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眠らない猫と、朝の約束

作者: 星渡りん
掲載日:2025/12/26

 夜になると、眠れなくなる。

 正確に言えば、眠ろうとすると、目が冴える。


 電気を消し、布団に入る。呼吸を整え、考えないようにする。それでも、頭の奥で何かがざわつき始める。今日のことでも、明日のことでもない。名前をつけられない不安が、暗闇の中で形を持ち始める。


 時計の秒針が、やけに大きな音を立てて進む。私はそれを数えるのをやめ、ベッドから抜け出した。眠れない夜は、部屋にいると自分の存在が大きくなりすぎる。


 外に出ると、夜は思ったより冷たく、静かだった。アパートの路地には街灯が一つだけ灯っていて、その下に、猫がいた。


 最初は、置物かと思った。

 猫は丸くならず、横にもならず、ただ座っている。目を閉じる気配がない。こちらに気づいているのかいないのか、その視線は夜の奥を見つめていた。


 私は少し離れた場所に立ち、息をひそめる。猫を驚かせたくなかったというより、今の自分を見られたくなかったのかもしれない。眠れない夜の人間は、どこか不格好だ。


 猫は動かない。

 瞬きの回数さえ、少ない気がする。


 眠らない理由があるのだろうか、と考える。空腹か、警戒か、それとも、眠る必要がないのか。そんなことを考えながら、私は自分のことを思う。眠れない理由を、私はちゃんと知っているのだろうか。


 夜風が吹き、猫のひげがわずかに揺れた。

 それでも、目は閉じられない。


 不思議と、焦りはなかった。猫が眠らないなら、今夜はそれでいい。誰かが起きている夜は、少しだけ安心できる。


 私はその場に立ち尽くし、猫と同じ夜を見ていた。



 それから、眠れない夜が続いた。

 続いたというより、もともとあった夜が、はっきりと形を持ち始めたのだと思う。


 部屋の灯りは、消したりつけたりを繰り返している。暗闇に身を置くと考え事が増え、灯りをつけると現実が近づきすぎる。どちらも、長くは続かない。


 冷蔵庫から取り出した飲み物は、ほとんど口をつけないまま机に置かれる。氷が溶ける音だけが、時間の経過を教えてくれる。時計は見ない。見れば、朝までの距離を意識してしまうからだ。


 深夜になると、私は決まって外に出る。

 理由ははっきりしている。あの路地に、猫がいるからだ。


 猫は毎晩、同じ場所にいる。街灯の下、影と光の境目に座り、相変わらず眠らない。声をかけても、近づいても、逃げることはない。ただ、夜を受け止めている。


 私は少し離れた場所に立ち、猫と同じ方向を見る。言葉は交わさない。それでも、同じ時間を共有しているという感覚だけが、確かにあった。


 夜は、取り残された時間だ。

 昼の約束も、役割も、期待も、ここには届かない。そのかわり、心の底に沈めていたものが、静かに浮かび上がってくる。


 猫は、何も語らない。

 それが、救いだった。


 夜が進むにつれて、街はさらに静かになる。遠くで電車の音が一度だけ聞こえ、また消える。私は深く息を吸い、ゆっくり吐く。その呼吸のリズムが、猫の存在によって、保たれている気がした。


 気づけば、空の色が、ほんのわずかに変わり始めている。

 それでも猫は、まだ眠らない。


 私はその姿を見ながら、夜に取り残されたまま、朝を待っていた。



 その夜も、いつものように路地へ向かった。

 街灯の下に目を向ける。――猫はいなかった。


 一瞬、胸の奥がひやりとする。理由もなく、いなくなったのだと思った。私にとって、あの場所に猫がいることは、夜が夜であるための条件のようになっていたからだ。


 周囲を見回すと、少し離れた影の中に、猫の姿があった。

 座ってはいない。立っている。そして、こちらを一度だけ見た。


 それは、呼ばれたような視線だった。


 猫は何も言わず、歩き出す。足音はほとんどしない。私は迷いながらも、その後を追った。理由は考えなかった。考える前に、体が動いていた。


 猫は振り返らない。路地を抜け、細い坂道を上る。夜の空気が、少しずつ薄くなっていくのがわかる。東の空が、ほんのわずかに色づき始めていた。


 こんな時間に、こんな場所へ来たことはない。

 私は、自分の生活の外側を歩いている気がした。


 猫は足を止める。

 小さな高台の端で、空を向いたまま座り込んだ。


 しばらくして、猫は初めて、目を閉じた。


 深く眠るわけではない。ただ、力を抜いたように、静かに呼吸をしている。夜明けの直前、猫はようやく眠ることを許したのだと、なぜかそう思った。


 私は立ったまま、その姿を見ていた。

 胸の奥で、何かが結び直されていく感覚がある。


 猫が動いたのは、初めてだった。

 そしてそれは、夜が終わる合図だった。



 猫が眠っているあいだ、私は動けずにいた。

 起こしてはいけない、というより、この時間を壊したくなかった。


 空はゆっくりと明るさを増していく。夜と朝の境目は、思っていたより曖昧で、音もなく移ろっていくものだった。街はまだ眠っているのに、世界だけが先に目を覚ましている。


 猫は、完全に目を閉じている。眠らなかった夜の分を、取り戻すように。けれど、その姿には不安がない。役目を終えた者の、静かな安堵があった。


 そのとき、私は気づく。

 猫は、夜を越えるために起きていたのだと。


 眠れなかったのではない。

 眠らなかったのだ。


 朝が来るまで、ここにいる。

 そういう約束を、この場所と、あるいは誰かと、交わしていたのかもしれない。


 そして、私はもう一つのことに気づく。

 いつの間にか、その約束に、私も含まれていた。


 猫が眠るまで、ここにいる。

 朝を、ひとりで迎えない。


 言葉は交わされていない。けれど、確かな了解が、胸の奥に残る。私はこの夜を、途中で投げ出さずに済んだのだ。


 東の空から、やわらかな光が差し込む。

 その光の中で、猫は静かに呼吸を続けている。


 それだけで、十分だった。



太陽が、建物の縁からゆっくりと顔を出す。

 光は思っていたよりも穏やかで、夜を追い払うというより、そっと手を引くように広がっていった。


 猫が、目を開けた。


 眠りは浅かったのだろう。けれど、その瞳は澄んでいる。長い夜を越えた者だけが持つ、静かな強さがそこにあった。猫は一度だけ私を見る。確かめるように、そして、もう大丈夫だと言うように。


 私は何も言わなかった。

 言葉にしてしまえば、この時間は日常に戻ってしまう気がした。


 朝の空気が肺に入る。冷たくて、清潔で、逃げ場のない匂いだ。これまで避けてきた「明日」が、ようやく形を持って、私の前に現れる。


 怖さは、消えていない。

 それでも、立っていられる。


 猫は立ち上がり、伸びをする。夜のあいだ固まっていた時間が、音を立ててほどけていく。その姿を見て、私の中の何かも、同時にほどけた。


 空は、もう完全に朝だった。


 夜は終わった。

 それを否定する理由は、どこにもなかった。



 猫は、何事もなかったように歩き出した。

 振り返ることも、鳴くこともない。朝の光の中へ、自然に溶けていく。


 私は追わなかった。引き止める理由も、約束も、もう残っていない。夜を一緒に越えた、それだけで十分だった。


 しばらくその場に立ち、明るくなった街を見下ろす。朝は、容赦なく世界を照らしている。隠れていたものも、避けていたものも、同じように。


 それでも、不思議と逃げたい気持ちは湧かなかった。

 眠れない夜は、また来るかもしれない。けれど、朝は必ず来る。そのことを、私はもう知っている。


 高台を降り、いつもの道を歩く。通い慣れた道なのに、足取りは少しだけ軽い。世界は変わっていない。ただ、受け取り方が変わった。


 家に戻り、カーテンを閉める。

 ベッドに横になると、身体が素直に沈んだ。


 目を閉じる直前、猫の姿が浮かぶ。眠らなかった夜と、眠ることを許した朝。その境目に、私は立っていた。


 これから始まる一日は、特別なものではない。

 けれど、確かに、新しい。


 私は静かに息を吐き、朝とともに、眠りに落ちた。

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