第50話 歩幅は違っても
驚いて強張った私の手の甲を、彼の親指が安心させるように撫でた。
リュシオンの声が、静かな部屋に染みるように響き渡る。
「“ジェイムの息子、リュシオン。私はオルトスの娘モニカを妻とし、その魂が楽園へ昇るまでこれを支え、尽くし、導くことを誓う”」
彼はあの日、私が冥婚で誓った宣誓の決まり文句を反転させて諳んじていた。
そして言い終わると、魔法を込めた私の手を持ち上げて、静かに唇を触れさせる。
私が彼の遺体に口付けたのと同じ、左の手の甲へ。
魔力や魔法契約の繋がりを感じ取れない私だが、それでもこれが、リュシオンと私の間に強い絆を作ってくれたことを感じ取ることができた。
儀式を終えたリュシオンが、私に笑いかける。
「お前だけ誓っていて、一方的な契約だったからな。これでお互い、対等だ」
一時は不当な契約だとさえ思ったが、相手が自分を愛してくれていて、その魂ごと人生を捧げてくれるというのは、なんと幸福な事だろう。
ここまでされてしまうと、形式的に誓っただけの自分の方が軽すぎて、申し訳なく思えてくる。
そんなことを考えていると、リュシオンが急に、手を握る強さを変えた。
「だが、まだ足りないな。お前は口付け以外にも大勢の前で宣誓して、誓約書まで書いている。俺の契約はまだ、お前と釣り合うには強度がまったく足りていない」
リュシオンの笑みはいつの間にか強気になり、瞳には戦場で見たような獰猛さが隠しきれずに滲んでいた。
それになんだか、距離を詰められている気がするのは気のせいだろうか。
試しに握り込まれた手を引いてみたが、すでに離してくれそうな力ではなかった。
私は、恐る恐る訊いた。
「それでは、その……なにをなさるおつもりでしょうか。誓約書、用意しますか?」
「いや、もっと手っ取り早い方法がある」
リュシオンの手が動き、指と指を絡めるような握り方に変えた。そのまま逃さないとばかりに、ソファの背もたれに押しつける。
空いていた反対の腕も伸ばされ、私の上体はソファと彼の腕の間に閉じ込められた。
弧を描くリュシオンの唇から、淀みない言葉が滑り落ちる。
「口付けに魔法契約成立の効果があるのは、意味のある、つまり、魂が活発に動く身体的接触だからだ。ということは、それ以上の接触をすれば当然、契約の繋がりも強度を増す」
話している内容は学者の理屈だが、表情は完全に、捕食者のそれだった。
「それは、まさか……」
意味を察した私の心臓が、早鐘を打ち始める。
リュシオンは、触れ合う寸前まで私に顔を寄せると、低く甘い声で囁いた。
「“男女の契り”って言うだろう? 魔法使いにとって、これは立派な契約なんだ。だから、本気で大切にすると決めた相手としかしない。……俺だって、この歳まで無駄に童貞貫いていたわけじゃないぞ」
童貞のくせにこの堂に入った態度はなんなのだろうか。
こちらも初めてだというのに刺激が強すぎる。
圧倒的な熱量に言葉を失っているうちに、リュシオンはさらに顔を近付けて、私の唇を塞ごうとしてくる。
私は慌てて声を上げた。
「まっ、待ってください!」
瞬間、ぴたりと動きを止めたリュシオンは、途端に不安そうに眉根を寄せた。
「……嫌か……?」
「そ、そうじゃなくて……その……」
ああもう、そんな顔をしないでほしい。
私だって嫌なわけではないのだ。リュシオンを部屋に入れた時点で、薄々だが覚悟はしていた。
ただ、ほんの少し、余裕を取り戻す時間がほしいだけ。
いきなりそんな、全身全霊で欲しがる視線を向けられても、私の許容がまた追いつかない。
麻痺していた頭を必死に動かして、ふと浮かんだ言葉に私は縋り付いた。
「そう、解呪の能力!」
唐突な話題転換に、リュシオンの雰囲気も一旦すんっと落ち着く。
私は少しほっとして、ペラペラと言葉を続けた。
「供給体質の解呪能力は、他人と交わっていない“清らかな女性”でないと発動しないのでしたよね? その、私が清らかでなくなってしまったら、もう呪いにかかっても解呪できなくなりますよ?」
結局、私は私の役割にしがみつくことでしか抵抗できないのが情けない。
しかしそんな私の悪あがきも虚しく、しばらく真顔で私の言葉を吟味していたリュシオンは、すぐに答えを返してきた。
「ああ、そのことなら心配ない。お前の供給魔力が強すぎるから、もう俺は並大抵の呪いなら無条件で弾いてしまうだろう。最低でもあの族長の二十倍は強い呪いでもないとな。お前の血を飲んで強化されていた奴の呪いでその程度なのだから、実質的にもう今後、俺が呪いにかかる心配はしなくていい」
魔力と、魔族の呪いは反発する性質がある。
今のリュシオンは、呪いに対する絶対の防壁を持っているようなものだった。
「それに“この契約方法”は、お互いの魔力も交わって馴染みやすくなるから、俺にあふれすぎているお前の魔力を制御するにも有効なはずだ。実を言うと、まだ身体の奥のざわつきが収まってなくてな……魔力が馴染めばそれも解消できる」
合理的かつ完璧な言い分で、私は今度こそ、心の中で白旗を揚げた。
この天才魔法使いに、一般人が理屈で敵うはずなどなかったのだ。
「それとも、目の前に呪いを受けた奴が居たら、誰彼構わず口付けしてやるつもりか? だったらなおさら、今ここで俺だけのものにしておかないと……」
すいと目を細め、不穏な空気を発し始めたリュシオンを前に、観念した私は深呼吸をして抵抗を止めた。
「……わかりました。そこまで仰るのなら、もう煮るなり焼くなりお好きになさってください」
恥ずかしさに視線を逸らし、緊張で身を固くしながら、リュシオンの次の行動を待つ。
しかし、彼はなかなか動こうとしなかった。
上目で彼の表情を伺うと、先ほどとは真逆の戸惑った様な目と視線がぶつかった。
「……リュシオン?」
「いや、すまない、違うんだ。そんな、味気ない理屈や打算で追い詰めてまでお前を手に入れたいわけじゃなくて……」
捕食者の威圧感は鳴りを潜め、歯切れ悪く、言い訳をするような口調で呟くリュシオン。
「……違う、そうじゃない、今すぐ欲しいのは本気なんだ。ただ、誤解しないでほしいというか、お前を無理やり従わせたいわけじゃなくて、もっとこう、知りたくて、伝えたくて……くそ、こんなんじゃ本当に格好悪い……」
いつどんな時も、自分の意思を迷いなく言葉にしてきたリュシオンが、今はその言葉を見つけられずに途方に暮れている。
その瞳は迷子のように彷徨い、頬はじわじわと紅潮していって。
それを見た瞬間、私はわけのわからない衝動に突き動かされ、彼の首に腕を回して抱きついてしまった。
耳元で、リュシオンが息を呑む音がする。
「わかっています。あなたはずっと、何度も私に伝えてくれましたから」
その衝動は、あとからやっと追いついた言葉と結びついた。
この人が、大切で愛おしくて堪らない。
彼は英雄で、天才で、ついていくのは大変だけれど。
それでも、いつも私の側から離れずに居てくれる、優しい旦那様なのだ。
「一緒に夫婦になりましょう。私たちの早さで。……大好きです、リュシオン」
リュシオンの腕が、私の背を力強く掻き抱く。
そこからはもう、理屈も強がりもなく、ただ唇を重ね、深く溶け合うだけだった。
「はぁっ……ふふ、俺の“楽園”は、お前だったな、モニカ」
「……も……そういうことっ、いちいち言わないでぇ…………!」
完全に素直になれるまでには、まだまだ時間がかかりそうだけれど。
なお、その翌朝。
いつもの時間になっても起きてこない私の様子を見にきた使用人に、まだベッドの中で私を離さずにいたリュシオンはしっかりと目撃されてしまい、伯爵家の朝食の席に引っ立てられてそのまま緊急家族会議になったらしい。
しかし、満身創痍で昼過ぎまで眠らせてもらっていた私は、その戦場の過酷さを知ることはなかった。




