第一章:湯けむりの町(7)
「じゃあ、極楽に行ってくるね」
琴葉は浴衣をひらつかせながら、タオルを手に部屋を出た。
琴葉は脱衣所のカゴに、脱ぎ捨てたパーカーを放り込んだ。
鏡に映るのは、健康的な褐色の肌と黒髪だ。
「……ふぅ」
軽く息を吐き、彼女は浴場の重い引き戸を開けた。
「……わお」
立ち込める湯気。鼻を突く硫黄の匂い。
それらに混じって、どこか甘い、花の蜜のような香りが微かに漂っている。
先客はいない。
使い込まれた黒光りする洗い場と、溢れ出す湯の音だけが、静寂の中に響いていた。
琴葉は掛け湯をして、ゆっくりと湯船に足を踏み入れる。
「っ……あ……」
思わず、吐息が漏れた。
足湯の時とは比べものにならないほどの、圧倒的な「密度」がそこにはあった。
熱すぎず、ぬるすぎず。
皮膚の表面を撫でるのではなく、細胞の一つひとつを優しく、それでいて強引に解きほぐしていくような感覚。
肩まで浸かると、自身の境界線が曖昧になっていくのが分かった。まるで溶けていくような錯覚。
(……すごい。本当に、全部消えちゃうみたい)
旅の疲れ。人混みでの緊張。
そして、異能を維持し続けるための、脳の奥に張り付いたような重い疲労。
それらが、湯に触れた瞬間から、音もなく消滅していく。
まるで、最初からそんなものは存在していなかったかのように。
疲れが取れる、という表現では生ぬるい。
「疲れ」という概念そのものが、内側から削り取られ、空洞になっていく感覚。
それは、もてなしというには、あまりにも一方的で。
「癒やし」というには、あまりにも破壊的だった。
――悩みも痛みも、何もかも忘れてしまえるほどに。
「疲れ」を奪い去る、という館主の言葉が脳裏をよぎる。
『悩みも痛みも、何もかも忘れてしまえるほどに』
その言葉は、確かに嘘ではない。
今、この瞬間、琴葉の頭からは明日の予定も、調査のことも、わずかに消えかけていた。
「おっといけないいけない」
独り言が、白く煙る浴場に虚しく響いた。
白色になった指先がスっと褐色に戻る。
湯船の縁に置かれた石の隙間から、ごぼりと大きな気泡が上がった。
それはまるで、獲物を待ち構える何かの、静かな呼吸のようにも聞こえた。
日常×異能×ヒューマンドラマ、みたいなのが好みです。
評価のほど宜しくお願いします。




