8 白箔国の精霊
日が暮れるのを惜しみながらヴィルヘルムスはファムを送った。他愛もない話をしながら住宅街を歩き、角にきたところで彼女は言う。
「ここまででいいわ」
本当は玄関前まで送りたかったが、ファムがそう告げるのでヴィルヘルムスは帰ることにした。いくつか下心が無かったわけでもないが、付き合って早々から積極的になるのは嫌われるかもしれない。それと大人しく帰ることにした理由の一つに、彼女からのお礼として頬にキスをもらったこともある。
「ではまた次の休日に」
「ええ。またあの広場でね。今日はありがとう、ヴィル」
ファムを送った帰り道、ヴィルヘルムスはルトガーの報告書にあった場所へ向かい、“精霊の結界”の跡を調べた。
それはファムの家の壁と、付近の数カ所にあった。術式の方式は人間が使うものとは違い、さらに使われている素材も不明だった。だが結界を読み取るための法術を走らせると、構造はヴィルヘルムスでも少し理解できるものだった。随分前に設置されたものらしく、だいぶ古くなっており所々にほころびが見られる。そう遠くないうちに機能を果たさなくなりそうなものだった。
(「結界の効果は……“注意を反らせ”“関心を無くす”か……? もう少し詳しく調べてみないとわからないか……これはやはり彼女のため? 精霊が人間のために?」)
ヴィルヘルムスはルトガーが追われたという精霊の話を思い返した。ルトガーはファムの家の近くで属性不明の、確実に二等級以上の精霊に追いかけられた。彼女の家の門が見えた所で死角から足元を狙って“なにか”が襲い、それから隣街まで移動する間ずっと狙われ続けたのだそうだ。
その報告を受けた時はからかい半分で追いかけられたのかと思ったが、おそらくファムを守るためなのだろう。彼女の近辺をうろついたことへの警告もあるのかもしれない。
彼女は精霊に守られている。
そのうち、自分もルトガーのように狙われるのだろうか?
翌日、ヴィルヘルムスは王宮へ出向き、この国に所属している上級精霊と面会した。
『王宮に住まう光の精霊よ、私の前に出てきてくれませんか』
この光属性の精霊と会うには王宮内で精霊術で呼びかるのが古くからの習わしになっている。今回もいつものようにヴィルヘルムスが呼びかけると即座に現れた。長いまつ毛に乳白色のすべらかな肌。絹糸のような黒髪を垂らして、白地に金と白金色の糸で刺繍が施された床まで届きそうな裾の長い衣裳を着ている。
『なんでしょう、王位継承候補よ』
ヴィルヘルムスは男性の平均身長よりもやや背の高いオーフを見上げると、一瞬息を吸い、それから意を決して口を開く。
「アナタはこの言葉でも会話ができますか? オーフ」
ヴィルヘルムスの言葉にオーフはその長いまつげを震わせ、それからゆっくりと微笑んだ。王宮の式典などでしている神秘的な笑みとは違う、親しげな微笑みだった。
「はい。よく聞こえておりますよ、ヴィルヘルムス」
相手はごく自然に、人間と同じように返事をした。深い響きのある声だった。
ファムが言葉が通じない精霊に対し、普通に人間にするように話しかけていたので真似してみたのだが、ヴィルヘルムスは結果に驚きよりも呆れた。自分たちはわざわざ面倒な手段を使って長年精霊達と交流してきたのだ。
「こうやって話せるのに、どうして今まで精霊術で会話していたのですか?」
オーフはヴィルヘルムスの言葉に首を傾げる。
「……人間が好きでやっているのかと。何か人間同士で決まりでも作ってあるのかと思っていました」
精霊術は気脈もしくは自分の命脈を用いて強制的に精霊へと干渉する。だが単に精霊達と会話するだけなら精霊術は必要ないのだ。
「私は精霊術を学院で学びましたがそんな事知りませんでしたよ、オーフ」
「精霊術は人間が作ったものですから」
オーフは言いながら歩き出し、話を続ける。ヴィルヘルムスはその後についていく。
「本来なら話しかけるだけでいいのですが、“人でない姿をした精霊”に対しては少々コツが必要ですから、人が精霊を知るにつれ、次第に言葉が通じない存在だと思いこんでいったようですね」
使われていない談話室へと案内するとオーフはそこにあった椅子へ腰掛け、向かいの席へ座るようヴィルヘルムスを促す。
「この事に気づいた人に会うのは十年ぶりくらいですかね」
そう微笑んで告げてきたオーフを見て、ヴィルヘルムスは相手が喜んでいるらしい事に気づいた。十年以上王宮に出入りし、この精霊ともやりとりしてきているが、こんなに積極的に話しかけてくるのはこれまで見たことも聞いたこともない。
「我々に気付かせてくれてもよかったのではないですか? 言葉が通じると」
「昔はそうしていましたが、いつも命令口調であったり、中身のない御機嫌伺いの文言が多くて退屈してくるのです。退屈は精霊が一番苦とするものなのですよ。中身のない、くだらない会話をさせられるくらいでしたら、精霊術で手短に話しかけられる方がまだマシです」
「……そうですか」
麗しく神秘的な美しい外見を持つ光の精霊は、けっこう人間くさかった。
「ところでオーフ、いくつか尋ねたいことがあるのですが」
「なんでしょう」
「緑閑国で何が起きているか知りませんか? 先日あの国の精霊らしき群れが空を飛んでいるのを見かけたんですが」
ヴィルヘルムスの言葉にオーフが目を細める。
「空を?」
「ええ」
オーフは数秒間どこか遠くを眺め、無言になった。
「……あそこの主だった精霊は皆国を出てしまったようです」
「精霊達はどこへ向かったのですか?」
「他の精霊の邪魔にならない所でしょうね。今はまだ移動中のようですが」
「どうしてそんなことになったのですか?」
「詳しくはわかりませんが、何か身に危険が迫る事が起きているのでしょう。数年前から物騒な人間の集団がいると話には聞いていました」
精霊はどこか寂しそうに首を振る。
「精霊がいなくなると国はどうなるのでしょう」
「すぐには大きな変化は起きないでしょう。ただ、我々が見守り、手助けすることがなくなるだけです。災害が増えたり、他国からの干渉にさらされやすくなるでしょうね。あの国の人間は精霊達の信頼を失ったのでしょう」
あの国は王政だがここ最近王族や貴族達の構成にそう変化はなかったはずだと、ヴィルヘルムスは両手の指先を突き合わせながら自分の記憶を探る。国の一般階級を探れば何かわかるだろうか?
「他の質問はありますか?」
「ええ。精霊には人間作った物を真似た姿のものがいますか? 子供の玩具のようなものです」
「玩具の姿の精霊ですか? ええ、よくいますよ」
オーフはあっさりと答える。ちなみに人間の精霊学にそんな情報は存在しない。
「人間の生活を観察するのが好きな精霊や、子供と遊ぶのが好きな精霊はそういった姿をとるのです。ちなみにそこにもいます」
精霊が指さした先を振り返って見るが、そこには壁際に飾り棚があるだけだった。他国から贈られてきた絵の描かれた花瓶や皿、陶器の人形などが置かれ、棚の隣にはこの国の風景を描いた絵が飾られている。
「どこですか」
ヴィルヘルムスが問いかけると、オーフではなく、花瓶がカタリと音をたてた。
「まさか……」
彼は棚に近づいて花瓶を持ち上げるが、どう見てもただの花瓶だった。陶器特有の滑らかさと、冷たく硬質な手ざわり。背の高く、大ぶりな形と、厚みの薄いことから青嶺国の名産品であることがわかる。裏には窯元の正式な印もある。どう見てもただの花瓶だった。
ご機嫌な精霊に冗談を言われたのかといぶかしんでいると、花瓶の絵柄が変わった。高山の雄大な風景を描いていたものが、青空の下、草原で並んで立つ若い男女になる。男は黄色っぽい髪で、女性は黒い髪に青空と同じ服を着ている。さらに眺めていると絵の中の二人は体を寄せ、顔を寄せ合いーーー
衝動的にヴィルヘルムスは花瓶を床に叩きつけようとするが、花瓶は割れることなく途中で一回転し、犬のような四本の足が生えて見事に床に着地した。そして駆け足で逃げオーフの足元へ身を寄せる。
「……見てたんですか」
「何をですか?」
何かを含んだようなオーフの微笑みに、ヴィルヘルムスは疲れを覚えた。
「言ったでしょう? 人間観察が趣味の精霊もいるのです。何も遮るものがない草原でしたし、“みんな見てましたよ”」
その後、ヴィルヘルムスは王宮じゅうに精霊を探す探知術をかけ、その結果に絶句し、他の人間には誰一人内容を喋らなかった。
「世の中には知らないほうがいいこともありますよ……」
オーフとヴィルヘルムスが話していた緑閑国の話は、発展してライナちゃん達が巻き込まれた事件につながります。
前兆現象として、精霊は国を去っていたのです。