血は水よりも濃く
この血は狂気よりなお残酷で、呪詛よりもなお振り払い難い。
◆◆◆
「生きるも死ぬも好きにすればいい。けど、——二度と、我が君の前に顔を出すな」
「せめて、健やかに」
それらの言葉は、のこされた主君と異母妹の優しさだったのだろう。
——その為に生きることができないのなら、自分たちはその傍らを居場所にできなかったのだから。
何もかもを捨て去って、何もかもを異母妹に押し付けて、役目から——ひいては主君から逃げたのは、他ならぬ自分だ。
何度身を裂くような後悔に襲われても、それよりも恐ろしいことがあったから。
——可能性は、あった。
あったものを、しかし、自分は見ようとしようとしなかった。
このことから目を逸らし続けていたのは、自らの弱さに他ならない。
だからこれは、自分に下された罰だったのか。
やせ細ったくせに、腹ばかりが膨らんだ愛娘が言っていた。
——この子を理解できるのは、きっと、父さんだけでしょうね。
自分以外の可能性を、己は知っている。
過去ごと捨て去り、沈黙の中に隠し通してきた懐かしき故郷。
深き森に寄り添う、彼の国ならば——。
けれど。
それでも。
自分は戻れない。
戻れるわけがない。
遥か昔に投げ捨て、帰るべき場所ではなくなった、あの森に。
——還れや、しないのだ。
***
——その産声は、命の在処を雄弁に伝えていた。
絶息した愛娘の骸から、血に塗れた小さな身体を引き剥がす。
生まれて間もない赤子の体は、しばらく放置されていたせいで冷え切っていた。
泣き続ける赤子に遠い記憶が重なり、彼は瞑目した。
「——許せ、リア」
無意味であることを知りつつ、今は亡き異母妹に彼は詫びる。
母の命を喰らって、産声を上げた忌み子。
そう見なされている赤子の先行きは、どう楽観的に見ようとも明るくない。
「私は、この子を差し出せない——」
愚かな選択だとは分かっている。
この赤子にしても、この国より、彼の国の方が生きやすいに違いない。
しかし。
——この血は狂気よりなお残酷で、呪詛よりもなお振り払い難い。
魔として生まれ、魔として生きるのではなく。
人として、生きられるのなら。
どうか。
——人としての生を、歩んでほしいと、思ってしまったのだ。
彼は、泣き止まない赤子の口元に、持ってきた哺乳瓶を寄せる。
すぐさま哺乳瓶にしゃぶりつき、赤く濁った中身を勢いよく飲み始めた赤子に、彼は苦笑を深める。
血は水よりも濃く、捨てざるを得なかった過去が思いもよらぬ形で、再び顔を覗かせた。
異質でないふりは、もう叶わない。
忌み子を抱え、人の振りをしていた魔は歩き出す。
定まらないままの先へ。
◆◆◆
「——あんのクソジジィっ!」
リクは憤りのままに、声を張り上げる。騒ぐリクに、彼の伯父は呆れた目を向けるが、リクの方は怒る方に忙しいのだ。
「ふざけんじゃねぇっ!!!!」
リクは思い切り怒鳴ったが、特に何かを叩いたり蹴ったりすることはない。
彼が迂闊に物に八つ当たりをすると、後始末に膨大な労力を必要とするのだ。自分で壊したものを片付けるのはひたすら空しいため、リクは主に叫んで憤りを発散している。
「リク、気が済んだのなら静かにしなさい」
「う、おっさん、ごめん」
基本的に、リクは身内と認識している人間の言葉に弱かった(ただし祖父は除く)。
世間からは忌み子と呼ばれるリクだが、彼が忌み子なら、彼の祖父は鬼だ。
十三を数えたばかりの孫を魔物の巣窟に放り込む祖父を、鬼以外のなんと呼ぶべきなのか。
実際は鬼よりも強い(何せ単独で大鬼の群れを虐殺した)彼の祖父には、謎が多い。
十八で生き別れた母親を追ってこの地にやってきたという祖父の、それ以前の詳しい経歴を知るものはいない。
鬼神の如き戦闘能力もさることながら、木端役人など裸足で逃げ出す膨大な知識の出どころも、リクの祖父は沈黙を以て守ってきた。
己に流れる血の源流がどこにあるのか、リクは知らない。
「シロ~、もふもふさせろ、もふもふ~」
リクにとっては、特に気にすることでもなかったが。
気づいたら彼の傍に居座っていた白虎の毛皮に、リクは顔を埋める。
彼の伯父により手入れされた、真珠色の虎縞の被毛は、触り心地抜群である。
白虎にへばりついたまま即座に爆睡した甥の頭を、伯父は苦笑交じりに撫でていた。
昼下がりの空は青い。
人として生きようと足掻く者達を、穏やかな日差しが照らしていた。
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