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ぶつかりおじさん突撃青年  :約4000文字 :ぶつかり系

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/08/02

「あの!」


 とある夜、駅前の歩道。仕事帰りの会社員や学生、買い物帰りの人々が絶え間なく行き交い、飲食店やコンビニの灯りがアスファルトを白く照らしていた。その雑踏の中、青年は萎みかけた風船のように背中を丸めた一人の男に声をかけた。

 男は足を止め、ゆっくりと振り返った。

 スーツ姿のごくありふれた会社員風の中年だった。ネクタイはわずかに緩み、肩が落ち、表情に疲労が滲んでいた。

 男は青年の顔をじっと見つめると、何度かまばたきをした。


「あ、あの……」


「え……は、はい?」


 青年がもう一度口を開くと、男は自分が呼び止められたことを確信したらしい。だが、その表情には困惑の色が濃く浮かんでいた。

 青年もまた戸惑っていた。気づけば声をかけていたことと、その声が思った以上に大きかったことに自分で驚いていたのだ。  

 周囲の通行人が何事かとこちらへ視線を向けていることに気づくと、青年は気まずそうに唇を噛み、わずかに顔を伏せて男との距離を小走りで詰めた。


「あ、あの……あなたは」


 青年は喉を鳴らし、唾を飲み込んだ。


「ぶつかりおじさん……ですよね?」


 ぶつかりおじさん――駅構内や繁華街などの人混みで、女性だけを狙って故意に体当たりを繰り返す男のことである。

 初めてその行為を目撃したとき、青年は思わず息を呑んだ。肩をぶつけられた女性が驚いて振り返る一方で、男は何事もなかったかのように歩き去り、そのまま次々と別の女性に体当たりを繰り返した。それも男やカップルは自然に避け、女性だけを狙っていた。その動きは偶然では済まされない、異様な執着を感じさせた。

 その光景は青年の脳裏に強く焼き付いた。それ以来、青年は駅に行くたびにぶつかりおじさんの姿を探すようになった。見つけては距離を取りつつ、その行動を観察していた。

 そして今夜、見覚えのあるその背中を見つけた瞬間、胸の奥から凄まじい熱が一気に込み上げた。考えるより先に足が動き、気づけば声をかけていたのだった。


「わ、わからない。な、なんのことか……」


 男は明らかに狼狽し、視線をあちこちに泳がせながら踵を返そうとした。

 すると青年は反射的に男の袖を掴んだ。


「待ってください!」


「ち、チンキシ……!」


「落ち着いてください。騒ぐと警察を呼ばれますよ」


 青年は声を潜めて言った。


「け、警察なんて……私はね、そ、そんな、ぶつかりおじさんなんてものでは……」


「ええ。正確には“元”ぶつかりおじさんですよね?」


「……っ」


 男は言葉を失った。何か言い返そうと口を開いたものの、ただぱくぱくと唇が動いただけで声にならなかった。


「以前からあなたのことは見ていました」


「……」


「ここの駅でぶつかっていましたよね」


「……はい」


 男は短い沈黙の末に観念したように小さく頷いた。肩から力が抜け、その身体はますます萎んでいくようだった。


「どうしてぶつからなくなったんですか?」


 青年は静かに問いかけた。


「それは……」


「SNSで話題になり始めていましたよね。あ、だからですか。警察が本格的に動く前に引退した、と」


「……いや、そういうわけではありません」


「え?」


「ただ……疲れてしまったんです」


 男は夜空を仰ぎ、深く息を吐いた。


「いくらぶつかっても女性たちは避けようとしないんです。最初は空間認識能力が低いせいだと思っていました。でも……違った。そもそも彼女たちには自分が避けるという発想自体がないんです。『相手が避けて当然』『スマホを見ていたんですけど』――そんな態度の人ばかりでした。女性同士がぶつかった瞬間を見たときは、思わず乾いた笑いが出ましたよ。私がぶつかったところで何一つ変わらない。結局、無駄なんだと気づいた。それで疲れてしまったんです……ええ、疲れたんですよ」


 男は噛み締めるようにそう語ると、ゆっくり視線を落とし、足元のアスファルトを見つめた。


「ま、その『空間認識能力が低い』という話自体が間違いだったらしいですけどね。最新の研究では、むしろ男性のほうが低いとか」


 男は肩をすくめ、自嘲気味に笑った。


「……それは女性に媚びた大学教授が立てた風説でしょう。普通に歩いていても女性はぶつかってくるし、横に広がって歩くじゃないですか」


「それが彼女たちにとっての“普通”なんですよ。男性は普通に避ける。女性は普通に並んで歩く。そういうものなんです」


 男はそう言うと、再び深いため息をついた。長い時間をかけて体に溜まった鬱屈を吐き出すような、ひどく重たい響きだった。

 そのときだった。男の袖を掴んでいた青年の手にぐっと力が入った。


「でも、そんなのおかしいですよ」


「え?」


「もっと女性にぶつかっていくべきです」


「は?」


「あなたは何も間違っていない」


「いや、え?」


「間違ってなんかいるものか!」


 突然青年が声を張り上げた。その声は雑踏を切り裂くように響き、周囲を歩いていた人々の視線が一斉に二人のほうへ向いた。男は青ざめた顔で辺りを見回しながら居心地が悪そうに視線を泳がせた。


「あなたは時代の象徴なんです。おかしいことにはおかしいと、真正面からぶつかって抗議する。その旗手だ!」


「い、いや、落ち着いてくださいよ……みんな見ていますから……」


 男は震える手で青年の腕を押し返し、どうにか袖を掴んでいた手を振りほどいた。しかし青年は一歩も引かず、熱を帯びた目で真っすぐ男を見据え、胸を叩きながらじりじりと距離を詰めていく。その視線の先には、男以外の存在など映っていないかのようだった。


「もう僕たちしかいないんですよ……。他の男たちはみんな腑抜けだ。だから! 僕たちが! 引っ張るしかないんです! ぶつかってぶつかってぶつかって、ぶつかるしかないんですよ!」  


「き、君はまさか――あっ」


 男が後ずさったそのときだった。青年の肩にぽんと手が置かれた。

 青年は反射的に振り返った。そこには制服姿の警官が二人立っていた。

 その姿を目にした途端、青年の表情は一瞬で強張り、喉の奥から掠れた息が漏れた。


「君だね。最近駅構内で女性に故意にぶつかっていたのは」

「防犯カメラの映像も確認しているよ」


 青年はごくりと唾を飲み込み、唇の端をわずかに歪めて笑った。


「だったらどうだっていうんですか……。男子トイレを潰し、女性専用車両を固定化して、その次は何ですか? 女性専用道路でも作ったらどうですか」


「それなら今度できるそうだよ」


「えっ」



 ある年の衆議院議員総選挙。衆議院解散直前に女性総理は演説でこう語った。


『かなり賛否の分かれる法案を提出します。国を二分するほどの大きな法案でございます。だからこそ、国会が始まる前に国民の皆様の信を問いたい。私はそう考えました。そして信任をいただければ力強く進めてまいります。いただけなければ責任を取ります。それほどの覚悟を持って、一歩でも、一歩でも政策を前へ進めたい。そして、非常に難しい政策ではありますが、それでも私は進めたい。そのために国民の皆様に信を問いたい。私はそう考えました』


 選挙の結果、総理率いる与党は歴史的な大勝を収めた。

 そして主要閣僚が女性で統一されたあの日、この国における男性の権利の扱いは大きな転換点を迎えた。

 総理が打ち出したのは、徹底した女性優遇政策だったのである。

 考えてみれば、それは当然の勝利だったのかもしれない。男女の人口比はほぼ半々。女性票をすべて獲得できれば選挙は圧倒的に有利になる。さらにそこへ自らを女性の理解者と称する男や、勝ち馬に乗ることしか考えない男、SNSで流れてくる耳触りのよい言葉だけを信じる男たちの票が上積みされた。


『何かやってくれそうだ』

『物をはっきり言う人だから信頼できる』

『ぶれない感じがする』

『ファッションセンスが素敵』

『女神現る!』


 多くの有権者がそうした漠然とした好印象だけを根拠に一票を投じた。

 そして総理は確かにやってのけた。

 男子トイレの数は半減し、残された設備も大幅に縮小された。便器の数は極端に削減され、その空いたスペースに女子トイレが次々と増設された。それでも女子トイレの列が解消されないと、『男側が公共空間を占有しすぎている』という批判が巻き起こり、女子トイレはさらに拡張された。

 鉄道では半数を超える車両が女性専用車両に転換され、公務員に占める女性の比率も急激に引き上げられた。売春行為は買う側のみが厳罰化される一方で、女性向けの支援制度や補助金は次々と新設・拡充された。

 ストーカー規制法および不同意わいせつ罪もさらに厳罰化され、女性の申告のみで男が逮捕される事例も珍しくなくなった。

 それでも支持率は衰える気配を見せず、総理はホクホク顔で下駄の音を高らかに響かせながら、国会議事堂の廊下の中央を悠然と歩くのだった。


「そちらのあなたは?」


 女性警官たちは青年の手首を背中へねじり上げ、男に視線を向けた。

 関節が軋むその痛みに、青年はぐぎりと歯を食いしばりながら声を絞り出した。


「男が! こんな理不尽を受け入れてどうする! ぶつかっていかなきゃ! ……ねえ、そうでしょう!」


「わ、私は……」


「仲間なの?」


 女性警官たちは眉をひそめた。

 男は青年に視線を向けると、ふっと口元を緩めた。


「いえいえ、女性にわざとぶつかるなんて、どうかしていますよ。そんなことしか女性と接する方法を知らないんでしょうな。まったく、同じ男として恥ずかしい限りです。まあ、私は女性を守るナイトですがね。はははは!」


 笑い声が夜の歩道に響いた。

 その直後、青年は膝から崩れ落ちた。腕はさらに強く背中へねじり上げられ、アスファルトにうつ伏せに倒れ込んだ。女性警官はすかさずその背中に膝を乗せた。体重をかけられて肺の空気が押し出され、息が詰まった。

 男は青年と目を合わせることもなく、そそくさとその場を離れていった。

 周囲では通行人たちが足を止め、次々とスマートフォンを構えてにやにやとした笑みを浮かべた。嘲笑混じりのざわめきが歩道に広がる中、青年はぎりりと唇を噛み締めた。


 ――憎い……。僕はこの世の中が憎い。男が憎い。保身や下心で女の味方をする男が何より憎い。

 こんなチンコなんか切り落としてやる。

 女になって、そして男たちを……。

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