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もしもフェアリーが統計学を学んだら  作者: もしものべりすと


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もしもフェアリーが統計学を学んだら

『もしもフェアリーが統計学を学んだら』

第一部:出会い

第1章:効率の悪い魔法界

魔法は、三回に一回しか成功しなかった。

リリア・ブロッサムは自分の手のひらを見つめ、そこに集まっては消える淡い光に唇を噛んだ。今日で八回目の失敗。治癒魔法の訓練で、また誰かを救えなかった。魔力は体内にあふれているのに、それが正しく形にならない。まるで水を掴もうとするように、指の間からこぼれ落ちていく。

「感覚を研ぎ澄ませなさい、リリア」

師匠のフローラが、いつもの言葉を繰り返した。銀色の髪が朝日に輝いている。彼女の治癒魔法は完璧だった――少なくとも、成功したときは。

「でも師匠、感覚って何ですか?」リリアは訊いた。「どうやって研ぎ澄ませればいいんですか?何を基準に?」

フローラは優しく微笑んだが、その目には答えがなかった。「それは、経験よ。千年の伝統の中で、私たちフェアリーは魔法を感じ取ってきたの。測るものではない。信じるものなの」

リリアは黙って頷いたが、心の中では反発していた。信じる?感じる?そんな曖昧なもので、人の命が左右されていいのだろうか。

訓練場から王都の街並みが見渡せた。尖塔が朝もやの中に浮かび、魔法の光がそこかしこで瞬いている。美しい光景だが、リリアの目には別のものが見えた。あの光の何割が、無駄に消費された魔力なのだろう。あの魔法陣の何パーセントが、本当に必要な配置なのだろう。

フェアランド王国。千年の歴史を持つ魔法国家。しかし誰も気づいていない――この国は、途方もなく非効率だということに。

朝の訓練が終わり、リリアは王立図書館の古文書室に向かった。誰も来ない、埃っぽい部屋。羊皮紙の束が天井まで積み上げられ、黴の匂いが鼻をつく。彼女は昨夜から続けている作業に取りかかった。

ノートを開く。そこには、過去三ヶ月の自分の魔法記録が几帳面に記されていた。

治癒魔法の記録:

試行1: 失敗(魔力消費 推定120単位)

試行2: 成功(魔力消費 推定200単位)

試行3: 失敗(魔力消費 推定80単位)

試行4: 成功(魔力消費 推定180単位)

...

```


九十二回の試行。成功率は32.6%。魔力消費量は80から220単位までバラバラ。何の法則性も見えない。


「なぜ?」


リリアは羽ペンを握りしめた。爪が手のひらに食い込む。


「なぜ成功するときとしないときがあるの?なぜ消費する魔力が毎回違うの?何が、何が違うの?」


問いかけに答えるものはいない。静寂だけが、埃とともに舞っている。


リリアは立ち上がり、窓辺に寄った。眼下に広がる王都の市場では、魔法使いたちが日常の魔法を使っている。空中に文字を浮かべる通信魔法、荷車を浮かせる浮遊魔法、腐敗を防ぐ保存魔法。


しかし彼女の目には、失敗の光も見えた。消えかける文字。落ちる荷車。腐る野菜。みんな笑って「まあ、魔法だから」と言っている。失敗は当たり前。成功は運。それがフェアリーの常識。


「おかしい」リリアは呟いた。「何かが、根本的に間違ってる」


その日の午後、リリアは王立魔法学院の講堂で、学院長の講義を聞いていた。テーマは「魔力の本質について」。


「魔力とは、我々フェアリーの魂そのものです」学院長の声が講堂に響く。「それは測定できるものではありません。数値化できるものではありません。魔力を測ろうとすることは、魂を冒涜することに等しい」


リリアは手を挙げた。「でも学院長、測定しなければ、どうやって改善できるんですか?」


講堂がざわめいた。周りの生徒たちが彼女を見る。その視線に、困惑と軽蔑が混じっている。


学院長は眉をひそめた。「改善?魔法は改善するものではありません、ブロッサム君。それは受け継ぎ、感じ、体得するものです」


「でも、私たちの魔法の成功率は――」


「成功率?」学院長の声が鋭くなった。「魔法を成功や失敗で測るのですか?それは魔法に対する冒涜です。魔法には、成功も失敗もない。ただ、魔法があるだけです」


リリアは口を閉じた。言っても無駄だ。この国では、疑問を持つことすら許されない。


講義の後、同級生のメリッサが近づいてきた。金色の髪を揺らし、同情するような目でリリアを見る。


「ねえリリア、あなたって本当に変わってるわね。なんでそんなに数字にこだわるの?魔法は感じるものよ。もっとリラックスすればいいのに」


「感じるだけじゃ、人は救えないわ」リリアは答えた。「私が失敗したせいで、誰かが苦しむの。それが許せない」


メリッサは肩をすくめた。「真面目すぎ。魔法なんて、楽しめばいいのよ。完璧を求めるから、息苦しくなるんだわ」


彼女はひらひらと手を振って去っていった。リリアは一人、講堂に残された。


夕暮れ時、リリアは再び訓練場にいた。誰もいない。オレンジ色の光が地面を染めている。


彼女は手のひらに魔力を集めた。淡い緑の光。治癒の魔力。これで誰かを救いたい。確実に。毎回。


呪文を唱える。「ヒール・ライト・サナーレ――」


光が弾けて消えた。また失敗。


「くそっ!」


彼女は叫び、地面を叩いた。草が指の間でちぎれる。涙が頬を伝った。悔しさが、無力感が、体中を満たす。


「なぜ?なぜなの?私は何を間違えてるの?」


誰も答えない。ただ風が、訓練場の旗をはためかせるだけ。


その夜、リリアは自室でノートと格闘していた。蝋燭の灯りの下、数字を眺める。パターンを探す。何か、何か手がかりがあるはずだ。


ふと、窓の外で光が瞬いた。


流れ星?いや、違う。あれは――魔法の光?


リリアは窓を開けた。冷たい夜風が頬を撫でる。光はフェアランドの森の奥、禁域とされている「迷いの森」の方角から来ていた。


また光った。今度は赤。そして青。規則的ではない。誰かが魔法を使っている?それとも――


リリアの胸に、説明のつかない予感が走った。何か重要なことが起ころうとしている。そんな気がした。


彼女は外套を羽織り、部屋を出た。廊下を抜け、寮の裏口から外へ。夜のフェアランドは静かだった。月明かりが石畳を照らしている。


森への道は、誰も通らない。危険だと言われている。しかしリリアの足は、自然とそちらへ向かっていた。


木々が密生し、月光も届かない。魔力で小さな光を作り、手のひらに灯す。今度は成功した。なぜ?わからない。


十分ほど歩いただろうか。リリアは開けた場所に出た。そこに、人が倒れていた。


「誰!?」


リリアは駆け寄った。若い男性だ。フェアリーではない――耳が丸い。人間?しかし人間界からフェアランドへの通路は閉ざされているはず。


男は意識を失っていた。呼吸は弱い。服装も奇妙だ。白いシャツに黒いズボン、そして何か硬い素材でできた靴。見たこともない様式。


そして彼の傍らには、さらに奇妙なものがあった。薄い板のような物体。金属とガラスでできている?表面に光が点滅している。


リリアは男の額に手を当てた。熱い。治癒魔法が必要だ。


「ヒール・ライト・サナーレ」


呪文を唱える。魔力が流れ込む。光が男を包む。


そして――成功した。


男の顔に血の気が戻る。呼吸が深くなる。彼の瞼が震え、ゆっくりと開いた。


焦点の定まらない瞳が、リリアを捉えた。


「...天使...?」


男は掠れた声で呟いた。


「天使じゃないわ。フェアリーよ」リリアは答えた。「あなた、大丈夫?何があったの?」


男は体を起こそうとして、顔をしかめた。「痛っ...ここは...?」


「フェアランド王国。魔法の国よ」


「魔法...?」男は混乱した様子で周りを見回した。「実験は...装置は...!」


彼は慌てて、傍らの薄い板を拾い上げた。そして、その表面を指でなぞった。


リリアは息を呑んだ。板の表面に、光の文字が浮かび上がったのだ。


「動く...よかった」男は安堵の息をついた。そしてリリアを見た。「あの、君は...本当にフェアリー?翼はないけど...」


「翼は魔法で隠してるの。人間?あなた、人間界から来たの?」


「人間界...そうか、異世界転移が成功したのか」男は呟いた。「僕は柊真司。統計学の研究者だ。実験中に...何かが起きて...」


「統計学?」


リリアは首を傾げた。聞いたことのない言葉。


真司は苦笑した。「ああ、この世界にはないのかもしれない。えっと、物事を数字で理解する学問なんだ」


リリアの心臓が跳ねた。


「数字で...理解する?」


「そう。データを集めて、分析して、パターンを見つける。確率を計算して、予測する。世界を、測定可能な形で理解するための――」


「魔法を!」リリアは叫んだ。「魔法を、数字で理解できるの?」


真司は驚いた顔をした。「魔法?いや、魔法は非科学的な...」彼は言葉を切った。「待って。ここは魔法の世界なんだよね?それなら...もしかしたら...」


二人の視線が交わった。


リリアは震える声で訊いた。「あなたは、魔法を測る方法を知ってるの?」


真司は考え込んだ。そして、ゆっくりと頷いた。


「測れないものはない。測定方法を見つければいいだけだ」


その言葉が、リリアの世界を変えた。


彼女は真司の手を掴んだ。「教えて。その、統計学を。お願い」


真司は困惑した様子だったが、リリアの目の中に映る切実さを見て、表情を変えた。


「君は...本気で魔法を理解したいんだね」


「死ぬほど」リリアは答えた。「私は、人を救いたいの。確実に。魔法の成功率を上げたい。でも、どうすればいいかわからない。師匠も、学院長も、誰も教えてくれない」


真司は彼女の手を見た。小さく、しかし強く彼の手を握りしめている。その手が震えている。


「わかった」真司は言った。「教えよう。統計学を。ただし条件がある」


「何?」


「僕がこの世界に馴染めるように、君が助けてくれ。魔法のことも、この国のことも、何も知らないから」


リリアは笑った。涙が溢れそうになるのを堪えて、力強く頷いた。


「取引成立ね」


月明かりの下、フェアリーと統計学者の、奇妙な契約が結ばれた。


これが、フェアランド王国を変える革命の、始まりだった。


---


### 第2章:統計学者との邂逅


翌朝、リリアは真司を自分の部屋に連れ込んだ。


寮の他の住人に見つからないよう、魔法で気配を消しながら。男性を部屋に入れるなど、規則違反どころの騒ぎではないが、リリアにとって規則よりも重要なことがあった。


「狭くてごめんなさい」


リリアの部屋は、六畳ほどの小さな空間だった。ベッド、机、本棚、そして壁一面を覆うノートの山。魔法の記録、失敗の分析、成功と失敗のパターンを探る試み――すべて、彼女の孤独な探究の跡。


真司は部屋を見回し、ノートの山に目を留めた。


「これ...全部君が?」


「恥ずかしいわ。誰にも見せたことないの」リリアは頬を赤らめた。「みんな、無意味だって笑うから」


真司は一冊のノートを手に取った。ページをめくる。几帳面な文字で書かれた記録。日付、時刻、天候、魔法の種類、成功・失敗、推定魔力消費量...


「無意味?」真司は顔を上げた。「これは素晴らしいデータだ」


リリアの目が見開かれた。「データ?」


「そう。データ」真司は椅子に座り、ノートを机に広げた。「統計学の最初の一歩は、データの収集だ。君はすでに、完璧な記録を残している」


彼は自分のバッグから、あの薄い板――ラップトップ、と真司は呼んだ――を取り出した。表面を指でなぞると、光の文字と図形が浮かび上がる。


「これは...魔法?」


「コンピューター。電気で動く計算機だ」真司は説明した。「君の世界の言葉で言えば...そうだな、『自動計算魔法陣』とでも思ってくれ」


リリアは画面に見入った。そこには、数字の表、グラフ、複雑な数式が並んでいる。


「これで、データを分析する。パターンを見つける。そして――未来を予測する」


「未来を...」


リリアの声が震えた。もし本当に、魔法の成功を予測できるなら。もし、失敗を防げるなら。


真司はリリアのノートから、治癒魔法の記録を指差した。


「まず、基本から始めよう。君の魔法の成功率は?」


「32.6%」リリアは即答した。「九十二回中、三十回成功」


「良い。じゃあ、魔力消費量の平均は?」


リリアは黙った。「平均...?」


真司は微笑んだ。「大丈夫。これから学べばいい」


彼はノートに数字を書き始めた。

```

データ: 80, 200, 180, 90, 150, 220, 100, 170...


平均 (Mean) = すべてのデータの合計 ÷ データの個数

「平均値は、データの中心を表す数字だ。君の魔力消費量がバラバラでも、その"真ん中"がわかる」

真司は計算を続けた。リリアは息を殺して見守る。

「九十二回の平均は...148.3単位。つまり、君は平均して148単位の魔力を消費している」

「148...」

リリアはその数字を見つめた。こんなに単純なことが、なぜ今まで思いつかなかったのだろう。

「でも、問題がある」真司は続けた。「君のデータは、バラつきが大きすぎる。80から220まで。このバラつきを測る指標が、標準偏差だ」

真司は説明を続けた。データの散らばり具合。平均からの距離。そして、標準偏差という魔法のような数字が、そのすべてを一つの値で表現できること。

「君の魔力消費の標準偏差は...およそ45単位。これは大きい。つまり、君の魔法は非常に不安定だということだ」

リリアは唇を噛んだ。「わかってる。でも、なぜ不安定なのかが...」

「それを調べるのが、統計学の仕事だ」真司は言った。「成功したときと失敗したときで、何が違う?時間帯?天候?君の体調?」

リリアは考えた。「わからない...全部違うような気がする」

「じゃあ、これから測ろう。一つずつ、仮説を立てて検証していく」

「仮説?」

「『もしかしたら、こうじゃないか』という推測だ。例えば、『朝の魔法は成功率が高い』とか、『満月の夜は魔力が安定する』とか」

リリアの目が輝いた。「それを、確かめられるの?」

「確かめられる。統計的に」真司は頷いた。「ただし、データが必要だ。もっとたくさんの」

「何回?」

「少なくとも百回。できれば千回」

リリアは息を呑んだ。「千回...」

「統計学の基本原則がある」真司は真剣な目でリリアを見た。「サンプルサイズ――標本の大きさ――が小さいと、データは嘘をつく」

彼はコインを取り出した。人間界の硬貨らしい。

「このコインを投げて、表が出る確率は?」

「半分...50%?」

「正解。でも、もし僕が二回だけ投げて、二回とも表が出たら?」

「それは...」

「『このコインは表しか出ない』と結論づけるか?もちろん違う。二回じゃ少なすぎる。でも十回投げて八回表なら?百回投げて八十回表なら?」

リリアは理解した。「回数が多いほど...信頼できる」

「そう。これが『大数の法則』だ。試行回数が増えるほど、真実に近づく。だから君は、もっとデータを集める必要がある」

リリアは決意を込めて頷いた。「やるわ。千回でも、一万回でも」

真司は微笑んだ。「いい目だ。統計学者の目だよ、それは」

その日から、リリアの生活は一変した。

朝五時に起床。訓練場で魔法を十回試行。時刻、天候、体調、前日の睡眠時間、食事の内容――すべてを記録する。

午前の講義の合間にも、こっそりと魔法を試す。廊下で、図書館で、食堂の隅で。そのたびにノートを開き、結果を記録。

夕方、リリアは部屋で真司と会う。彼女はデータを見せ、真司は分析する。コンピューターの画面に、グラフが描かれていく。

「面白いパターンが見えてきたよ」三日目の夜、真司は言った。

画面には、散布図が表示されていた。横軸は時刻、縦軸は成功率。

「朝六時から八時の間、君の成功率は53%。でも午後二時から四時は22%まで落ちる」

リリアは画面に顔を近づけた。「本当だ...なぜ?」

「仮説はいくつかある。体内の魔力リズム、疲労、気温...次は、これらの変数を一つずつ検証していこう」

リリアの心臓が高鳴った。初めて、魔法が理解できる気がした。初めて、自分の失敗に意味が見えた。

「ありがとう」彼女は言った。「真司さん」

「真司でいい」彼は笑った。「敬語もいらない。僕たちは共同研究者だろ?」

「共同...研究者」

リリアはその言葉を反芻した。生まれて初めて、自分の探究を理解してくれる人間ができた。いや、フェアリーではなく人間だからこそ、理解してくれたのかもしれない。

「真司」リリアは言い直した。「私、統計学が好きになりそう」

「それは嬉しいな」真司は柔らかく微笑んだ。「でも、これはまだ始まりに過ぎない。統計学の世界は、君が思うよりずっと深い」

「全部、教えて」

「時間はかかるよ?」

「かまわない」リリアは真司の目を真っ直ぐ見た。「一生かかっても」

真司は一瞬、言葉を失った。そして、頷いた。

「わかった。じゃあ、次は『仮説検定』を教えよう。これは統計学の心臓部だ」

夜が更けるまで、二人は語り合った。数字と魔法。データと直感。科学と芸術。

リリアは、自分の中で何かが変わっていくのを感じた。世界の見え方が、少しずつ変わっていく。

そして真司も、リリアの純粋な知的好奇心に、何か大切なものを思い出していた。自分が統計学を志した理由。世界を理解したいという、あの情熱。

部屋の窓から、月が二人を照らしていた。

________________________________________

第3章:最初の実験

一週間後、リリアは三百回のデータを集めた。

睡眠時間を削り、食事も疎かに、ひたすら魔法を試行し続けた。真司は心配そうに止めようとしたが、リリアは聞かなかった。

「大丈夫。これが私のやりたいことだから」

彼女の目には、以前にはなかった光があった。使命感。いや、それ以上の何か――喜び。

真司は三百のデータを分析し、グラフを作成した。そして、驚くべき発見があった。

「リリア、これを見て」

画面には、箱ひげ図が表示されていた。成功時と失敗時の魔力消費量を比較したもの。

「成功したときの平均魔力消費は162単位。失敗したときは141単位」

「多いほうが...成功する?」リリアは首を傾げた。「でも、多すぎると失敗することも...」

「そう。問題は『適量』だ。少なすぎても、多すぎてもダメ。そして、君のデータから最適値が見えてきた」

真司は計算を続けた。

「統計的に、君が155から170単位の魔力を使ったとき、成功率は74%まで跳ね上がる」

「74%...!」

リリアは震えた。それは、フェアランド全体の平均成功率の二倍以上だ。

「でも、これは相関だ」真司は釘を刺した。「因果関係じゃない」

「相関?因果関係?」

「相関は『関係がありそう』ということ。因果関係は『Aが原因でBが起きる』ということ。似てるけど、全く違う」

真司は例を挙げた。

「アイスクリームの売上と、溺死者数には相関がある。でも、アイスクリームが溺死を引き起こすわけじゃない。両方とも、夏に増えるから見かけ上の関係があるだけだ」

リリアは理解した。「じゃあ、魔力消費量と成功率の関係も...」

「確かめる必要がある。実験をしよう。厳密にコントロールされた条件で」

翌日、二人は人気のない訓練場の隅で実験を開始した。

「今日は、魔力消費量だけを変数として扱う」真司は説明した。「他の条件――時刻、天候、君の体調――はすべて記録するけど、意図的には変えない」

「わかった」

リリアは深呼吸した。そして、魔力を手のひらに集める。

「まず、150単位で十回」

真司がストップウォッチ――時間を測る魔法の道具、と彼は説明した――を構える。

リリアは集中した。魔力の流れを感じる。そして、150という数字を意識する。

「ヒール・ライト・サナーレ」

光が生まれ、形を成す。成功。

「良い。次」

十回の試行。結果は、六回成功、四回失敗。

「60%。悪くない」真司は記録した。「次は160単位で」

実験は続いた。140単位、150単位、160単位、170単位、180単位――それぞれ十回ずつ。

三時間後、リリアは疲労困憊だった。しかし目は輝いていた。

「データが出た」真司は画面を見せた。

そこには、放物線のグラフがあった。横軸は魔力消費量、縦軸は成功率。

「160単位のとき、成功率は80%でピーク。それより少なくても、多くても、成功率は下がる」

「これが...適正量」

「統計的に有意な結果だ」真司は言った。「p値は0.003。つまり、これが偶然である確率は0.3%以下」

「p値...?」

「仮説検定の要だ」真司は丁寧に説明した。「僕たちの仮説は『魔力消費量と成功率には関係がある』。この仮説が間違っている確率がp値だ。低ければ低いほど、仮説は正しい可能性が高い」

リリアは脳が沸騰しそうだった。新しい概念が、次々と流れ込んでくる。

「普通、p値が0.05以下なら『統計的に有意』と判断する。君の結果は0.003。圧倒的だ」

リリアは笑った。涙が溢れた。

「私の魔法...理解できた。初めて、理解できた」

真司は優しく彼女の肩に手を置いた。

「君は素晴らしい研究者だよ、リリア。この一週間で、ほとんどの統計学の学生が一学期かけて学ぶことをマスターした」

リリアは真司を見上げた。彼の目は、温かかった。そして、そこに映る自分の姿が、以前とは違って見えた。

「ありがとう」

「僕が教えられるのは、方法だけだ。努力したのは君自身だよ」

二人の間に、静かな時間が流れた。訓練場に吹く風が、リリアの髪を揺らす。

「真司」リリアは訊いた。「あなたは、なぜ統計学を?」

真司は遠くを見た。「最初は、世界を理解したかったからだ。物理学や化学は、単純なシステムを説明できる。でも、複雑なもの――人間の行動、社会、経済――を理解するには、統計学が必要だった」

「でも、今は?」

真司は微笑んだ。「今は...誰かの役に立ちたいからかな。データの向こうに、人がいる。君みたいに、答えを求めている人がいる。その人たちを助けたい」

リリアの胸が温かくなった。この人は、優しい。知識だけじゃなく、心も持っている。

「私も」リリアは言った。「誰かの役に立ちたい。魔法で、人を救いたい。そのために、統計学を使いたい」

「良い目標だ」

「真司は...帰らないの?人間界に」

真司は少し考えた。「正直、わからない。帰る方法も、まだ見つかっていない。でも...」

彼はリリアを見た。

「今は、ここでやるべきことがある気がする」

リリアは顔が熱くなるのを感じた。視線を逸らし、空を見上げた。

「そう...ならよかった」

沈黙。しかし、それは気まずいものではなかった。

やがて真司が言った。

「次のステップを考えよう。君一人の魔法が改善されても、フェアランド全体は変わらない。この発見を、広める必要がある」

リリアは真司を見た。「広める...魔法議会に?」

「そうだ。君の研究成果を、正式に発表するんだ」

リリアは不安を感じた。「でも、議会は伝統を重んじる人たちばかり。統計学なんて...」

「だからこそ、データを示す必要がある」真司は力強く言った。「感情や意見じゃない。事実を。数字を。彼らが反論できないほどの、明確な証拠を」

リリアは深呼吸した。恐怖と期待が入り混じる。

「やってみる」

「僕も手伝う。プレゼンテーションの準備を一緒にしよう」

「プレゼンテーション?」

「発表のことだ。データを、わかりやすく、説得力を持って伝える技術」

その夜から、二人は新しいプロジェクトに取りかかった。リリアの発見を、魔法議会に提案するための準備。

真司はグラフを作成し、リリアは原稿を書いた。何度も修正を重ね、言葉を選んだ。

「『革命』とか『打破』とか、攻撃的な言葉は避けて」真司はアドバイスした。「『改善』『効率化』『補完』――既存のものを否定するんじゃなく、より良くする、という姿勢を見せるんだ」

リリアは学んだ。説得の技術。相手の立場を理解すること。共感を示すこと。

一週間後、提案書が完成した。

タイトルは「統計学的手法による魔法効率化の初期研究」。

内容は、リリアの実験データ、統計分析の結果、そして提案――全魔法使いに対する標準化された魔力測定と、最適値の算出。

「完璧だ」真司は言った。「これなら、理性的な人間なら...いや、フェアリーなら、反対できない」

リリアは不安そうに書類を見つめた。「本当に...大丈夫かな」

真司は彼女の手を握った。リリアは驚いて顔を上げる。

「大丈夫。君の研究は本物だ。自信を持って」

リリアは頷いた。真司の手の温もりが、勇気をくれた。

「ありがとう。一緒にいてくれて」

「どういたしまして」

二人は微笑み合った。

そして翌日、リリアは魔法議会に提案書を提出した。

革命の、第一歩。

________________________________________

第二部:革命

第4章:魔法議会への提案

魔法議会は、フェアランド王国の中枢にあった。

白い大理石で作られた円形の建物。天井には魔法で描かれた星空が広がり、床には複雑な魔法陣が刻まれている。ここで、王国の運命を決める議論が行われる。

リリアは議場の中央に立っていた。

周囲を取り囲むのは、二十人の議員たち。全員が老練な魔法使い。百年以上生きている者も珍しくない。彼らの視線が、リリアに突き刺さる。

最前列に座るのは、大魔導師ゼノビア。銀色の長い髪、鋭い目、威厳に満ちた佇まい。彼女こそが、保守派の象徴だった。

「見習いフェアリー、リリア・ブロッサム」議長が声を上げた。「君の提案を聞こう」

リリアは深呼吸した。手のひらに汗が滲む。

(落ち着いて。データがある。真実がある)

彼女は声を振り絞った。

「議員の皆様。私は本日、魔法の効率化に関する研究成果をご報告いたします」

リリアは魔法で、空中にグラフを投影した。真司から学んだ、視覚化の技術。

「現在、フェアランドの魔法成功率は平均32%です。つまり、三回に二回は失敗しています」

ざわめきが起きた。誰もが知っている事実だが、公式の場で明言されたことはなかった。

「しかし」リリアは続けた。「統計学的分析により、成功率を80%以上に引き上げる方法を発見しました」

沈黙。そして、爆発的なざわめき。

「静粛に!」議長が叫んだ。

ゼノビアが立ち上がった。

「ブロッサム。君は今、何と言った?統計学?」

「はい」リリアは真っ直ぐゼノビアを見た。「統計学とは、データを分析し、パターンを見つける学問です。私はこの三週間、自分の魔法を三百回以上測定し、分析しました」

リリアは次のグラフを表示した。魔力消費量と成功率の関係。

「結果、魔力消費量に最適値があることが判明しました。160単位前後で使用した場合、成功率は統計的に有意に上昇します。p値0.003、信頼区間95%で――」

「待て」ゼノビアの声が、リリアの言葉を切った。

「君は、魔法を測定したと言うのか?」

「はい」

「魔法を、数値化したと?」

「はい」

ゼノビアの目が、怒りで燃えた。

「愚か者が!」

彼女の声が議場に響き渡った。

「魔法は神聖なる芸術だ!千年の伝統だ!それを、数字で、データで汚すなど――冒涜以外の何物でもない!」

リリアは怯まなかった。

「魔法が神聖であることと、それを理解しようとすることは矛盾しません。むしろ、理解を深めることで、魔法の価値は――」

「価値?」ゼノビアは嘲笑った。「魔法の価値を、成功率などという数字で測るのか?魔法は結果ではない。過程だ。精神だ。魂だ!」

「魂があっても」リリアは声を強めた。「失敗すれば人は死にます」

議場が静まり返った。

リリアは続けた。

「私の師、フローラは優れた魔法使いでした。しかし彼女の魔法も、三回に一回は失敗した。ある日、彼女は重傷の子供を治療しようとして――失敗した。子供は死にました」

リリアの声が震えた。

「師匠は泣いていました。『もっと確実に治せれば』と。私はあの日、誓ったんです。絶対に、魔法を理解して、もっと確実なものにすると」

ゼノビアの表情が、わずかに緩んだ。

「...フローラのことは知っている。優れた魔法使いだった」

「だからこそ」リリアは訴えた。「私たちは前に進むべきです。伝統を尊重しながらも、改善できる部分は改善する。統計学は、魔法を否定するものではありません。より深く理解するための、道具なんです」

別の議員が口を開いた。若手の魔法使い、アレクシスだ。

「興味深い提案だ。しかし、具体的にどう実行する?全魔法使いに測定を強制するのか?」

「いいえ」リリアは答えた。「まずは小規模な実験を。志願者を募り、三ヶ月間、統計学的手法で魔法を訓練します。そして結果を測定する。もし有意な改善が見られなければ、この提案は撤回します」

「条件は?」

「失敗した場合、統計学の議論は今後、議会で行わないこと」

リリアは賭けに出た。自分の研究人生すべてを。

議員たちが顔を見合わせる。ひそひそと相談する声。

やがて、議長が言った。

「採決を取る。ブロッサムの提案――小規模実験の実施――に賛成の者は?」

手が上がる。一つ、二つ、三つ...八人。

「反対は?」

九人の手が上がった。

「同数...」

議長は悩んだ。同数の場合、議長が決定権を持つ。

長い沈黙。

そして――

「可決する」

リリアは息を呑んだ。

「ただし、条件がある」議長は続けた。「期限は三ヶ月。統計的に有意な改善――少なくとも成功率の20%向上――を証明できなければ、即座に実験は中止。そして、今後五年間、同様の提案は認めない」

「承知しました」

リリアは深く頭を下げた。手が震えている。恐怖と興奮で。

議場を出ると、真司が待っていた。

「どうだった?」

「通った...!」

リリアは真司に抱きついた。驚く真司。しかしすぐに、彼女の肩を優しく抱いた。

「よくやった」

「これから...大変」

「僕がいる。一緒に乗り越えよう」

リリアは真司の胸の中で、涙を流した。嬉しさと、プレッシャーで。

革命は、始まったばかりだった。


第5章:研究チームの結成

翌朝、リリアは王立魔法学院の掲示板に告知を貼った。

統計学的魔法研究プロジェクト

志願者募集


期間:3ヶ月

内容:統計学を用いた魔法効率化の実験的訓練

条件:データ収集への協力、週3回の講義参加


興味のある方は、リリア・ブロッサムまで

```


リリアは掲示板から離れ、廊下の隅で様子を窺った。通りかかる学生たちが、告知を読む。そして――


「統計学?何それ」

「あの変わり者のブロッサムがまた何か...」

「時間の無駄じゃない?」


嘲笑う声。呆れた表情。誰も立ち止まらない。


リリアは唇を噛んだ。予想はしていた。でも、実際に拒絶されると、心が痛む。


(誰も来なかったら...?)


不安が胸を締め付ける。三ヶ月後、何も証明できずに終わったら。真司に申し訳ない。いや、それ以上に――師匠フローラの期待を、裏切ることになる。


「リリア・ブロッサム?」


声に振り向くと、一人の男性が立っていた。三十代半ば、眼鏡をかけた痩せた魔法使い。ローブには論理魔法学科の紋章。


「あの...私はアルベルト。論理魔法の講師をしています」


「論理魔法...」


リリアは思い出した。論理魔法は、フェアランドでも異端の学問だった。感覚ではなく、理屈で魔法を解明しようとする。そのため、伝統派からは嫌われている。


「君の提案を議会で聞いた」アルベルトは言った。「素晴らしかった。実は私も、魔法の数理的理解を試みていたんだが...一人では限界があった」


リリアの目が輝いた。「参加してくれるんですか?」


「ぜひ。統計学、学びたい。特に回帰分析というものに興味がある」


「回帰分析...!」


リリアは真司から、その言葉を聞いたことがあった。複数の変数の関係を調べる、高度な技術。


「真司が喜ぶわ。彼、人間界の統計学者なんです」


「人間?」アルベルトは驚いた。「君が匿っているという噂は本当だったのか」


リリアは頬を赤らめた。「匿うって...そんな大げさな」


「議会の保守派は騒いでいる。『異邦人が魔法界を汚染する』と」


「真司は...」リリアは真剣な目でアルベルトを見た。「誰よりも、魔法を理解しようとしてくれています」


アルベルトは微笑んだ。「わかっている。だから私は君の味方だ」


その日の午後、二人目の志願者が現れた。


セシリア。三十代の女性、治癒魔法使い。優しい顔立ちだが、目には強い意志が宿っていた。


「リリアちゃんね」セシリアは温かく微笑んだ。「噂を聞いたわ。魔法の成功率を上げられるって、本当?」


「データが示す限り、本当です」


「なら、教えて」セシリアの目が潤んだ。「私、去年、患者さんを一人失ったの。魔法が、最後の瞬間に失敗して...」


彼女の声が震えた。


「それから、怖いの。また失敗するんじゃないかって。呪文を唱えるたび、手が震える」


リリアはセシリアの手を握った。冷たい。緊張で強張っている。


「わかります」リリアは言った。「私も同じです。だから、変えたい。魔法を、もっと確実なものに」


セシリアは涙を拭い、笑顔を作った。


「ありがとう。参加させて」


三人目は、意外な人物だった。


ピート。二十代前半の若い錬金術師。茶色の髪、いたずらっぽい目、軽薄そうな笑顔。


「よう、リリア。俺も混ぜてくれよ」


リリアは警戒した。ピートは学院でも有名な問題児。授業をさぼり、実験で爆発を起こし、規則を破りまくる。


「なぜ?あなた、真面目な研究なんて興味ないでしょう」


「失礼だな」ピートは笑った。「俺だって、興味はあるんだぜ。特に、確率分布ってやつ」


「確率分布...?」


「錬金術は素材の配合が命だ。でも、適当にやっても上手くいくときと失敗するときがある。その理由を知りたいんだよ。正規分布だの、ポアソン分布だの、そういうのが使えるんじゃないかって思ってさ」


リリアは驚いた。ピートは不真面目に見えて、本質を理解していた。


「...いいわ。でも、真面目にやってもらうからね」


「任せろ」


こうして、四人の研究チームが結成された。


---


その夜、リリアは真司に三人を紹介した。彼女の部屋は手狭だったため、場所を図書館の一室に移した。古い会議室。誰も使わない、埃まみれの部屋。


「皆さん、彼が柊真司。統計学の専門家です」


真司は立ち上がり、頭を下げた。


「よろしくお願いします。僕は人間界から来ました。魔法は使えませんが、データ分析なら任せてください」


アルベルトが手を差し出した。


「アルベルトです。論理魔法が専門。数学的思考は得意なので、統計学の理論部分も学びたい」


「素晴らしい」真司は握手した。「じゃあ、君には回帰分析を中心に教えるよ」


セシリアは恥ずかしそうに会釈した。


「セシリアです。治癒魔法を...数学は苦手なんですが、大丈夫でしょうか」


「大丈夫」真司は微笑んだ。「統計学は難しい数学を知らなくても使えます。大事なのは、考え方を理解することです」


ピートは椅子に座ったまま、足を組んだ。


「ピート。錬金術師。よろしくな、統計学の魔法使い」


真司は苦笑した。「魔法使いじゃないけど...まあ、よろしく」


真司はホワイトボード――人間界から持ち込んだ、白い板――を立てた。そこに図を描き始める。


「今日から三ヶ月、僕たちは統計学を武器に、魔法の効率化に挑戦する。でもその前に、統計学とは何かを理解してもらう必要がある」


真司はボードに大きく書いた。

```

統計学 = データから真実を見抜く学問

```


「世界は複雑だ。魔法も、複雑だ。成功と失敗の要因は無数にある。気温、湿度、月の満ち欠け、術者の体調、魔力の質...全部が絡み合っている」


アルベルトが頷いた。「だから、感覚に頼るしかないと考えられてきた」


「そう。でも、統計学は違うアプローチを取る」真司は続けた。「複雑さを、シンプルなパターンに還元する。そのための道具が、これから学ぶ技術だ」


真司はボードに、大きな樹形図を描いた。

```

統計学の体系


記述統計:データを要約する

├─ 平均、中央値、標準偏差

└─ グラフ化(ヒストグラム、散布図)


推測統計:データから未来を予測する

├─ 仮説検定(t検定、カイ二乗検定)

├─ 信頼区間

└─ 回帰分析


確率論:不確実性を数値化する

├─ 確率分布(正規分布、二項分布...)

└─ ベイズ統計

```


セシリアは目を丸くした。「こんなに...たくさん」


「焦らなくていい」真司は優しく言った。「一つずつ、実践を通じて学んでいく。君たちの魔法を題材にしながらね」


ピートが口笛を吹いた。「面白そうじゃん。で、いつから始める?」


「今から」


真司は全員を見回した。


「まず、君たち全員に自分の魔法を測定してもらう。最低百回。種類、成功・失敗、魔力消費量、その他気づいたこと全てを記録する」


「百回...」セシリアが呻いた。


「サンプルサイズは重要だ」真司は強調した。「少ないデータは嘘をつく。これは統計学の鉄則」


リリアが付け加えた。「私も最初は大変でした。でも、やる価値があります。自分の魔法が、どれだけ理解できるようになるか...」


彼女の目が輝いていた。その輝きに、他の三人も感化された。


「わかった」アルベルトが頷いた。「やってみよう」


「私も」セシリアが決意を込めた。


「まあ、どうせ暇だしな」ピートが肩をすくめた。


真司は満足そうに笑った。


「いいチームだ。じゃあ、今日は第一回講義をしよう。テーマは『記述統計の基礎』」


こうして、フェアランド史上初の統計学講座が始まった。


---


最初の一ヶ月は、地獄だった。


全員が、魔法の測定と日常業務の両立に苦しんだ。セシリアは病院での治療の合間にデータを取り、アルベルトは講義の準備をしながらノートを埋めた。ピートは...相変わらず不真面目に見えたが、誰よりも多くのデータを集めていた。


週三回の講義では、真司が統計学の基礎を教えた。


平均値、中央値、分散、標準偏差。最初は単純な概念も、実際の魔法データに適用すると、驚くべき発見があった。


「セシリア、君の治癒魔法の平均成功率は29%だ。でも、中央値は32%。これは何を意味するか分かる?」


セシリアは首を傾げた。「平均と中央値が違う...?」


「データに外れ値――極端に低い値や高い値――があるときに起きる」真司は説明した。「君の場合、たまに極端に低い成功率の日がある。体調が悪い日だ」


「確かに...」セシリアは自分のノートを見た。「睡眠不足の日は、ほとんど失敗してる」


「これがわかれば、対策が取れる」真司は言った。「十分な睡眠を確保する。それだけで、成功率は上がる」


リリアは横で、セシリアの表情が変わっていくのを見た。混乱から、理解へ。そして、希望へ。


アルベルトは回帰分析に夢中になった。


「魔法の成功率を、複数の変数で予測できる...!」


彼は自分の論理魔法のデータを、多変量回帰モデルに入れた。説明変数は、気温、湿度、月齢、魔力レベル、集中時間。


結果、驚くべきことが判明した。


「月齢が最も強い影響を持つ。満月の前後三日間、成功率が43%上昇する」


「月の魔力か」リリアは呟いた。「昔から言われてたけど、誰も証明してなかった」


「今、証明した」アルベルトの声が震えていた。「統計学で」


ピートは確率分布に目覚めた。


「錬金術の材料配合、完全にポアソン分布に従ってるぜ!」


彼は錬金反応の成功回数を、横軸に取った。そして、その頻度を縦軸に。結果、綺麗なポアソン分布の曲線が描かれた。


「これで、最適な材料量が計算できる。もう勘に頼らなくていい」


真司は感心した。「君、センスあるよ」


「だろ?」ピートは得意げに笑った。


四人は、統計学の魅力に取り憑かれていった。


そしてリリアは――彼女は教える側に回っていた。真司から学んだことを、三人に伝える。時には、真司が気づかなかった魔法特有の問題点を指摘する。


「リリア、いい教師になってるよ」


ある晩、真司は言った。二人きりで、データの整理をしている時。


「そんな...まだまだです」


「謙遜するな。君は統計学を、魔法の言葉で翻訳できる。それは僕にはできないことだ」


リリアは顔が熱くなった。真司の褒め言葉が、嬉しい。


「真司のおかげです。あなたが、教えてくれたから」


「僕たちは、いいチームだ」


真司は微笑んだ。そして、少し躊躇ってから言った。


「リリア...君と出会えて、よかった」


リリアの心臓が跳ねた。


「私も...」


二人の目が合った。部屋の空気が、変わった。言葉にならない何かが、流れている。


リリアは真司に近づこうとした。しかし――


ドアが開いた。


「おっと、邪魔したか?」


ピートが顔を出した。いたずらっぽい笑み。


リリアは慌てて離れた。「な、何の用?」


「データの整理方法、もう一回教えてくれよ。エクセルってやつ、まだ慣れなくて」


「...今行く」


リリアは真司を一瞬見た。真司も、残念そうな顔をしていた。


(あと少しだったのに...)


リリアは心の中で嘆いた。しかし同時に、少し安心もしていた。もし本当にあの瞬間、何かが起きていたら――自分は、どうなっていただろう。


研究が進むにつれ、チームの関係も深まっていった。


セシリアはリリアの姉のような存在になった。恋愛相談(主に真司について)に乗ってくれる、頼れる女性。


アルベルトは真司の議論相手になった。統計学の理論について、二人は夜遅くまで語り合った。


ピートは...ムードメーカー。真面目になりすぎたチームを、冗談で和ませる。


そして、成果が出始めた。


一ヶ月半が過ぎた頃、セシリアの治癒魔法の成功率は29%から61%に上昇していた。


「信じられない...」


セシリアは自分の記録を見つめた。涙が溢れる。


「もう、失敗が怖くない。なぜ失敗するのか、わかるから。対策が取れるから」


リリアは彼女を抱きしめた。


「よかった」


アルベルトの論理魔法も、安定性が大幅に向上した。月齢を考慮して魔法を使うことで、失敗がほぼゼロになった。


ピートの錬金術は、材料のロス率が70%減少。彼の工房は、学院で最も効率的な施設になった。


そして真司が言った。


「もう十分なデータが揃った。次は、仮説検定だ」


全員が真司を見た。


「僕たちの成果が、本当に統計的に有意なのか。偶然ではないのか。それを証明する」


リリアは緊張した。ここが、正念場。


「t検定を使う」真司は説明した。「統計学の中でも、最も基本的で、最も強力な手法だ」


真司はボードに数式を書いた。

```

t = (治療後の平均 - 治療前の平均) / (標準誤差)


p値:この差が偶然である確率

p < 0.05 なら「統計的に有意」

```


「セシリア、君のデータで計算してみよう」


真司はコンピューターを操作した。数字が画面に流れる。


そして――


「t値 = 8.23、p値 = 0.00012」


沈黙。


「これは...」セシリアが息を呑んだ。


「統計的に極めて有意だ」真司は宣言した。「君の成功率向上は、偶然じゃない。統計学的訓練の効果だ」


セシリアは泣き崩れた。喜びで。


アルベルトもピートも、同様の結果だった。全員、p値は0.01以下。圧倒的な有意性。


「やった...」


リリアは震える声で呟いた。


「やったぞ!」


ピートが叫び、全員を抱きしめた。笑いと涙が混じり合う。


真司も笑っていた。そしてリリアを見た。


「君の勝ちだ、リリア」


リリアは真司に駆け寄り、抱きついた。今度は、誰にも邪魔されなかった。


「ありがとう...本当に、ありがとう」


真司は彼女の背中を優しく撫でた。


「どういたしまして」


その夜、五人は小さな祝宴を開いた。魔法で作った料理、人間界から持ち込んだお菓子、そしてフェアランドのエルフワイン。


「統計学に乾杯!」


ピートが叫び、全員がグラスを掲げた。


しかし、リリアは心の片隅で不安を感じていた。


(これから...もっと大きな戦いが始まる)


成果を議会に報告する。そして――保守派の反発。


嵐は、すぐそこまで来ていた。


---


### 第6章:最初の大成功


二ヶ月目。


リリアたちの研究は、学院内で話題になり始めていた。


「セシリア先生の治癒魔法、最近すごいらしいよ」

「失敗がほとんどないって」

「統計学とかいうの、本当に効くのかな」


好奇心。羨望。そして――嫉妬。


メリッサが、リリアを廊下で呼び止めた。


「ねえリリア。本当に成功してるの?」


「ええ」リリアは答えた。「データが証明してる」


「でも...」メリッサは不安そうに言った。「みんな、あなたのこと言ってるわ。『伝統を壊す気だ』って」


「壊すんじゃない」リリアは真剣に言った。「進化させるの」


メリッサは首を振った。「わからない。魔法って、そんなに複雑に考えるものじゃないと思うの」


「複雑じゃないわ。ただ、理解しようとしてるだけ」


メリッサは去っていった。リリアは、溝が広がっていくのを感じた。


(でも、止まれない)


その日の午後、リリアは驚くべきニュースを受け取った。


王立病院の院長、エルダー・グリムから手紙が届いたのだ。

```

リリア・ブロッサム殿


貴殿の研究について耳にした。

セシリアの報告によれば、治癒魔法の成功率が飛躍的に向上したとのこと。

つきましては、当病院での実地試験を提案したい。


もし成功すれば、貴殿の研究は王国全体に認められるだろう。


エルダー・グリム

```


リリアは手紙を握りしめた。震えが止まらない。


「真司...!」


彼女は走った。真司のいる図書館へ。


真司は古い魔法書を読んでいた。フェアランドの歴史を学ぶため。


「どうした?」


リリアは息を切らしながら、手紙を見せた。


真司は読み、目を見開いた。


「王立病院...これは大きいぞ」


「受けるべき?」


「もちろん」真司は頷いた。「これは、君の研究を証明する最高の機会だ」


リリアは唇を噛んだ。「でも...失敗したら」


「失敗しない」真司は彼女の肩を掴んだ。「データがある。理論がある。そして、君がいる」


リリアは真司の目を見た。そこには、揺るぎない信頼があった。


「...わかった。やる」


---


一週間後。


王立病院の大ホールに、百人以上の魔法使いが集まっていた。医師、研究者、そして魔法議会の議員たち。


壇上に、リリアとセシリアが立っている。


エルダー・グリムが紹介した。


「本日は、統計学的手法による治癒魔法の実演をご覧いただく。実演者は、セシリア・ローズ。彼女は二ヶ月の訓練で、成功率を29%から61%に向上させた」


ざわめき。信じられない、という顔。


ゼノビアも、最前列にいた。鋭い目でリリアを見つめている。


「では、始めてください」


グリムが合図した。


舞台の中央に、担架が運ばれてきた。そこには、重傷の患者が横たわっている。交通事故による複雑骨折。通常の治癒魔法では、成功率20%以下の重症例。


セシリアは深呼吸した。手を患者の上にかざす。


(落ち着いて。データを思い出して)


彼女は自分の最適魔力消費量を思い出した。155単位。満月の夜は、さらに効率が上がる。今日は、満月の二日前。好条件。


「ヒール・マキシマ・サナーレ」


呪文を唱える。魔力が流れ込む。緑の光が患者を包んだ。


十秒。二十秒。三十秒――


光が消えた。


患者の骨が、音を立てて繋がった。皮膚が再生する。呼吸が安定する。


成功。


会場が、静まり返った。


そして――爆発的な拍手。


「信じられない...」

「本当に治った」

「一回で?」


セシリアは涙を流していた。喜びで。そして、安堵で。


グリムが壇上に上がった。


「皆さん、これが統計学の力です。セシリアは今日、さらに四件の治療を行います。すべて、成功率50%以下の困難な症例です」


リリアは舞台袖で、真司の手を握っていた。


「できる...セシリアなら、できる」


真司は頷いた。


二件目。脳内出血の老フェアリー。セシリアの魔法が、出血を止めた。成功。


三件目。毒による内臓損傷。解毒と修復を同時に。成功。


四件目。先天性の心臓疾患。複雑な魔法構造。しかし――成功。


五件目。瀕死の子供。全身火傷。


会場が息を呑んだ。これは、最も難しい症例。ベテランでも成功率5%以下。


セシリアは躊躇した。手が震える。


(できない...これは無理...)


しかし、彼女はリリアを見た。リリアは頷いた。


(データを信じて。自分を信じて)


セシリアは深呼吸し、魔力を集めた。今までで最大の魔力量。185単位。限界近く。


「ヒール・ウルティマ・サナーレ」


光が爆発した。会場全体を照らすほどの光。


そして――


子供の火傷が、消えていった。皮膚が再生する。呼吸が戻る。心臓が動き出す。


成功。


セシリアは倒れた。魔力を使い果たして。


しかし、笑っていた。


会場が、総立ちで拍手した。


リリアは走った。舞台に上がり、セシリアを抱きしめた。


「やったわ...やったのよ、セシリア!」


セシリアは泣きながら笑った。


「ありがとう...リリア...統計学...ありがとう...」


グリムが前に出た。そして、宣言した。


「本日をもって、王立病院は統計学的手法を正式に導入する。全医療魔法使いに、訓練を義務付ける」


会場が、再び拍手に包まれた。


しかし、一人だけ拍手していない人物がいた。


ゼノビア。


彼女は立ち上がり、会場を出て行った。その背中に、怒りが滲んでいた。


---


その夜。


フェアランド中のニュースが、リリアたちの成功を報じた。


「デイリー・エンチャント」の一面。

```

魔法革命!

統計学が不可能を可能に

見習いフェアリーの挑戦、王立病院を変える

リリアの部屋には、祝福の手紙が山のように届いた。

「すごいことになってるわ」

セシリアが笑った。部屋には、研究チーム全員が集まっていた。

「これで、議会も認めざるを得ないだろう」アルベルトが言った。

「あと一ヶ月、気を抜くなよ」ピートが警告した。「保守派は、必ず反撃してくる」

真司は窓の外を見ていた。

「嵐が来る」彼は呟いた。「これは...始まりに過ぎない」

リリアは真司の隣に立った。

「怖い?」

「いや」真司は微笑んだ。「期待してる。君たちが、どこまで行けるのか」

リリアは真司の手を取った。

「一緒に、行きましょう」

真司は頷いた。

その時、ドアが激しくノックされた。

「リリア・ブロッサム!開けなさい!」

怒声。ゼノビアだ。

全員が緊張した。リリアは深呼吸し、ドアを開けた。

ゼノビアが立っていた。激怒の表情。しかし、目には――涙?

「あなた...」ゼノビアは震える声で言った。「あなたは、何をしたの...」

「統計学で、魔法を――」

「違う!」ゼノビアが叫んだ。「あなたは、魔法の神秘を奪った!千年の伝統を、データという名の暴力で破壊した!」

リリアは怯まなかった。

「神秘は奪っていません。ただ、理解を深めただけです」

「理解?」ゼノビアは嘲笑した。「魔法は理解するものではない。感じるものだ。あなたはそれを忘れた」

「いいえ」リリアは真剣に言った。「私は感じています。データの向こうに、魔法の本質を」

ゼノビアは言葉を失った。

長い沈黙。

やがて、ゼノビアは小さく言った。

「...あなたの師、フローラは、私の親友だった」

リリアは驚いた。

「彼女が死ぬ前、私に言った。『いつか、魔法は変わる。その時、変化を恐れないで』と」

ゼノビアの目から、涙がこぼれた。

「私は...恐れていた。変化を。そして、伝統が無価値にされることを」

リリアは、ゼノビアに近づいた。

「伝統は無価値ではありません」リリアは言った。「それは、私たちの基礎です。統計学は、伝統の上に築かれるものです」

ゼノビアはリリアを見た。

「...あなたは、本当にフローラの弟子ね」

彼女は背を向けた。

「私は、まだ認めない。しかし...邪魔もしない」

ゼノビアは去っていった。

リリアは、複雑な気持ちで彼女の背中を見送った。

真司が言った。

「一歩、前進したな」

リリアは頷いた。

しかし、彼女は知らなかった。

最大の試練が、すぐそこまで迫っていることを。

第7章:分断の深まり

セシリアの成功から二週間。

フェアランド王国は、二つに割れていた。

王都の中央広場には、毎日のように集会が開かれた。統計学を支持する「革新派」と、伝統を守ろうとする「保守派」。両者の対立は、日に日に激化していった。

リリアは図書館の窓から、広場の様子を眺めていた。

「データが全てだ!」 「感覚は時代遅れ!」 「魔法を科学しろ!」

革新派の若者たちが、拳を掲げて叫んでいる。彼らは統計学を、まるで新しい宗教のように崇拝し始めていた。

一方、広場の反対側では――

「伝統を守れ!」 「神秘を返せ!」 「測定反対!」

保守派の年配魔法使いたちが、対抗してプラカードを掲げている。

リリアは唇を噛んだ。

「これは...私が望んだことじゃない」

真司が隣に立った。コーヒー――人間界の飲み物――を二つ持って。

「革命には、必ず混乱が伴う」

「でも...」リリアはカップを受け取った。「あの人たち、統計学を理解してない。ただ流行に乗ってるだけ」

「そういう人間は、どの世界にもいる」真司は苦い顔をした。「僕の世界でも、統計学を誤用する人は多い。都合のいいデータだけを選んで、自分の主張を正当化する」

リリアは広場を見下ろした。革新派の中に、見知った顔があった。

カイザー・フォン・エクリプス。

若き魔導師。二十代半ば。天才と呼ばれ、傲慢で知られる男。彼は革新派のリーダーになっていた。

「魔法は測定可能だ!」カイザーが演説している。「我々は、千年の迷信から解放される!データこそが真実!数値こそが正義!」

群衆が歓声を上げる。

リリアは不快感を覚えた。

「あの人...統計学をわかってない」

「どういうこと?」

「統計学は謙虚な学問のはずよ。不確実性を認め、誤差を受け入れ、常に『間違っているかもしれない』と疑う。でもカイザーは、まるで統計学が絶対的な真理を与えるかのように語ってる」

真司は深く頷いた。

「その通りだ。統計学の本質は、不確実性との対話なんだ。でも、多くの人はそれを理解しない。白か黒かの答えを求めて、統計学を悪用する」

その時、ドアが開いた。

アルベルトが入ってきた。顔色が悪い。

「リリア...大変だ」

「どうしたの?」

「カイザーが、大規模な防衛魔法を計画している。統計学を使って、完璧に設計したと主張してる」

リリアは凍りついた。

「防衛魔法...?それって、王都を守る結界のこと?」

「そうだ。彼は『従来の結界は非効率だ。統計学的に最適化された結界を作る』と宣言した。そして、議会の許可を得てしまった」

真司が険しい表情になった。

「彼のデータを見せてもらえるか?」

「ここに」

アルベルトは書類の束を机に置いた。カイザーの研究ノート、計算式、回帰モデル...

真司は急いでページをめくった。そして、眉をひそめた。

「これは...」

「何?何か問題があるの?」リリアが訊いた。

真司は深刻な顔で言った。

「彼のモデルは、外挿をしている」

「外挿?」

「サンプルデータの範囲外で予測することだ」真司は説明した。「例えば、気温10度から30度のデータしかないのに、気温50度での予測をするようなもの」

リリアは理解した。「それは...危険?」

「極めて危険だ」真司は強調した。「統計モデルは、サンプルデータの範囲内でしか信頼できない。範囲外では、予測が大きく外れる可能性がある」

アルベルトが付け加えた。

「さらに問題がある。彼のサンプルサイズは三十だ。防衛魔法のような複雑なシステムを予測するには、少なすぎる」

「そして」真司は別のページを指差した。「彼は交絡変数を考慮していない。月の満ち欠け、大気中の魔力濃度、季節変動...これらは全て、魔法の効果に影響するはずだ」

リリアは青ざめた。

「止めなきゃ。カイザーに会って、説明しないと」

「無駄だと思う」アルベルトは暗い顔で言った。「彼は、誰の意見も聞かない。データが全てだと信じ込んでる」

「それでも、試さないと」

リリアは立ち上がった。

________________________________________

カイザーの研究室は、魔法学院の最上階にあった。

リリアは真司とアルベルトと共に、ドアをノックした。

「入れ」

傲慢な声。

部屋に入ると、カイザーが巨大な魔法陣の前に立っていた。壁一面に、複雑な数式とグラフが投影されている。

「やあ、リリア・ブロッサム」カイザーは振り返った。金色の髪、鋭い目、自信に満ちた笑み。「君の統計学革命、素晴らしいよ。君のおかげで、僕も目覚めた」

「カイザー、あなたの防衛魔法計画について話があるの」

「ああ、これか」カイザーは魔法陣を指差した。「完璧だろう?回帰分析で最適化された、史上最強の結界だ」

真司が一歩前に出た。

「カイザーさん、あなたのモデルには重大な欠陥があります」

カイザーは真司を見た。軽蔑の色が浮かぶ。

「君が、例の人間か。統計学者だそうだね」

「そうです。だからこそ言える。あなたのモデルは危険です」

「危険?」カイザーは笑った。「データが示してるんだ。成功率99.9%。誤差範囲±0.05%。完璧だよ」

「その予測は、外挿に基づいています」真司は冷静に言った。「あなたのサンプルデータは、小規模な防衛魔法のものだけ。大規模な結界では、全く異なる現象が起きる可能性があります」

「それは君の憶測だ」カイザーは鼻で笑った。「データがない以上、証明できない」

「だからこそ慎重になるべきなんです」リリアが訴えた。「統計学は万能じゃない。限界がある。不確実性がある」

「不確実性?」カイザーは冷たく言った。「君たちは臆病なだけだ。僕は、統計学を信じる。完全に」

「統計学的に考えるなら」アルベルトが言った。「検出力の計算をすべきだ。サンプルサイズ三十では、効果を検出できない可能性が――」

「十分だ」カイザーが遮った。「君たちの講釈は聞き飽きた。僕のモデルは正しい。なぜなら、データがそう示しているから」

真司は最後の試みをした。

「カイザーさん。統計学の基本原則を思い出してください。『全てのモデルは間違っている。しかし、いくつかは有用だ』。モデルは現実の近似に過ぎません。絶対ではない」

カイザーは真司を睨んだ。

「君の世界では、そうかもしれない。しかし、ここは魔法の世界だ。魔法は、統計学で完全に制御できる」

「できません」リリアが叫んだ。「魔法には、測れない部分がある。感覚、直感、経験...それらも重要なの」

「時代遅れだ」カイザーは断言した。「魔法の新時代に、感覚など不要。データこそが全て」

リリアは絶望した。彼は、統計学の本質を全く理解していない。

「お願い...せめて、もっとデータを集めて。実験を重ねて」

「必要ない」カイザーは書類を手に取った。「議会の承認も得た。三日後、月が新月に変わる夜、王都全体を覆う新結界を起動する」

「新月...?」真司が驚いた。「最も魔力が不安定な時期じゃないか」

「だからこそ、挑戦する価値がある」カイザーは笑った。「成功すれば、統計学の力を全フェアリーに証明できる」

「失敗したら?」

「失敗しない。データがそう言っている」

カイザーは三人に背を向けた。

「もう帰ってくれ。僕は忙しい」

リリアは拳を握りしめた。怒りと無力感で震える。

真司が彼女の肩に手を置いた。

「行こう」

三人は部屋を出た。

________________________________________

廊下で、リリアは壁に拳を叩きつけた。

「くそっ...!なんで、なんであの人は理解しないの!」

「彼は統計学に酔っている」真司は言った。「数字の力に魅了されて、謙虚さを失った」

「これは私のせい...」リリアは震える声で言った。「私が統計学を広めたから...」

「違う」アルベルトが否定した。「カイザーの傲慢さは、統計学の前からあった。彼はただ、新しい道具を手に入れただけだ」

「でも...」

真司はリリアの両肩を掴んだ。

「いいか、リリア。道具は善でも悪でもない。使う人間次第だ。ナイフは料理にも殺人にも使える。統計学も同じだ」

リリアは真司を見た。彼の目は、真剣だった。

「君がすべきことは、正しい統計学の使い方を広めることだ。カイザーのような誤用を防ぐために」

「でも...もう三日しかない」

「議会に報告しよう」アルベルトが提案した。「カイザーのモデルの欠陥を、正式に指摘する」

三人は急いで議会に向かった。

________________________________________

しかし、議会は取り合わなかった。

「ブロッサム君」議長が言った。「君の懸念は理解する。しかし、カイザーのモデルは複数の専門家によって検証された。問題ないという結論だ」

「でもその専門家たちは、統計学の訓練を受けていません!」リリアが訴えた。

「カイザーは受けている」別の議員が言った。「君から学んだのだろう?」

リリアは言葉に詰まった。カイザーは確かに、彼女の講義に二回ほど出席していた。しかし、基礎を学んだだけで、応用の難しさを理解していない。

「とにかく」議長が結論を下した。「計画は予定通り進行する。君の懸念は、記録に残しておく」

リリアたちは、議会から追い出された。

その夜、研究チーム全員が、リリアの部屋に集まった。

「どうする?」ピートが訊いた。「このままじゃ、本当にヤバいんだろ?」

「最悪の場合...」真司は深刻な顔で言った。「結界が暴走する。王都全体が、魔法の嵐に飲み込まれる可能性がある」

セシリアが青ざめた。

「何人...死ぬの?」

「わからない」真司は答えた。「でも、数百人、あるいは数千人規模になるかもしれない」

沈黙。

リリアは頭を抱えた。

「私のせい...全部、私のせい...」

「違う」真司が強く言った。「リリア、君を責めるな。君は正しいことをした」

「でも結果は...」

「まだ結果は出ていない」アルベルトが言った。「我々にできることはある」

「何?」

「カイザーの実験を、監視する。もし異常が起きたら、すぐに介入して止める」

「でも、どうやって?」ピートが訊いた。「あんな巨大な魔法陣、俺たちだけで止められるのか?」

「わからない」アルベルトは正直に答えた。「でも、試すしかない」

真司が立ち上がった。

「じゃあ、準備をしよう。緊急停止のための魔法陣を設計する。最悪の事態に備えて」

セシリアも頷いた。

「私は治癒魔法の準備をする。もし負傷者が出たら、すぐに対応できるように」

ピートが肩をすくめた。

「俺は...まあ、何かあったら爆発物でも作るか」

リリアは皆を見た。彼らは、自分のために動いてくれている。

「ありがとう...みんな」

「礼はいい」ピートが笑った。「俺たちは仲間だろ?」

リリアは涙をこらえて頷いた。

三日後。運命の夜が来る。

________________________________________

その三日間、リリアはほとんど眠らなかった。

真司と共に、緊急停止用の魔法陣を設計した。複雑な計算、魔力の流れの予測、あらゆるシナリオへの対策。

しかし、真司は何度も首を振った。

「足りない...サンプルデータが足りない。大規模結界の挙動を予測するには...」

「私たちも、外挿してるってこと?」

「そうだ」真司は苦笑した。「皮肉なことに、僕たちもカイザーと同じ過ちを犯している」

リリアは机に突っ伏した。疲労と絶望で、体が重い。

「じゃあ...どうすればいいの?」

真司は、リリアの頭を優しく撫でた。

「できる限りのことをする。それだけだ」

リリアは真司の手に、自分の手を重ねた。

「怖い」

「僕もだ」

「真司...もし、失敗したら。私、どうすればいい」

真司は答えなかった。ただ、リリアの手を握り返した。

その温もりが、リリアの唯一の支えだった。

________________________________________

運命の夜。

新月。星だけが、夜空を照らしている。

王都の中央広場には、巨大な魔法陣が描かれていた。直径百メートル以上。複雑な幾何学模様と、無数の数式。

カイザーが、魔法陣の中心に立っていた。周囲を、彼の支持者たちが取り囲んでいる。

そして、観客席には数千人のフェアリーが集まっていた。革新派、保守派、そして好奇心に駆られた市民たち。

リリアたちは、広場の端に陣取っていた。緊急停止用の小型魔法陣を、目立たないように配置している。

「準備はいいか?」アルベルトが訊いた。

「いつでも」ピートが答えた。

セシリアは震えていた。

「お願い...何も起きませんように」

真司は、計測装置――自作の魔力測定器――を確認していた。

「魔力レベル、正常。大気の安定性、正常。今のところ、異常はない」

リリアは、カイザーを見つめた。

(お願い...成功して。私が間違っていて)

午後十時。

カイザーが宣言した。

「本日、歴史が変わる!統計学が、魔法を完全に制御する瞬間を目撃せよ!」

群衆が歓声を上げた。

カイザーは呪文を唱え始めた。

「アークス・デフェンシオ・マキシマーレ...」

魔法陣が光り始めた。青白い光が、地面から立ち上る。

そして――結界が展開された。

透明なドームが、王都全体を覆っていく。美しい光のカーテン。

観客が感嘆の声を上げた。

「成功だ!」 「やった!」 「統計学万歳!」

カイザーは勝ち誇った笑みを浮かべた。

しかし――

真司の計測装置が、警告音を発した。

「待て...これは...」

真司は画面を凝視した。そして、顔色を変えた。

「まずい!魔力の共鳴が起きてる!」

「共鳴?」リリアが訊いた。

「結界の魔力と、大気中の魔力が干渉し合ってる。カイザーのモデルは、この現象を予測していなかった!」

その瞬間――

結界が、脈打ち始めた。

ドクン、ドクン、ドクン。

まるで生き物のように、膨張と収縮を繰り返す。

カイザーが慌てた。

「何...?これは計算にない...!」

観客がざわめいた。不安が広がる。

そして――結界が、赤く染まった。

暴走の兆候。

「カイザー!止めろ!」リリアが叫んだ。

しかしカイザーは、必死に魔法陣を制御しようとしていた。

「まだだ...まだ制御できる!データでは...データでは成功するはずなんだ!」

結界の脈動が激しくなった。ドクン、ドクン、ドクン――

真司が叫んだ。

「リリア!今だ!止めろ!」

リリアは緊急停止の魔法陣を起動した。しかし――

「反応しない...!」

アルベルトも試みた。ピートも。しかし、結界は強大すぎた。

そして――爆発した。

魔力の嵐が、王都を襲った。

建物が崩れる。木々が吹き飛ぶ。人々が悲鳴を上げて逃げ惑う。

リリアは吹き飛ばされた。地面に叩きつけられる。痛み。耳鳴り。視界が歪む。

「リリア!」

真司の声が聞こえた。彼が駆け寄り、リリアを抱き起こす。

「大丈夫か!」

「真司...みんなは...」

周りを見ると、アルベルト、セシリア、ピートも無事だった。しかし――

広場は、地獄絵図になっていた。

倒壊した建物の下敷きになった人々。魔力の嵐に巻き込まれて負傷した市民。泣き叫ぶ声。

セシリアが走った。

「治癒魔法を!みんな、手伝って!」

リリアも立ち上がった。痛みを無視して、負傷者のもとへ。

「ヒール・ライト・サナーレ」

呪文を唱える。しかし、手が震える。魔力が安定しない。

(落ち着いて...データを思い出して...)

しかし、頭が真っ白だった。目の前の惨状に、心が折れそうになる。

真司が、リリアの肩を掴んだ。

「リリア。君ならできる。統計学を思い出せ。感情を整理して、冷静に」

リリアは深呼吸した。真司の目を見た。

そして――集中した。

魔力消費量、160単位。成功率、80%。信頼区間95%で、真の成功率は77%から83%。

データが、心を落ち着かせてくれた。

リリアは再び呪文を唱えた。

今度は成功した。負傷者の傷が癒える。

「次!」

リリアは走った。次の負傷者へ。そして次へ。

セシリアも、アルベルトも、ピートも、必死に救助活動を続けた。

真司は、医療チームの指揮を取った。効率的なトリアージ――患者の優先順位付け――を指示する。

夜が明けるまで、戦いは続いた。

________________________________________

翌朝。

王都の一角が、破壊されていた。

死者、十三人。負傷者、百五十七人。

カイザーは、魔力を使い果たして昏睡状態になっていた。彼の支持者たちも、同様に倒れている。

リリアは、瓦礫の山の前に立っていた。

全身、泥と血にまみれている。魔力も、ほとんど残っていない。

そして――心も、ボロボロだった。

ゼノビアが、リリアの前に立った。

「これが...君の統計学の結果か」

声に、怒りはなかった。ただ、深い悲しみがあった。

リリアは何も言えなかった。

「議会は、統計学の使用を全面禁止する緊急法案を可決した」

リリアの心臓が止まった。

「君は、研究チームから除名される。見習い資格も、剥奪だ」

「...わかりました」

リリアの声は、か細かった。

ゼノビアは真司を見た。

「そして、異邦人。君には、追放令が下された。三日以内に、フェアランドを去れ」

真司は黙って頷いた。

ゼノビアは去っていった。その背中に、勝利の喜びはなかった。

リリアは、崩れ落ちた。

「ごめんなさい...ごめんなさい...」

涙が止まらなかった。全てが、終わった。

真司は、リリアを抱きしめた。

「君のせいじゃない」

「でも...私が統計学を広めたから...」

「カイザーが誤用したんだ。君の責任じゃない」

「でも...結果は...」

リリアは真司の胸で泣いた。

セシリアが近づいてきた。彼女も泣いていた。

「リリアちゃん...私たちも、除名されたわ」

「え...?」

「でも」セシリアは笑った。涙の中で。「後悔してない。統計学は、本当に素晴らしかった。あなたに出会えて、よかった」

アルベルトとピートも来た。

「俺たちは、君の味方だ」ピートが言った。

「統計学は間違ってない」アルベルトが言った。「誤用が、問題だっただけだ」

リリアは、仲間たちを見た。

彼らは、自分を責めていない。支えてくれている。

しかし、リリアの心の傷は、深かった。

________________________________________

その日の午後。

リリアは一人、部屋にいた。

壁に貼られたグラフ。ノートの山。統計学の教科書。

全てが、今は虚しく見えた。

ドアがノックされた。

「...入って」

真司が入ってきた。二つのバッグを持って。

「荷造りを始めた」真司は言った。「三日後には、ここを出る」

リリアは何も言えなかった。

真司はリリアの隣に座った。

「リリア」

「...」

「君に言いたいことがある」

リリアは真司を見た。彼の目は、真剣だった。

「統計学は、道具だ。善でも悪でもない。使い方次第で、人を救うこともできるし、傷つけることもできる」

「...知ってる」

「でも、君が教えた統計学は、間違っていなかった。君は正しい使い方を教えた。カイザーが、それを無視しただけだ」

「でも...」

「いいか」真司はリリアの両肩を掴んだ。「君が諦めたら、本当に終わりだ。統計学は悪いものだ、という誤解が広まる。そして、本当に統計学で救える命も、救えなくなる」

リリアは真司を見つめた。

「私...どうすればいいの」

「立ち上がれ」真司は言った。「もう一度、正しい統計学を広めろ。失敗から学べ。そして、カイザーのような誤用を防ぐための教育をしろ」

「でも...追放されるのに」

「だから」真司は微笑んだ。「一緒に来い」

「え...?」

「僕と一緒に、辺境に行こう。そこで、ゼロから始める。正しい統計学を、少しずつ広めていく」

リリアの目から、また涙が溢れた。しかし今度は、希望の涙だった。

「本当に...いいの?」

「当然だ」真司は言った。「僕たちは、共同研究者だろ?」

リリアは、真司に抱きついた。

「ありがとう...」

真司は、リリアの背中を撫でた。

「これから、長い道のりになる。でも、君となら乗り越えられる」

その夜、研究チーム全員が集まった。

「明日、俺たちは王都を出る」アルベルトが言った。「リリアと真司について行く」

「俺も」ピートが言った。

「私も」セシリアが言った。

リリアは驚いた。

「みんな...いいの?」

「もちろん」セシリアが笑った。「統計学の冒険は、まだ始まったばかりよ」

五人は、手を重ねた。

「じゃあ、新しい旅の始まりだ」真司が言った。

「王都を追われた研究者たち」ピートが笑った。「ドラマチックじゃん」

リリアも笑った。涙と共に。

彼女は、仲間がいることに気づいた。そして、まだ諦めるべきではないことに。

翌朝、五人は王都を出た。

住民たちの冷たい視線の中。石を投げられながら。

しかし、リリアは前を向いていた。

真司が、隣にいた。仲間が、共にいた。

これは、終わりではない。

新しい始まりだ。

________________________________________

第三部:統合

第8章:大災厄(承前)

辺境の村、ミストヴェイル。

王都から三日の旅。森に囲まれた、人口二百人ほどの小さな村。

リリアたちは、村の外れにある古い家を借りた。屋根は穴だらけ、壁は崩れかけている。しかし、五人には十分だった。

「ま、悪くないんじゃね?」ピートが肩をすくめた。

セシリアは掃除を始めた。

「まずは住める状態にしないとね」

アルベルトは壁の補強を魔法で行った。

真司とリリアは、外で薪を集めていた。

「ここから...やり直すのね」リリアは呟いた。

「そうだ」真司は答えた。「でも、焦る必要はない。ゆっくりでいい」

リリアは空を見上げた。青い空。白い雲。王都では、いつも急いでいた。成果を出さなければ、証明しなければ、と。

しかし今は――

「少し、休んでもいい?」

真司は微笑んだ。

「もちろん」

その夜、五人は暖炉を囲んで座った。

「これからどうする?」ピートが訊いた。

真司は考えた。

「まず、俺たちは失敗から学ぶ必要がある」

「失敗...」リリアは言葉を繰り返した。

「カイザーの災厄は、統計学の誤用が原因だった」真司は言った。「外挿、不十分なサンプルサイズ、交絡変数の無視...全て、教科書に載っている間違いだ」

「じゃあ、なぜ防げなかったの?」セシリアが訊いた。

「彼に、謙虚さがなかったからだ」アルベルトが答えた。「統計学は、不確実性を扱う学問だ。『わからない』を認める勇気が必要だ。しかしカイザーは、データが全ての答えを与えると信じていた」

真司は頷いた。

「統計学を教えるとき、僕たちは技術だけを教えた。平均、分散、回帰分析...でも、最も重要なことを教えなかった」

「それは?」リリアが訊いた。

「倫理だ」真司は強調した。「統計学を使う者の責任。データの限界を知ること。誤用が人を傷つけることを理解すること」

リリアは深く頷いた。

「私たちは...傲慢だったのね」

「そうだ」真司は認めた。「僕も、君も。統計学の力に酔って、その危険性を軽視していた」

沈黙が流れた。

やがてセシリアが言った。

「じゃあ、次は何を教える?」

真司は考えた。

「統計学と、倫理と...そして、統計学で測れないものの価値」

リリアは真司を見た。

「測れないもの?」

「そうだ。美しさ、愛、直感...これらは数値化できない。でも、だからといって無価値じゃない」

アルベルトが興味深そうに言った。

「つまり、量的研究と質的研究の統合?」

「そうだ」真司は頷いた。「統計学は強力だ。でも万能じゃない。測れるものと測れないもの、両方に価値がある。それを理解した上で、統計学を使うべきだ」

リリアは、何かが腑に落ちるのを感じた。

「私...わかったかもしれない」

全員がリリアを見た。

「私は、効率ばかり追い求めていた。成功率を上げること、魔力を最適化すること...でも、魔法の本質を忘れていた」

「本質?」

「魔法は、心なの」リリアは言った。「術者の想い、願い、愛...それが、魔法を動かす。データは大切。でも、データだけじゃ魔法は完成しない」

セシリアが涙ぐんだ。

「そうね...私が患者を治せるのは、治したいと心から願うから。その気持ちは、数字にできない」

ピートも頷いた。

「錬金術もそうだ。材料の配合は確率分布で最適化できる。でも、完成品に魂を込めるのは、俺の心だ」

真司は満足そうに笑った。

「みんな、成長したな」

リリアは真司を見た。

「真司も、変わった?」

真司は少し考えた。

「ああ。僕は、統計学を万能だと思い込んでいた。でも、君たちと過ごして気づいた。世界には、測れない美しさがある。そして、それを大切にすることが、真の科学だと」

リリアの胸が温かくなった。

その夜、リリアは久しぶりに深く眠れた。

________________________________________

翌朝、リリアは一人で森を歩いていた。

鳥の声。木々の香り。足元の草の感触。

これらは、数値化できない。でも、確かに美しい。

リリアは魔法を試してみた。

「ヒール・ライト・サナーレ」

光が生まれた。しかし――失敗した。

リリアは驚いた。王都を出てから、初めての魔法。そして、失敗。

(なぜ...?)

彼女は自分を分析した。魔力レベル、正常。体調、良好。天候、快晴。全ての条件が揃っている。

しかし、失敗した。

リリアは座り込んだ。

(わからない...)

「リリア?」

振り返ると、老人が立っていた。

白い髭、深い皺、しかし目は若々しく輝いている。

「あなたは...?」

「オルドリンだ」老人は微笑んだ。「この村の、隠者みたいなものだ」

リリアは立ち上がった。

「すみません、勝手に森に...」

「構わん」オルドリンは手を振った。「ところで、君は魔法使いだな?」

「...以前は」

「ほう。今は違うのか?」

リリアは俯いた。

「追放されました。王都から」

「聞いているぞ。統計学とかいうものを使った、革命家だそうだな」

リリアは驚いた。こんな辺境にも、噂が届いているのか。

「革命家なんて...私はただ、魔法を理解したかっただけです」

「理解か」オルドリンは繰り返した。「難しいものを選んだな」

「でも...もう、わかりません」リリアは言った。「統計学を学んで、データを集めて、魔法が理解できたと思った。でも、災厄が起きて...そして今、私の魔法は失敗した。全ての条件が揃っているのに」

オルドリンは頷いた。

「君は、心を忘れていたからだ」

「心...?」

「魔法は、技術だけじゃない」オルドリンは言った。「術者の心が、最も重要な要素だ。君の心は今、混乱している。だから、魔法も混乱する」

リリアは黙った。

オルドリンは近くの切り株に座った。

「昔、私も君のような若者だった」

「え...?」

「私は、かつて王都の大魔導師だった。魔法の天才と呼ばれた」

リリアは驚いた。

「あなたが...」

「しかし、私は傲慢だった。自分の魔法は完璧だと信じていた。そして、ある日、大きな魔法を使った。村一つを救うための、巨大な治癒魔法だ」

オルドリンの目が、遠くを見た。

「失敗した。村は...消えた」

リリアは息を呑んだ。

「私は、全てを失った。地位、名声、そして心。私は王都を去り、ここに隠れた。それから五十年だ」

沈黙。

「でも」オルドリンは微笑んだ。「この五十年で、私は学んだ。魔法の本質を」

「本質...?」

「魔法は、謙虚さだ」オルドリンは言った。「自分の限界を知ること。わからないことを認めること。そして、失敗を受け入れること」

リリアは、その言葉を噛みしめた。

「君の統計学は、素晴らしい」オルドリンは続けた。「データで魔法を理解しようとする試み。それは正しい。しかし、それだけでは不十分だ」

「では...何が必要なんですか?」

「バランスだ」オルドリンは言った。「統計学と直感。データと心。科学と芸術。これらは対立するものではない。補完し合うものだ」

リリアの目が開かれた気がした。

「統計学で、魔法の物理的側面を理解する。しかし、心で、魔法の精神的側面を感じる。両方が揃って初めて、真の魔法が生まれる」

「両方...」

リリアは手を見た。この手で、どれだけの魔法を使ってきただろう。データを集め、分析し、最適化した。

しかし――心を込めていただろうか?

「やってみろ」オルドリンが言った。「もう一度、魔法を」

リリアは立ち上がった。

深呼吸。

そして――考えた。

データではなく、心を。

(私は、なぜ魔法を学んだのか?)

師匠フローラの顔が浮かんだ。彼女の優しい笑顔。そして、患者を救えなかったときの涙。

(人を救いたい。その想いが、全ての始まりだった)

リリアは魔力を集めた。

統計学が教えてくれた、最適な量。160単位。

しかし、それだけじゃない。

そこに、想いを込める。救いたいという願い。誰かの痛みを取り除きたいという祈り。

「ヒール・ライト・サナーレ」

光が生まれた。

そして――成功した。

光は、以前よりも温かく、柔らかかった。

リリアは自分の手を見た。涙が溢れた。

「できた...」

「そうだ」オルドリンは微笑んだ。「それが、本当の魔法だ」

リリアはオルドリンに頭を下げた。

「ありがとうございます」

「礼はいらん」オルドリンは立ち上がった。「私は、君のような若者を待っていたのかもしれん。私が学んだことを、伝えるために」

「これから...私は何をすべきですか?」

オルドリンは考えた。

「王都に戻れ」

リリアは驚いた。

「でも...追放されて...」

「だからこそだ」オルドリンは言った。「君は、統計学と心の統合を学んだ。それを、王都の人々に伝えるべきだ。カイザーのような誤用を防ぐために」

「でも...誰も聞いてくれません」

「最初はそうかもしれん。しかし、真実はいつか伝わる」オルドリンは言った。「君には、仲間がいる。共に戦う者たちが。彼らと共に、もう一度挑戦しろ」

リリアは頷いた。

「わかりました」

オルドリンは去っていった。森の奥へ。

リリアは空を見上げた。

(もう一度...挑戦する)

彼女は走った。家に戻り、皆に伝えるために。

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第9章:荒野での省察(承前)

家に戻ると、真司たちが庭で魔法の実験をしていた。

「リリア!」セシリアが手を振った。「どこ行ってたの?」

「森で...大事な人に会ったの」

リリアは、オルドリンとの出会いを話した。

真司は深く頷いた。

「その老人は正しい。統計学は、心と統合されて初めて完成する」

「でも、どうやって?」ピートが訊いた。「心なんて、測れないだろ?」

「測る必要はない」アルベルトが言った。「理解すればいい」

真司が付け加えた。

「統計学には、ベイズ統計という分野がある」

「ベイズ?」リリアが訊いた。

「事前知識と新しいデータを統合する方法だ」真司は説明した。「つまり、過去の経験(心)と、新しい観察データを組み合わせて、最良の判断を下す」

リリアの目が輝いた。

「それって...まさに私たちが目指すべきものじゃない?」

「そうだ」真司は微笑んだ。「ベイズ統計は、柔軟性がある。不確実性を認め、新しい情報で信念を更新していく。まさに、謙虚な統計学だ」

アルベルトが興奮した。

「それを学びたい!」

「じゃあ、今日から新しいカリキュラムだ」真司は宣言した。「テーマは『ベイズ的魔法』」

その日から、五人は新しい研究を始めた。

ベイズ統計の基礎。事前分布、尤度、事後分布。

最初は複雑だったが、魔法と結びつけると、驚くほど直感的だった。

「事前分布は、術者の経験だ」真司は説明した。「長年の訓練で培われた、『こうすれば成功する』という感覚」

「尤度は、データだ」アルベルトが続けた。「実際に観察された、魔法の成功と失敗」

「そして事後分布は、両者の統合だ」リリアが完成させた。「経験とデータを組み合わせた、最も確からしい真実」

真司は満足そうに頷いた。

「そうだ。ベイズ統計は、対立を統合する。感覚と論理、伝統と革新、心とデータ」

セシリアが治癒魔法に適用してみた。

彼女の事前信念:「朝の魔法は成功しやすい」 データ:実際の成功率を測定 結果:事後確率で、朝の魔法の成功率は確かに高いが、満月の夜はさらに高い

「すごい...」セシリアは呟いた。「私の直感は正しかったけど、データが補完してくれた」

ピートも錬金術に適用した。

彼の事前信念:「赤い結晶は、月曜日に精製すると質が高い」 データ:百回の実験結果 結果:月曜日は関係なく、むしろ湿度が重要と判明

「まじか!」ピートは笑った。「俺の直感、半分外れてたわ。でもデータのおかげで、本当の原因がわかった」

リリアは、自分の治癒魔法にベイズ統計を適用した。

彼女の事前信念:「魔力160単位が最適」 新しいデータ:心を込めた魔法は、150単位でも成功率が高い 結果:最適魔力は、心の状態によって変動する。データと心、両方を考慮すべき

リリアは、涙が出そうになった。

(これだ...これが答えだ)

統計学と魔法の、本当の統合。

データは嘘をつかない。しかし、データだけでは不十分。心が必要だ。

そして、心だけでも不十分。データで検証する必要がある。

両方が揃って、初めて真実に近づける。

真司が言った。

「リリア、君は今、新しい魔法の形を発見した。『ベイズ的魔法』だ」

リリアは頷いた。

「これを...王都に伝えたい」

全員がリリアを見た。

「でも、追放されてるんだぞ?」ピートが言った。

「わかってる」リリアは決意を込めた。「でも、行かなきゃ。カイザーの災厄の、本当の原因を説明しなきゃ」

セシリアが心配そうに言った。

「でも...また拒絶されたら?」

「それでもいい」リリアは言った。「私は、真実を伝える。それが、私の責任だから」

真司がリリアの肩に手を置いた。

「僕も行く」

「真司...」

「君一人で背負わせない。僕たちは、共同研究者だ」

アルベルトも立ち上がった。

「俺も行く」

「私も」セシリア。

「俺も」ピート。

リリアは、仲間たちを見た。涙が溢れた。

「みんな...ありがとう」

その夜、五人は計画を練った。

「まず、カイザーの災厄を再分析する」真司が言った。「ベイズ統計を使って、何が間違っていたのかを明確にする」

「そして、王都に報告書を送る」アルベルトが続けた。

「でも、読んでくれるかな?」セシリアが不安そうに言った。

「読ませる」リリアは決意した。「どんな手を使ってでも」

________________________________________

次の二週間、五人は徹底的にデータを分析した。

カイザーのモデルの欠陥。外挿の危険性。交絡変数の見落とし。そして、最も重要なこと――彼が、術者の心を完全に無視していたこと。

真司はレポートを作成した。

タイトル:「大災厄の統計学的分析:誤用の教訓と、ベイズ的統合の提案」

内容は、容赦なく科学的だった。データ、グラフ、統計検定。全てが、カイザーの過ちを証明していた。

しかし、レポートの最後には、こう書かれていた。

統計学は、魔法を否定するものではない。

統計学は、魔法をより深く理解するための道具である。

しかし、道具だけでは不十分だ。

心が必要だ。想いが必要だ。

データと心の統合――それが、真の魔法である。

リリアは、レポートを読んで泣いた。

「完璧...」

真司は微笑んだ。

「これで、行ける」

翌日、五人は王都への旅を始めた。

________________________________________

三日後、彼らは王都の門に到着した。

しかし、門は閉ざされていた。

「止まれ」衛兵が槍を構えた。「お前たちは、追放された者たちだ」

「わかっています」リリアが言った。「でも、議会に伝えるべきことがあります」

「門は開けられない」

「なら、これを届けてください」

リリアはレポートを差し出した。

衛兵は受け取ろうとしなかった。

その時――

「待て」

声がした。ゼノビアだった。

彼女は門の向こうから、リリアたちを見ていた。

「ゼノビア様...」

ゼノビアは複雑な表情をしていた。

「...何の用だ」

「これを、読んでください」リリアはレポートを差し出した。「カイザーの災厄の、本当の原因がわかりました」

ゼノビアは黙ってレポートを受け取った。

そして、その場で読み始めた。

十分。二十分。三十分――

やがて、ゼノビアは顔を上げた。目が、赤い。

「...なぜ、今まで気づかなかったのだ」

「何に?」リリアが訊いた。

「魔法の本質に」ゼノビアは震える声で言った。「私たちは、感覚だけに頼っていた。そして、君たちは、データだけに頼った。でも、両方が必要だったのだ」

ゼノビアは門を開けた。

「入れ」

リリアたちは驚いた。

「でも...追放令が...」

「私が責任を取る」ゼノビアは言った。「君たちの報告を、議会で発表させる」

リリアは頭を下げた。

「ありがとうございます」

五人は、王都に入った。

第10章:再起への道

王都の街並みは、以前と変わっていた。

かつて光に満ちていた建物の一角が、まだ瓦礫のまま残っている。復興工事が進められているが、傷跡は深い。

リリアは胸が痛んだ。

「私のせいで...」

「違う」真司が即座に否定した。「カイザーの傲慢のせいだ。君を責めるな」

ゼノビアが先導し、五人は議会の建物へと向かった。

廊下ですれ違う魔法使いたちが、リリアたちを見て顔をしかめる。ひそひそと囁く声。

「追放された連中が...」 「よく戻ってこれたわね」 「また災厄を起こす気か」

リリアは視線を感じながら、前を向いて歩いた。真司が、そっと彼女の手を握った。その温もりが、勇気をくれた。

議会の控室に通された。

「ここで待て」ゼノビアは言った。「議員たちを集める。一時間後、君たちの報告を聞く機会を設ける」

「本当に...いいんですか?」リリアが訊いた。「あなたの立場が...」

ゼノビアは微笑んだ。以前とは違う、柔らかい笑み。

「フローラが生きていたら、こう言っただろう。『若者の声を聞け』と」

彼女は去っていった。

控室に残された五人。

セシリアが不安そうに言った。

「ねえ...本当に大丈夫かな。また拒絶されたら...」

「その時は、諦めずに別の方法を探す」アルベルトが答えた。「僕たちには、データがある。真実がある」

ピートが窓の外を見ていた。

「なあ、リリア。お前、怖くないのか?」

リリアは正直に答えた。

「怖い。すごく怖い」

「だよな」ピートは笑った。「俺も怖い。でも...やるしかねえよな」

真司がホワイトボードを取り出した。

「プレゼンテーションの最終確認をしよう。一時間しかない」

五人は、発表の練習を始めた。

リリアが話す部分、真司が説明する部分、アルベルトが補足する部分――全てを綿密に打ち合わせた。

「ポイントは三つだ」真司が整理した。「第一に、カイザーの失敗の原因を科学的に説明する。第二に、統計学そのものが悪いのではなく、誤用が問題だったことを示す。第三に、データと心の統合という新しいアプローチを提案する」

「特に三番目が重要」リリアが付け加えた。「批判だけじゃなく、解決策を示さないと」

時間が経つのは早かった。

やがて、ドアがノックされた。

「時間だ」ゼノビアの声。

リリアは深呼吸した。

「行こう」

________________________________________

議場に入ると、二十人の議員全員が席についていた。

そして――観客席には、百人以上の魔法使いたち。学院の教授、医療魔法使い、研究者、そして一般市民。

リリアは緊張で手が震えた。

(こんなに大勢...)

真司が囁いた。

「大丈夫。君ならできる」

議長が宣言した。

「本日は特例として、追放されたリリア・ブロッサムとその仲間たちに、発言の機会を与える。テーマは『大災厄の分析と、統計学の正しい使用法について』」

リリアは壇上に立った。真司が隣に、アルベルトがその隣に。

リリアは観客席を見渡した。冷たい視線。敵意。しかし、中には――期待の眼差しもあった。

リリアは口を開いた。

「議員の皆様、そして市民の皆様。本日は、お話しする機会をいただき、ありがとうございます」

声が震えた。しかし、続けた。

「三週間前、この王都で起きた災厄。十三名の方が亡くなり、百五十七名が負傷しました」

会場がざわめいた。傷はまだ、生々しい。

「私は、この災厄の原因を作った一人として、深くお詫び申し上げます」

リリアは深く頭を下げた。

「しかし」顔を上げた。「お詫びだけでは、亡くなった方々は戻りません。私たちがすべきことは、なぜ災厄が起きたのかを理解し、二度と繰り返さないことです」

真司が前に出た。そして、空中に映像を投影した――人間界の技術と魔法を組み合わせた、新しい視覚化魔法。

「カイザー・フォン・エクリプスの防衛魔法モデルを、再分析しました」

画面に、複雑なグラフが表示された。

「彼のモデルには、三つの致命的な欠陥がありました」

真司は、一つずつ説明していった。

「第一に、外挿です」

グラフが示された。横軸は魔法の規模、縦軸は成功率。

「カイザーのサンプルデータは、小規模な防衛魔法のみでした。しかし、彼は王都全体を覆う大規模結界を設計した。これは、データの範囲外での予測――外挿です」

真司は別のグラフを示した。

「統計学の基本原則として、外挿は極めて危険です。なぜなら、範囲外では、全く異なる現象が起きる可能性があるからです」

具体例が示された。

「例えば、水の温度と体積の関係を、0度から50度で測定したとします。このデータから『100度でも同じ関係が続く』と予測すれば――」

「沸騰する」観客の一人が呟いた。

「そうです」真司は頷いた。「水は気体になり、体積が爆発的に増える。外挿は、こうした相転移――システムの根本的な変化――を見逃します」

リリアが続けた。

「カイザーの結界も、大規模化によって相転移が起きました。魔力の共鳴現象です。彼のモデルは、この現象を予測できませんでした」

観客がざわめいた。理解が広がっていく。

「第二の欠陥は、サンプルサイズの不足です」

アルベルトが説明した。

「カイザーは、三十回の実験でモデルを構築しました。しかし、統計的検出力の計算によれば、複雑なシステムを理解するには、最低でも二百回以上のサンプルが必要でした」

数式が表示された。検出力、効果量、有意水準...

「サンプルが少なすぎると、誤った結論を導く危険性が高まります。カイザーのモデルは、統計的に信頼できるレベルに達していませんでした」

「第三の欠陥は」真司が声を強めた。「交絡変数の無視です」

新しいグラフ。複数の変数が、複雑に絡み合っている。

「魔法の成功率は、単一の要因で決まりません。気温、湿度、月齢、大気中の魔力濃度、そして――術者の心理状態。これらは全て、相互に影響し合います」

真司は、カイザーのモデルと、正しいモデルを並べて表示した。

「カイザーは、魔力消費量だけを変数としました。しかし、実際には月の満ち欠けが最も強い影響を持っていました。新月の夜――魔力が最も不安定な時期に、彼は実験を強行したのです」

会場が静まり返った。

リリアが前に出た。

「しかし」彼女は言った。「これらの技術的欠陥よりも、もっと根本的な問題がありました」

全員がリリアを見た。

「それは――心の欠如です」

リリアの声が、議場に響いた。

「カイザーは、データを絶対視しました。数字が全てだと信じました。しかし、統計学は万能ではありません」

リリアは、自分の体験を語り始めた。

「私もかつて、同じ過ちを犯しかけました。効率だけを追い求め、魔法の心を忘れていました」

彼女は、オルドリンとの出会いを語った。森での気づき。魔法には、測れない部分があること。

「魔法は、技術だけではありません。想いが必要です。救いたいという願い。美しいものを創造したいという情熱。誰かを守りたいという愛」

セシリアが立ち上がった。

「私は治癒魔法使いです」彼女は言った。「統計学を学んで、成功率は上がりました。しかし、本当に患者を救えるのは、治したいと心から願うときです」

ピートも立った。

「俺は錬金術師だ。確率分布で材料配合を最適化できる。でも、完成品に魂を込めるのは、俺の心だ」

リリアは続けた。

「データと心。科学と芸術。これらは対立するものではありません。統合されるべきものです」

真司が、最後のスライドを表示した。

「ベイズ統計」

「これは、事前知識と新しいデータを統合する統計手法です」真司は説明した。「つまり、過去の経験――直感、感覚、伝統――と、新しい観察――データ、測定、分析――を組み合わせるのです」

図が示された。事前分布、尤度、事後分布。

「ベイズ統計は、謙虚さを前提とします。『私たちの知識は不完全だ。しかし、新しい情報で更新していこう』という姿勢です」

リリアが結論を述べた。

「私たちが提案するのは、『ベイズ的魔法』です。伝統的な感覚と、統計学的データを統合した、新しい魔法のあり方です」

具体例が示された。セシリアの治癒魔法、アルベルトの論理魔法、ピートの錬金術――全てが、データと心の統合によって改善されていた。

「統計学は、魔法を殺すものではありません」リリアは強調した。「魔法をより深く理解し、より確実に実行するための道具です。しかし、道具は道具に過ぎません。最終的に魔法を動かすのは、術者の心なのです」

リリアは深く頭を下げた。

「カイザーの災厄で、多くの方が苦しみました。それは、統計学の誤用が原因でした。しかし、正しく使えば、統計学は人を救えます。どうか、もう一度、機会をください」

沈黙。

長い、長い沈黙。

やがて――

拍手が起きた。

一人、また一人。そして、会場全体が拍手に包まれた。

リリアは顔を上げた。涙が溢れた。

議長が立ち上がった。

「質問がある」

リリアは緊張した。

「君たちの提案する『ベイズ的魔法』を、具体的にどう教育に組み込むのか?」

リリアは答えた。

「三つの柱で構成します。第一に、統計学の基礎教育――ただし、限界と危険性も含めて。第二に、伝統的な魔法訓練――感覚を研ぎ澄ます方法。第三に、両者の統合演習です」

別の議員が訊いた。

「失敗を繰り返さないために、どんな安全装置を設けるのか?」

真司が答えた。

「倫理委員会の設置を提案します。大規模な魔法実験を行う前に、複数の専門家が統計モデルを検証する制度です」

アルベルトが付け加えた。

「そして、透明性です。全てのデータ、計算過程、仮定を公開する。第三者が検証できるようにする」

質疑応答は一時間続いた。

厳しい質問、鋭い指摘。しかし、リリアたちは一つ一つ誠実に答えた。

やがて、議長が言った。

「では、採決を取る。リリア・ブロッサムたちの提案――統計学とベイズ的アプローチの教育導入――に賛成の者は?」

手が上がる。一つ、二つ、三つ...

十五人。

「反対は?」

三人。

「棄権は?」

二人。

議長が宣言した。

「可決。リリア・ブロッサムとその仲間たちの追放令を解除する。そして、新設する『統合魔法学部』の教授陣に任命する」

会場が、再び拍手に包まれた。

リリアは、その場に崩れ落ちた。喜びで。安堵で。

真司が駆け寄り、彼女を抱き起こした。

「やったな」

「うん...やった...」

リリアは真司の胸で泣いた。

セシリア、アルベルト、ピートも抱き合って喜んだ。

ゼノビアが壇上に上がってきた。

「リリア」

リリアは涙を拭いて、ゼノビアを見た。

「君の師、フローラは正しかった。変化を恐れてはいけないと」

ゼノビアは、リリアの手を握った。

「私は、君から学んだ。老いても、学ぶことができると」

「ゼノビア様...」

「これからは、協力者として働こう。伝統と革新の橋渡しとして」

リリアは頷いた。

「ぜひ、お願いします」

その夜、王都は祝祭に包まれた。

災厄から立ち直る、希望の夜。

________________________________________

第11章:帰還と弁明(続き)

翌朝、リリアは王立魔法学院の新しいオフィスに立っていた。

「統合魔法学部」と書かれたプレートが、ドアに掲げられている。

部屋は広く、明るい。窓からは、復興が進む王都が見渡せる。

「信じられない...」リリアは呟いた。

真司が、段ボール箱を運んできた。

「引っ越し、大変だな」

「手伝ってくれてありがとう」

二人は、オフィスの整理を始めた。本棚に統計学の教科書、魔法の古文書、ホワイトボード、コンピューター...

「ねえ、真司」リリアが訊いた。「あなた、人間界に帰らないの?」

真司は手を止めた。

「...正直、わからない。帰る方法も、まだ見つかっていない」

「もし見つかったら?」

真司はリリアを見た。

「君は、僕に帰ってほしい?」

リリアは戸惑った。

「それは...あなたの故郷だから...」

「でも、ここにも僕の居場所がある」真司は言った。「君たちとの研究。統計学と魔法の融合。これは、僕が人間界でやっていたことよりも、ずっと意義がある」

リリアの胸が温かくなった。

「一緒に...いてくれる?」

「ああ」真司は微笑んだ。「少なくとも、君が僕を必要としている限り」

リリアは真司に抱きついた。

「ずっと必要...」

真司は優しく彼女を抱きしめた。

「じゃあ、ずっといる」

二人は、しばらくそのままでいた。

やがて、ドアがノックされた。

「おっと、またいいところか?」

ピートの声。リリアは慌てて離れた。

「ち、違うわよ!」

ピートは笑いながら入ってきた。セシリアとアルベルトも一緒だ。

「新しいオフィス、いいじゃん」ピートが部屋を見回した。

「私たちの部屋も隣にあるのよ」セシリアが嬉しそうに言った。「統合魔法学部の副教授に任命されたの」

アルベルトが書類を広げた。

「カリキュラムの草案を作ってきた。見てくれ」

五人は、テーブルを囲んだ。

アルベルトの草案は、詳細で野心的だった。

統合魔法学部カリキュラム(案)


第一学年:基礎

- 統計学入門(平均、分散、確率分布)

- 伝統的魔法訓練(感覚の研ぎ澄まし)

- データ収集の方法論

- 魔法倫理


第二学年:応用

- 仮説検定とp値の理解

- 回帰分析

- 高度な魔法理論

- 誤用の事例研究(カイザーの災厄を含む)


第三学年:統合

- ベイズ統計

- データと直感の統合演習

- 大規模プロジェクトの計画と安全管理

- 研究倫理と社会的責任


第四学年:専門化

- 治癒魔法の統計的最適化

- 防衛魔法の安全設計

- 錬金術の確率モデリング

- 卒業研究

```


リリアは感動した。


「完璧...これなら、カイザーのような誤用は防げる」


「特に重要なのは、倫理教育だ」真司が指摘した。「技術だけ教えても、心がなければ危険だ」


セシリアが提案した。


「災厄の犠牲者の家族に、講演してもらうのはどう?統計学の誤用が、どれだけ人を傷つけるか。直接聞くことで、学生たちは責任を理解できる」


「いい案だ」アルベルトが頷いた。


ピートが別の紙を取り出した。


「で、これが学生募集の広告案な」

```

新設:統合魔法学部

データと心の融合――新時代の魔法を学ぼう


こんな人におすすめ:

- 魔法をより深く理解したい

- 統計学に興味がある

- 伝統を尊重しつつ、革新を求める


教授陣:

- リリア・ブロッサム(魔法最適化、ベイズ統計)

- 柊真司(統計学、研究方法論)

- アルベルト・グレイ(論理魔法、回帰分析)

- セシリア・ローズ(治癒魔法、応用統計)

- ピート・アッシュ(錬金術、確率論)


募集人数:第一期生 30名

```


リリアは笑った。


「ピート、あなた、いつこんなの作ったの?」


「昨日の夜。寝ないで」


「無理しないでよ」セシリアが心配した。


「大丈夫。興奮して眠れなかったんだ」ピートは笑った。「俺たち、本当にやるんだなって」


真司が立ち上がった。


「じゃあ、この案で進めよう。来週、学生募集を開始する。そして一ヶ月後、第一回目の講義だ」


全員が頷いた。


「その前にやるべきことがある」リリアが言った。


「何?」


「カイザーに会いに行く」


---


カイザーは、王立病院の特別病棟にいた。


魔力の暴走で昏睡していたが、一週間前に目覚めたという。しかし、精神的なショックで、誰とも話そうとしないと聞いた。


リリアは、病室のドアの前で躊躇した。


「怖い?」真司が訊いた。


「うん...」


「僕も一緒だ。大丈夫」


リリアは深呼吸して、ドアをノックした。


「入れ」


弱々しい声。


部屋に入ると、カイザーがベッドに座っていた。


以前の輝きは失われていた。顔は青白く、目には光がない。


「...何の用だ」カイザーは言った。視線を合わせない。


「話がしたくて」リリアは椅子に座った。


「話すことなど何もない。僕は失敗した。それで終わりだ」


「終わりじゃない」リリアは言った。「失敗は、学ぶ機会よ」


カイザーは苦笑した。


「学ぶ?十三人を殺した失敗から?」


「そう」リリアは真剣に言った。「私たちは、あなたの失敗を分析した。そして、同じ過ちを繰り返さないためのカリキュラムを作った」


カイザーは初めて、リリアを見た。


「...なぜ?」


「なぜって?」


「なぜ君は...僕を憎まないんだ?」カイザーの声が震えた。「僕は、君の統計学を汚した。災厄を引き起こした。君の夢を壊した」


リリアは首を振った。


「あなたは、私に大切なことを教えてくれた」


「何を?」


「統計学だけでは不十分だということ。心が必要だということ」


リリアは、辺境での体験を語った。オルドリンとの出会い。ベイズ統計の発見。データと心の統合。


カイザーは黙って聞いていた。


「あなたの失敗は、悲劇だった」リリアは言った。「でも、無駄ではない。私たちは、あなたの失敗から学んだ。そして、もっと良い教育方法を作った」


「僕は...」カイザーの目から涙がこぼれた。「僕は傲慢だった。データが全てだと思った。でも...人の命を、数字で扱ってしまった」


「気づけたことが、第一歩よ」


真司が前に出た。


「カイザーさん。統計学を学び直す気はありますか?今度は、正しく」


カイザーは真司を見た。


「僕なんかが...?」


「あなたは才能がある」真司は言った。「ただ、使い方を間違えただけだ。正しい方法を学べば、多くの人を救える」


カイザーは、長い間考えた。


そして――


「学びたい」


彼は頭を下げた。


「もう一度...お願いします」


リリアは微笑んだ。


「いいわ。一緒に、学びましょう」


カイザーは泣いた。初めて、本当の涙を流した。


---


一ヶ月後。


統合魔法学部の開講式。


講堂には、三十人の新入生が座っていた。若者たちの目は、期待に輝いている。


そして、最前列には――カイザーもいた。


リリアは壇上に立った。


「皆さん、ようこそ。統合魔法学部へ」


彼女は、自分の物語を語り始めた。


魔法の成功率の低さに疑問を持ったこと。真司との出会い。統計学の驚き。そして、災厄。


「私たちは、失敗しました」リリアは正直に言った。「統計学を過信し、心を忘れました。その結果、多くの人が苦しみました」


学生たちは、真剣に聞いていた。


「しかし、失敗から学びました」リリアは続けた。「統計学は強力な道具です。でも、道具に過ぎません。最終的に、魔法を動かすのは皆さんの心です」


リリアは、学生たち一人一人を見た。


「ここで学ぶのは、技術だけではありません。責任も学びます。倫理も学びます。そして、謙虚さも学びます」


真司が隣に立った。


「統計学の偉大な統計学者、ジョージ・ボックスは言いました。『全てのモデルは間違っている。しかし、いくつかは有用だ』」


「私たちが教えるのは、完璧な答えではありません」真司は言った。「不確実性の中で、最善を尽くす方法です」


セシリアが続けた。


「治癒魔法を学ぶ皆さん。データは大切です。でも、患者への愛も大切です」


アルベルトが言った。


「論理魔法を学ぶ皆さん。分析は重要です。でも、直感も大切にしてください」


ピートが締めくくった。


「錬金術を学ぶ皆さん。確率は便利です。でも、創造の喜びを忘れないでください」


リリアは最後に言った。


「皆さんに期待するのは、データと心の統合です。科学と芸術の融合です。そして――新しい魔法の創造です」


拍手が起きた。


開講式の後、新入生たちが教授陣に質問に来た。


その中に、一人の少女がいた。赤い髪、大きな目。


「リリア先生」


「はい?」


「私...先生のファンです!」少女は興奮していた。「先生の研究、全部読みました。データと心の統合、素晴らしいです」


リリアは微笑んだ。


「ありがとう。お名前は?」


「エミリア・スターライトです。よろしくお願いします!」


リリアは、かつての自分を見た気がした。好奇心に満ちた目。知識への渇望。


「こちらこそ。一緒に、学んでいきましょう」


---


その夜。


リリアと真司は、学院の屋上にいた。


星空が広がっている。風が、二人の髪を揺らす。


「長い道のりだったな」真司が言った。


「うん」リリアは頷いた。「出会いから、もう半年」


「半年...」真司は笑った。「でも、人生が変わった」


リリアは真司を見た。


「あなたと出会えて...本当によかった」


真司もリリアを見た。


「僕もだ」


二人は、自然と手を繋いだ。


「ねえ、真司」リリアが訊いた。「人間界に帰る方法、見つかったら...どうする?」


真司は考えた。


「正直、わからない。人間界には、友人も家族もいる。でも...」


「でも?」


「ここには、君がいる」


リリアの心臓が跳ねた。


真司は続けた。


「君と一緒にいると、僕は本当の自分でいられる。研究者として。教師として。そして...」


真司はリリアの顔を見た。


「一人の男として」


リリアの顔が赤くなった。


「真司...」


「リリア」真司は真剣な目で言った。「僕は、君が好きだ」


リリアは涙が出そうになった。


「私も...好き」


真司はリリアを抱きしめた。リリアも、真司に抱きつく。


二人は、長い間そのままでいた。


やがて、真司が言った。


「これから...どうする?」


リリアは真司の胸の中で笑った。


「決まってるじゃない。一緒に、研究する。教える。そして...」


彼女は顔を上げた。


「新しい魔法の世界を、作る」


真司は微笑んだ。


「いい目標だ」


二人は、星空を見上げた。


「次は何を研究する?」真司が訊いた。


リリアは考えた。


「ベイズ的因果推論」


「おお、野心的だな」


「魔法の根源に迫りたいの。なぜ魔法は存在するのか。その因果関係を、統計学で解明する」


「面白い」真司の目が輝いた。「メタ分析も必要だな。過去の全ての魔法研究を統合して」


「そうね」リリアは興奮した。「それに、実験計画も重要。ランダム化比較試験を魔法に適用して...」


二人は、夜が更けるまで語り合った。


研究の話。未来の話。そして、二人の話。


---


## エピローグ:五年後


フェアランド王国。


かつて保守的だった魔法界は、今や革新と伝統が調和する場所になっていた。


統合魔法学部は、学院で最も人気のある学部になった。毎年、百人以上の志願者が押し寄せる。


リリアは、今や「統合魔法学の母」と呼ばれていた。三十代前半。落ち着いた雰囲気だが、目には変わらぬ好奇心が宿っている。


彼女のオフィスには、無数の論文、グラフ、そして――写真があった。


真司との結婚式の写真。研究チームとの集合写真。卒業生たちとの写真。


ドアがノックされた。


「先生、時間です」


エミリア・スターライト。かつての新入生は、今やリリアの一番弟子になっていた。博士課程の学生として、ベイズ因果推論を研究している。


「ありがとう、エミリア」


リリアは立ち上がった。今日は、国際統計魔法学会での基調講演。世界中の研究者が集まる、重要な場だ。


講堂に向かう途中、リリアは様々な人々とすれ違った。


セシリアは、今や王立病院の院長になっていた。統計学的手法を全病院に導入し、治療成功率は全国平均で65%まで上昇した。


アルベルトは、ベイズ統計の権威として、複数の論文を発表していた。彼の著書『魔法のための統計学』は、ベストセラーになった。


ピートは、自分の錬金術工房を開いていた。確率モデルを使った製品は、高品質で人気だった。


そしてカイザーは――彼は統合魔法学部の講師になっていた。専門は「統計学の誤用と倫理」。自分の失敗を教材にし、学生たちに責任の重さを教えている。


ゼノビアは引退していたが、時々学部を訪れて、伝統魔法の講義をしていた。若者たちに、感覚の大切さを伝えるために。


講堂に到着すると、五百人以上の聴衆が待っていた。


壇上に、真司が立っていた。彼は今、リリアの共同研究者であり、夫だった。


「では、本日の基調講演者をご紹介します。リリア・ブロッサム=柊教授です」


拍手の中、リリアは壇上に上がった。


「皆様、こんにちは」


リリアは、スライドを表示した。

```

データと夢の統合

――統計学と魔法の五年間――


リリア・ブロッサム=柊

統合魔法学部教授

```


「五年前、私は一つの疑問を持っていました」リリアは語り始めた。「なぜ、魔法は時々しか成功しないのか?」


彼女は、自分の旅を語った。真司との出会い。統計学の発見。成功と失敗。災厄と再起。


「私たちは、多くの過ちを犯しました」リリアは正直に言った。「データを過信し、心を忘れました。その結果、悲劇が起きました」


会場が静まった。


「しかし、失敗から学びました」リリアは続けた。「そして、新しいアプローチを見つけました。ベイズ的統合――データと直感、科学と芸術、伝統と革新の融合です」


リリアは、五年間の研究成果を示した。


魔法の成功率は、全国平均で32%から68%に向上した。


治癒魔法の失敗による死亡率は、70%減少した。


魔力の無駄遣いは、50%削減された。


「しかし」リリアは強調した。「数字だけが成功ではありません」


彼女は、別のスライドを表示した。


魔法使いたちの満足度調査。「魔法に喜びを感じる」と答えた人の割合は、85%。五年前の40%から、倍増していた。


「統計学は、魔法を機械的にしませんでした」リリアは言った。「むしろ、魔法をより深く理解することで、術者たちは魔法に対する愛を深めたのです」


リリアは、最後のスライドを表示した。

```

データと夢は、対立しない。

それは、両翼である。


片方だけでは飛べない。

両方があって、初めて空を翔ける。

リリアは聴衆を見渡した。

「私たちの旅は、まだ終わっていません。統計学と魔法の融合は、始まったばかりです」

「しかし、一つだけ確かなことがあります」

リリアは微笑んだ。

「測れるものと測れないもの。データと心。科学と芸術。これらは全て、等しく大切です」

「そして、それらを統合したとき――真の魔法が生まれるのです」

拍手が、講堂を包んだ。

講演後、リリアは真司と共に屋上に向かった。

かつて、二人が愛を告白した場所。

「いい講演だったよ」真司が言った。

「ありがとう」リリアは笑った。「でも、緊張した」

「それは意外だな。君はもう、何百回も講演してるだろ?」

「それでも、毎回緊張する」リリアは空を見上げた。「完璧な講演なんて、ないから」

真司は笑った。

「さすが、統計学者だ。不確実性を受け入れてる」

リリアは真司の手を握った。

「ねえ、真司」

「ん?」

「次は、何を研究しようか?」

真司は考えた。

「最近、面白いアイデアがある」

「何?」

「時系列分析を使った、魔法の進化の研究」真司は説明した。「過去千年の魔法の変遷を、統計的にモデル化する」

リリアの目が輝いた。

「面白そう!ARIMAモデルを使えば...いや、状態空間モデルの方が適してるかも」

「ベイズ的階層モデルも考えてる」真司が付け加えた。「地域ごとの魔法の違いを、階層構造でモデル化する」

二人は、研究の話で盛り上がった。

やがて、リリアが言った。

「ねえ、真司」

「何?」

「私たち、幸せね」

真司は微笑んだ。

「ああ、幸せだ」

リリアは真司に寄り添った。

「統計学を学んでよかった。あなたと出会えてよかった」

「僕もだ」

二人は、空を見上げた。

夕日が、王都を染めている。美しい光景。しかし、その美しさは数値化できない。

(でも、それでいい)

リリアは思った。

データは大切。でも、データで測れないものも大切。

効率は重要。でも、心も重要。

科学は強力。でも、芸術も美しい。

全てが、等しく価値がある。

リリアは、自分の手を見た。この手で、どれだけの魔法を使ってきただろう。

そして、これからも使っていく。

データと心を統合した、新しい魔法を。

「真司」リリアは言った。

「ん?」

「私、もっと先に行きたい」

「どこまで?」

リリアは笑った。

「わからない。でも、あなたと一緒なら、どこまでも行ける気がする」

真司はリリアを抱きしめた。

「じゃあ、行こう。一緒に」

二人は、未来を見つめた。

そこには、無限の可能性が広がっていた。

データと魔法。科学と芸術。理性と感性。

全てが融合し、新しい世界を創造していく。

リリアと真司の物語は、ここで終わらない。

これは、始まりに過ぎない。

統計学とフェアリーの、永遠の冒険の。

________________________________________

【完】

________________________________________

あとがき

『もしもフェアリーが統計学を学んだら』を最後までお読みいただき、ありがとうございました。

この物語は、一見相容れない二つの世界――魔法と統計学――の出会いと統合を描きました。

リリアの旅は、私たち現代人の旅でもあります。

データと直感。科学と芸術。効率と心。

私たちは、しばしばこれらを対立するものと考えます。しかし、本当は補完し合うものなのです。

統計学は強力な道具です。しかし、道具に過ぎません。最終的に決断を下すのは、私たち人間の心です。

データは嘘をつきません。しかし、データだけでは真実の全てを語れません。

この物語が、あなたに何か一つでも考えるきっかけを与えられたなら、著者としてこれ以上の喜びはありません。

データと夢。

両方の翼で、空を翔けましょう。

________________________________________

統計学用語解説

本編で登場した主要な統計学用語を、簡単に解説します。

•平均(Mean): データの中心的な値

•標準偏差(Standard Deviation): データのバラつきの大きさ

•サンプルサイズ(Sample Size): 調査や実験の対象となるデータの数

•p値(p-value): 帰無仮説が正しいと仮定したときに、観察されたデータ以上に極端な結果が得られる確率

•仮説検定(Hypothesis Testing): データに基づいて、仮説の妥当性を統計的に判断する方法

•回帰分析(Regression Analysis): 変数間の関係をモデル化し、予測や説明を行う手法

•ベイズ統計(Bayesian Statistics): 事前知識と新しいデータを統合して推論を行う統計手法

•外挿(Extrapolation): データの範囲外で予測を行うこと(危険性が高い)

•交絡変数(Confounding Variable): 真の因果関係を見えにくくする第三の変数

より詳しく学びたい方は、統計学の入門書をお勧めします。



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