精霊と 1
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そこは静かな場所だった。ほとんど何も見えない聴こえない、誰もいない、とても静かなところ。
目の前にはうっすらもやがかかった湖。波はない。平らな湖面には何も映ってはいない。その水辺のふちにベウォルクトは佇んでいた。
少し前までは意識の一部分だけをここに持ちこんできていたが、今は意識どころか身体もまるごとここにある。そのためベウォルクトの全身はくろやみ国にあった時と同じく布に覆われており、その表情はわからない。
ここは広大な精霊界の中でもとりわけ静かな場所だった。人が迷い込む外縁部よりもさらに奥の、ごく一部の精霊しか知らないような辺境。ベウォルクトのお気に入りの場所の一つだ。精霊界は元々そんなに賑やかな場所ではないが、ここはとりわけ誰も来ない。静寂で、空っぽでいられる場所だ。このまま居続ければそのうち意識があたりに混ざり、個が消え、ベウォルクトという存在は終わるだろう。
そのつもりでベウォルクトはここに来た。
闇の精霊は人間でいうまどろみに似た状態でぼんやりとこれまでの事を思い返していた。最後に過ごした時間が賑やかで良かったと。
「……?」
突然、湖面に波がたった気がした。
本来そんな事が起きるはずのない場所だ。見間違いだろうか? 気を取られたベウォルクトはわずかに身を乗り出す。
そしてその頭に突然衝撃を受けた。
いきなりの事に驚いて、ベウォルクトは受け身もとらず顔から砂利の中へ倒れた。驚きの中、背後から聞こえてきた声は予想だにしない相手のもの
「よくも全て私に放り投げて引きこもってくれたわね、べウォルクト!」
「フ、ファムさま!?」
倒れたまま振り返り、そこに拳を振り上げた状態で立っている、よく知っている女性がいることを確認したベウォルクトは驚いて声を上げた。本当に驚いていた。ここまで驚いたのは自分が自分として誕生して以来初めてかもしれない。
「なんでまた精霊界にいるんですか!」
精霊界は本来人間がいて無事でいられる場所ではない。人と精霊は構造が違うのだ。長くいては彼女の心と身体が耐えられない。
「アンタが引きこもっているからに決まってるじゃない!」
焦るベウォルクトをよそに怒り心頭のファムは両手を腰に当て、倒れたままの精霊を上から睨みつける。
「いつの間にかお城のシステムの中からいなくなってるし! あちこち探したらこんなところにいるし! いくらレーヘンが探しても見つからないわけだわ! もう、あちこちに頼み込んだのよ? みんなに補佐してもらってここまで来ているんだから。大変だったのよ? ああもう、やっと見つけられたわ!」
「補佐……? みんな……?」
彼女はいつもどおりの長い髪を背中に流し、普段着の淡い桃色のワンピースを着た姿だが、腰や腕にはきらきらと輝く細いリボンが巻き付いており、それらの先は霧に包まれた背後へと消えていた。よく見れば巻き付いているのは銀色や灰色、青と赤のリボン、さらに金属が錆びたような色をしたいびつなものも混じっている。
「あなた達はもうワタクシがいなくても大丈夫でしょう」
ファムの視線から外れるように頭をずらし、べウォルクトは言った。ファムによって新しく国が建ち、国民も増えた。同じ闇の精霊であるレーヘンも立派に成長した。城の機能も問題ない。影霊だって無事に完成出来た。もうベウォルクトがやることはない。
そう考えて、城への攻撃がやんだのを確認したところでベウォルクトは全ての接続を切ったのだ。
砂利を見るベウォルクトにファムはため息をひとつ吐く。
「大丈夫じゃないから呼びに来たんじゃないの」
そう言ってファムは手を差し出す。
「帰りましょ。やっぱりアナタの小言が聞けないと寂しいわ」
黒い瞳がまっすぐにベウォルクトを見つめる。
ベウォルクトはとっさに返事ができなかった。ここまで強い視線を人間から受けるのは初めてだった。それに、こんな形で人間に必要とされるのも。
「……はぁ」
差し出された手と、ファムを交互に見上げ、少しの間をおいてベウォルクトはそっと手をのばすとファムの手を掴む。すると精霊の身体は引っ張りあげられ、無理やり立たされると身体についた砂利や砂を払い落とされる。
「さあ、すぐに戻るわよ! ……と言いたいところだけれど、その前にもう一つやることがあるわ」
そう言うと女王は有無をいわさず精霊の手を掴んだままずんずんと歩き出す。
「まだ何かあるんですか? また城が襲われましたか?」
ベウォルクトは半信半疑で尋ねる。自分がいない間にまた国が襲われて危機に陥っているのかと思ったが、レーヘンやマルハレータなどがいてそんな事態にはならないだろうと考えなおす。では一体何だろうか?
「いいえ、国は大丈夫。ここから先は単なる自己満足なだけ。でも私を女王に据えたんだから、アナタも私が何をやるのか最後まで見届けなさい」
そう言ってファムはまっすぐ歩いていく。
「……わかりました」
「大丈夫。そんなに時間はかからないと思うから」
ベウォルクトには彼女の目的は分からなかったが、大人しくついていくことにした。
「もう、歩きにくいわねここ」
大股で歩きながらファムが文句を言う。歩いていくうちに灰色だった砂利は黄色味を帯びたきめ細かいものに変化し、足首まで埋もれるようになってしまった。だがそれでも彼女は歩みを止めない。
「たぶんこの辺りね」
そう言ってファムは耳に手を当て何かを聞き取る仕草をする。よく見れば彼女の耳には水色の石のイヤリングが飾られている。
「手を離すけど、逃げないでよ?」
「逃げませんよ。目的を教えていただければ手伝います」
そんな会話の後にファムはベウォルクトから手を離し、足元にうずくまる。彼女の邪魔をしないようにと身体に巻き付いているリボン達がふわりと空中に広がる。
「何か道具……砂だらけで何もないわね」
辺りを見渡しそうつぶやくと、ファムは足元の砂地を手で掘り返し始めた。掻きだした砂は空中に放出した途端に消えていく。
「やっぱりこの下だわ。ベウォルクト、ここよ。手伝ってちょうだい!」
そう言いながらファムが一心不乱に掘っていくので、ベウォルクトもしゃがんで一緒に掘りすすめていく。
「いた!」
大人の上半身がすっぽり収まるほどの深さになった頃、何かに気付いたファムが表情を明るくし、手を早める。そこから出てきたモノを見てベウォルクトはファムの意図に思い当たり思わず手を止めた。
「まさか……」
出てきたのは波打つ水色の髪をした少年姿。かつて白箔国でファムを助けた精霊だった。固く閉じられた瞼に周囲の砂と同化しつつある肌の色。人間でいうところのほぼ死んでいる状態。
「さあ、引っ張りだすから力を貸して」
「このまま埋まっていればそのうち分解されますよ」
ベウォルクトがやろうとしていたのとは違う、何かによって害された精霊が消滅しつつある姿だ。
「でも望んでこうなった訳じゃないわ。人間に脅されて無理やりこんな状態にされたのよ?」
そう言ってファムは精霊の顔についた砂をそっと手で払っていく。
「精霊ですからそういった事は気にしませんが……」
会話しつつもファムが周辺を掘り出し、ベウォルクトが両脇に腕を差し込んで精霊を引っ張り上げる。
精霊にとって死は重くない。人間でいうと少し疲れたから椅子に腰掛けて休憩するという感覚だ。身体は大気中の霊素となり、意識は分解されて精霊界と溶けて混ざり合い、そのうちまた新しい精霊に再利用される。ただそれだけだ。
「でも、目的のある旅をしていたって言うし、このまま消えちゃうのってあんまりじゃない?」
そう言う彼女の髪は根本から毛先まですっかり銀髪だった。
「まさか……本気ですか?」
「言ったでしょ? 自己満足って。やってみなければわからないわ」