海の波と国民たち 2
◆
◆
シメオンは眉間に皺を寄せながら水平線を見つめていた。
ベウォルクトに指示されたとおりに操作した機器は先ほどから順調に海水の調査を始めていて、もうしばらくは見守るだけでよさそうだった。
体の痛みはすっかりなくなったが、手足のだるさはいまだ消えない。思考がぼんやりしているのは、先日旅に出てしまった銀髪の大男に言われたことが未だに頭にこびりついているのもあった。
「そのままいくと守りたいもんの傍にいれなくなるぞ。あの羽根の生えたチビはそのうち死ぬだろうな。おまえのせいで」
見下されるように言われ、感情が沸点をこえて、自分から飛びかかってしまった。恐怖に耐えられなくなって戦闘になったともいえた。大男ローデヴェイクは見た瞬間から危険だと、シメオンの本能が叫んでいた。
年齢も経験も体格もあちらの方が上。内容は一方的だった。
サヴァが止めに入り、マルハレータが静止の声をかけなければ死んでいたかもしれない。
「ちくしょう、ならどうすればいいかも言えっての」
シメオンは前髪を両手でわし掴み、海から目をそらした。
しばらくたってシメオンが検査を終えた機材を持って調査基点のテントに戻ろうと歩き出した時、甲高くなったライナの声が響いた。
「いやぁ! こないでっ」
恐怖に染まった彼女の声にシメオンの意識は急激に働きはじめた。
「ライナ!」
ライナは人間が恐かった。
幼い頃から異質の外見を持つ兄への人々の反応を見て来たし、自分も奇病のせいで沢山の人間に、沢山の視線と扱いを受けて来た。
心優しい人もいることは解っている。けれど記憶に残り続ける恐怖とはなかなか仲良くできない。その恐怖心は緑閑国で組織に攫われて決定的になった。
無言のうちに攫われ、言葉のやり取りの無いままに実験物としての数々の扱いをうけて、ライナの心の傷はさらに深くなった。
くろやみ国で治療を受けて生まれ変わったような姿になっても、その心はいまだ傷を負ったままで、女王の保護のもとにゆっくりと時間をかけて癒していこうとしていた。
「操作は難しくありませんか」
「だいぶ慣れてきました。これで何がわかるんですか? ベウォルクトさん」
ライナの持っていた杖は下部が海水の中に沈んでいて、上部についた筒にはめ込まれた林檎程の大きさの画面には何かの計測結果の数値が刻々と変化しながら表示され、記録され続けていた。
一緒に海辺に来ていたベウォルクトがライナの横から画面を覗き込む。顔を布で覆った姿は奇異だが、その内は穏やかで優しい事をライナは知っている。
「今のうちに海の様子を調べておきたいのです」
「どうして今のうちになんですか?」
「ファムさまのおかげで時折、海に波が観測されるようになりました。波が生まれると、船が来ます。本格的に海が変化する前に対策を講じておきたいのです。港も必要になるでしょう」
ライナは海を見つめた。暗く厚ぼったい灰色の空に覆われたそれは、沼と言ってもいいくらいの、静かすぎるものだった。
「シメオンが来たときはあんなに波が高かったのに……」
「まだまだ島の近海は不安定なのです」
「ベウォルクト!」
ライナが見上げると空をゆっくり旋回するゲオルギが見えて、羽の隙間からサヴァがこちらを見下ろしていた。
「どうしましたか、サヴァ」
「小舟が数隻この島へ向かって来ている」
「……なんと」
ライナは杖を両手で強く握りしめた。
ゲオルギは音も無く大地へ降り、サヴァが竜の背から飛び降りてこちらに駆け寄って来た。
「おそらく海賊船でしょう。城へ連絡しました。ワタクシはここで彼らを出迎えます」
「付き合います。ライナ、おまえはゲオルギに乗って城へ戻るんだ」
サヴァはそう言い、顔の鱗のような肌を隠すようにまとっていた外套の風よけの襟を立ち上げ、マフラーを巻き直した。
「シメオンはどうするの」
「俺が探して、一緒に戻る。おまえは心配するな。さあ、行け」
サヴァそう言い、ライナの髪を撫でて、背を押して歩かせる。
「う、うん。すぐに帰って来てね!」
ライナはゲオルギに駆け寄って羽根の根元を掴み、後ろ足を踏み台にして体を持ち上げ、ゲオルギの背中に乗った。風の抵抗をうけないよう、自身の翼は背中の影に隠れるよう小さくすぼめる。
ライナの姿勢が安定するとすぐにゲオルギは力強く飛び上がった。竜の背から地上に残ったサヴァとベウォルクトを見つめると、ベウォルクトが片手をあげた。
「我々もすぐにあとから行きますから、心配しないでください」
上空から見ると、兄が言っていた舟がよく見えた。
一隻からは既に何人か人が降りていて、兄と闇の精霊が立っている場所へ向かって歩いていた。
もう一隻は別のところにいて、すでにそこから降りて歩いて来たらしい数人が、ライナとゲオルギを見て何かを叫んでいる。ライナは身を切るような風の冷たさに身を縮こませ、震える両手を強くにぎりしめた。
不意に、風を切って何かが甲高い音を立てて素早く横切る。
ライナは血の気が引いた。攻撃されている。
ゲオルギは飛ぶ速度をあげた。
「このままだと、私達を追ってお城にたどり着かれちゃう」
お城には女王がいる。
ライナは女王の事が大好きだった。ライナの話を聞いて笑ってくれる人。
彼女は兄の姿を蔑まず、牙を持ったゲオルギを可愛がり、極端な性格のシメオンを受け入れてくれた。そしてライナの体を作り替えて、自分の世界から恐ろしい奇病を追い出してくれた人。一緒に料理を作って、服や装飾品を作って、おやつを食べながらお喋りをして、ライナはファム女王に対して、母親にも姉にも友人にも似た、あたたかい思いを抱いていた。
女王はライナにとって、兄のサヴァやゲオルギやシメオン以外に出来た初めての『大切な人』だった。なんとしても守りたい人だった。
「ゲオルギ、海に向かって」
ゲオルギはライナの言葉に素早く方向転換をして、速度をあげた。一人と一匹に投げかけられる物は、更に増えた。ゲオルギの羽根をかするものも増えてきた。
「ゲオルギ、これ以上は羽根を怪我しちゃう。いったん降りよう」
「ギュー」
不安そうな声にライナはゲオルギの首筋を優しく撫でた。
「隙をみてまたすぐ飛び立てばいいし、時間を稼ごう。すぐに兄さん達が来るから、大丈夫」
着地したゲオルギの元にはあっという間に大きな体格の男達が集まって来た。
「やっぱりだ! 俺の言った通りだろ!」
「みごとな竜だな。本当に野生か?」
「女の子が乗っているぞ」
「羽根が生えていやがる」
ざわめく声に、ライナは不安で顔をあげられなかった。竜の背の高さからの視界でも顔が入らないほど大きな人影が五、六人うごめいている。
「俺たちは何もしない。安心しろ」
「この島は死んだ場所じゃなかったのか?」
「そのはずだが、お頭にきいてみるしかないな。おまえ、名は?」
「おい、お前は何者だ?」
矢継ぎ早に投げかけられる男達の声。
思わずライナはゲオルギの背の上で後ずさりした。すると彼女を捕まえようとする手がいくつも伸びる。
「おい、よせ!」
鋭い声に、ライナの緊張は限界を超えた。
「いやぁ! こないでっ」
◆
◆
「ごきげんよう、海賊のみなさん。私はこの国の女王、ファムよ」
私はベウォルクト達が調査機材を置くために設置したテントの中で、仁王立ちの姿勢で海賊達に挨拶をした。
今回は着替える余裕があったから、漆黒と淡い灰色で染められた手触りの良い生地で作った、裾が広がらない足首までのワンピースを着ている。足元はヒールの高い編み上げ靴。
「怪我をさせたのはこちら側ですが、先に攻撃したのは向こうです」
ベウォルクトがいつもと変わりない調子で説明する。
「わかってるわ。ライナ、大丈夫?」
「だ、大丈夫でう」
ライナが怯えきっている。顔は泣くのをこらえているのがわかるし、羽根の先まで震えているわ
ずっと彼女の手を離さないシメオンは、全身土汚れまみれで、ものすごく不機嫌な顔つきで立っている。
「よく守ったわね、シメオン」
「はい」
「でも相手に怪我させるのはよくないわ」
「……うん」
私たちが王の間で待機して、サヴァとベウォルクトが海賊の代表に会っている間に、先に戻ろうとしていたライナとゲオルギが別行動していた海賊達に襲われた。
ゲオルギを野生の竜だと思って捕まえようとして、その背中に羽根の生えた女の子を見つけて、これまた捕まえようとしたそうよ。
それに気付いたシメオンが殴り込んで来て、大乱闘。
なんとか死者は出なかったけど、怪我人が出たので、治療器具を携えて私とレーヘンは海辺までやってきた。お城は今ハーシェがお留守番してくれている。
「怪我人に関しては、こちらで治療を引き受けましょう」
「わかった。先に手を出したのはこちらだ。あとで対象者にはしっかり罰を与える」
海賊達の代表は、うなずいてそう言うと、ライナの方を向いた。
「怖がらせてすまなかったな、嬢ちゃん」
相手の右目はつきぬけるような青空の色だった。この灰色に覆われた国ではめったに見られない、懐かしい色ね。
「それで、あなた達、いったいうちに何の御用かしら?」




