第一章:湯けむりの町(13)
湯本の拳に凝縮された暴力的なエネルギーが、空気を切り裂く音を立てて僕の顔面に迫る。
(……ここまでか)
「――『反転』ッ!」
聞き慣れた、けれど今は誰よりも頼もしい声が、管理室の入り口から響いた。
ドォン! と空気が爆ぜるような衝撃。
「が、は……っ!?」
驚愕の声を上げたのは、湯本の方だった。
僕の喉元を掴んでいた彼の剛腕が、まるで目に見えない巨大な力に弾かれたように、真後ろへと跳ね上がったのだ。
強引に壁に叩きつけられていた僕の身体が、解放されて床に崩れ落ちる。
「……遅いよ、琴」
僕は激しく咳き込みながら、入口に立つ影を見上げた。
そこには、黒髪をなびかせ、不機嫌そうに眉を寄せた琴葉が立っていた。
「人のこと置いて一人でヒーローごっこなんて、百年早いのよ。京介」
彼女はそう言い放つと、迷いのない足取りで湯本との距離を詰める。
「貴様……! 何をした!」
湯本が吠える。石を飲み込み、異常なまでに膨れ上がった彼の筋肉が、不気味に脈打っている。
「別に。あなたの拳の『ベクトル』を、反対側にひっくり返しただけだよ」
琴葉は淡々と言い捨てた。
彼女の異能「反転」。
それは色や質感だけでなく、力の働く方向さえも裏返すことができる。
「ふざけるな……! この圧倒的なエネルギーの前に、小細工など!」
湯本が再び床を蹴った。人智を超えた速度で、彼は琴葉へと肉薄する。
琴葉は真っ向から湯本の胸元へと掌を伸ばす。
湯本の衣服に触れたその瞬間。
「!?…何をした! !身体が、動かん……!」
湯本が狼狽した声を漏らす。
「あんた、力を増幅させてるんでしょ?」
琴葉が、ゆっくりと、けれど確かな足取りで歩み寄る。
「だから、その状態を『反転』させたの。エネルギーの減衰。」
彼女の指先が、空中で円を描くように小さく動く。
「ぐ、あ……ぁ……っ」
湯本は膝から崩れ落ち、床に這いつくばる。
石の力で無理やり引き上げられた生命力。それが今は逆に、彼の意識を奪うまでの負のエネルギーへと変貌していた。
僕は壁に手をつき、ふらつきながらも立ち上がる。
「京介、大丈夫?」
琴葉が僕のそばに駆け寄り、肩を支えてくれる。
「……ああ。助かったよ、琴。あと少しで極楽に飛ばされるところだった」
「冗談言えるなら大丈夫そうね」
琴葉は呆れたように笑うと、すぐに視線を床の湯本へと戻した。
狂気に染まっていた彼の瞳からは、ようやく光が消え、深い絶望と疲労が滲み出していた。
(……)
「……翔太君」
僕は、椅子の横で震えていた少年に歩み寄った。
彼を繋いでいたパイプから手を離させると、翔太は力なく僕の腕の中に倒れ込んだ。
その身体は驚くほど軽く、そして氷のように冷たかった。
「終わったよ、翔太君。もう、頑張らなくていいんだ」
僕は彼を安心させるように、努めて穏やかな声で言った。
背後では、鋭い観察眼で管理室のモニターを見据えていた。
「京介、急いで。ここのエネルギーバランス、もう限界みたい」
彼女の言葉通り、部屋中のパイプが悲鳴のような音を立てて震え始めていた。
温泉街に偽りの繁栄をもたらしていた「歪み」が、今、臨界点を迎えようとしていた。
日常×異能×ヒューマンドラマ、みたいなのが好みです。
評価のほど宜しくお願いします。




