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短編集  作者: 坪山皆
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青春全開!

 高校入学を機に始まった電車通学。田舎町のローカル線は、通勤、通学時間でも都会のようにぎゅうぎゅう詰めになるほどではないが、それでも終点の政令指定都市に近づくにつれ座席は埋まり、立つ人たちも増えてくる。

 始発駅から乗る私は当然、最初から最後まで座りっぱなしだ。目の前でだるそうに立ちながらお喋りをする男子高生に少々の優越感を感じながら文庫本を開く。

 電車内は読書に限る。

 スマホは開いているページをのぞき見されるのが嫌だし電池ももったいないので、電車の中ではもっぱら読書をして過ごしていた。最近のマイブームは「鬼平犯科帳」。全二十四巻で、しかも連作短編という電車通学にはうってつけの作品なのだ。

 今日も私は終点まで、物語世界への小トリップを楽しむ。


 はずだったのに。


 緊急事態が発生してしまった。

 お気に入りの密偵、粂八が活躍する回なのに大好きな本に集中しようとしてもできない。目の端にちらちらと映るソレに私の意識は囚われていた。

 ざわつく電車内。気づいているの、私だけだったりするんだろうか。

 目線だけで周囲をうかがうと、いつも隣に座るスーツ姿のお姉さんが、その一点を凝視していた。私の視線に気づいたのだろう、お姉さんと目が合う。


 ――ねえ、開いてるよね。


 お姉さんの目は、確かにそう言っていた。


 ――開いてますね、ファスナー。


 私はしっかりとうなずく。

 目の前に立つ男子高生のズボンのファスナーが、普通ならば上までしっかりと上げられているはずのファスナーが、全開だった。



 彼の事はパッと見の印象でしか知らない。私の通う女子高と近隣の高校の制服を着た彼は、そこそこ賑わう駅から友人と二人乗ってきて私の目の前の吊革につかまる。そして彼らは終点まで取りとめのない会話を交わしあっている。

 まじまじと顔を見たことはないけれど、制服の着こなしといい、喋り方といい、チャラチャラしすぎない爽やかな感じで、多分学校内でもそれなりに人気がありそうな雰囲気を持っていた。

 それがどうだろう、今やズボンのファスナー全開という有り様。パンツが見えないのが不幸中の幸いだ。

 けれど、彼がこのまま登校したとしよう。そして例えば今日全校集会があったとして、彼の醜態に気づいた空気の読めないクラスメートが大声で「なんだよお前、全開じゃん」なんて発言をしたりしたら、それなりに人気がありそうで爽やかそうな彼の評判は一気に落ちるだろう。

 「全開野郎」とか「全開くん」、後輩からは「全開先輩」なんて屈辱的なあだ名をつけられた彼はすべてに絶望し不登校になり、部屋に引きこもってしまうかもしれない。

 胸が痛む。

 たった一つのミス、ズボンのファスナーを閉め忘れたばっかりに、彼の明るい学校生活は閉ざされてしまったのだ。

 せめて、隣で談笑している友だちが気づいてくれたらいいのに。でもまあ普通、隣にいる友人の股間なんて見ないだろうから無理な話だろうけれど。

 とにかく、私が顔を後ろに背けない限り彼の全開な部分が目に入るわけで、私は全く読書に集中できずに終点駅を迎えてしまった。


「次は終点○○、○○。お出口は左側です。乗り換えのご案内――」


 どこか後ろめたい気持ちを抱えつつ文庫本をしまい、降りる準備をした。

 全開の彼の事は気になるものの、私には私の生活がある。いつも通りに座席から立ち上がりドアへと向かおうとすると、


「ちょ、ちょっとキミ! ねえちょっとだけいいかな」


 そこに勇者がいた。

 勇者、すなわち私の隣に座っていたスーツ姿のお姉さんが、ファスナー全開の彼の肩をつかみ立ち止まらせていたのだ。


「はあ? 何すか」

 

 怪訝そうに眉を寄せる彼と、集中する周りの視線。お姉さんは今までの勇気はどこへやら、盛大に目を泳がせた。


「あ、あの、ええっと。……そう! この子が大事な話があるんだって、聞いてやってくれない?」


 信じ難いことに、お姉さんが次につかんだのは私の腕だった。


「じゃ、私はこれで!」


 ただぼう然と見送る私に、彼女は「がんばって!」と言わんばかりに両手の拳を握ると、人ごみの中に消えていってしまった。 

 まさかの丸投げだった。これがもし鬼平犯科帳の登場人物なら「げえっ……」とうめいているだろう。

 周りの興味津々な目と、何より私を注視するファスナー全開の彼の視線が痛い。



「昨日あの後どうだった?」


 翌日。コッコッコッとヒールの音を響かせながら、いつもの駅から乗り込んできたお姉さんは、私の隣に座るなりそうたずねてきた。

 

「はい。おかげさまで私たち付き合う事になりました」

「は?」

 

 お姉さんは不思議そうに口をぽかんと開けている。


「は? 何で?」



『え、えっと、ここでは何なのでもう少し人のいないところでお願いします』


 あの後、せめて公衆の面前での公開処刑よりはと、人ごみを避けた。

 「頑張れよー」と、どちらに向けているのか分からない、彼の友人のにやにや笑いがやけに気にかかる。もしかしてあの友人、彼のファスナーが全開なことに気づいているのではないだろうか。まさか気づいておきつつ知らんぷりをしながら、他人に彼の痴態を指摘させようという高度なプレイを!? なんというサディスト。などと悶々と考えながら歩いているうちに、人ごみからは少し離れた駅の隅っこに着いてしまった。


『あの、突然ごめんなさい。ええと、あ、あのなんていうか、すごく、言いづらいことなんですけど……』


 覚悟は決めたものの、なんて言ったらいいんだろう。

 彼はこれから身内でも親しい友人でもない、ただ同じ電車に乗り合わせている女子高生から、ズボンのファスナーが開いているという残酷な事実を伝えられることになる。

 でも彼の学校生活でのそこそこ高いであろう地位を守るためには言わなくてはならないのだ。


『あの! あ、あなたの――』

『こちらこそ俺でよかったらよろしくお願いします!』

『え……?』

 

 なぜか彼は深々と頭を下げながら、右手を私に差し出していた。


『実は俺もずっと前からいいなって思ってて、ちょっとでも視界に入るように目の前に立ったり、でかい声でしゃべったりしてて……。だから、今かなり嬉しい』


 な、なんということでしょう。私の決死の告白が、本当の意味の告白として受け取られていただなんて……! 

 でもよく考えてみたら彼がそう思うのも無理はないのかもしれない。 

 スーツのお姉さんの意味深な前ふり。人気のないところに誘い出し、なかなか本題を出さずにもじもじする私の言動。もし私が彼の立場なら間違いなくこれは告白と思ってしまう。

 もしここで私が彼の勘違いを否定し、かつファスナーが開いているという恥ずかしい事実を指摘した場合の、彼の心の傷はどれほどのものになるだろう。

 深く絶望した彼は人間不信に陥り、希望していた大学受験も失敗する。そして色々あった後、全てうまくいかなくなってしまった彼はやがて「俺がこうなったのも全部政府のせい」と反社会的行動をとり、最悪逮捕されてしまうかもしれない。


『あ、じゃあ私の方こそよろしくお願いします』


 そうなってしまうよりは、と私は差し出された彼の右手をそっと握ったのだった。



「ねえ、キミはそれでいいわけ? そんな理由で付き合っちゃっていいの?」


 お姉さんは、私が話し終わるなりそう聞いてきた。


「別に今付き合ってる人も好きな人もいないからいいかなって」

「へ、へえ。そうなんだー。最近の子は良く分からないわね」

 

 改めてまじまじと見た彼は、それまで私が持っていた印象の二割増し爽やかで、三割増し恰好良かった。それに加えて私が手を握った時、ほっとしたようにくしゃっと笑った顔は、私の心をときめかせるのに十分だったのだけれど、なんとなく恥ずかしいので言わないでおく。


「そういえば、お姉さんは私の気持ちを前々から知っていて後押ししてくれたって話になってますからよろしく」


 昨日丸投げされた時点では、次に会ったらどう罵ってやろうと思っていたが、今となっては「終わりよければ」というやつだ。


「はあ、それはまあいいけど。とりあえずおめでとうって言うべきなの? っていうか、チャック! ズボンのチャックはどうなった!」


 そう。肝心の彼の全開なファスナーの顛末は、私の告白(と彼は思いこんでいる)が終わった後、「なんか変に緊張したらトイレ行きたくなった」と彼がトイレに駆け込み戻ってきたら、普通に閉められていた。なんてあっけない。

 私も彼の心の平穏を保つために何食わぬ顔をして彼を出迎えたのだった。


「そっか、あははー……。はあ」


 お姉さんが乾いた笑いの後黙り込んだので、会話が終わったと判断した私は文庫本を取り出して読書を始めた。今日は「うさぎ」こと木村忠吾がいつものように平蔵さまに怒られる話。私はあっという間に本の世界に引き込まれていった。


「おはよう」


 読書に集中しているうちに、いつの間にか彼(昨日からは本当の意味での『彼』だ)が乗り込んできたらしい。

 はっと本から顔を上げる。

 少し照れくさそうに笑う彼は、昨日見た時よりも五割増し爽やかで十割増し格好良かった。


「あ。おは、……お、おはよ」


 こんなに格好良い彼が、本当の意味で私の彼だなんてうれしい……。でも恥ずかしい!

 どもってしまった私の横で「若いっていいわあー」と、お姉さんは遠い目をしながらつぶやいていた。


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