おいしいコーヒーをあなたと
ずっと気になっていたカフェの店内は想像以上におしゃれで、挽きたてのコーヒーの良い匂いに満ちている。こんな状況じゃなかったら、もっと純粋にこの雰囲気を楽しめたはずだ。
私の前に並んで座る一組の男女。片方は見知らぬ顔の女性だったが、もう片方は良く知っている。私の恋人、のはずの佑哉だった。
「ごめん、本当にごめん。塔子には本当にすまないと思ってる」
注文していた飲み物が三人の前にそれぞれ並び、店員が「ごゆっくり」と立ち去るなり佑哉は口火を切った。
「塔子は何も悪くない。なんの落ち度もない。悪いのは全部俺なんだ。塔子という大切な存在がいるのに、彼女を好きになってしまった」
佑哉の隣に座る彼女は沈痛な表情、小さな声で「ごめんなさい」と唇を震わせた。
「塔子は俺なんかがいなくても大丈夫だよ。お互い仕事でここ二、三か月会えてなかったけど平気そうな顔してる。でも、美羽は違う。彼女は俺がいないと生きていけない」
まるで安っぽい恋愛ドラマのようだ。目の前の二人はヒーローヒロイン、そして私は当て馬にすらなれないただの脇役と言ったところだろう。
「俺は会えなくて寂しかった。そんな時、美羽がずっとそばにいてくれたんだ。塔子は強くて何でもできるから、俺なんかにもったいないってずっと思ってたんだ。きっと塔子には俺よりもっとふさわしい男がいるはず――」
そんな別れの常套句に我慢のできなくなった私は、思わず佑哉の言葉を遮ってしまった。
「どこに?」
「え?」
さすが想いの通じ合っている二人は反応までも似ているのか、そろって口をぽかんと開けて私を見た。
「だから、どこに佑哉以上の男がいるっていうの?」
顔面良し、頭良し、家柄良し。某一流大学を卒業後は某一流企業に就職。酒はつき合いでたしなむ程度、煙草もギャンブルも一切しない。性格は流されやすく優柔不断な一面もあるが、穏やかで真面目。それこそ私なんかが恋人になれたのが奇跡なくらい、佑哉はなかなかお目にかかれない超優良物件だった。
「そ、それは」
思い当たらないのか、二人は顔を合わせて長いこと目で会話をしている。それはそうだ。そういう男性がいたとしても、彼女がいないわけがない。
「今すぐには見つからないかもしれない。でも塔子ほどの素晴らしい女になら、絶対にいるはずなんだ。俺なんかよりもずっと塔子のことを支えてあげられるような男が」
佑哉の目には真摯な光が宿っている。隣では彼女が佑哉をひたむきに見上げ、うんうんと頷いていた。
「だからごめん、塔子。別れてくれ」
素晴らしいと思うんならなんで別れようとか言うんですかねえ? ふさわしくない? 彼女のほうが私よりよっぽど美人で育ちもよさそうに見えますけど?
正直、はらわたが煮えくり返っている。目の前のブラックコーヒーを熱いうちに二人にぶちまけてやりたい。だけどそうした所で佑哉の気持ちが私に戻るわけでもないし、かと言って「捨てないで」とすがりつくような真似は私のプライドが許さない。
「わかった、佑哉とは別れる」
重い沈黙の後、私がそう答えると二人はあからさまにほっとした顔になった。
「でも、別れたからってすぐにあなたたちが付き合うのを認められるほど心は広くない」
学生時代から五年も付き合ったのだ、未練なら山ほどある。浮気をされた時点で佑哉とこれ以上交際を続ける気は全くなくなったけれど、このままのうのうと二人に幸せになって欲しくもない。
「だから佑哉以上に素敵な彼氏が私に見つかるまで、二人は恋人同士にならないでいて欲しいの」
「な、そんな勝手な。別れたのに私たちの関係に口を出すなんて図々しいと思わないんですか」
せっかく憎い恋敵が身を引いて二人ならんで堂々と歩けるようになったのに、水をかけられた気持ちになるのは良く分かる。でも、私だって彼女に言ってやりたい。
「彼女のいる男に手を出すあなたのほうがよっぽど勝手で図々しいと思いますけど?」
ぐっと押し黙ってしまった彼女をかばうように佑哉が身を乗り出した。
「美羽を責めるのはやめてくれ! 悪いのは全部俺なんだ。でもそうだな、塔子の言うとおりだ」
「ゆ、佑哉さん」
心細げに見つめる彼女を安心させるように佑哉は優しく微笑んだ。
「塔子を差し置いて俺たちだけ幸せになるわけにはいかない、そうだろ? それに塔子だったらすぐに良い男が見つかるさ」
「そ、そうだね。うん、わかった。私ずっと待つから」
「美羽……」
「佑哉さん……」
うっとりと見つめ合う二人を視界に入れないようにコーヒーをすする。冷めたコーヒーは、やたらと苦かった。
◆
それから二年。
一人も慣れてしまえば気楽なものだ。友人と飲みに行ったり、休日には一人で映画や買い物に出かけたり、時には家族と温泉旅行もしたりして、私は日々を満喫していた。近ごろは趣味と実益を兼ねた資格でも取ろうかと思っている。
残念ながら二年たっても佑哉以上の男は現れなかった。そもそも、いまだに恋愛をする気になれないから出会いすらないのだけれど。
佑哉からはたまに連絡が来ていた。とは言っても、
「最近どう?」
「特に変わりはありません」
と味気のないもので、多分彼は私に新しい恋人ができて晴れて彼女と付き合えると毎回期待していたのだろう。
そう、佑哉はくそ真面目にもあの時の約束を守っていたのだ。
皮肉なことに、彼女のほうは佑哉ほどこらえ性がなかったらしい。煮え切らない佑哉と、あいまいな二人の関係に見切りをつけた彼女が「運命の相手と出会ったの!」と新しい相手とさっさと入籍したのがひと月ほど前。
「自業自得なんだ」
思い出深いあのカフェで二年ぶりに見る佑哉の顔はやつれ、愁いを帯びていた。
「美羽のことは本当に大事だった。俺のこの手で幸せにしてあげたいって思ってたんだよ。でもいつからか、塔子と比べてしまう自分がいて。塔子ならこんなわがまま言わない、塔子ならこれくらい笑って許してくれる、塔子なら塔子なら――」
佑哉は両手で顔を覆って深いため息を吐いた。
「一番駄目だと思うのは、美羽とのいい思い出が浮かばないことなんだ。いつだって思い出すのは塔子のことで、怒っていたことや笑っていたこと呆れられたこと。一緒に見たものや食べたもの、全部塔子で」
顔を上げた佑哉の瞳にはいつか見たような真摯な光が宿っている。
「なあ、塔子。こんなこと言える立場じゃないのはよくわかってるけど、でも。こんなに情けなくて駄目な俺だけど」
「駄目なんかじゃないよ」
思わず、言葉が出てしまった。
「駄目なんかじゃない。佑哉はちゃんと私との約束を守ってくれたじゃない。二年なんて長すぎだよね、ごめん」
「塔子が謝る必要はない、悪いのは全部俺なんだから」
「そんなふうに自分を卑下しないで、佑哉はすごい人なんだから。恰好良かったし成績だって良かった。優しかったし、それに変なとこで真面目。そんな佑哉が私は好きだったんだよ」
「塔子……」
佑哉はすがるような顔で私を見る。
「塔子がずっと一人だったのは知ってる。もしうぬぼれていいなら、もし今でもほんの少しでも俺に未練を残してくれているならもう一度」
「佑哉」
もう、みなまで言うな。
「あなたは何でも持ってる人だから私なんかにもったいないって、付き合ってる時からずっと思ってたの。きっと佑哉には私よりもっとふさわしい人がいるはずだよ。私なんかよりずっとずっと、ずぅーっと素敵で、佑哉を支えられるような人がね!!」
息継ぎなしに言い切って、よく冷えているのに本来の香りをまったく失っていないアイスコーヒーを味わった。