2 本と図書館
広場の近くにはそこそこの規模の図書館がある。
その事を告げて目的の場所の説明をすると彼女は知らないと言うので、ヴィルヘルムスは案内を申し出た。
始めは遠慮され断られたが、あれこれ説明して彼女を納得させた。
自分は何度もその図書館に行っているのでどこにどんな本があるのか把握している。必要な本がどれかも自分ならすぐにわかる。それにすぐ近くだしそんなに時間もかからない。散歩ついでだからまったくもって自分には迷惑でも手間でもない。
「じ、じゃあお願い」
「ええ」
「私、図書館に初めて入るの」
図書館の重厚な木製扉を抜けたとき、声を潜めて彼女は言った。こわごわと柔らかいカーペットを踏むと、何度か足踏みをする。
「誰でも入れるところですが」
「ここって立派な建物じゃない。彫刻とかいっぱい飾ってるし。貴族とか学者の人しか入れないかと思ってた」
何者かの目線を気にするように彼女はやや身を屈め、ヴィルヘルムスの後をついて歩く。
「立ち入り禁止の場所もありますが、ちゃんと掲示がでています」
そう言って掲示を指差せば、彼女はちいさく口を尖らせる。あきらかに取り繕うような顔つきだが、不快感は感じず、今度は胸の内がくすぐったくなった。
ヴィルヘルムスは黒髪の女性とともに目的の書架にたどり着くと、棚の手に取りやすい位置にある厚みの少ない本を一冊手に取る。
隣で彼女も似たようなものを手に取り、首をかしげながら頁をめくる。
「これを読めば花が売れるようになるの?」
「内容を理解すれば、ですが」
彼女はひとつの頁をじっと睨んでいる。難しい内容なのかもしれない。見た所彼女は学院に通ってはいないようだし、詳しい解説があったほうがいいのかもしれない。隣で説明でもしようか。
ヴィルヘルムスがそう考え、そして言葉を発する前に彼女は顔をあげた。
「なんとか読めそう。これ、すごく役に立ちそうだわ」
その言葉をきいてヴィルヘルムスはどうしてだか残念な気持ちになった。
「その、いくつか専門用語が出てくるかもしれません。ほら、こことか」
そう言いながら彼女の開いている本の一箇所を指さす。近づいた拍子に彼女の髪からふわりと花の香りがした。
彼女はヴィルヘルムスの指差した箇所を見て睨む。それから顔をあげて彼の方を見る。
「あの、わからないところがあったら、今度質問しても良い? 暇な時でいいから」
遠慮がちな様子ではあったが、彼女からの申し出にヴィルヘルムスは強い喜びを覚えた。だがそれを表に出さず、当たり前のように、自分がそうする事が当然であるかのように振る舞う。
「ええ。わかったこと、わからないことをそれぞれ書き残すといいですよ。それを見れば説明しやすくなります」
「うん」
彼女はまっすぐにヴィルヘルムスをみて笑顔を浮かべた。黒い髪に縁どられたその華やかな表情を彼は何時までも眺めくなる。胸の内が暖かくなり、どうしようもなくむず痒くなるのを感じる。それは今すぐその場で声を上げ、爪をたて、掻きむしりたいくらいのものだった。
「やっぱりいい」
我に返ると彼女は暗い表情になって、本を棚に戻していた。
「どうしてですか?」
ヴィルヘルムスが己のむず痒さに意識を向けている間に何があったのだろうか。自分が何かしたのだろうかと不安になる。
「私、きっと本を借りれない。親死んじゃったし、この国で親類とかいないし」
彼女はヴィルヘルムスを見ること無く早口でそう言うと歩き出した。向かう先には図書館の出口しかなく、慌てて後を追う。
「後見人は?」
彼女は黙って首を振る。それからまた微笑んだ。どこにも暗い感情がみえない、すっきりとした笑みをうかべる。
「まあしかたないか。いいの、ここに入れるって知っただけで充分。時間見つけて読みに来るから」
ヴィルヘルムスもこの国の仕組みをそれなりに知っている。身分を保障する血縁者や後見人がいないとどういった事になるのかも。
彼女はずっとこうして生きてきたのだろうか。後見人や縁者がいないことがどれだけ彼女を孤独で狭い世界に取り残させていたのだろう。なのに、なぜこうも
「教えてくれてありがとう。私のこと、あまり気にしないで。ここを知れただけでも、すごく助かったんだから」
「大丈夫です。借りられますよ」
気がつけばヴィルヘルムスの口は勝手に動いていた。
「少しここで待っていてください」
彼女を閲覧席へ座らせ一人司書のいる貸し出しカウンターへ向かい、司書官長に手紙を書き、受付にいた司書官にも同様の手紙を書き、それぞれに自分の名前と、自分に与えられた法術の“印”で王位継承候補である証を記入した。
「ただいま実習の試験政策の一環でこちらを利用しています。あちらにいる女性にこの本を貸してください」
ほとんど即興だったが、ヴィルヘルムスの表情の乏しさから受付は勘ぐること無く、継承候補の印を見て顔色を変えすぐに許可書の発行にとりかかった。
しばらくして彼は許可書と本を持ちしっかりとした足取りで彼女の待つ場所へ戻る。ヴィルヘルムス自身が自分で借りて彼女に渡すことも出来たが、そうすべきではないと感じ、そう感じたままの勢いで行動した。
「尋ねてみたら大丈夫だそうですよ。これを持ってカウンターへ行って手続きをしてきてください」
流れに任せて彼女の右手を掴むと本と許可書を渡す。そのささやかな暖かみと、初めて感じる女性の手特有のやわらかさに彼の心臓は跳ねるように鼓動を強めた。
彼女は目を見開いて受け取り、ヴィルヘルムスと手元を何度も見比べた。
「貸出期間は十日間。規約については発行される貸し出し証の裏に書いてあります。延長は一回だけ可能です。さあ」
彼女は促されるままにカウンターに向かい、しばらくすると貸出証と本を持って戻ってきた。
彼女は何も言わない。そのまま図書館の入り口へ向かい外へ出て行ったのでヴィルヘルムスは慌ててその後を追った。もしかして余計なことをして怒ったかもしれないと不安になるが、図書館を出たすぐ脇の路地で彼女は勢い良く振り返りヴィルヘルムスを見た。興奮気味に頬を赤くしている。
「ありがとう! ちゃんと借りれたの! あなたの言ったとおりだった。あなた本当に良い人ね!」
「ヴィルです」
「ヴィルさん! ありがとう! 本当に! 私はファムっていうのよ」
「ファム」
その名前を口の中で反芻するヴィルヘルムスの前で、飛び跳ねるようにして喜んでいた彼女はその勢いで腕を広げ彼を抱きしめた。
突然のことに驚き、次の瞬間には途方もない心地良さと、甘く夢見るような香りに包まれ彼は呆然とする。そして彼女との間に固い本が挟まっていた事を直感的に惜しんだ。
どうやら早足で図書館を出たのははしゃぐのを我慢していたかららしい。
「ご、ごめんね。いきなり飛びついちゃって」
「い、いえ」
ヴィルヘルムスが硬直したせいか、彼女はすぐに離れ取り繕うように髪を整える。
「そ、それじゃまたね!」
「あ、あの、次はいつ広場にいますか?」
「今度の休日はお店開いてるわ! 暇だったら来てね!」
「ええ! ではあの広場で」
「うん、広場でね!」
ファムという名の女性は大切そうに小さな本を抱えて、何度も振り返って手を振りながら去って行った。
思わず手を振りかえして、彼女の後ろ姿が見えなくなってもヴィルヘルムスは小路から目が離せなかった。彼女のいた痕跡を探すかのように立ち尽くしていると、いつの間にか彼の隣には光の精霊が立っていた。
『わざわざ出迎えですか。オーフ』
『このままだと門限を過ぎてしまいますよ』
『わかっています。今度の改正課題の題目が決まったんです』
『もうですか? 早いですね』
『新しい国営図書館について考えていることがあります。早速今日その試験的な試みを始めました』
ヴィルヘルムスは真っ直ぐに前を見つめ、今までとは違うものを含んだその様子にオーフは思わず目を見開いた。