思いと国民たち 4
波打ち際に静かに降り立つ黒い竜にメールトは思わず身構えるが、降りてきたのは全身鎧の騎士ではなく小柄な人影だった。
「持ってきました」
人影は少年のように思えたが、黒い外套と同じく黒い帽子で顔まではわからない。メールトは続いて隣のエクレムを見る。
「あれは駄目だ。昔のユミットと同類だから、目を合わせるなよ」
「了解……」
ナハト代表は少年から布で包まれた荷物を受け取り、その間に二人の拘束は解かれた。
「どうぞ。ジェスルさんにお疲れさまですとお伝えください」
「は、はい、わかりました」
代表はエクレムに荷物を渡すと、メールトにも手のひらに乗る程の小さな包みを差し出す。
「怪我によく効く薬です。よかったらどうぞ」
「これはどうも、ありがとうございます」
メールトは驚きつつも礼を言い、固定した腕を庇いながら受け取る。
「あとはこっちで勝手にやる。好きに報告しろ」
銀髪の女は興味が失せたようで、メールトにはかけられていたことすら気づけなかった何かの法術を解除すると、黒竜の佇む方へ歩いていった。
「そ、それでは失礼します」
「はい」
エクレムが挨拶をすると、ナハト代表が手を振りながら穏やかに送り出してくれた。
二人はしばらく無言のままに歩き、岩場を抜けたところでどちらともなく小走りになる。見聞きしたものについて話す間も惜しんで向かうのはあの自由すぎる上司の元だ。
だが騎士団の野営地に差し掛かったところで羽ばたきの音がかすかに聞こえ、二人の足が一瞬止まる。
思わず闇色の空を見上げると、人一人分ほどの大きさの影と複数の小さな影が横切っていく。行き先は自分たちが来た方向だった。
「ど、どうしようメールト……」
「エクレム、いいか、こんな時は隊長に丸投げするんだ。あの人の判断力だけは信頼できる」
メールトは小包を握りしめ、力強く言い切った。
「そうしよう。ああ恐かったなぁ」
エクレムは鼻をすすり、それから再び歩き始めた。
ナハト代表は思ったより話しやすく、用事は簡単に済ますことが出来たが、代表以外の存在はどれも彼らの手に余るものだった。
「ふーん、ジェスル『さん』か……」
ジェスルは部下達から恨み言混じりの報告を受けつつ食事を摂っていた。
「この魚の揚げ物かなり美味いな! この系統の料理を作る奴なんてくろやみ国にいたっけか」
「そんな事より隊長、連れていかれた奴が誰か調べなくていいんですか? 助けに行ったりは」
考え込んだ上司へ向けて、片手で器用に人数分の茶を用意していたメールトが尋ねる。
「ああ、救護隊の方角から連れていかれたんだろ? あいつはいいんだよ。他所から紛れ込んでた密偵みたいな奴だ。本職だし自分で対処するだろ」
「えっ、そんな奴がうちにいたんですか」
ジェスルから分けてもらった魚料理を皿の上で三等分に分けていたエクレムが手を止め、驚きの声を上げる。
「けっこう紛れ込んでるぞ。ああ、俺達以上の立場の人間はだいたい把握してるからな! 別に出入り自由ってわけじゃない。お、これは記憶にある味だ」
根菜の酢漬けを噛んでいたジェスルは部下たちの不安そうな目つきに気がついた。
「ここがあんまり単純な組織じゃないってだけだ。それ以外でもまあ色々あるみたいだが、今はあんまり気にすんな!」
◇
◆
日が昇り始める少し前、サヴァは普段どおりに目を覚ます。起き上がると疲労は残っているが昨日ほどではない。身体の数カ所にあった打ち身が自国の塗り薬ですべて治っているのを確認すると、手早く身支度を整え、妹達を起こさないよう静かに船室を出る。
甲板に上がると薄明かりの空の下でローデヴェイクが無造作に横になっていた。眠っている訳ではないようなので軽く挨拶をすると、気の抜けた声が返ってくる。
声で起きたのか、サヴァに気付いたゲオルギが甲板上の簡易天蓋から出てきたので体調を確認しつつ鼻先をなでてやる。
それから普段通りに竜の背に鞍をとりつけると槍を持ち、サヴァは他の皆が目覚めないうちにゲオルギと共に海に飛び出した。
ゲオルギは滞在している小島が見える範囲をゆっくりと周回するように飛んでいく。
サヴァは最小限の指示だけするとあとは彼の好きなように任せた。見廻りを兼ねてはいるが、この飛行は昨日一日ずっと妹達の護衛をしてくれていた彼をねぎらう意味もあり、朝の軽い運動として必要なことだった。
黒い竜はまだ夜の気配が濃い上空へ向かって力強く羽ばたく。
しなやかに動く翼は風と周囲の気脈をうまく捉え、どんどん加速して高度を上げていく。
そうするうちにはるか遠くの、空が海へと続くあたりから強烈な光が現れサヴァとゲオルギの肌を照らす。
あたりは雲ひとつなく晴れ渡り、海はどこまでも広く、他の島影も鳥の姿すら見当たらない。
ゲオルギが鳴き声を響かせ羽ばたきを強める。
竜の首筋が朝の光で輝き、黒鱗の奥に透けるようにうっすらとかつての深い緑色が見え、サヴァは懐かしさを覚えた。
かつて瀕死の妹を抱え、わずかな情報を頼りに存在が不確かな国を目指しひたすら海の上を飛び続けた。あの時の空や周囲の景色がどんなだったのか、サヴァの記憶にはない。
覚えているのは自分はもう死んでいるのではないかと何度も考えた事。生きているという実感など無い状態だった。
それが今でもこうしてゲオルギと共に風を感じ、明るい空を駆けることができている。
「楽しいか、ゲオルギ」
「ギュルルル!」
周囲がすっかり明るくなり、風の匂いが変わる頃になるとゲオルギは満足したようで、サヴァに合図するようにひと鳴きするとゆっくりと高度を下げ始める。
羽ばたきはせずに海面近くを滑るように飛び、サヴァはくろやみ国近海とは違う明るい色の水の中に魚の群れや、何者かわからない大きな影などを見た。
小島のやや離れた位置に大空騎士団の大型船が停泊しており、近くの岸には騎士団員達の天幕が点在している。その反対側に接岸している中型船がくろやみ国のものだ。
ゲオルギはくろやみ国が滞在している側の近くに良い具合の砂地を見つけ、軽やかに着陸した。船に直接戻ると皆を起こしてしまうと考えたらしい。
サヴァはそのまま歩いて船の方角へ向かうよう指示を出そうとしたが、意外な人物が視界に入り動きを止める。
「おはよう。良い朝だな」
普段は整えている紫の髪を風に煽られるままに任せ、その男は微笑みながらこちらに歩いてくる。
「……おはようございます」
サヴァは大空騎士団長を見て挨拶を返しはしたが、その手にあるものを見て近付くことはやめた。
「その様子だとお互い大きな怪我はしなかったようだ」
エシルはサヴァの警戒を気にすることなく声をかけながら近づいてくる。彼の格好は下は騎士服だが上は簡素なシャツ一枚で、騎士団長の立場としてやってきた様子には見えず、かといって見たところ昨日の怪我や治療の痕跡もない。
朝の散歩中にたまたま遭遇したと言い出しそうな格好だが、サヴァにはそう思えなかった。
「せっかく時間があるんだ。もうひと勝負お願いしたい」
騎士団長が持っているものは二振りの抜き身の剣だった。
サヴァはエシルの目を見てこれは本気だろうと判断し、砂地に槍を刺し立て、竜の背から降りて風よけに着ていた外套を脱いで鞍にくくりつけ、ゲオルギに先に船へ戻るよう指示する。
「朝食までに戻ると伝えてくれ」
ゲオルギは鼻先を一度サヴァの手に押し付けると、足取り軽く船の方へ走っていった。
「そうこなくては」
エシルから剣を受け取ると重心と刃を確認する。やや幅広で両刃の、大空騎士団の騎士がよく使う形式で、サヴァの体格に合わせた長さのものだった。よく使い込まれており細かな傷が多く、数箇所の刃こぼれもある。
「うちの訓練用具の中から破壊しても怒られない物を持ってきた。単純な造りで頑丈さは信頼できるが、まあ見ての通り切れ味などは期待しないで欲しい。さあ」
説明を終えたエシルは構えも溜めもなく斬りかかってきた。
「……!」
サヴァは調べていた剣でそのまま受けるが、思わず身を引き受け流す。
様子見などではなく、いきなり本腰の重さだった。
三度ほど打ち合うがエシルの勢いは変わる気配を見せない。だがおおまかに力量は把握できたのでサヴァの肩から力が抜け剣撃が加速する。
「やはり鎧が無くても鋭さは鈍らないな。ユリアが執心するわけだ。出来ることならここで無力化しておきたいところだが、私情の入りすぎは良くないか」
そう言いながらもサヴァの剣を受けるエシルは楽しげだった。
「ジェスルは武人としての探究心はあまりないようでね。昨日は無粋な真似をしてしまった」
演習の終盤は錆精霊が途中で離脱したため、途中から何故かエシルとズヴァルトの一騎打ち状態となっていたが、両者の装備は既にぼろぼろで、事態に気づいたジェスルがすぐに終了の合図を出した。
「いや……俺は気にしていない」
昨日は勝敗をつけることが目的ではなかったので、サヴァはそれで終わりだと思っていたが、エシルは物足りなかったらしい。
「今日はあの鎧を着ないのか?」
「あれは……今日はこの姿でいさせてもらう」
鎧は錆精霊との演習の結果を記録する目的を果たし半壊した。精霊のレーヘンが同行していれば機材がなくてもすぐさま修理できるが、今回は修復にあと半日必要だとローデヴェイクに言われている。
「以前から思っていたんだが、あれはどうやって着脱するんだ」
「……説明しづらい。服のように着込むからわりと早く済むが、全てを外す時は少し手間がかかる」
サヴァはどこまで話していいものなのか考えつつ、しかし自分が嘘を言ってもこの相手にはバレるだけだろうと思ったので、ある程度は素直に答えることにした。
「錆精霊は何故途中でいなくなったんだ?」
「あれは途中で飽きたのと、空腹になったかららしい」
「空腹? そうか、あの精霊は食事をするのか」
「そうだ」
戦いながらこれは自分から情報を引き出すつもりで仕掛けてきたのかとサヴァは考えた。慣れない獲物での近距離戦でエシルに怪我をさせるか、勢い余って殺してしまうのではという迷いがあったが、その気遣いは投げ捨てることにした。
「準備運動は終わったようだな」
サヴァの剣から重みが増したことに気付いたエシルはかすかに笑みを浮かべる。
「騎士団長自ら情報収集か?」
「後から言い訳するのに必要なんだ。もちろん私の一番の目的はこちらだ」
そう言ってエシルは昨日以上の速さで切り込んできた。
「三剣勇などと呼ばれる程度には剣を扱えるようになったが、最近忙しくてね、腕を磨く機会があればこうして飛びついてしまうのさ」
2021/03/28 ジェスルの会話やサヴァの描写を少し加筆。