第5話 幽霊は自由人
当てがわれた客間に下がると、今日の緊張や疲れがどっと押し寄せてきた。
働かない頭でフラフラと鏡台の前に腰掛け、一日中引っ詰めていた髪を解く。
私の髪はクセが強い巻き毛で、下ろしているとフワフワと節操なく広がってしまう。
家事をするには邪魔だが、しかし貴族女性としてあまり短く切るわけにもいかず、いつも固く編み込んで、後頭部で一纏めにしていた。
もう十年近く、毎日同じ髪型だ。
続けてブラウスの立ち襟のボタンに指を掛けたところで、背後から、すっかり忘れていたその人の声が耳に届いた。
『なんだ、案外綺麗な髪してるじゃないか。使用人みたいに纏めてるなんて勿体ないぞ』
心臓が止まりそうなほど驚きながら振り返ると、ソファに座ってすっかり寛いだ格好で、リュシオンがこちらを見ていた。
からかうようなニヤけ顔に腹が立つ。
「なんで居るんですか!? 私の部屋ですよ!!?」
『いや、ドアすり抜けて入れたから』
「だからって女性の部屋に躊躇なく入ります!?」
『別にいいだろう、一応“夫婦”なんだし』
「私もまさか冥婚に本人の幽霊が付いてくるなんて考えもしませんでしたよ……」
呆れてそれだけ言う私に、リュシオンは小馬鹿にするような笑みを浮かべて言った。
『そりゃあ安請け合いだったな。いいか、魔法使いにとって“契約”ってのは何より重いんだ。魔法に関わる相手とやり取りする時は、もっと慎重にならないと身を滅ぼすぞ』
「すでに身を滅ぼしてる人に言われたくありません……が、ご忠告は素直に受け取っておきます」
『あと俺は幽霊じゃない』
「はいはい」
先程の家族の悲しみようを見ても、リュシオンの主張は変わっていないようだった。
『なぁ。あんた、どうして冥婚なんか引き受けたんだ?』
不意に、真面目な様子でリュシオンが質問してきた。
『今どき冥婚なんてやるうちの家族も酔狂だが、あんたも大概だ。俺の首を取った族長には、クライブが深手を負わせたらしいが、行方知れず。傷を癒したらいつまた攻めて来てもおかしくない状況だ。よくそんな土地にのこのこ来る気になったな』
リュシオンの言う通り、それさえなければ、私のもとに話が来る前に、さっさと他の冥婚相手が決まっていただろう。
それほどリュシオンの、英雄としての名声は高い。
『あんただって、いくら地味で頭が固くて小うるさい女だとしても、見目は悪くないんだ。貰い手くらいいくらでもあったろうに』
いつの間にか悪口の種類が増えているが、同じ土俵に乗るものかと思いグッと堪えた。
「ですから、私の事情はあなたに関係ありません。冥婚を引き受けたのは、はっきり言ってお金のためです。危険は承知の上ですし、あなた本人には微塵も興味がありませんでした」
『金……俺より、金……!?』
どうやら私の発言でプライドに傷が付いたらしく、リュシオンは愕然とした表情で言葉を失っていた。
ほんの少しだけ溜飲が下がった。
私は羽虫を払うように手を振って、リュシオンを追い出しにかかった。
「ほら、私、もう休みますから、そろそろ出て行ってください」
『おい、どこに行けって言うんだよ』
「どこへって、ご自分のご実家でしょうが。どこへなりとも。ほら、ご自分のお墓でもお部屋でもあるでしょう?」
『墓は嫌だ!』
「じゃあお部屋ですね。ハイ、おやすみなさい」
急かすようにパンと手を叩くと、リュシオンは反射的に浮かび上がったが、何か言いたそうな顔のまま、なかなか出ていこうとしない。
「なんですか? まだなにか?」
『せっかく喋れるのに……寂しいだろうが……』
「お、や、す、み、な、さ、い!!」
有無を言わさず凄むと、リュシオンはようやく渋々とドアに向かった。
「いいですか? 朝まで絶っっっ対に入って来ないでくださいね! 入ってきたらあなたの事、今後ずっと変態って呼びますよ!」
『くぅっ……わかった、わかった!』
最後にボソボソと『おやすみ』と呟いて、リュシオンはようやくドアをすり抜けて出ていった。
リュシオンの姿が見えなくなって、やっと私は全身の力を抜いた。
最後の最後に面倒くさい英雄様の相手をして、ますます疲れた。
この屋敷には魔道具の全館給湯器が設置されていて、客間にもシャワー室が備え付けられている。
シャワーなどという高級設備はもちろん実家にはない。昨日は感動して移動の疲れも吹っ飛んでしまったものだ。
自由に使っていいと言われているので、今夜もありがたくお湯をいただくことにした。
シャワーを動かして熱いお湯を全身に浴びると、得も言われぬ気持ちよさにほうっと息が漏れた。これだけで全身の強張りがほどけていく。
こんなものが毎日使えるなんて、この屋敷こそ楽園かもしれない。
身体を洗いながら、今日の出来事をつらつらと振り返る。
一ヶ月間静かに弔いの務めを果たすだけだと思って来たというのに、まさか冥婚相手の幽霊が話しかけてきて、しかも“自分はまだ死んでいない”なんて主張し始めるとは夢にも思わなかった。
しかも相手の性格の癖が強すぎて、幽霊という存在に驚いている暇もなかった。
そもそも何故私にだけ彼の姿が見えるのかすら、よくわからない。
彼自身も記憶が曖昧で、自分がどういう状況なのか把握しきれていない様子だ。
“死んでいない”という主張も、どう見ても死んでいるあの身体を理解した上での発言だ。
ただの死にきれない者の未練の言葉にしては、妙に確信を持っている。
これが本当に根拠のある主張なのか、それとも単純に彼の自己肯定感が高すぎるだけなのか、私には判別できない。
本当に、あの呆れるほど高い自己肯定感はどこからきているのか……いや、これは今気にする必要はない。苛つくのはやめよう。
本人はさておき、伯爵家の遺族の悲しみは本物だった。
表面的には落ち着いているように見えて、内心ではまだリュシオンの死を受け入れきれていないようだ。
部外者の自分にどこまでできるかわからないが、こういう時は部外者だからこそできることもあるだろう。
謝礼金をもらう以上は、精一杯役目を果たさなければ。
たとえ故人本人の幽霊がちょっかいをかけてこようとも。
彼だって幽霊なのだ。こちらが程々に相手をして、誠実に祈りを捧げていれば、そのうち気が済んで楽園に昇ってくれるかもしれない。
“旦那様”が無事に楽園へ昇れるように、“妻”として頑張ろう。
胸の内で新たに決意を固めて、今度は髪を洗い始めた。
一瞬だけ空白になった頭の中で、さっき聞いたばかりの声が浮かぶように木霊する。
――なんだ、案外綺麗な髪してるじゃないか。
「……初めて言われたわ、あんなこと……」
お湯とは違う温度の温かい何かが、胸の奥にぽっと浮かんでくるような気がする。
…………いやいやいや、あの厭味ったらしいニヤけ顔を思い出せ。
童貞が物珍しさで女をからかっていただけだ。反応すれば余計調子に乗るに違いない。
私はぶるぶると頭を振って妙な気分を追い出すと、勢いよくお湯をかぶった。
その後は、信じられないほどフカフカの広いベッドで眠りについた。
気持ちよく眠れたせいか、久しぶりに懐かしい夢を見た。
病床の母の夢だ。
『……こうしてお姫様は、真実の愛が込もった口付けで王子様の呪いを解きました。ふたりは結ばれ、末永く幸せに暮らしました。めでたし、めでたし』
もうすぐ十五歳だというのに、ベッドの隣に潜り込んでいる私の頭を撫でながら、母は私が好きだった昔話を聞かせてくれていた。
忙しい一日を終え、束の間の、母をひとり占めできる大切な時間。
お話が終わっても、名残惜しく自分のベッドに帰らない私に、母は微笑んで言った。
『モニカ。どうかあなたも、幸せになってね』
『私は幸せよ、お母様』
辛くても、大変でも、家族が居る。
これ以上の幸せなど、私には必要ない。
即答した私に、母は少しだけ悲しげで、けれど温かい目をして、もう一度言った。
『そうね。でも、もっともっと、あなたは幸せになれるわ。それを忘れないで』
微笑む母の顔が、優しい声が、夢の霧の中に溶けて消えていった。




