第一章:湯けむりの町(6)
暖簾をくぐると、外の喧騒が嘘のように静まり返った。
そこには、使い込まれた黒光りする床と、微かに焚きしめられたお香の匂いが漂う、静謐な空間が広がっていた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
奥から姿を現したのは、整えられた短髪に、清潔感のある作務衣を着こなした男だった。
年齢は三十半ばといったところだろうか。
柔和な笑みを浮かべてはいるが、その奥にある瞳は、どこか観察するような鋭さを秘めている。
「本日予約した、京介です」
「……と、琴葉です! よろしくお願いします」
僕が名乗ると、琴葉が元気よく付け加える。
男は一瞬、僕の黒い手袋に視線を落としたが、すぐに何事もなかったかのように深く頭を下げた。
「これはご丁寧に。館主の湯本でございます。どうぞ、奥へ」
彼に促され、僕たちは廊下を進む。
一歩踏み出すごとに、足の裏から伝わる木の温もり。
だが、その心地よささえも、今の僕には「過剰」に感じられてしまう。
町全体に漂う、あの違和感がこの宿にも満ちているのだ。
廊下の角を曲がろうとしたとき、前方から一人の少年が走ってきた。
「叔父さん、お湯の温度が――」
少年は僕たちの姿に気づくと、弾かれたように足を止めた。
大きな瞳。少し幼さの残る顔立ち。
それは間違いなく、先ほど泉源の柵の向こう側で、透き通った石を見つめていた少年だった。
「……あ」
少年は気まずそうに僕と琴葉を交互に見つめ、それからすぐに視線を逸らした。
「これ、翔太。お客様の前ですよ。挨拶をしなさい」
館主の声に、少年は消え入りそうな声で「こんにちは」と呟き、逃げるように奥へと去っていった。
「……あの子、さっきの」
琴葉が小声で僕の袖を引く。
僕は頷き、少年の背中が消えた闇を見つめた。
「失礼しました。私の甥でして。まだ不慣れなもので」
館主は穏やかに笑い、客室の扉を開けた。
「さあ、こちらが本日のお部屋です。まずは当館自慢の湯で、旅の疲れを『すべて』洗い流してください。ここの湯は特別ですよ。一度浸かれば、悩みも痛みも、何もかも忘れてしまえるほどに」
その言葉は、もてなしの決まり文句にしては、あまりにも重く、呪いのような響きを持って僕の耳に届いた。
(……)
案内が終わると、僕は部屋の窓を開けた。
立ち上る湯けむりの向こうに、この町の静かな歪みが見える気がした。
「京介、なんか……あの子、不思議な感じだったね」
琴葉が畳の上に大の字になりながら、ぽつりと呟く。
「……ああ。そうだね、この街もあの少年も」
僕は黒い手袋をそっと握りしめた。
指先に伝わる、小さな疼き。
僕の「壊す」異能が、この過剰なまでの「癒やし」に、敏感に反応していた。
「ところでそろそろどいてくれるかな?僕も座りたいんだけど」
「嫌だ」
大の字になったまま琴葉はしばらく動いてくれなかった。
日常×異能×ヒューマンドラマ、みたいなのが好みです。
評価のほど宜しくお願いします。




