天使と悪魔
「さあ、矮小で愚かなるニンゲンよ、高貴なる存在である私があなたの望みを三つ叶えてあげると言っているんです。可及的速やかに答えなさい」
突然目の前に現れた自称天使が、偉そうにふんぞり返っていた。
白皙の肌、金髪に碧眼に、整った中性的な顔立ち。そして背中に生えた大きな純白の翼。
部屋でくつろいでいた私の前に、ふってわいたように現れなければどこぞのコスプレイヤーだと思っただろう。
「なんという間抜け面。だから低能な生物は嫌なんです。さっさと望みを言いなさい、さあ今すぐ言うのです。早く早く、早く言いなさい!」
うるさい。もしここで「少し黙ってくれない?」とか言ってしまったが最後、それが一つ目のお願いになってしまうのだ。ふふん、でもお生憎さま、私はそれほど馬鹿じゃないのだよ。
たっぷり黙り込むこと一分。じれた天使によって事情が説明された。
自称天使の名前はダニエル。傲慢に過ぎると堕天寸前だったところ、心の広ーい創造主さまにより「人間を、誰か一人でも幸せにできるのなら」と条件付きで猶予をもらったらしい。
「下賤なニンゲンなど願いを三つくらい叶えてあげれば、簡単に幸せを感じるでしょう」
一回、地の底に堕ちればいいんじゃないかな。とは言うものの、こんなチャンスみすみす見逃す手はない。ちょうど、しなきゃしなきゃと思いつつ、面倒くさくて放置していた問題があったんだった。
「じゃあ、この部屋掃除してくれない? すみずみまで綺麗にね」
「ふっ、矮小なニンゲンらしい実に簡易な願いですね。そのようなこと造作もない」
「全部だよ? コンロのこびりつきと換気扇、冷凍庫の霜とり。エアコンのフィルタとベッド下の埃。お風呂のタイルの目地、あと当然トイレもぜーんぶね」
そう言って部屋を出た。真夏の日差しがとてもまぶしい。近くのコンビニで、涼みがてら暇つぶしに立ち読みをする。
最近掃除さぼってたから、結構な時間かかるだろうな。特にベッド下は見るのが怖いくらいだ。
雑誌一冊読み終わったところで、店員の目が痛くなったので、ペットボトル飲料を買って外に出た。ちょっと足を伸ばして図書館にでも行こう。ついでに帰りにスーパーに寄って買い物をしようか。でも、暑い中重い荷物持って帰るのはなあ。
「おお……!」
数時間後、適当に時間をつぶして帰宅した私を待っていたのは、築十年を超えるのに、どこもかしこもピカピカに磨かれて埃ひとつない、まるで新築とも見紛うように綺麗な部屋だった。
「すごい。すごいすごい! 想像以上だよ、自称天使さま! まじありがとう! あの汚部屋がここまで綺麗になるなんて考えられない!!」
私がやや大げさに褒めたたえると、
「自称ではありません! ですがまあ、ヒトの願いを叶えて喜ばれるというのは、思ったほど悪くない。さあ、もっと感謝するのです、愚かなニンゲンよ」
偉そうな顔のまま、天使ダニエルは背中の羽をパタパタと羽ばたかせた。きれいに磨き抜かれたフローリングの床に白い羽根が抜け落ちる。
せっかくきれいになったのにやめて! と言いそうになって慌てて口をつぐむ。いけないいけない、二つ目の願いになるところだった。
「そして即座に次の願いを言うのです!」
言われなくてもそれはもう決まっている。この私に抜かりはないのだ。
「買い物してきて、お金は渡すから。五キロ入りのお米二袋と、六本入りの二リットルのミネラルウォーターひと箱。一リットル入りのしょうゆ一本。メーカーは――」
一時間後。クーラーを効かせた綺麗な部屋で、優雅にアイスティーを飲みながら雑誌を読んでいると、天使ダニエルが顔を真っ赤に、両手をプルプルいわせながら帰ってきた。
「お帰りー、ありがとね。いや、ほんと大助かりだよ。私だけだったらスーパー二往復以上しないと無理だし」
「ふ、ふん。こ、この程度私の力を持ってすれば大したことではありません」
そう言いながら、ダニエルは肩で大きく息をした。両手に抱えた荷物を床に下ろした途端へたり込んで苦しそうにあえいでいる。
「大丈夫?」
「げ、下賤なニンゲンごときが私に触れるなど、許されると思っているのですか、汚らわしい! まあ、ですがあなたはニンゲンにしては中々己を知っている。安易に金や地位を望むわけもなく、重労働ではありますが、なかなか身の丈に合った願いごとを言う。正直感心しました」
やや苦しそうな表情ながら、天使ダニエルは真面目に私をそう評価した。
「まあ、庶民派なんで」
正直照れる。謙遜しながら答えたのだが天使ダニエルは、結局どこまでも天使ダニエルだった。
「大変よろしい。その謙虚な心持を忘れるのではありませんよ」
お前にだけは言われたくない。思わず拳が出そうになるのをぐっとこらえた。我慢我慢、ここを堪えればきっと、三つめのお願いに続く道が開けるはず。
「ふ、ふふふ。私は今、大変に機嫌がよろしいと言えます! 正直、たかがニンゲン一人を幸せにしたところで何の益にもならないと思っていたのですが、私は実に気分がいい! そんなところで三つめの願いを言いなさい。今ならどんな願いも叶えて差し上げましょう!」
「どんな願いも? 言ったね、今確かにそう言ったよね! よし、じゃあこれから私が死ぬまでの家事はぜんぶ任せた!!」
待ってました! 「お願いごとをあと百個に増やしてください」的な禁じ手も、本人の許可さえあればどうにでもなる。こんな有能な家政夫を、グータラが信条の私がみすみす見逃すわけがないのだよ!
「な……! ひ、人の子よ、卑怯なり……」
顔面を蒼白にした天使ダニエルは、床に突っ伏してしまった。背中の羽すらも心なしかパサついて見え、さながらその様子は絶望に打ちひしがれると言ったところか。
だが、それに絆されるほど私は心優しくはない。
「は? そもそも強引に願いごとを聞くって押しかけてきたのも、さっき何でも叶えるって言ったのもそっちだし? 卑怯とか心外なんだけど? それとも何、天使ってのは簡単に前言を撤回しちゃうわけ? がっかりー。こんなんじゃ私ぜったいに幸せになれないわー」
その時の私の背後から、悪魔のしっぽが見え隠れしていたと、後日ダニエルは語った。