先輩
純の一人残る静かな家に、時計の秒針の音だけがコチコチと響いていた。そしてそんな中純は落ち着かない様子で何をするでもなく、忙しなく歩き回っていた。すると突然この家にチャイムの音が響き渡り、研究員達が報告しに来たのだろうかと慌ててスライドのドアを開け、勢いよく一歩外に足を出したが目の前にはだれの姿もなかった。純は不思議に思いながらも部屋に戻ろうとした、その時だった。
「ともちゃんならもう見つかったらしいですよ。」
突然聞こえたその声に驚き横に振り向くと、そこには壁にもたれた状態でこちらを見て微笑んでいる歩の姿があった。その瞬間、純の顔は驚きと恐怖の色に変わり、急いで家に戻るとドアを閉めようとしたが閉めるよりも先に歩は家の中に入ってきた。
「うわぁ、酷いな。今オレをこの家に入れまいとしたでしょう。」
そう言って歩は軽く笑うと、歩を睨みながら後ずさりして離れる純を目で捉えた、そしてそのまま純にゆっくりと歩みよって近づく。その行為に純は慌てて声を張った。
「報告どうもありがとう、分かったから。もういいでしょう、早く出てってよ!」
そこまで言うと純の背中が壁にぶつかり、もう後が無くなったことに体を強張らせた。その様子に歩はニコニコと微笑んだままゆっくりと近づいて来る。
「酷いなぁー。もうちょっといいこと教えてあげようと思って来たのに。」
そして純の目の前まで来ると歩は右手を壁につけて顔を近づけ、純の耳元に口を近づけて小さく呟いた。
「宋ちゃんが実験対象から外されるかもしれないですよ。」
その言葉に純の表情が恐怖から驚きのものに変わった。歩は純から離れると今度は向きを変えてあっさりドアに向かって歩き出した。純は少し迷ったが仕方なく歩を呼び止めた。その言葉に歩はニコニコしながら振り向く。
「宋太が外されるって、どういう、意味。」
純のその言葉に歩はそのままの意味ですよ。と口を開いた。
「宋ちゃんよりも元気のある子が手に入ったから、ですかね。」
「ここではこけないでね、ともちゃん。」
スーツの男に先導されてともはある建物の地下へと続く階段を下りていた。ともの横について歩く白衣の男は何かとともに声をかけながらついてくる。階段が終わりそこからまた長く続く通路を右に曲がったり左に曲がったりと複雑な動きをして奥へと進んで行くとあるドアの前で止まった。スーツの男はドアの前に立つと胸ポケットから一枚のカードを取り出しドアの横に備え付けられたロックに通してドアを開ける。そして男が胸にそれを収めると静かにともに目をやった。
「この研究施設に入る前に、一度先輩に挨拶くらいさせてやる。」
その言葉は一体何を意味しているのかは分からないが、とにかくともは男を鋭い目つきで睨みかえした。しかし後ろに立っていた白衣の男に押されて、そんな抵抗も空しくともは部屋の中に押し込まれてしまった。そしてその部屋は薄暗く、ともの立つすぐ目の前に何か透明な板が張ってあるのがかろうじて分かったくらいだった。そのとき、突然この薄暗い部屋に照明の光が行き渡り、部屋の全体像がはっきりと見えた。目の前にはガラス板が張られ、その向こうには部屋があった。そう、部屋だ。ベッドがあって机があって、真ん中にはテーブルが置かれていてその上には何かを食べた後のような皿が置かれていた。でも、それ以外は不自然な空間。ベッドも机もテーブルも床も壁も、キレイだ。床に転がるコップや布もまるでこの空間の一部のように当たり前にそこにあるとでも言うかのように。つまり生活観の感じられない空間。
「ともちゃんの先輩だよ。ホラ。」
白衣の男は後ろからともの肩に手を置いて空いた方の手でベッドの方向を指差した。その指し示された方向に目をやると、確かにベッドの中に誰かいた。その誰かは人の気配に気がついたのかゆっくりと体を半分起き上がらせた。そして静かに顔をコチラに向ける。適当に伸ばされ手入れの行き届いていない赤黒い髪の下から見えた目からは、確かな視線を感じた。そしてその瞬間、ともに衝撃が走った。
「・・・濱岡、宋太」
白衣の男がニコリと笑う。
「そう、そしてこれから君の先輩。」