思春期
知らなくていいのだったら知らなくていい。それで済むのだったらわざわざ知ろうとは思わない、けど。そんな僕を哀れな目で見るな。知っていない事を可哀想だと思うな。
広大の胸にそんなドロドロとした黒い感情が静かに渦巻いた。その感情がじわじわと頭へと昇っていくのを感じる。感じて、やっと自分自身を抑えた。
「君、大丈夫かい?」
震える体を押さえ込むように右手で左腕を力一杯握り締めていた広大の異様な状態を見て、間の抜けたように歩が声をかけてきた。広大は強張った表情のまま歩へと向き直ると無理矢理顔を作って、ええ大丈夫です、何でもありません。と返した。その返事に歩はそうとだけ言うと、自分のカップをひょいと持ち上げ飲もうとしたが、広大の向こう側に何かを見てカップをテーブルへ戻した。その様子に広大もチラリと後ろを振り返ると、そこにはあの恭一郎が切れ目で細い瞳を丸くさせて遠くに立っていた。その時広大は歩の口の端が小さく上がったのを見逃さなかった。歩は恭一郎に向かってニコリと微笑むと軽く手を振った。
「恭ちゃんもティータイムかな?俺達と一緒にどう。」
その言葉を聞いた瞬間、恭一郎の目が驚きから怒りへと変わった。そしてその勢いのままカフェテラスのテーブル達の間を縫って広大達のいるテーブルへとやって来た。そしてその怒りの眼差しをギンッと歩に向けた。それを受ける歩はまるで恭一郎の感情を逆撫でするかのごとく、よりにこやかな表情を向けていた。すると恭一郎は怒りの感情を抑える様に強く目を閉じ、開いた瞳は今度は広大の方に向けられた。その瞳にはもうさっきまでの激しい怒りは無くなっていたものの、まだ強く訴えるものがちらついていた。その瞳に広大は気押されて少し体を後ろへのけぞった。
「お前、コイツに何言われた。」
恭一郎のそう言った声は少し震えていた。喉の奥から搾り出すような声だ。
しかし広大はこの展開が理解できずに上手く声が出なかった。そんな広大に恭一郎は今度は声を張り上げた。
「このイカレ野郎にお前は何を言われたんだ!」
「恭ちゃん。」
恭一郎の声に被せて、歩の静かな声がこの空間に広がった。一瞬の沈黙が走る。
恭一郎が歩へと振り返る。歩の口元だけが細かく動いた。
「少し口が過ぎるよ。」
その瞬間だった。恭一郎の表情は一瞬無になり、次の瞬間、今までに無いくらい目に憤怒の色を見せ歯をむき出した。そして手に持っていた本をテーブルへと叩きつけるとその勢いのままその場から去っていった。
広大はただ目の前に叩きつけられた本と、その勢いで倒れて中からお茶が流れ出したカップを見た。まるで、一瞬の嵐が去ったかの様だ。
「思春期は情緒不安定になるものさ。」
さっきの声色とは打って変わって陽気な口調で歩がそう言うと、目の前に置かれた本をひょいと持ち上げた。
「うん、お茶には濡れてないようだね。セーフだ。この本は後で俺が恭ちゃんに返しておくとしよう。」
歩はそう言うと本を横に置きなおし、広大に顔を向けてニコリと笑った。
「さて、じゃあ何も知らない君に。教えてあげなきゃ、いけないね。」
椅子が思い切り後ろへ倒れて、ガシャンという音が響いた。広大が思い切り立ちあがった勢いだった。
「どうしたの。」
歩の声のトーンが下がったのが分かった。強張った表情に冷や汗が流れる。
「その! 本。」
僕が恭一郎君に届けてきます。広大はそう言うと歩の横に置いた本に手を伸ばし掴むと、その場を一目散に逃げた。
多分、さっきの二人をまた会わせてはいけない。僕が渡した方がきっとまだましだ。それに。
広大は喉に詰まった唾を動作も激しく飲み込んだ。
僕自身が、あの人と居る事に耐えられない。