片づけている途中、背後に感じた気配に振り向くと、ユアンが花束を抱えたまま立っていて驚いた。
「うわ! まだいたの」
随分前に料理を食べ終えて、厨房のベンさんにごちそうさまでした、と声を掛けていたから、もう帰ったものと思っていたのに。
「いちゃ悪いか。だから、客に対する態度がなってない」
「何か用なの?」
「――別に。いや、話が、あるんだ」
改まって話なんて珍しい。首をかしげて話の先を促すと、ユアンは薔薇の花びらをいじり、視線を彷徨わせながら言った。
「実はだな。いい話があるんだ。俺の……俺の屋敷でだな、メイドとして働かないか」
「え?」
私は自分の耳を疑った。
「だから! 俺の家に、来ないか。め、召使いとして、雇ってやるよ。貧乏人にとってはこの上ない話だろう」
何を言われているのか理解できない。ぼう然とする私と、なぜか顔を強張らせているユアン。しばらく見つめ合った後、彼は慌てたように再び話始める。
「し、心配するな。給金ははずむから」
「あ、ちょっとどいて!」
入り口の扉にお客さんが入ってきたのが目に入り、彼を押しのけた。
「おい、俺の話を聞いてるのか」
「無理無理。今、忙しいの」
よろめく彼を見ないまま言い捨て、私はお客さんの元に向かった。注文を聞き終わって厨房へ向かおうとすると、またすぐ傍にユアンが立っていて、思わずぶつかりそうになる。
「おいエマ、お前はいつもがさつで、人の話を」
「あーっ、うるさいし、うざったい! 今忙しいんだから黙っててよ! 食べ終わったなら帰ればいいでしょ。本当に邪魔! 言っておくけど、ユアンの家で働くなんて絶対、お断り。私はこの食堂が好きなの。召使いなんて冗談じゃない。何が悲しくて毎日ユアンの偉そうな顔を見なきゃいけないのよ!」
「な、なんだと」
ユアンは、真っ赤な顔でそれきり黙りこんだ。
私は怒っていたし、それ以上に戸惑っていた。何、召使いって。貧乏人って。今まで私個人に対する難癖や小言は散々言ってきた彼だけど、家柄をかさにきて見下すような言動は今まで一度もなかったのに。それに、私を召使いにと言ったときの彼の顔。とても真面目で、必死ささえにじみ出ていた。本気なんだ。本気で、私に自分の召使いになれって言ってる。ユアンとの身分の違いは分かってたけど、それでも友達だ、と思っていた。どんなに喧嘩をしたって、一緒に駆け回った頃と何も変わっていないって。でもそう思っていたのは私だけだったんだ。
「さあ。早く帰って。こちらはあいにく貧乏人なもので、お金持ちの相手をしている暇なんて一秒たりともないんです、お坊ちゃま」
出ていけ、と指で扉を指し示す。唇を白くなるほどに噛みしめたユアンは、足早に店を出て行った。
「エマー、言いすぎだぞー」
「ユアン、泣いてなかった?」
「かわいそう」
お客さん達が苦笑しながら一斉に私を咎めた。
え、私が悪いの?! 納得いかない。どれだけみんなに好かれているんだ、ユアンは。
ふと目に着いたテーブルに、薔薇の花束が置いてある。パーティで誰に渡すつもりだったのか知らないけど、せっかくの花束を忘れていくなんて。肝心なところで抜けているのは昔から変わらない。心なしかしおれた花とひどく傷ついたような彼の表情が重なった。
「エマ、それ、届けてきてくれないか。彼が遠くへ行かないうちに」
ベンさんに頼まれた。
でも、まだ休憩時間じゃないし、という私の話は聞き入れられることはなかった。
店を出て、ほどない距離の木の下にユアンの姿を見つけた。肩の落ちた背中は、かけっこに負けて泣いていた幼い頃の彼を思い出させた。家では大切にされて、周りからの人望もある彼だ。邪魔とかうざったい、とか言われ慣れてないのだろう。私は少しだけ申し訳なく思ってしまった。
「ユアン、さっきはごめん。きつく言いすぎたかも。あと、これ。忘れたらだめでしょ」
声を掛け、薔薇の花束を差し出す。振り向いたユアンは、ゆっくりとそれを受け取った。「ふん、別に気にしていない。エマの失礼な態度も慣れたものだ」なんて言葉を想像したけれど。
「ごめん」
意外にも彼は素直に謝った。
「悪い冗談だと思ってくれ」
エマは悪くない、すまない――と呟くように言い、長いため息。地にめり込みそうなほど沈んだ雰囲気に、私の怒りはいつの間にか小さくしぼんでいた。
「冗談って……」
「いや、冗談、じゃない。お俺がお前に屋敷に来い、と言ったのはだな。……ぷぷぷ、プロ」
傍らの木に手を付き、幹に向かって話すその姿に、私は本気でユアンが心配になった。急に笑い出すなんて、色々疲れているのかもしれない。私は彼の肩をぽん、と叩く。
「もう、いいよ。よく分からないけど、誤解だったんでしょ?」
眉を下げて、「すまない」と重ねて謝罪する彼を、私は感慨深くみつめた。
「ユアン、大人になったね」
「なんだよ、それ」
「だって、私に謝るなんて。かけっこで勝てなかったからって今になっても意地悪したり、いつまでも子供だなーって思ってたけど」
「……おい。おいおいおいおいおい」
しばしの沈黙の後、がしりと両肩を掴まれた。
「かけっこで負けたから意地悪って、正気か、お前は……。誰がそんな女々しくて子供っぽくて情けない――」
「ユアンでしょ」
彼は頭を抱えて地面に座り込んだ。
「でもさあ。今勝負したら、私絶対負けると思うよ。身長もだいぶ追い越されちゃったし。久しぶりにしてみる?」
僅差で私が勝った最後の勝負から三年は経っているから、結果は目に見えていた。ユアンが勝ったら、周りの人に対するように、私にも紳士的になるのかな。例えば、挨拶代わりの嫌味じゃなくて、「エマ、おはよう」と爽やかな笑みを寄越される場面を思い浮かべる。うん、悪くない。
でも彼は弱々しく首を振った。
「いや、走りで勝ったとしても、俺はまだ変われない。まだ覚悟が足りないようだ」
「覚悟って、かけっこごときで大げさな」
「……でも、そうだな。今は無理でも、近いうちに、必ず」
「うん。今日じゃなくても、今度天気のいい日に」
「前みたいに、走ってみるか。よし! もう負けない、絶対にな」
凛々しい眼差しにどきりとしてしまう。いや、いつもと違う恰好だから、なだけで、何をユアン相手にどきまぎしているんだろう。そこで、思い出した。
「そういえばユアン、パーティーはいいの?」
食堂に現れてからだいぶ時間が経つ。こんなところで道草を食っていていいのだろうか。
「あ、ああ。今日はやめにしておく」
「そんなに簡単にやめにできるものなの? それ、もったいないね」
悔しいくらいにきまっているユアンの恰好のことを言ったのだけれど、彼は勘違いしたらしい。上擦った声で言った。
「仕方ない。やるよ」
押し付けられた薔薇の花束。甘い香りが鼻をくすぐる。
「え? いいの?」
「俺の気持ちだとおおおおお思ってくれても――」
「ユアン、ありがとう」
飾り気のない店内にこんなに綺麗なものがあれば、場が華やぐだろう。
「喜ぶだろうなあ。ベンさん」
「おいおいおいおいおい」
ユアンはこちらを凝視した。見開かれた目が怖い。
「それは、その花束はあっ……」
顔を覆うと、よろめきながら暗闇へと走り去ってしまった。気が早い。もうかけっこの訓練でも始めたのだろうか。
相変わらず、わけの分からないユアン。