あまごい
今年も傘が活躍する季節が訪れた。連日、テレビの天気図では日本列島を前線が横断し、週間天気予報は雨マークで占領されていた。
昼過ぎからぽつぽつと降り始め、本降りになってしまった下校時刻。委員会ですっかり遅くなった私は、薄暗い生徒玄関の傘立ての前で呆然とするしかなかった。
「またやられた」
ない。午後から崩れるという予報を見て、持って来ていた傘が。これで三本目。
つい先日も盗られたばかりで、今日は父が予備の傘を貸してくれたのに。ごめんね、お父さんの好意は無駄になったよ……。
外を見れば雨足は衰えることなくざあざあと降っている。前回なくなった時もちょうど一人で、どしゃ降りの中、駅まで全速力で走って行ったっけ。全身ずぶ濡れで気分は最低最悪だった。またあんな目に合うのは絶対いやだ。
諦めきれずに、傘立てに残されていた、自分のと似たような黒い傘を手に取ってよく見たけれど、やっぱり少し違う。ああ、困ったと、ため息を吐いた時だった。
「その傘、俺のなんだけど」
後ろからかけられた声に振り向くと、その先にいたのは隣の席の西園くんだった。
本降りの雨、人気のない玄関、私の手にある傘。訝しげな視線の意味を理解した私はパニックになった。
「い、いやいや、 盗もうとなんてしてないよ! 私のと似てたから、ほんのちょっと見てただけで」
あわあわと、傘を元の場所に突き刺すように戻す私を、彼は無言のまま見ている。居たたまれなくなり、ごめん、じゃあそういうことで、と作り笑いを浮かべ、玄関を出ようとしたのだけれど。
「佐々木さん、傘ないの?」
静かに尋ねられた。
「あーうん。そうなの、ちょっと持って行かれたみたいで」
「駅まででしょ。ついでだから入っていけば」
「え?」
固まってしまった私をよそに、西園くんはさっさと靴を履きかえ、傘を手に取り開く。
「行くよ」
そして通学路を包むような雨を見たまま、そっと私を急かした。
◆
西園くんの申し出には驚かされたけれど、それ以上に本当にありがたかった。びしょ濡れになった日のことを思い出すと今でもげんなりする。ほんとにいいの、と三回位確認を取り、その親切に甘えることにした。
駅までの道を歩く。学校を出てそれほど経っていないのに、西園くんの左腕が濡れていることに気が付いた。相合傘なんて恥ずかしくてつい距離を取ってしまう私の動きに合わせて傘を移動してくれていたのだろう。慌ててなるべく隣に近付いた。
「あの、ごめんね。ありがとう」
「いや」
お礼を言うと、素っ気なく返された。
西園君は、結構目立つ人だ。騒いでいるわけでもないのに存在感があって、オーラが違うって、いうのかな。時には物静かを通り越して、無愛想で近寄りがたいと感じてしまう彼とは、同じクラス、隣の席になって数週間経った今日まで、ろくに挨拶すらかわしたことがなかった。
でも、すごく親切な人だなあ、と初めてまともに接してみて思った。
私の中で彼の評価が一気に上がった途端、お互いの間にそびえたっていた壁が低くなったような気がして、このおしゃべりな口が回り始める。
「実は私の傘、佐々木ニタロウっていうネームシールが貼ってあるんだよ。あ、ニタロウって私のお父さんの名前ね。傘を持って行った人、今頃びっくりしてると思うなあ。ちょっと焦ってるかも。ニタロウって誰だよって」
隣を見上げると、無表情な横顔が目に入り口をつぐんだ。静かになった私たちの間に、傘にあたる雨音だけがやけにうるさく響く。彼にとっては面白くない話題でも、やっぱり何か喋っていないと少し気まずい。次の話題を探していると、不意に西園くんが問い掛けてきた。
「ニタロウって、どんな漢字」
「ええと、数字の二、に太郎だけど」
「ふーん。だから佐々木さんの名前にも数字が入ってるの」
「あ、うん。数字で揃ってるんだ」
内心驚きながら答える。七海、という私の下の名前を知っているなんて意外だった。さっきは私が駅まで行くことも分かっていたし。素直に嬉しい。もしかして、西園くんは無関心なようでいて、本当は周りのことをすごく気にしている人なのかもしれない。
それから九対一くらいの割合で私が喋り、駅にはあっと言う間に着いてしまった。路線が違う電車に乗る西園くんとはここでお別れだ。
「じゃあ、また明日。今日は助かったよ。ほんとにありがとう」
傘をたたみながら電光掲示板の発車時刻を眺めている西園くんへ、感謝の気持ちを込めて言ったら、
「佐々木さんも」
「え?」
「佐々木さんも、親切だよね」
しばらくは彼の言葉の意味がわからなかったけれど、もしかして、とあることを思い出し、私は俯いて顔を赤くした。
数日前の英語の時間。始まって早々、頬杖をついてうとうとしている隣の西園くんに気が付いた。英語の先生は厳しいと有名だ。案の定、先生の鋭い視線が彼のところで止まり、私のほうがハラハラしてしまう。でも、西園、という先生の声で目覚めた当の本人はみじんも動揺した気配すらない。
「問3。答えて」
何ページかも分かっていなそうな、少しぼうっとしている西園くんに教科書をこっそり指し示す。ついでに余白の部分にささっと「can」と答えを書いて見せた。彼はちょっと思案した様子の後、眠そうな声で答えた。
「must」
「お、正解」
はい、恥ずかしすぎる。西園くんは、居たたまれなさに震える私にも、少し悔しそうな先生にもいたって無関心な様子で、また頬杖をついていた。
◆
「あーあの時はですね。よけいなことしちゃって」
「いや、助かったし」
「そ、そう?」
あれ? 今、ちょっとだけ。ほんのちょっとだけふっと笑ったかも……。ものすごく珍しいものを見た気がしてラッキーな気分になる。そんな私に、西園くんは「じゃあ」と言って傘を渡してきた。
「え、これ」
「俺の家、駅の近くだから。使っていいよ」
こちらを見ずに言い残して、遠慮する隙も与えず改札口へと去っていってしまった。
「あ、ありがとう!」
周りの人に見られるくらいの大声で言ったのだけれど、優しいクラスメイトは振り返ることはなく、私はその背中が小さくなるまで見送った。
◆
傘を失くした私のために、祖母が新しい傘を買ってきてくれた。裾の部分にはひらひらとしたレースがあしらわれ、ラメ入りの黒地に、ショッキングピンクのハート柄がひしめきあっている代物だ。ちょっと派手すぎると思ったけれど、せっかく私のために買ってきてくれたんだし、何よりも、こんなに目立つ柄なら盗まれる心配がずっと減る。私はそれをありがたく使わせてもらうことにした。そして、念には念を、と折り畳み傘も常備することにしたおかげで、雨に打たれながら下校することはなくなった。
傘の二本使いはかさ張るけれど、結構人の役に立つのだ。あの日西園くんに傘を貸してもらって本当に助かったから、私も友達が忘れていたら貸すようにしている。
今日もまたこの傘達が活躍しそうな予感。
下校時刻に合わせたように降り出した意地の悪い雨空を、生徒玄関の柱にもたれて見上げている西園くんに出くわした。
西園くんとはあの日以来、たまに話すようになっていた。とは言っても、私が勝手に喋りかけて彼が頷くか、小さく相槌を打つ程度で、安定の反応の薄さに話を聞いているのかな、とつい不安になる。でもごく稀に、あのかすかな笑い顔を見せてくれるのだ。それは、私を自分でも驚くほど嬉しくさせ、私も自然としまりのない笑顔になる。
そんな彼が、雨を前に困っている今こそ、親切への恩返しの時。私は意気込んで声をかけた。
「西園くん。傘、どっちかよかったら使う? 私、二本あるから」
ハート柄のとシンプルな折り畳み傘、両方を差し出してみる。ゆっくりとこちらに視線を寄越した彼は、無言のままだ。
あれ? 相変わらずの無表情なんだけど、なんとなく、いつもと雰囲気が違う気がして、動きを止めてしまった。しばらくして、彼の固く結ばれていた口が開かれる。
「いらない」
降りしきる雨よりも冷たく感じる声と表情。その上、
「うざい」
と吐き捨てるように言い放ったのだ。
張りつめた空気が流れる。
どうしよう。何か、怒らせるようなことしたんだろうか。私は頭の中が真っ白になった。おせっかいでごめんねーって軽く言って早くこの場を離れよう、頭ではそう思っているのに、何も言葉に出来ない。そして、あんなことを言った西園くんのほうが、なぜだか傷ついた顔をしている。
その時、玄関から出てきた二人組が賑やかに声をかけてきた。
「あれ、佐々木―! またまたいいところに。傘貸してくれ!」
「ちょっと、また七ちゃんに借りるつもり? 迷惑だよ」
「えー、だって二本持ってんじゃん!」
同中出身のカップル、山田とアヤちゃんだった。そういえば昨日も彼らに傘を貸したのだっけ。
山田は躊躇なく、私の折り畳み傘を手に取る。
「今日はこっち貸して。そのハート模様の、昨日やばいくらい注目浴びて恥ずかしかったし」
「山田くん、図々しいから。七ちゃん、ごめんね」
人の物を借りておきながら失礼なこと言う山田にはちょっと腹立つけど、隣でオロオロしているアヤちゃんの姿に私の心は凪いだ。
いいよいいよ、と折り畳み傘を彼らに渡す。
仲良く一つの傘の中に寄り添い帰って行く二人を見送っていると、突然西園くんが私の右手にあったハート柄の傘を手に取ると、ぽん、と開き言った。
「行こう」
その目線は珍しく泳いでいて、動揺が見てとれる。「うざい」んじゃなかったの? ためらう私を促すように、彼は私の腕をそっと引いた。
◆
駅までの道がとても長く感じる。目に入ってくる明るい傘の模様とは正反対に、私の心の中は真っ暗だ。さっき言われた言葉が深々と胸にささっている。
調子に乗って何かと話しかけて、やっぱり迷惑だったのかもしれない。そんなことを考えながら歩いていたら、西園くんとの間がだいぶ空いていた。前と同じで私はほぼ濡れていないのに、傘を持っている彼はずぶ濡れだった。
「わ、ごめん! すごい濡れてるよ。」
慌てて近寄って、勇気を出して聞いてみることにした。
「……あのさ、私。もしかして知らない内に、西園くんに迷惑――」
「この傘、目立つし」
遮るように言われてしまった。
「昨日、これ二人でさして歩いてるの、見かけて。佐々木さんと見間違えて」
西園くんはそれだけ言って黙り込む。
頭がよく回らない。西園くんが、この傘を使っていた山田とアヤちゃんを見て、私と見間違えた? 立ち止まってしまった私に合わせて歩みを止めた、彼の濡れた前髪から垂れる雨の滴をただ眺めていた。しばらくして、西園くんは目を伏せたまま気まずそうに口を開いた。
「ごめん、さっきのはただの嫉妬。って言っても……見当違いだったみたいだけど」
シット、しっと。もしかして嫉妬? あ、いわゆるやきもちね、うん。……うん? 誰が、誰に?
何も返せない私と、それ以上喋る気がなさそうな西園くん。派手な傘をさして歩道に立つくす二人に、通りすがる人たちが時折視線を向けていく。
無言の時間がどれくらい続いただろう。だいぶ頭の中の整理ができてきて、私はやっとの思いで聞いた。
「それは、つまり、明日からも、話かけてもいいってこと?」
聞いた後で少し間抜けな質問だったな、と後悔した。でも西園くんは下に向けていた視線をこちらに寄越し、真面目な顔をして頷いた。
気が付けば、傘を打つ雨音が聞こえなくなっている。
私たちの頭上のハート模様が、いつの間にか射していた太陽の光を受けて一層きらきらと輝いていた。